バックナンバー
1.ひとりごと・・・ .2.高級洋服ブラシ.3.料簡(了見).4.進化(?) .5.ルールとマナー.6.作務衣(さむえ). 7.ケガしました. 8.大山ゆき江.9.病院(その1). 10.病院(その2). 11.病院(その3).
12.実演.13.ほととぎす.14.考える人. 15.展覧会. 16.選挙.17.職人展.18.猛暑. 19.オリンピック. 20.取材.21.味覚.22.エスカレーター.23.電話.24.すし屋.25.植物の復讐. 26.テキ屋さん. 27.騒ぎ.
28.蚊. 29.和.30.公.31.飛行雲.32.新幹線.33.伝統. 34.顔付き. 35.春.36.先生. 37.道交法 38.箸39.野生 40.謝罪 41.情報 42.いなか者 43.クイズ 44.朝顔 45.色々あれこれ 46.イルミネーション
47.三十一文字 48.エコ 49.素描 50.歴史 51.水着 52.エミリー・カーメ・ウングワレ 53.真夏の夜の夢 54.赤 55.経済 56.注文 57.世情 58.解禁 59.芸 60.発酵 61.時計 62.台風 63.THIS IS IT
64.デフレ 65.蕎麦 66.政治 67.メダル 68.借金 69.雨宿り 70.3D 71.2010年夏 72.粗大ゴミ 73.八百長 74.科学 75.2011年 76.桜 77.むか~し昔 78.枯葉 79.ガッツポーズ


 ひとりごと・・・ 

79、ガッツポーズ
 
 以前、オリンピックについて書いたときに、柔道におけるガッツポーズが見苦しい
と記した覚えがある。
 武道を心得る者のたしなみとして、奥ゆかしさをを求めたからである。

 ほかの競技でも、相手選手(この場合敗者)に対して失礼だとか、威嚇的で好ま
しくないとの意見を耳にすることが度々である。

 そもそもガッツポーズというのは和製英語で、「内臓のポーズってどうするのか?」
と外国で聞かれたという話も聞いた。
 試合に勝って、思わず拳を握り締めたり、諸手を突き上げたりして「やった!」と喜
びを表す行為は、負けた相手に対する思いやりに欠けているようにみえる。
 侮辱的と感じる人もあるだろうし、不快感を露わにする人もいるだろうと思う。

 しかしよく考えてみると、対戦相手が完全に格下で、どうみても勝って当然という場
合は勝ってもガッツポーズなどしないのではないか?
 むしろ同情的に相手をほめたり、健闘したと称えたりするではないか。

 強い相手と対戦し、思いもかけず勝った。あるいは実力が上でとても勝てまいとの
予想を打ち破って勝ちを得た、それがガッツポーズへとつながるということは、相手の
強さ、実力を認めた上での行動だと言えまいか?

 かねがね憧れていた、尊敬もしていた上位の相手と対戦できるだけでも晴れがまし
いことなのに、思いもかけず勝ちを得たとあっては、飛び上がって拳を突き上げたくな
るのも当然だろう。
 平然として、当たり前だという態度の方がむしろ失礼になるかもしれない。
 
 それは侮辱というよりむしろ尊敬の思いからとすれば、負けた方も堂々としてればい
いように思うのだが・・・なあ?

 見方を変えれば、やさしさと強さはどっちがどっち?

 


78、枯葉
 
 秋になるとシャンソンの名曲「枯葉」が聞こえてくる。いかにも秋らしく、ロマン
ティックないい曲である。
 その日本語訳の歌詞で、「枯葉よ~、散るじゃない~」と歌い出したのを聞いた
ことがある。 が、枯葉と落ち葉はちがうのである。枯葉は死んでしまった葉だが、
散り行く落ち葉はまだ死んではいない。

 落ち葉は水分も滋養も含んだ状態で、木の枝の中で次の新芽が出る準備が出
来て、押し出されるように切り離され散っていくのである。
 つまりまだ生命力があり、散ったあとに木の根元で朽ちて滋養を含んだ土となり、
時代を繋ぐ糧となっていくために散るのである。

 数年前に、大きな台風が来て、うちの前に植えてあるハクウンボクの枝が折れ、
木の上の方に垂れ下がる状態になって、そのうち段々プラタナスに似た葉っぱが
萎れていき、やがて茶色く枯れてしまった。まさしく枯葉の状態でぶら下がったまま、
周りの葉っぱが黄色くなって散ってしまっても、折れた枝にくっついたまま風が吹くと
、ガサガサと不愉快な音をたてながら、春になって枝ごと取り除くまで散らずにいた。
枯葉は散らないのである。

 自然の摂理にはいつも驚かされるが、人間も上手に世代交代ができるといい。
死の寸前まで未練を残し、四肢を自力で動かせなくなってもまだ権力に縋りつき、
見苦しい言い訳や、開き直りでマスコミに恥を晒す年寄りを見るにつけ、同じ年寄り
として、散り際、往生際を考えろといいたい。

 いささか余力の残っているうちに、まだ少しは役立てるうちに、ハラリと散り行く
落ち葉でいたいと思う。 次の新芽に期待しながら・・・。


77、むか~し昔

 下り新幹線で三島を過ぎると、富士山の手前に愛鷹山の連峰が見えてくる。
名峰富士山を背景に標高1,500m前後の山々が横に長く伸びている。
 
 そのあたりを通るときに、いつもフト考えるのだが、あの山の手前、駿東郡だか
長泉村だかの小さな部落に生まれた女の子が、すくすくと野を駆け巡り、畑仕事
を手伝い、小さな小川で澄んだ清らかな水に戯れ、この世で一番大きいものは裏
にある愛鷹山だと信じて大きくなっていった。
 やがて女の子は年頃になり、村の若者に見初め、見初められて嫁ぐといっても
同じ村での生活は変わることなく、淡々と平和にすぎて、男の子にも恵まれ、贅沢
という下品なものも初めから知らないから、貧しさの基準も持たず同じ日々を繰り
返していた。
 ある日、成長した男の子は村の仲間と連れ立って、沼津の海へ遊びに行くという。
海がどんなものか、見たこともないし、そんなものが何の役に立つのか知りもしない
から、ただニコニコと「気ィつけて行けや」と送り出してやった。
 村から離れた若者たち、「ずいぶん来ただな」と振り返ると、いつもの裏山の奥に
頭に雪を被った大きな大きな山が見える。

 びっくりして村へ帰った若者は「おっかァ、裏のお山の向こうには、頭さ雪を被った
裏山の何倍も何倍もある大きなお山があるだよう」と土産話。
 「おめェらワシを年寄りだと思うて大法螺吹くでねェ。裏のお山よりでけェもんがこ
の世にあるわけあんめェよ」と笑って相手にもしない母親。

 その後もいつもと変わらない日々を「おら家の倅の法螺吹きァ」と富士山の麓に
生まれ育って、その存在すら知らずに、一生平和に過ごしたお婆さんがいたら素敵
だなと思っている。

 富士山が世界遺産に登録されたという。すぐに経済効果だ、観光資源だ、海外客
の受け入れだ、ウチからの眺めが一番だ、いやウチの方がきれいだ・・・ガヤガヤ。

 畳に差した灯台下の薄暗がりは静かでいいものなのになァ


76、

 いつまでも寒いと言っているうちに、桜前線が・・・。満開で・・・。花見客が・・・。
ア~っと言ってる間に呆気なく散ってしまった。
 毎年の一瞬の大騒ぎである。

 実はひねくれ者ながら、桜が世間で騒ぐほど好きではない。中でもソメイ吉野が
街中に植わっているのが嫌いである。
 横浜市の外れの新興住宅街に住んでいるが、近くに桜並木のバス通りがあって、
満開に咲きそろった1日ふつかはいいが、ちょっと風が吹くと花びらが一斉に散り
始める。 周りはアスファルトやコンクリートで舗装されているから、逃げ場のない花
びらがあちこちに吹き溜まってしまう。
 そこへ雨だ。すべって歩きにくいし、踏みつけたあとは汚いし、車の屋根やフロント
にくっついてはがしにくい。

 雨が上がると、アスファルトの隙間に茶色くこびりついて、全体薄汚れた風景に
なってしまう。
桜は川の土手などに植えるもので、街中で並木などにするものではない。散った
花びらは自然の土に帰るのがいいのだ。
 
 都市計画だのディベロッパーだのと、頭の悪いやつらが設計するからこういうこと
になる。

 「花は桜木、人は武士」などと散り際の潔さを、讃えていったものであるが、その武士
も、椿の花は花ごとポロリと落ちて、首が落ちるようだから縁起が悪いと、庭に植える
のを嫌っている。武士道なども案外担屋の小心者だったのでは・・・?
 
