比較住宅政策研究会 議事録

 

日時 :2003年9月30日(火)午後6時30分〜8時30分

テーマ:日本の戦災復興を比較都市計画史の中で考える

報告者:石田頼房氏(東京都立大学名誉教授)

会場: 東京都立大学同窓会 八雲クラブ

出席者:海老塚、佐々木、小場瀬、佐々波、大熊、高橋、加藤、松岡(宏吉)、亀村、初田、若松、吹抜、横尾、笹川、西田、萬羽、古里、司波、青木、鳫、新田目、吉川、吉田(雅一)、保倉、吉田(俊雄)、八田、水津、末光、生駒、北村(計32人)

 

報告

・ドイツ系のアメリカにいる研究者から日本とドイツ等の戦後都市復興の比較研究を呼びかけられて、1998年に山形で2001年にアメリカでシンポジウムを開催し、その後、単行本としてまとめた。

・戦前と戦後で変わらなかったものは、土地区画整理技術、計画者など。変わろうとして努力されたのは土地利用計画や土地関係法など。変わったものは都市空間で、伝統的景観が失われ、地方性が喪失した。ヨーロッパでは都市景観の再建に留意した。

・ヨーロッパでは戦前、戦中から復興の準備が行われていたが、日本では高山先生等に聞いたが、だれも戦争の終わり方が判らず、復興の検討がされていなかった。

・比較研究をする為には、文化的な背景まで踏み込むことが必要だが、日本の研究者は英語で論文をほとんど書いていない為に、海外の研究者が日本のことを十分に知ることができない。外国人研究者ともっと活発に研究交流をするべき。等

討議

・戦災復興の事業が円滑に進んだのは、関東大震災後の震災復興事業等の経験があったこともある。しかし、ヨーロッパでは1次大戦後の戦後復興と2次大戦後の戦後復興で復興事業の技術が進歩したが、日本ではほとんど復興技術の変化が見られなかった。

・満州国で日本の都市計画研究者が試みた新しい考え方は、戦後の日本では公にされることがなく復興計画にとりいれられることは、ほとんどなかった。

・日本でも東京一極集中を避けようと地方都市に優先して予算配分された。1952年に財政が逼迫した際に途中まで区画整理事業が進んでいた名古屋等はそのまま予算をつけて事業を継続したが、ほとんど事業着手されていなかった東京は予算がカットされて未整備のまま残された。

・イギリスは全国民を対象に公営住宅を考えたが、日本は炭鉱住宅と、戦災復興院の建築職の大部分が勤務していた特別建設部が米軍住宅・米軍施設を建設し、一般の住宅には手がつけられていない。

・戦中の防空空地は、計画が決定された場合は戦後の復興計画に反映したところが多い。しかし、制度は、戦後の復興都市計画制度には反映しなかった。戦後の新制度である緑地地域は、建蔽率を著しく低くするものの建築を全く禁止するものではなく、公園等として都市計画指定したところにも木造住宅が建設され、緑の空間は次第に失われていった。

・米軍は都市復興にほとんどかかわらず、区画整理の公共減歩に補償なしでの財産の没収ではないかとのクレームをつけた。財産額としては減価が無いことで納得をさせた。広島を占領したオーストラリア軍は復興計画に若干の提案をしたりしたこともあったが、沖縄や横浜では広大な軍用地が収用されて戦後の都市復興に大きな妨げとなった。

・イギリスでは戦後、1947年都市計画法で開発権の国への帰属を規定する画期的な制度を提案し、その後、保守党と労働党の政権交代により土地政策に変化はあるものの、開発を行うには許可が要るとの原則が残された。しかし、日本ではこのような土地政策に対する本格的な制度改革は行われなかった。等

(文責:海老塚 良吉)