都市スラムの現在 マニラ市マラテのコミュニティから

 

 フィリピン共和国マニラ首都圏マニラ市マラテ区アグノ通り。私の住まいをお役

所での住居表示風にいえばこうなる。現在では新興ビジネス街のマカティやオルテ

ィガスなどの台頭で相対的に「地盤沈下」を迫られた旧市街だが、週末ともなると

老若男女の家族連れがつめかけるやや大きめのカトリック教会やマニラ市立病院、

私立の名門たるデラサール大学に囲い込まれるようにひっそりと息づく茫漠とした

エリアだ。教会の向こう側にはやはり市営のマニラ動植物園が展開する。都内で営

業するショッピングセンターの老舗、ハリソンプラザやセンチュリーパークホテル

といった観光スポットのそばに寄り添うように拡がる低所得者住宅、といえば当た

らずといえども遠からず、といったところだろうか。キリノ大通りを挟んだ向かい

側には少数派住民たるイスラーム教徒のコミュニティもあり、まいにち一定の時間

にコーランの詠唱が流れ込んできたりもする。都心には不似合いとも思える農事試

験場もすぐそばだ。

 他の都市スラムの例外に漏れず、住民はお役所の公式統計によればだいたい八〇

〇メートル四方におよそ二〇〇〇世帯、一万人前後が居住しているとされるが、こ

うした困窮地帯の常で人の出入りが激しく、誰も正確なところはわからない、とい

うのが正解だろう。通りに面して三〜四階建ての低層ビルがあるいっぽうで、裏道

に入り込むと、俗にバロンバロンと呼ばれる寄せ木細工のようなバラック仕立ての

簡易住宅も並んでいる。入り組んだ裏路地では雨季ともなると、雨漏りや排水溝の

目詰まりなどによる床上浸水は日常茶飯だ。道路のレベルより低い家屋からは連日

のように雨水をかい出す作業が行われるが、他方で不法接続による上水道の水圧低

下や停電などもある。水圧の低下はそれぞれポンプなどで対応しているのだが..