 ひねくれ者ついでに、山桜が緑濃い山中で、そこだけポッカリと白く抜けて見えるの
は大好きである。
 
  又、桜は春より秋がすきである。秋に桜でコスモスと駄洒落るつもりではない。
桜の紅葉がすきなのである。もみじの赤や銀杏の黄色といった単色ではなく、桜の
紅葉は薄緑から黄色、ピンク、オレンジ、赤と薄い葉にいろんな色があり、みごとな
ハーモニーを楽しませてくれる。
 
  私にとって桜は、人知れず心浮かれる秋の楽しみなのであります。


75、2011年

 前項で、自然に対する科学の無力を書いた直後の3月11日の災害。
ことばを失ってしまい、科学の限界も然ることながら、政治のお粗末さ、対応の生
ぬるさ。怒りと涙の年となりました。

 政府の初動会見で、「危機管理が甘かった」と聞いたとき、この人たちは日本人
なのだろうか?と。人の手で「管理」などできない状態を「危機」というのであって、
管理可能な状態で起きたトラブルは「事故」というのである。危機管理などと思い上
がった観念が、事態を大きく遅らせたのではないかと思う。

 最先端のエネルギー政策が、子供の火遊びの後始末じゃあるまいし、バケツで
水を掛けるという、極めてアナログな方法に頼るしかないという現実をみせられて、
改めて「科学って・・・???」である。

 情報も二転三転、内容もあやふや、聞くたびに不安になるマスコミ報道。庶民に
全て知らせる必要などないから、結果安全に暮らせるよような素早い対応と、的確
な事後処理だけが必要なのだ。
 そうするのが科学の力だし、政治の責任なのだが・・・プロパガンダ的思想など
ないけれど、あまりにもひど過ぎはしないか。

 財政が良くないし、経済は低迷しているし、災害復興は急がれるし、福祉だ年金
だ、マニュフェストの約束だ、と国内問題の矛盾と不合理を抱え、外交も稚拙で実績
が見えて来ない不安と苛立ちを、解決してくれる指導者はいないのだろうか。

 口にするのもバカバカしい「どじょう内閣」などと、自ら安っぽい表現をして誕生した
新内閣だが、公務員給与削減法案が先送りにされ、審議未決ということで暮のボーナ
スが前年より多く支給されたのだそうな。議員定数削減案も遅々として進まず、震災
復興が急がれる中、資金は不足している。自発的にいくらかでも返上しようとか、遠
慮しましょうとかという神経は、公務員、国会議員の先生方は持ち合わせていないの
だろうか?
 議会制民主主義という方法も、考え直す必要があるのかもしれない。
民主主義を唱える民主の意思は、絆だ助け合いといいながら、被災地からの薪や花火
を祭りからボイコットしたり、ゴミ処理の受け入れを拒否したり、風評被害などという無知
な現象におびえたりあわてたり。要はその程度だ。
 
 誤解を恐れずいうならば、程のいい(ここが抽象的)独裁者の方がいいのではないか
と思うのだが。

 掛替えのない人を失った年でもある2011年。そのことは落ち着いて又・・・。


74、科学

 先日雪の新潟へ出張してきた。 帰り着いたら横浜も雪。
それにしても今年は東北から北陸を中心に、日本海側はまれに見る大雪である。

 高齢化した地方で何メートルもの積雪では、普通の生活だけでも立ち行かない
だろうに、屋根に積もった雪の山を、処理しなければ命取りになる。
 その雪下ろしで過って怪我や、場合によっては命を失われた方も出ている。
非生産的な作業を日常的に強いられる、雪国の生活は本当にお気の毒である。

 一方太平洋側は、二ヶ月近く雨らしい雨は降らず、カラカラに乾燥した天気が続い
ている。これまた不合理である。

 降り積もって処分するにも場所がなく、困っていると聞いた雪を、乾燥地帯に運ん
で振り撒くことはできないのだろうか。環境条件を均等にすることは無理としても、
状況を改善すること位できそうなものである。

 一方、我が故郷宮崎では、新燃岳の大噴火。
高校生の頃高千穂連山を、縦走したことがあり新燃岳にも登った。水蒸気がもくもく
と上がっているだけで、おとなしい火山だという印象があったが、まさかの大噴火で
驚いている。人の力ではとても太刀打ちできず、不安は降る灰以上につのるばかり
である。

 他方、莫大な資金を投じてロケットを打ち上げ、宇宙開発計画が相次いでいる。
「何しに宇宙へ」という故山本夏彦翁の名随筆があるが、未来のため、あるいは新
資源の開拓、夢の宇宙旅行・・・結構であるが、更に未来を思考すると、発展の先
が見えては来ないか?

 宇宙ステーションにインベーダー人間が群がり、惑星は掘り返され、資源は底を
ついて汚染物質だけが溢れかえる風景。

 「愛は火星を救う」「かけがええのない金星」「惑星を救うエコロジー運動」

 わが地球の、われらが日常の、不条理も解決できなくて、宇宙エンタティメントを
煽り立てて。       
            科学って・・・???


73八百長

 大相撲で八百長があったらしい。
「あったらしい」と書くと、初めて聞いて驚いてるように伝わるかもしれないが、全然
驚いてはいない。
 過去に見た取り組みの中で、明らかに仕組まれてると感じた相撲が何番もあった。
星勘定が七勝七敗で千秋楽を迎えると、必ず勝ち越せるという分かりやすい取り組
みは何度も見てきた。

 嘗て人気を博した兄弟横綱が、優勝決定戦を行った一番の、一方が余りにも不自
然で不器用な負け方をしたことを、記憶している方も少なくはないはずである。

 元々相撲は興行であり、謂わば見世物であったわけで、私はショウとして楽しませ
てくれれば十分だと思っている。今時髷を結い、化粧回しを付け、派手な土俵入りだ、
甚句だ、ショッキリなどだに、スポーツマンシップはそぐわない。
 ショウである以上、仕掛けや構成があっても不思議ではない。むしろ盛り上げるた
めの巧みな演出があれば・・・とさえ思う。

 百歩譲って正々堂々真剣にやらなければならないとして、本場所取り組みは、行司、
土俵の周りには五人の検査役が見つめている中で行われ、もちろん大観衆がいてス
ポーツ担当のマスコミ関係者がいて、TV中継までしている中での八百長相撲を誰一人
指摘しないで、別件逮捕的に発覚というのが笑止千万である。
 少なくとも五人の検査役は相撲上がりの現役親方である。「待った!」を掛けるべき
で、見過ごしている以上は、眼力がないのか、承知の上か、いずれにせよ不適切。
 八百長を演じ切った方の勝ちであろう。

 相撲や芝居などの興行には、見巧者という常連客がいて、厳しい判断をしたものだが
それもなくなったのか。もっとも「云わぬが花」ということもあるのか。

 相撲を国技というのには疑問を持つ。あくまでも興行として芸能の部類に範疇すべき
だと思っているし、神社での奉納相撲など、形式と伝承にのっとった祭りである。
 
 これをスポーツにして、頭は角刈り、トランクスをはいて、体重制ランク分けとハンディ
キャップを導入、イエローカード、レッドカードを振り回すレフェリーでは嫌なのだ。



72、粗大ゴミ
 
 2~3年前のことになるが、我が家のトイレの洗浄シャワーの具合が悪くなって、途
切れとぎれにしか出なくなり、仕舞いにはまるで出なくなった。
 洗浄トイレなど歴史的に見れば(ちょっと大げさか?)、昨日今日の新参者であり、そ
んなところまで洗う必要はないとは思う一方、わずかの間に慣らされてしまい、すっきり
しないし、落ち着かない。

 原因を探るべく、水道系をしらべてみたら、洗浄水と流す水との分岐部分にある、小
さな樹脂製のパッキングの一部が割れているのが分かった。
 たかがこれくらいの物であれば、取り替えれば済むはずと、近くのホームセンターへ
探しにいったら、類似のパッキングは色々揃っているのに、求めている形の物だけが
ない。

 店員を捕まえて聞いてみると、「この型式は古い物で、もうメーカーでも生産はしてい
ないし、部品の保存期間もすぎているので、トイレ全てを換える方がいいですよ。因み
に今は価格も三分の一くらいで、省エネ、抗菌で性能も良くなってます。」とのこと。

 それなら仕方がないと、新しいのを買ったら、なるほど安いし、形もスマートにできてい
る。 取り替えるのに古いトイレを外して驚いたことには、そのパッキング以外にはどこも
悪くなく、配電盤もシートもまだまだ十分使える状態なのに廃棄しなければならないので
ある。わずか小さなパッキングの破損で、これほどのゴミを出すことになるのか。

 樹脂製のパッキングなんて、5円か10円も出せば買えるはずである。それでは商売に
ならないとおっしゃるなら、十倍いや百倍の千円で買ってもいい、作ってくれないかなぁ~
 文明の便利さと、経済効率とがゴミの山を作り出している現実に唖然とした。

 来年からテレビが全面地デジ放送に変わるらしい。
薄型で、大型画面で、あざやかな色で、3Dで、ブルーレイで、臨場感が・・・・。
  なにかと姦しい。
 そんなにきれいな画面で、そんな迫力で、そんな臨場感で、あんなつまらない番組を
観るのか、あんな馬鹿騒ぎに参加するのか・・・。(落涙)

 地デジのコンバーターは付けたので、ブラウン管テレビのまま壊れるまで使おう。

      エコポイントの性で古いテレビのゴミの山ができてるらしいよ。


71、2010年夏

 今年の夏は暑かった。
とっくに立秋を過ぎているのに、日中はまだ真夏日あるいは猛暑日が続いている。
 我が家の周りでクマゼミの鳴き声を聞いた。たしかクマゼミの北限は、神奈川県南部、
千葉県南部くらいのはずである。概ね三浦半島辺りだったと記憶している。

 九州生まれの私は、クマゼミの「ジ~ガシガイガシ」と、けたたましい鳴き声に夏を感じ
て育った。 まさか横浜の北部でこの歳になって聞こうとは・・・。
 温暖化だ、異常気候だと騒いでいるから、その影響で北限が移動して来ているのかも
しれない。

 自然界だけでなく、人間社会も相変わらず騒々しい。
政治を変えようと新政権に移行したが、期待通りには行かず、参議院選挙で逆転。あれ
やこれやで党首選。誰も責任を取らないまま、またもや総理大臣の交代か・・・と!?

 庶民は、民意はとマスコミは煩く問うが、前にも言った。庶民感覚で国事を図られては
困ると思っている。庶民の立場を理解する必要はあるが、一般的な日常的な価値観で、
国を治めることは出来ない。一国の首長たるもの、ある意味独裁者と悪口を言われる位、
確固たる信念で臨むべきだろう。
 
 経済も、普天間も解決できる策はあるのになぁ!

 南米、チリの大地震で、地下700メートルのシェルターで、30数名が生存していること
が、17日振りに確認できたとのニュース。
 感動したのは、その中のリーダーの見事さで、わずか2日分の食料を均等に分け17日
間持たせたこと、目標を持たせるため仕事を分担して、非日常の環境に耐えられるシス
テムを作ったり、密閉された空間での秩序を維持していくこと、人間の尊厳を守り続ける
ことがどれ程大変なことか、想像を絶するものがある。
 その統率力に頭が下がる。

 4ヶ月後に救済との難工事であるが、救済されたらすぐに飛んで行って、その方に日本
の総理大臣になってもらうようお願いしたらどうだろう。
 ファンには申し訳ない言い方だが、たかがサッカーチームの監督を、世界中探し回った
のだから、ことは一国の浮沈に関わっている。
 風雲急を告げている。四の五の言ってる場合ではないぞ~ォ。

                    2010年の猛暑に思う。


70、3D

 遅ればせながら、3D映画を観た。
小学校の何年生だったかの頃、立体映画というのがあって、左右に夫々緑と赤のセロ
ファン紙を貼った、紙製の眼鏡を掛けて見ると、画面から映像が飛び出して見え、思わず
のけぞった記憶がある。
 その眼鏡を外して見てみると、映像が緑と赤がずれて縁取られていて、しばらく観てい
ると頭が痛くなってきた。
 その後、漫画でも緑と赤の線でダブらせて描いてあるのが出たが、映画ほど飛び出す
感じはなく、微妙な奥行きが感じられる程度で、あまり面白くなかった。あとが続かなかっ
たのは、映画も、漫画も評判が良くなかったのであろう。
 その当時のものとは比べようもなく良く出来ている。・・・が?である。

 実は、前にも書いたと思うが、CG映画が好きになれない。ジュラッシック・パーク一本で
いいと思っている。CGを駆使することで、あらゆる不可能が映像化できる訳で、空を飛ぶ
のも、水にもぐるのも、山を持ち上げることだって簡単に出来てしまう。
 果ては役者がいなくても、人が演じなくても映画が出来るという理屈になると、映画作り
の基本概念が違ってくる。コンピューター技術の作品展になる。

 3D映像の奥行きに不自然な感じを受けた。
画面から人物と背景との距離感が、分かるだけに不自然なのである。むしろ、実生活では
その距離感を意識して感じることはないような・・・!? 不自然な距離感。
 結局目障りな画面にイライラしながら、ストーリーに身が入らない状態で THE END。

 今後益々増えて行きそうな予感がするが、今の脳の持つ不自然だという感覚が、いずれ
慣らされてしまうだろう。不自然が自然になったときに、世の中は変わるのである。
 つまり、最初に汽車や自動車が出来た頃のスピ-ド感と、新幹線や高速道路のある現代
の感覚はまるで違うはずである。

 3~40キロで走る汽車を見て「スピード、スピード窓の外~。畑も飛ぶ飛ぶ、家も飛ぶ」と
歌った当時の人と、東京大阪間を1時間でつなごうとしている現代人。

 人間性を主張する一方、似非リアリティーに喜んでいるという気がしないでもない。


69、雨宿り

 急な雨降りに傘の用意もなく、あわてて他所の家の軒先に非難して、雨が小止みに
なるまで身をよせていると、その家の小窓が開いて「良かったら中にどうぞ、間もなく上
がるでしょう」などと声を掛けられ「すいません、ちょっと軒先を拝借いたしてます。いえ、
ここで結構です」こんな光景(やりとり)が普通にあった。

 最近軒先のある家をほとんど見なくなった。嘗ては家を建てる場合、自分の敷地でも
雨だれ落ちから一尺としたものである。つまり公道、あるいは隣り合わせた他の敷地の、
境界線から、一尺下がったところに軒先が来るのが常識であった。
 その一尺入った軒先をお借りするということだった。

 高度成長からバブルを駆け抜けた、日本経済は地価の高騰を生み、経済的な効率だ
けを求めた結果、軒先をつける余裕など持てなくなってしまった。
 道路ギリギリまで家が建て詰められているので、雨宿りをするところもなくなってしまい、
一緒に人と人の結びつきまで、情緒を欠いてしまうようになった。

 団地に住んでいて、軒先も雨宿りもないのであるが、団地内のちょっと空いてる場所
がある。車1~2台停めて置けるくらいのスペースであるが、そこにパイロン(工事現場
などで危険区域を示す、赤いプラスチックの尖がり帽子。別名カラーコーン)がずらっと
立て並べてある。 駐車禁止という訳だが、どうにも気に入らない。

 団地に用事のある人が、ちょっと停めておけるスペースがあってもいい。
例えば宅配便のお兄さんが時分時であれば、車を置いて食事をしてくるちょっとの間位、
停めておいても構わないと思いません?
 
 規則だ、違反だ、迷惑だと権利の主張だけで、美的要素ゼロの赤いプラスチックを、並
べまわす正義感とセンスの悪さが嫌だ。
  
   軒先をちょっとだけ貸してあげようよ。


68、借金

 サラリーマン金融。即ちサラ金。あるいは消費者金融というのがある。
何々金融などというと、組織化され、合理化された銀行などのシステムと勘違いしてし
まうが、なに高利貸しというやつである。
 もっとも私は、銀行といっても所詮金貸し業にすぎないとの認識でいる。

 高利貸しというのは、昔の映画や小説などに登場(で)てくる悪役の典型で、寝てい
る病人のふとんを引き剥がしていったり、借金のかたに娘を攫っていくアレである。

 借金はすべきではない。
借りた金は利息をつけて返さなければならない。借りるときは一万円でも、返すときは
一万二千円になる。 話を詰めれば一万二千円払って、一万円受け取るということで、
交換条件としてはあり得ない行為である。
収入が一定のサラリーマンや、一般消費者がそういうことをやれば、破綻するに決まっ
ている。
 
 金を借りるという行為は、その金を元に収益を生み、元利とも返済後、さらにいくらか
でも手元に残る場合に限る。つまり投資、資本投下という考え方である。資金は回転
させ、活かさなければ利を生まない。
 消費(つかう)だけの目的で借り入れをすれば、再生産は不可能なのである。
ということは頭書のサラリーマン金融、消費者金融という表現(言い方)はナンセンスと
いうことになる。無理である。

 皮肉なもので、事業を起こし資金が必要なときは、金融機関はけんもホロロ。こちら
の希望通りには融資をしてくれない。四苦八苦して何とかやりくり、どうにか物になっ
たら、「借りてください」とくる。必要(い)らなくなったころに。
 借りてはいけない金はすぐに貸してくれるというし、欲しい金は貸してくれない。
金貸しなどと付き合うものではないと思う。

 借金まみれのわが国の財政。大赤字にもかかわらず、景気回復策をはかり、税収を
増やして借金を減らそうという策は見えてこない。福祉だ、サービスだ、と耳障りのいい
選挙目当て政策ではどうにもならない。
 金がなければ、少しは我慢しなければ、生計(なりた)たないのではないか?賢明な
方向を示してくれる指導者はいないのか?
 
 サラリーマンが、サラ金から借りてやりくりしている危なさそのままである。


67、メダル

 バンクーバー冬季オリンピックが終了した。
日本の獲得したメダルは、5個だか6個だかだそうだが、金メダルはなかったらしい。
テレビのワイドショーで、「金メダルも所詮銀に金メッキしたものですからね」という発言
をしているアホ司会者がいた。
 何を言いたいための発言だか理解できないでいる。
メッキであろうが、塗装であろうが、優勝の印のメダルと2位のメダルとは違うはず。
ルールは素材の問題ではなく、それぞれの持つ意味、つまりソフトの問題なのであろう
に。重ねてアホめ。

 金メダルを捕れなかった日本選手に慰めのつもりだったら、逆効果でその言い訳は
みっともない。みじめである。
 恥の上塗り、負け犬の遠吠え、引かれものの小唄、というやつである。

 そういえば、前回の北京オリンピックの時も、「金に同じと書いて銅です」とか、「金よ
り良い(正確にはは良ではないのに)と書いて銀」などという、駄洒落というにしても酷す
ぎる実況をした、こちらはレッキとしたアナウンサーがいた。受信料を払った上に、そん
な低レベルの馬鹿コメントを聞かされたのでは適わないと思うし、私の部下だったら首
にはできないまでも、左遷くらいは当然だと思うが、その後話題にも問題にもなってい
ないところをみると、マスコミ界全てがその程度と観ても間違いあるまい。

 ルールを無視した無作法発言。未練たらしい手前勝手な負け惜しみ。
スポーツマンシップとは程遠い「贔屓の引き倒し応援」・・・。

 もっとも、スピードスケートの競技で、ラストストレッチで先頭争いの集団が全員転ん
で、結果最後部にいた選手がトップでゴールというのがあった。
 両手を何度も突き上げて、満面笑みと雄叫びに、スポーツマンシップって、正々堂々っ
て、孫たちにどう教えればいいのかな?
            