 電灯線の不法接続(通称「ジャンプ」と呼ばれる)は当然ながら想定電力量以上

の負荷による過電流をもたらし、最悪の場合は電灯幹線が焼き切れ、二二〇ボルト

のはだか電線が無惨な姿をさらす。雨天の場合はとくにこうした露出した電線で感

電する事故なども発生する。こうした不法接続は場所によっては街灯から分岐させ

た電灯線を利用したりと涙ぐましい努力をするのが常だが、エリア全域が大停電に

見舞われることも珍しくはない。電力会社の技術者チームが再接続とメンテナンス

のためのパトロールを行えば、たいてい一度に二〜三〇カ所のジャンプが見つかる

そうだ。また、劣悪なスラムでは町内の顔役(ボス)がこうした不法接続を黙認し

、そのかわりに「みかじめ料」を徴収するケースもあるという(いずれもマニラ電

力の資料より)。

 ラモス政権が不退転の決意で取り組んだ大規模な発電プロジェクトの結果、発電

所の故障が駆逐され、一九九〇年代後半以降は大きな停電はなくなったが、それで

も大型台風などのシーズンには発電所が(電柱の倒壊を予測して)送電カットを実

施することもあり、とかくこうした面では住みにくさも感じもするが、総じて住居

の紹介者となってくれたカトリック尼僧の権威は絶大。外国人の独身男性に周囲は

けっこう気を遣ってくれる。

 行政端末のバランガイ(町内会にも似た組織だが役員はみな公選)0

 この地域の住民は当然ながらさまざまな職業と所得階層を含む。サイドカーや乗

り合いジープニーの運転ないしはリース、小規模雑貨店の経営、理髪店に小規模な

食堂、プレイステーションをしつらえた遊技場、路上市場、さらにはさまざまな内

職。公務員一家の隣がポン引きのアジトだったり..。日本への渡航経験のある元エ

ンターティナーさえも隣人だったりする。私たちのアパートにはほぼ六畳二間程度

の二階建て空間に平均して二世代、五〜六人が同居している。こうした現状を反映

してか、各種統計は一家族あたり..ではなく、ハウスホールド(世帯)、つまり家

屋一ユニットあたり、というのが基本となっており、調査に際しては家計支出など

、こうした部分を見落とすと実態とかけ離れたイメージを抱え込みがちだ。

 サリサリストア=小規模雑貨店はこうした都市スラムとは切っても切り離せない

存在だ。タバコ、せっけんといった日用品や缶詰などの食料品、場合によっては野

菜のような生鮮食品なども扱う。収入レベルの低い一般家庭は醤油などの調味料さ

えまとめ買いできず、割高であることを知りながらも醤油50ミリリットルなどの少

量多品種を扱うサリサリストアに通い詰めることになる。もちろん、こうした店舗

ではウータンと呼ばれる貸し売り、信用貸しも行われる。経験にもとづいたサリサ

リストア個別の信用統計もあり、××家への貸付限度額などが個別に保管され、門

外不出の営業資料(といえば大げさに過ぎるが)となっている。こうした「与信限

度額」を決定するのは世帯主の職業や家族構成、それぞれの勤務先などがポイント

になる。店舗は市役所の営業許可を取り付ければ即日営業可となるため、出稼ぎ労

働者が帰国後にこうした職業に従事することもしばしばだが、やはり営業経験の差

異は決定的であるようで、弱小ビジネスも離合集散の荒波の中に放り込まれるのが

常だ。ある店舗が突如として廃業した、というニュースもニュース的価値がなく、

ごくふつうに日常のなかに埋もれてしまう。

 電気、ガス、水道は都市生活には欠かせないインフラだが、都市ガスの導入が始

まっていないフィリピンではLPG=液化プロパンガスが一般的だ。電気は事実上

、ロペス家の経営するマニラ電力の独占状態。一軒当たりの電力消費量は、冷蔵庫

とテレビがあって八〇〇〜一〇〇〇ペソ(邦貨換算二〇〇〇円前後)ということに

なろうか。一日あたりの法定最低賃金が二五〇ペソであることを考えれば、とてつ

もなく高い金額であることは間違いない。ちなみに私の家にはTVも冷蔵庫もなく

、コンピュータにファクスなどを使って五〇〇ペソ前後だ。キロワット時あたりの

電力料金は日本に次ぐ水準となっている。こうしたコストは当然、海外からの投資

家に嫌われる要因となっているのだが。

 市役所は週二回のゴミ回収を実施するが分別ゴミとして回収しているわけではな

く、不燃ゴミもまとめてゴミ処理場に運び込まれ、焼却される。埋め立てはもはや

限界を超えており、首都圏郊外のゴミ処分場担当者も頭を抱えている。九九年に制

定された大気汚染防止法はゴミ焼却による亜硫酸ガスなどに厳しい制限を加えてい

ることなども焼却処分が進まない一因となっている。

 早朝、町会の当番と担当者が個別にゴミをあつめ、ゴミ回収車の回収拠点に積み

上げる。トラックが廻ってきて引き渡しが終わるまでがバランガイ役員の分担だ。

 朝六時。小学生たちが活動をはじめる。こと公立学校に限って言えば、予算など

の制約から小学校は校舎を午前と午後にわけた二部制で授業が行われる。主要教科

はこくご、算数、理科、社会。高学年からこれに音楽と体操を混ぜ合わせた教科が

加わる。マラテの公立学校の場合、一クラスの人数は五〇人程度だが、これを正副

二人の担任で指導することになる。授業料は無料だが、教科書などの学用品や制服

、おやつなどの出費が必要となり、ハイスクール(中学と高校の中間的な存在で履

修年限は四年)以上になると、これに週末の軍事教練用ユニフォーム、軍靴が必要

となる。

 七時を過ぎる頃には行商人が登場する。豆乳飲料や朝食用のスナック、ケーキな

どとならんでバナナや新聞なども持ち込まれる。この頃になると近隣に勤めるサラ

リーマンの出勤時間だ。バイクに乗り合いジープ(ミニバス)、自転車の横にくく

りつけたサイドカー(ペディキャブ)が活躍するのもこの時間から。簡易食堂では

昼食の仕込みも始まっている。

 この地域を拠点としてカトリック教会が生活向上事業の一環としておこなってい

る手作り石鹸やハンドメイドのロウソク、ペーパークラフトなどの製品は、ときど

き私たちも利用したり、海外で関係のある修道会が付属する学校の運動会などで景

品に利用して喜ばれている。