         健全なスポーツの祭典に幸あれ。


66、政治

 余り興味がないもののひとつに政治がある。
興味のないものをなぜ取り上げるかというと、毎日々々同じニュースで煩いからである。
 もっともニュースなんてものは、いつも同じことを繰り返し騒いでるだけのものだから、当然
といえば当然なのだが・・・。

 政治と金。いつものことである。「またか~」である。
30数年前、当時の総理大臣がアメリカの企業から、一億円受け取ったという事件があった。
その額にびっくりしたものだが、その後あれやこれやと繰り返しのスキャンダルで、今や3億
4億という高額の金が、ご自分のご存じない状態で受け渡しされている。
 金額が庶民感覚とかけ離れてると、マスコミは騒ぐがそこはちょっと違う。庶民感覚で国家
の計を図られたら、それは些か不安になる。そのために選ばれた人たちなんだと思う。
国政を図るにはそれなりの力や規模があり、それに伴うご苦労は計り知れないものであろう
と推測されるからである。
 
 と贔屓目にみても、知らなかったという額にはほど遠い気がする。例えば私みたいな者でも
ご接待を受けることがある。何かの都合でお車代として、封筒を渡されることもある。
 額は一万円か五千円くらいであるが、もし同行していた倅にでも渡されたら、後々「あの金は
?」と問い詰めるわけで、それが数億を秘書がやったから・・・って。私はしりませんでしたって。
「うっそぉ~!!」である。

 収支報告書に記載漏れ。忘れていたとの単純ミスだとおっしゃるが、収支報告書への無記
載とは、企業でいえば売り上げを計上していなかったということだろう。同じことが我々零細企業
で税務調査が入れば有無を言わさず、重加算追徴課税だ、延滞金だ、と見る見る膨れ上がって
課税されるのは分かりきっている。「秘書がやったことで知りませんでした」で通るの?
 国税庁さんの見解を求めま~す。

 「前回の選挙の前から、献金の話は出ていたのに、国民はわが党を支持してくれた。すでに
理解は得られているものと思う」との談話には驚いたというより、笑ってしまいました。
 「金銭疑惑は抜きで投票しました」と意思表示できる選挙方法。この件とこの件は容認します
が、こちらの件については否認します。という面倒くさい投票方法を誰か考えてよ。
  
  そんなことまで「理解しただろう」と押し付けられるんだったら、選挙なんか行くもんじゃない。


65、蕎麦

 蕎麦。そばである。
一時期「そば食いに行こう」といえば、ソバ。すなわちラーメンのことを指していた時代があった。
ラーメンは支那ソバ、あるいは中華ソバと言っていた世代には、奇異な感じがしたが、そこら辺
から、蕎麦を「日本そば」とことわる言い方が広まってきたようだ。
 呼び方ごときにこだわるつもりはないが、意思の疎通ががままならず、イラッとしたことがある。
最近はまたラーメンが流行りで、そっちの方でソバという言い方を避けているようである。

 いつだったか、数人で蕎麦屋に行った時の話題。何気なく「土地の豊かでない山間地での、
新蕎麦のうまさは例えようのない喜びだったろうな」という意味のことを言った私に、「それよりも
新米のうまさには適わないよ」と米所と云われる地方出身者が反論してきたことがある。
 米のうまさは特別で、中毒的といってもいいだろう。米が採れれば米の方がいいに決まって
いる。言わずもがなである。米が採れない山間地での、限られた耕作物の中での新蕎麦の収穫、
輝くようなうまさは、一段と格別なものだろうという思いを言ったつもりが、繰り返しの反論に通じ
ない奴といくら話をしても無駄だという見本みたいなことになった。

 蕎麦を符丁で「縄」といったりする社会がある。「縄手繰っていかねか」と。縄だから手繰る
のである。実際には手繰るような箸使いをすると、蕎麦は絡んで食べ難いから勢いだけで喋って
るのだろうが、響きはいい。

 箸の先に一口分の蕎麦を摘んで持ち上げ、片手に持った蕎麦猪口にちょっと付けて、一気に
スーっと吸い込むように。ほんの2~3回噛んだだけで飲み下し、いつまでも口の中に置かず、
咽喉越しを楽しむのが通だという。

 故小さん師匠のお話で「蕎麦を摘むときは、箸を横から入れるのではなく、縦にして箸先で取る
と一口分きれいに摘めます」というのを伺ったことがある。蕎麦屋の職人はそのように盛るのだと
おっしゃっていた。それ以来蕎麦を注文すると心して食べているが、中にはそれでも絡まって摘み
難いことがある。ラーメンに押されていい職人が育たなくなったのか・・・。

 世をあげてグルメだ、飽食だ、美食だと。「甘ア~い。柔らか~い。とろけそう~」としか表現し
ない名前も知らない食材、聞いたこともない料理で溢れている。
 無理に食わなくてもいいというようなものばかりである。

 腰のしっかりしたシンプルな蕎麦の味わい、咽喉越しはいつ食べてもいい。
三ツ星何とかには載らないかもしれないが、いい蕎麦屋を知ってるぞ。
 


64デフレ

 世の中不景気だそうな。
どんな加減で景気、不景気が変わるのかよく分からない。ついこの間、「インフレ傾向が止まら
ない」と騒いでたような気がするが、その時と今とどっちが大変なのだろう?

 ものが売れないから値下げをするんだと。値下げをするから儲からないんだと。儲からないか
ら賃金を下げるんだと。賃金が下がるからものが買えないんだと。
 これをデフレスパイラルというらしいけれど、どっかで誰かが我慢をしなければ、この堂々巡り
は止まるわけがない。

 価格競争のツケはどこかにそのしわ寄せが行き、結局は弱者がそのツケを負わされることに
なるのは目に見えている。
 目に見えていることが、どうにもならないというのは、大した問題ではないから、どうにかしなけ
ればという気にならないのではないだろうか。つまり本当に大変だったら、国を挙げての施策が
とられなければならないだろう。

 たまたまプロ野球選手の契約更新のニュース(?)をテレビで観たが、三億円からの年俸だそ
うな。アナウンサーが「お金の使い道は?」と余計な質問をしているのに対して、「貯金をします」
との答。貯蓄にまわされた金額は、通貨として滞ってしまう。是非消費に振り向けて、少しでも社
会を潤わせて頂きたいと思った。
 貯め過ぎた預貯金には税金でも掛けて、世に出回るようにしたらどうだろう。とは貧乏人の僻み
である。

 不景気で消費が冷え込んでるからと、価格競争が激化してるという。
先日、デパートでの実演中に、若い方(お客様)とお話をしたときに、「不景気だからこそ、ちょっ
と高いけどいいものを買うといいですよ」と申し上げた。

 十年着れるスーツは着心地も違うし、毎年着捨てるものを安く買うよりも、段々風合いも良くなっ
て愛着も生まれてきます。結果経済的だし、そんな豊かな心が大事なのです。と。

 昔は年寄りがちゃんとしてたから、「安物買いの銭失い」などと若い人を諌めてたが、最近は年
寄りまで目の色を変えて、安売り店の行列に並ぶようになってしまった。
 
 安物と言わず「リーズナブル」だとさ。
  
         下品、下品、世も末である。


63、THIS IS IT

 マイケル・ジャクソンのTHIS IS ITという映画を観てきた。ずばり、すごい!!
久々にエンドマークと同時に、拍手をしたくなるような作品に出会った。映画でのスタンディング
オベーションは、最近ではお目にかかることはないが、かつてはよくあったことである。

 それはさて置き、ロンドン公演を直前に早世した、天才エンタティナーのリハーサルの模様を
繋ぎ合わせた映画ながら、もしかすると本番よりもいいのではないか、と思わせる位の完成度。
 エンタテイメントの職人としての、もの作りに対する真摯な態度と華麗な技術。音楽にもロック
にも、あるいはダンスにも興味のない人が観ても、感動と興奮を抱かずにはいられないだろう。

 まるで安っぽい、映画の宣伝文句みたいな表現で、私が書かなくても誰でも書きそうだと思い
ながら、書くのは止そうと思いながら、一週間経っても尚興奮が抑えられないので、つい!

 ジャクソンファイブという家族構成のコーラスグループ。その末っ子のこまっしゃくれたおチビさん
が、可愛くて歌がうまいと、際物みたいな扱いで紹介されたのが、ついこの間のように感じるが、
時を経て開花した人間の才能のすごさ。一流と呼ばれる人のすごさ。天才というにふさわしい本物
の芸。何年かぶりの感動に打ち震えた。

 本編上映前に当然のことながら、予告編が数本流されるが、揃いもそろって全てCGをフル活
用したコケオドシの作品ばかり。因みにCG映画は、ジュラシックパーク一本だけで十分だという
のが持論。それに頼ると映画は絶対面白くなくなると言っていたし、あきらかにそうなった。

 そんな中での、生の人間の肉体による技術と感性。一流の技術をして、更に高い完成を求める
サービスの精神。その質の高さと共に長く賞賛されるべきだろう。 
                
           プロフェッショナルばんざい!!! 天才バンザイ!!!


62台風

 台風の1号はいつ頃発生するのか良く分からない。
天気予報で台風のことが話題になるのは、大抵5号とか6号あたりからである。
 本土に影響があるかも知れない、というレベルの情報になると既に12~3号位になっている。
情報があってもこっちが気がつかないだけなのか、関係ないところでの台風発生など、気になら
ないからなのか、1号から順番に認識をしたことがない。気が付くと10号台になっている。

 何度も書いたが、九州は宮崎生まれなので、物心付いた頃から台風には親しんで(?)いる。
今のように気象情報が正確に、詳細に伝わって来るわけではなかったから、風の方向から台風
の位置を読んだり、風の強さで規模や距離を判断したり、雨の降り止みの間隔で接近時間を予測
したものである。

 暴風雨の中で雨戸を吹き飛ばされたり、雨漏りというより屋根瓦が飛ばされ、直接雨が降り込ん
で来たりした経験もあるが、停電で真っ暗の中、結構非日常的な状況を楽しまないまでも、一種の
興奮状態にあったような記憶がある。

 ちょっと大きな台風だと、1000人くらいの死者が出たりしたから、当時と比べれば、情報の正確
さやスピードの違い、治水や灌漑工事が進んだお陰で、被害ははるかに少なくなっているといえる
だろう。それでも毎年犠牲者がでるのは、痛ましいことである。

 6~7年前になろうか、台風が過ぎたあとで岩魚釣りに出掛けた。
川水はまだ濁っていて、水量もいつもより多い。その夏は渇水で釣果も思わしくなかった。その性
もあり、台風のあとだと水が多いはずだと目論んででかけたので、思う壺であった。
 川の流れも変わっており、ポイントが定まらないまま竿を操っていたら、まるで普段は居そうにも
ないような、水溜りみたいな所でガツンという当たりがあり、手ごたえ十分なやりとりの末、36cm
の大物が釣れた。
 あとで腹を割いたら、胃袋から腸にかけて直径1cm以下くらいの小石が、ぎっしりと詰まっていた
のである。
 大水に流されないように体を重くして、流れのない淀みに身を潜めていたらしい。
山奥の渓流にいて、熱帯低気圧の接近を何によって予知するのか、小さな小石に自然の偉大さ
を学び、その岩魚の顎骨と小石は今も取ってある。私の宝物として。 


61時計

 腕時計を着けていない。かつて高校に入学した時、祖父に買ってもらったものを十年くらい使っ
ていたが、いつの間にか着けなくなって久しい。
 腕時計がないと、当然のことながら手首が楽でいい。時間が分からなくて不便だということも
ないのは、いたるところに時を報せてくれる機能が溢れているからである。

 うちの中でも、いろんな電化製品にデジタル表示のディスプレイが付いている。
炊飯器、テレビ、電話、レコーダー、車の中でもメーターに付いているし、カーナビにも付いている。
ところが、それぞれ表示している時刻が違っているし、それぞれに遅れるのと進む癖があるのとが
あって、どれを信じていいのか、正確には何時何分なのか分からない。それぞれの時計の癖を分
かった上で、進めたり遅らせたりして判断をするのでは、時計が時を報せてくれるのか、こっちが時
計のお守りをしているのか分からなくなる。

 先日、久しぶりに親戚の家に泊まったら、懐かしい柱時計があって、ぼ~ん、ぼ~んと時を報せ
るのだが、寝入りばなのうつらうつらの時に十一鳴って、十一時半に一個鳴って、又三十分したら
十二鳴るので、いっぺんで眠気が覚めてしまった。しかも隣の部屋にも同じ時計が掛かっていて、約
40秒位遅れているので、ずれて又同じ数を聞くことになり閉口した。

 昔、同郷の先輩でお持ちの腕時計が正確だと自慢をされている方がいた。
クォーツの出始めた頃だったと思う。「いいか、見てろ時報と秒針がぴったりだぞ」と何度も見せられ、
つい、「時計が正確でも、待ち合わせに遅れたら意味ないですよね」でしくじってしまったことがある。

 先人が星を眺め、日の出入りを観測し、大きな自然の法則から時という観念を導き出し、進歩と発展
を遂げてきた文明が、行き着くところまで来て、基本的な時刻の表示すら未だにバラバラで、正確に合
わせることも出来ないのか。
 それでも何も困らない。「大きな時計と小さな時計、どちらも時間はおんなじだ」という都都逸がある。
内容のバカバカしいさが好きなのだが、現実はむしろおんなじ時間を指している時計の方が珍しい。
 
  文明とは皮肉なものである。


60、発酵

 島からトビウオと青むろ(むろ鯵)のクサヤが届いた。
大好物なので、連日食事はそれである。二十数年前、立川談志師匠にお供をして、神津島で一
週間位遊んだことがあった。そのとき島に滞在中、毎食、すなわち三食掛ける七日で二十一食全
てクサヤを食べ続けたことがある。

 特に、島で本当の一夜干しを食べれば、他に何もなくても飽きることなどまったくない。むしろ中毒
的なうまさが後を引いた経験であった。
 帰りに同じものを買い求め、ウチで食べたら舌が「違う!」というのである。居酒屋などで手に入る
どのクサヤと比べても遥かにうまいものなのだが・・・。

 酒が飲めないくせに、ツマミにもってこいというようなものが好きで、鰹の塩辛なども食卓に欠かし
たことがない。五島列島の水イカのはらわたもいい。
 
 先日、台所の隅から、数年前に漁師さん手作りの塩辛を大瓶にもらって、小分けに出して食べてた
のが瓶に入ったまま残っていて出てきた。埃をかぶった蓋を開けてみると熟成した芳香がプーンと辺
りに充満してうまそうであるが、中身はどろどろに溶けて液体になってしまっている。色もどす黒く一見
不気味ではあるが、ちょっと舐めてみたら、塩加減が熟成されていて、深みのあるまろやかさが実に
いいのである。
 早速パスタをを茹でて軽く絡めたら、どこで食べたよりも絶妙なアンチョビパスタが出来上がった。
鰹の内臓を塩だけで漬け込んで、暗い台所の隅で数年寝かせて発酵させた訳で、不味いはずがない
のである。

 クサヤの匂いが独特で、特に若い人たちに受け入れられないから、匂いのないクサヤを開発中だ
という話を聞いた。好きな者にとっては、そんな話題だけで味わいが変わってしまいそうである。

 いにしえ人が食物を保存するため考え出した発酵、熟成の技術。その結果醸し出された芳醇な味
わい。そんな食品にも、賞味期限だの消費期限だのを記さなければならない管理社会。

 「クサヤってくさ~いお魚でしょう。あんなもの食べれるなんて、し~んじらんな~い」腐敗臭も発酵臭
も区別がつかないのだろう。

          熟成したおとなの社会は味覚と共に記憶の彼方へ・・・か。


59、

 「お笑い」という言い方が、一般的に使われるようになったのはいつごろからだろうか?
そもそもテレビ用語だと思うが、個人的には好きな言い方ではない。「お笑い芸人」という表現に
なるとなおさらである。
 芸人という言い方が、テレビに出て馬鹿騒ぎをして、笑わせるというよりも笑われ役を演じている、
どこの中学校にも一人や二人必ずいた、昼休みのお調子者程度のことをやっている連中を総称し
ているようであるが、歌でも踊りでも芝居でも一芸に秀でた人が芸人であり、いわゆるお笑い芸人
だけが芸人ではない。むしろ一芸に秀出た才能を持っていなければ、芸人の資格などあろうはずは
ないのである。

 ラジオから流れてくる、三世三遊亭金馬で落語の面白さに出会い、中田ダイマル、ラケットの絶妙
な掛け合いに笑い転げ、寅造の次郎長伝に対して、相模太郎の灰神楽三太郎の軽妙洒脱。
やがて志ん生から談志へと繋がって、落語の本質が持つものすごさを教わって来た。
 岡晴夫、三橋、春日の流行歌。由利徹と佐山俊二の山崎街道の場。うまい!!
挙げれば切がないが、しみじみいい芸、いい技を見てきたと思う。
 
 いつだったか、売り出し中の舞台演出家が、「森繁久弥の演技は車の運転でいうと、車庫入れの
ようなものだ。観客はカーレースを見に来ているので、車庫入れなんか見たくはないはずだ」という
発言をしていたことがある。その演出家の芝居を見たことはないが、その意見は「違う!」である。
 森繁さんは車庫入れという単調で地味な作業を、みごと鑑賞に堪えうる美に仕上げ、アクティブで
ハイテンポなカーレースよりも、遥かに観客を釘付けにしたのである。
  それを「芸」という。

 ただ金を掛けたり、大掛かりなスケールで驚かしたり、豪華キャストだの大スペクタクルという歌い
文句での、こけおどし。それすらもない馬鹿騒ぎ。悪ふざけなどがいやである。
 アカデミー賞に余り興味がないのはその性かもしれない。
  
  小技の効いた確かな腕を持つ、確かな芸人の確かな芸が好きである。
 



58、
解禁

 例年2月位になると、そわそわと落ち着かなくなる。
早いところで2月の中。大体3月1日に渓流釣りが解禁になる。 崖から落ちて大怪我をして、
間もなく6年が経つが、その後渓流釣りに出掛けたのはわずか2~3度である。
 「怪我で懲りたでしょう」とおっしゃる方がいらっしゃるが、「釣りは仕事と違って遊びじゃないん
ですよ」と訳のわからないご返事を申し上げる。生真面目な方は「じゃあ仕事は遊び半分なんで
すか?」とくるから、洒落のわかる相手かどうか見極める必要はある。

 それはさておき、以前は春にはほとんど山の中にいたのではないか、と思われるくらい長野の
山中に通い、歩き回って岩魚を追いかけていた。
 まだ辺り一面雪で山陰の谷底は日も射さず、凍りつきそうな冷たい水の中に何時間も立ち込み、
ぬれた指先は感覚もない状態。水から引き上げた釣り糸にからんだ水滴は、すぐに氷の玉になっ
てしまうので、舐めて氷玉をとかしてえさを付け替え、何度も竿を振り込むのだが、当たりの気配す
らないまま「こんな冷たいところに魚なんかいるもんか、俺は何やってるんだ!」とブツブツつぶやき
ながら時は過ぎて行くばかり。釣りバカ以外の何者でもない。

 やがて昼近くになって、谷間にも日が差し始め、いくらか水が緩んだかなと思われるころ、竿尻
を持つしびれて感覚を失いかけているような手に、極弱い、モソっというような当たりというよりも、
微妙な変化が感じられた瞬間の喜び!!!
 冷凍状態の全身の血液が俄かに解凍したような、今年最初の、待ちに待った一匹を取り込むのに
早く早くと気はあせるし、慎重にやり取りをしなければと思っていても、とても冷静にはなれず。
心と体の反応がチグハグのまま、数分の格闘、魚とのやりとりの末ようやく手網に納めた喜び。
 まだ冬の眠りから覚めやらぬ魚体は、黒く重々しくいわゆるサビのついた状態だが、紛れもない
岩魚の姿である。
 思わず「どうだ!居たろう、やったろう」と誰もいないのに大声が出てしまう。

 初恋の、初体験の期待と戸惑いの末の歓喜と快楽に似ているかもしれない。 
「恋はいつでも初舞台~」という演歌のフレーズが頭を過ぎるのである。
 
  仕事なんか止めて釣りに行こうかな・・・。行きたいなア・・・。


57世情

 昨年の秋口から、ファッション誌や情報誌、テレビなどの取材が相次いだ性か、洋服ブラシの注文
が相次いで、暮も正月もなく作業を続けていた。
 当然、「ひとりごと」を更新する暇もなく、馴染みのお客様からご指摘を受けたりしたが、書くのが本
業ではないし、ご注文のお客様をおまたせしてまでとの思いもあり、気にしつつもついつい・・・。

 テレビを真剣にじっくり観るということをしないが、仕事をしながら垂れ流し状態につけっぱなしでい
るから、断片的に情報が入ってくる。

 世の移ろいは慌しく、他所の国の大統領に大騒ぎをしたり、百年に一度の大不況だとか、金融
不安だとか、わが国の総理大臣の漢字の読み間違い云々・・・。
 どれといって生活に関係のありそうなものはない。ただ騒いでるだけ。兎に角「事あれかし」という
マスコミの悪騒ぎとしか思えない。

 かの国で新しい大統領が誕生したとて、お祭り騒ぎではしゃいでどうする。「U.S.A Change !!」
と叫んで選ばれた大統領が、具体的に何をChangeするのか、どうChangeするのか何も分からない
のに・・・。ましてこの大不況の局面で同盟国とはいえ、自国より優遇してくれようはずはなし。
 むしろ実績のない、ムードだけで誕生したような青年の動向は、落ち着いてしっかり見据えて行か
ないと、外交などの方向性を誤るような気がするのだが。
 政治というものは、大きくChangeしない方がいいと思っている。
嘗て「抜本的構造改革」を旗印に行われた選挙があったが、今の生活を大きく変えられたら堪らな
いというのが私の本音であり、目的のための手段が気に入らないという理由もあって棄権をした。
 今やその弊害で格差や雇用不安が大きく浮上してきている。

 それ見たことかとは言わないが、改革は革命ではないので、抜本的、大々的なんてあり得ないの
である。むしろ政治とは、「どげんかせんといかん」位の意識で、上手に妥協の道を選択していくもの
だと考えている。漢字の読み間違えなど、政治家の資質とは関係ないとも思う。
(余談ながら、「どげんか」という言い方は厳密には宮崎弁ではない。宮崎弁では「どんげか」である)

 百年に一度の大不況も、百年前の生活レベルと比較すると、とてつもなく豊かな世の中での出来事
ではないか。 驚くまい。騒ぐまい。


56、注文

 外食は基本的に好きではないが、出張やお付き合いなどで外での飲食が結構増えてきている。
そんな折、どうにも気になるのが注文を取りに来る店員の言葉使い。
中でも「ご注文を繰り返します」というやつ。「×××と000、###以上でよろしかったでしょうか?」
とくる。注文を間違えないようにというのであろうが、復唱したことによって、たとえ間違えても客のあ
なたも確認したではないか、という罪の軽減を狙っているようで不愉快になる。

 客の注文をしっかり聞け。一度で間違えないようにするのが、接客業としての君の仕事だ!と。
まして数人で行って、銘々が好みで取り敢えずビールはいいとして、枝豆と串焼きがあれとこれとそれ、
肉じゃが、刺身の盛り合わせ、さつま揚げに、オリジナルメニュー云々となると、繰り返されても合って
るかどうかなんてまるで分からない。
 長々と復唱したその挙句、「・・・以上でよろしかったでしょうか?」などと過去形で念を押されると、
「何の話し?」と聞き返したくなってしまう。

 最近は電卓のような端末機を持っていて、注文を聞きながら打ち込んでいくのもある。それでも繰り
返されるのを聞いていなければならない。無駄な時間のような気がするのだが、あくまでも向こう様の
都合で、客の方が付き合いを無理強いさせられてる。我慢をして耐えた結果、それでも注文を間違え、
「申し訳ありません」とさして悪びれもせず。

 歳を取った性か、妙なところでせっかちになってきている。その上空腹であるから益々イライラする。
もっとサービスのいい、ちゃんとした店で食えばいいものを、そこが人間の小ささで、高が食い物に大金
を払おうという了見がないのである。ならば諦めろ!か。
  
 できるだけ外で飲食をしないようにするしかないのである。


55、経済

 曲りなりにも会社を経営しているのに、「経済」というのが良く理解(わ)からない。
株価の変動も、貨幣レートの推移も、理解(わ)かっていない。昔経営学のセミナーというのに入ってた
ことがあって、「経営学とは」というレポートを書かされ、「経営とは字の如く経(はかり)営(いとなむ)こ
とで、人間の都合によって創り出したシステムである。その人間の歴史は地球の歴史に比べれば、
目ばたきひとつの間に、ネアンデルタールからキリストも聖徳太子もナポレオンも、丹下左善も・・・」と
やったら、ある先輩に「神聖な研究の場で丹下左善は不謹慎だ」と叱られたことがある。

 人間の作り出したシステムなど儚く、本質的には然程の価値はないのではないかという、初歩的な疑
問を表現するのには、むしろ丹下左善の登場は必須だったのだが、そこの機微が勉強秀才にはご理解
いただけなかったのか、せっかく苦心して書き上げた本質が伝わらず、論点はそこじゃないのにと苦笑し
た覚えがある。

 それはさて置き、世界的な大不況になるとマスコミが騒いでいるし、株価が暴落したの、公的資金の
導入で反発したの、云々云々・・・。
 全員が損をすると、損をした金はどこへ行くのだろう? 大恐慌というけど全員損する側にいて、得をする
人はいないのだろうか?
 景気が縮小、後退するってどういうこと? 元々株価は上がったり下がったりするものじゃないの?
下がった時に「補償しろ」と言ってる人たちは、上がった時にその分寄付や献金などをしてたの?

 この間までガソリン値上げで騒いでいたが、ガソリンよりペットボトルの水の方が高いのに、そこは問題
にならなかった。ある意味不思議である。

 誰でも出費は少なく、収入は多い方がいいに決まってるが、一方的に望みどおりには行く訳があるまい。
莫大な資金を注ぎ込んだ投資家は一円単位の上げ下げで一喜一憂である。
 私は千円くらいなら落としても無くしても驚かない。

 一円に泣く金持ちと、千円で驚かない貧乏人。   立って半畳寝て一畳・・・ってね。


54、

 団地(すまい)の敷地内に、木立に囲まれた原っぱがある。
ネットで来た注文の洋服ブラシを発送するために、郵便局へ出かけるのにほとんど毎日のように側を
通るのだが、小さな自然が何時ということもなくフッと季節の変化を感じさせてくれる。

 つい先日までセミがうるさい位鳴いていたのに、昼が静かになっていると気が付いたら、アキアカネ。
つまり、赤とんぼが群れて飛び交っている。
 
 暑さ寒さも・・・というが、間もなく秋の彼岸である。子供の頃「赤とんぼは亡くなった人が乗って帰って
来るのだから、殺生をしてはいけない。」と祖母にいわれたことを思い出す。
 私の生まれ育った宮崎では、赤とんぼを別名精霊(しょうろ)とんぼと呼んでいた。精霊をショウロウと
読むのは九州地方だけなのかもしれないが、いづれにせよ仏の使いとしての呼称であった。

 命が入れ替わるように、生後すぐに親子の対面もないまま父を亡くしているので、何かにつけ墓参り
やお寺参りをさせられたし、年寄りに付き添われての退屈な行事に閉口した記憶がある。
 また、どのとんぼに父が乗っているのかと捕まえては調べたが、どれも同じで何も乗っている様子は
ないので、腑に落ちなかったことも記憶にある。
 
 夕焼け小焼けの赤とんぼ、背負(おわ)れて見たのは・・・を、追われてみたのはと思い込んでいた
のはそんな経験からも確信に繋がっていた。

 本来艶やかで華やかな赤い色も、秋の静けさの中では燃え立つ程寂しさを誘うような気がする。
赤とんぼ、彼岸花の赤、葉鶏頭、色づく柿やみかん。やがて紅葉へ。中でもナナカマドの赤はいい。
 秋の色は赤く燃えて尽きる。

 日本の侘び寂びの心は究極「赤」なのではないだろうかと思っている。


53、真夏の夜の夢

 風呂場にナメクジがいた。子供の頃はあちこちにいたが、このところ見掛けなかったので、懐かしい
感じがしてしばらく眺めていた。
 昔から不思議だったのは、一見カタツムリと同じ様なのに、棲み家となる殻を背負っていないのは何
故なのだろうと。
 カタツムリの閉所恐怖症? カタツムリの家出? もちろん生物学的にはちゃんとした分類がされて
いて、種の違う生物であるということは承知の上で、観念的にはその不思議が納得できないでいる。

 例えば鯨は哺乳類だが、あれだけずっと海の中だけで生きていれば、その状態は魚以外の何物で
もあるまい。「鯨が浅瀬に打ち揚げられて死んでいた」などというニュースがあると哺乳類が陸で死ぬ
訳がないと思ってしまう。
 逆に魚のくせに泳ぎの下手なのがいたりする。ホウボウだとかイザリ魚など海底を歩き廻るし、トビ
ハゼだのムツゴロウなどは陸上をぴょんぴょんはねまわっている。きっと水が苦手で泳ぎがきらいなの
ではないだろうか。

 鳥でもアヒルやニワトリ、ダチョウ、ペンギンなどはきっと高所恐怖症なのでは・・・と。
「トンビみたいに飛んでみたけど、めまいがして怖くって嫌だよ」「俺もそう」「私も」というのが集まって
「ニワトリになろうよ」って相談したのではないか? 飛べないけど「走ると早いよ」というのがダチョウ
やロードランナーに、「泳ぎが得意なのよ」というのがアヒルやペンギンになろうと決めたのではないだ
ろうか・・・と、考えた方が楽しい。

 科学的合理的にもの事論理づけて説明するよりも、苦手なんだよとか、嫌なんだろうとかの観念で
説明した方が納得し易いことがあるし、非科学的だからといって不都合はない。

 シェークスピアの「真夏の夜の夢」は人間の移り気や、出来心などで起きる不道徳(道徳自体人間が
作り出したという意味で科学と同じだが)を森の妖精の性にしている。 
 心理学的に分析をすれば、深層心理に潜む願望だの、エスだのということになろうが、それでは面白
くない。
 全ての現象を合理的に説明しつくされた現代。おばけも幽霊も住み難くなってしまったようだが、思い
つくまま想像に遊ぶ「文化」を楽しむのを、余裕とか豊かさと言うのではないだろうか。


52、エミリー・カーメ・ウングワレ

 乃木坂の新国立美術館に「エミリー・ウングワレ展」を観に行ってきた。
純粋なアボリジニで80歳から絵を描き始め、88歳で亡くなるまでに3千枚の作品を残したという程度
の知識しか持っていなかったのだが、実際にその作品に触れてみて、ただの展覧会というのには余り
にもかけ離れた迫力と、とても老婦人の手によるものと思えないパワーに圧倒され、観終わった後の
ショックの大きさに、茫然自失といった感じで館を出た。

 民族の儀式に基づく形式紋様。頑なに守り通している民族の文化。それらを伝承するための手段。
毅然と向かい合って生きている自然環境に、感謝も、恐れも、尊敬も、抱きながら尚謙虚であるが故
の逞しさを感じさせてくれました。

 文明依存の中にある商業美術のいかがわしさを、無言で指摘しながら、美の本質を実践して見せて
くれているような。抽象を超えた抽象。むろん彼女にはそのような意識などないのだろうが、控えめで
挑戦的な迫力で迫る色や構図に、直視するのが恥ずかしくなるような純粋さが満ちていました。

 時あたかも後期高齢者云々かんぬんと騒いでいる今日の日本。???????・・・。


51、水着

 この時期、出歩くことが少なく、うちで製作を続けている。
うちにいると、テレビのニュースなどに接することも自然多くなる。相変わらずあれやこれや話題は
豊富で、何にもなければ無理やりニュースを作るのではないかと勘ぐりたくなる位である。

 どこかの高級料亭で賞味期限を偽ったとか、一度下げた客の食べ残しを使いまわしたとか、どうでも
いいと思うのは、高級料亭など一般人は行かないから関係ないし、ましてそこに行っていたお客が料理
にクレームを付けたのではなく、内部告発でバレたということだから、通っていたこだわりのグルメ族
同時に自己反省すべきだと思う。

 北京オリンピックを前に競泳用の水着が話題になっているが、どの水着を着るか水着の違いでタイム
が違うのはある意味ドーピングではないだろうか。もっともっと水着を改良して行けば、記録は更に伸びる
理屈になるから水着の競争、ひいては競技用品業者の競争であって、選手の肉体と精神による健全な公
平性を目したオリンピックの主旨にはそぐわないのではと思えるのだが・・・? 
 
 誰か倒れにくい柔道着や、ひっくり返らないレスリグ・スーツを研究しないかな・・・とは下衆の感想。
 
 下衆ついでに・・公平な肉体の戦いにするためにいっそ水着なしの素っ裸で泳がせたらどうだろう。
男子の場合は股間に特有の突起物があり、今まで男子の象徴としてその大きさを自慢していたものが、
水の抵抗を受けるということで出来るだけ小さい方が有利になるかも知れない。
 
 兵器の縮小化に向けて世界平和の象徴に・・・がんばれ水泳、 ばんざいオリンピック。


50、歴史

 桜(はな)の時期。毎年のことながら忙しさのピークになる。
今年も三月の末から四月中旬過ぎまで、大阪、京都、岐阜、岡山、名古屋と連続移動をやってのけた。
 間一日の移動日でホテルからホテルを渡り歩いたのであるが、チェックアウト午前10時で、新幹線で
1~2時間の移動時間では、次のチェックイン午後3~4時の間時間をつなぐのが大変で、必ずしも高速
移動が便利なものだとは限らないのである。

 そこで京都から岐阜、岐阜から岡山へと在来線で最高6時間掛けての移動を試みた。
結果、これが大成功で、在来線のスピードと満開の桜の眺めが、のんびり一人旅に最高の風情を作って
くれました。

 岐阜の金華山に聳える岐阜城。道三、信長に思いを馳せ大垣を過ぎると間もなく関ケ原。
なだらかな丘陵を眺めながら、あのあたりから家康の東軍が、ここいらから光成を頭とする西軍がなどと、
歴史小説で読んだ戦国ロマンに胸躍らせながら米原へ。
 すぐに彦根城が見え、井伊直弼へ時代は飛ぶが、駅を挟んで佐和山城址があり、距離感のリアルさが
歴史の中に身を置いているような気分にさせられました。

 米原、京都間は石山だの膳所だのと平安から鎌倉の趣を伝える地名が続く。

 京、大阪は平安から幕末維新まで、歴史の中心であるから上げれば切がないが、明石城を過ぎると
姫路城。播州赤穂などという地名が現れ、おなじみの忠臣蔵の舞台となる。因みに大石が隠居所と定め
た山科は、赤穂からは遠すぎるのになぜ山科なのだろう・・・?と。
 それにしても江戸から赤穂まで早駕籠で3日は大変だ。のんびり行きたい6時間の旅と、急いで知らせ
たい使命を負った3日の早や駆け。時代とはいえ皮肉である。

 社会科で習った歴史は面白くなかった。興味もわかなかった。多分年号と出来事との丸暗記をさせら
れるからだと思う。「イイクニツクロウ、カマクラバクフ」で面白いわけがない。
 地理もそうで形や場所を暗記させられても何のことやら。

 新幹線のスピードでは見えない政治や歴史。それらを育む地理や地形。位置づけが認識されることで
味わえたリアル感。至福の時でありました。


49、素描

 先日、立川高島屋に実演(で)ていた時、美術大学の教授という方とお話しをした。
漆工芸をなさる方で、職人の手仕事に興味をお持ちらしく、工法や素材などを含め、仕事のことを色々
お尋ねになられていた。他所よりも余計に手を掛けているという自負もあり、ウチ独自の工夫や工法等
物作りの自慢話を暫しお聞かせした。
 
 実は私、若いころ絵描きに憧れ、美大受験をした経験を持っている。素描(デッサン)力はそこそこあり、
悪くないと思っているが、丸暗記の受験勉強というのが苦手で、どうしても学科試験で落ちてしまい夢を
果たせないままでいる。そんな事情もあり、美大の教授に色々ご質問をいただくのが、コンプレックスと
優越感との狭間で今更ながら面映い感じでありました。

 話しは技術論から、物作りの心構えや信念などと精神論へ、果ては環境問題から暮らし方へと、年齢
の近いオジサンふたりの現代評まで広がっていった中で、「最近の学生でデッサンの仕上げをやってく
ださい。と持って来るのがいます」と言われたのには、初め何のことか不理解(わから)なかった。要する
に基礎訓練であるはずのデッサンを、作品として完成させたいのか。基礎訓練が面倒だからノルマの消
化の為に他人に任せてしまいたいのか。相撲取りが、兄弟子に四股を踏んでもらっても強くなれる訳は
なし、落語家が寿限無を先輩に憶えて貰ってもうまくはなるまい。その意図が分からないのである。

 デッサンを作品として完成させなければならない理由はない。後者の場合だと、ご本人は美の世界に足
を踏み入れるべきでない人なのか、さもなくば余程の天才的な感性や技術の持ち主で、今更デッサンなど
の基礎訓練に時間を費やすのは無駄と、カリキュラムにクレームを付けるつもりなのか・・・?とすれば、
そんな抵抗も時間の無駄で、デッサンごとき簡単にサッサと仕上げてしまえば済むことであろう。

 もっとも我々職人の中にも、カンナは掛けられないどころか、刃物さえまともに研げないのが結構いる。
毎度の苦言ながら、汚い作務衣を着て、デパートの催事場で江戸の、伝統の、といっては仕入れ物を山積
みして売り上げを競っている諸君。素人の客相手と高をくくり、基礎訓練もなしにどこまで持つか・・・。
 見る人は見てるぞ。        
               がんばれ~!!


48、エコ

 昨年車を買い換えた。前の車は2800・CCで、その前が4200・CC。今度のは1500・CCのいわゆる
コンパクト・カーである。段々乗る車が小さくなって行く。「金が貯まって来た余裕の証しだ。最終的には
軽自動車で大金持ちということになる」と粋がっている。

 車を買い換えた途端にガソリンの値上げで、世の中姦しいが驚くぐらい燃費がいいので驚かない。
性能も機能も優れてきているので、むしろ排気量の少なさを自慢したいような気分で、軽快な走りを楽し
んでいる。仕事でも洋服ブラシの梱包だけなので荷物も少なく、嘗て仕入れたブラシ類を、あれやこれや
山積みして、デパートの催事場を駆け回っていた頃に比べ、遥かにフットワークよく効率的である。

 エコロジーだの、自然環境だの、異常気候だのと騒いでいるが、要は身の程にコンパクトに暮らしてい
ればいいのではあるまいかと思う。地球の歴史は45億年とも48億年ともいわれているが、比べて我々
人類の歴史は高々数千年。地球の歴史を24時間に例えると、人類の歴史はわずか3~4秒でネアンデ
ルタールから今日まで全てである。
 ドロドロに解けてた時代。氷河に埋もれていた時代。大噴火で大陸が割れ、山が隆起しそれが何千年
も続いていた事実がある地球の気象を、人間の思いあがりとは言え、異常だの異変だのと言ってのけら
れるものだろうか。

 自然界の動植物が分相応な生き方をしているのに比べ、経済中心の文明をもっともっとと求め続け、
常に不満といわれのない不安感を抱いている現代人。当に岸田 秀理論による「本能を捻じ曲げ幻想的
現実感の共有化にすがって生きる人間」こそ異常なのでは・・・!?

 ここ数年政治、金融、教育、医療、建築、自動車、デパートの物産催事、食品、等々数え切れないし、
憶えきれないくらい偽装だ、虚偽だ、偽りだと大騒ぎであるが、一向にその風潮は収まりそうもない。
 結局は経済行為とも呼べないほどの、目先の小銭稼ぎの結果である。
嘘をついてまで金儲け、騙し取った者勝ちでいくら財をなしても所詮小銭稼ぎとしか思えない。その結果
の環境破壊、塵の山。

 懲りない人間を、悪党というのは失礼過ぎるから、控えめに小悪党。ずるい奴というと角が立つから、控え
目に小ずるい奴と呼び、それを私はエコロジーネームと言っているのだが・・・・謙虚に。


47、三十一文字

 クリスマスから年の瀬へと、いつものことながら慌しく過ぎ、又一年という区切りをひとつ。
年々早く感じるのは歳のせいか?
 年寄りの昔話ながら、正月というと家に人が集まり、百人一首(カルタ取り)に興じたのを思い出す。
乱取りや、源平に分かれてと繰り返し、子供だった私も覚えやすい歌を必死に記憶、読み手が上の句
を読むと同時に手を伸ばすおとなに対抗しようとしたものだった。年々憶えた歌の数が増えていくのも
楽しみであった。

 カルタ会で生まれたロマンスを扱った小説があったと思うが、そんな風情も遠いことのような気がする。

 正月の遊びが変わってしまったというか、正月だから特別にと改まらなくても、一年中楽しい遊びが溢れ
ているからだろうが、様々なゲームなどに比べ、いかにもカルタ取りは退屈かもしれない。
 
 万葉の歌人たちの思いを偲ぼうと久し振りに百人一首を取り出してみた。日本史に燦然と輝く文学では
あるが、内容的には些か物足りない気がする。「雪をかぶった富士山を眺めに出たら、着物が露で濡れて
しまいました」とか、「貴女を想ってひとり寝る夜は悶々として長く感じられます」とか、中には「夜偲んで来て
ニワトリの鳴き真似をしても私は会いに出ませんよ」など、シチュエーションの理解に苦しむようなものもある。
むしろパロディーに仕立て上げた落語の「千早振る」の方が内容が濃いように思うのは私の趣味性の問題
だろうか?

 しかし、考えようによっては万葉の歌人たちの、非生産的な無気力、無内容こそゆとりと安定の象徴といえ
るかも知れない。売り上げ至上主義が未だ大手を振って席巻し、不景気だ!食っていけない!といいながら
中小企業のおっさんが、ガニマタ姿には到底似合いそうもない高級外車に乗っていたり。成り上りを下品だと
思わない神経がこの国の今を支えている。

 三十一文字(みそひともじ)に表すことができるのは、売り上げや財テクではないということであり、本当の
豊かさは偽装してまで売り上げを、経済効率を上げることではないだろうと思うのだが。
 あるデパートの職人展催事で、担当者が「皆さんは販売のプロですから云々・・・」という朝礼をしたと聞き、
誰も抗議をする「職人」がいなかったのかと訝った。売りたいだけで販売員や営業マンが職人の格好をして
いるだけの伝統展。一流デパートでの極最近の話しである。

   豊かで平和な日本。いみじくもいとおかし。


46イルミネーション

 今年の秋は短くて、といってるうちに12月。町はクリスマス一色といっても、10月初めからベルはジングル
ジングル響いていた。

 職人は長屋住まいがいいと、我が家は団地暮らしであるが、近くの住宅街に毎年話題になるクリスマスの
イルミネーションを競う一角がある。原油が値上がりでなどと世間が騒いでるので、今年は少しおとなしいかと
思いきや、益々エスカレートして行くのを、平和と豊かさと安全故かとシミジミ感じながら眺めている。
 煌びやかに派手に飾ったところで所詮電飾。と小バカにしながら。

 数年前、道交法の項で登場した帯広の友人と、満月の夜十勝岳の近くにある彼の牧場までドライブしたこと
がある。途中、車のヘッドライトを消して、月明かりだけで数キロ走った感動は未だに忘れることが出来ない。
月明かりだけで走れるのである。幻想的な風景の中を、時々狐や鼬が横切って走り抜けるのも確認できるし、
水面に反射した月光は眩しいくらいであった。地面に自分の影がくっきりと映って、忘れていた昔の影踏み遊
びが思い出され、夜は暗かったし月は明るかったことを改めて感じたことであった。

 また、奥飛騨の渓流に釣りに行き、車を山中に止めて一人寝たときのこともあわせて思い出す。月もない夜
はこんなにも暗いのか。真の闇というのも何十年か忘れていた。大の大人が泣き出したくなるような暗さ。
 車外(そと)に出てみると満天の星。ギラギラと輝きの音が聞こえてきそうな。星の数ほどというけれど、星が
こんなに沢山あったのかと今更ながら文明に犯されてしまった人間の惨めさを感じさせられた本物の夜。

 比べるべくもあるまいが、電飾で飾り立てた家の玄関をどんな顔して主は出入りするのだろう。他人事ながら
考えるとちょっと照れくさい。豊かさや余裕を、こんな形でしか表現できないというのは・・・。

 引き換え、正月の松飾りを祝う家はなくなった。 日本はいらない!?


45、色々あれこれ

  秋の夜の虫の音を聴きながら・・・。

・下品な父子を持ち上げ、こき下ろしている、テレビのワイドショーは下品だ。品が悪いのと柄が悪いのは違う。
 素性と素行の違いで、素行は改めることができるのだが・・・。

・賞味期限って何? 誰が決めるの? 子供のころ、少し臭うくらいの飯を水洗いをして食ったけど平気だった。
 食べ物は大切に必要な分だけにしようよ。

・「役人の子はにぎにぎを先ず覚え」という江戸川柳があるとおり、贈収賄(袖の下)は昔からあり役得という
 ことばも昔からあった。国家機密まで庶民に公開して、責任とれるのか民主主義は?

・紅玉のいいのが手に入って幸せです。 ・エイの肝をソティして食ったけどフォアグラよりうまい。

・音楽を耳に突っ込んで、メールを打ちながら雑踏を歩くのは止めて。人の流れを読みながら、誰にも触れずに
 すり抜けるのが得意だったのに無理!

・落語「芝浜」の落(さ)げの演出(やりかた)を新しく思いつき、談志師匠に送ったら「わるくないよ」とおハガキを
 いただいた。 また宝物が増えた。

・まだデパートの売場に冷房が入ってて寒い。身体は風邪を引きたがってるが、心は引きたくないと逆らってる。
 知性で病に勝てるのか?!

・昨夜蚊がいた。

・営業活動をしてないのに、これほど忙しいのはお陰様としか言いようがない。目ざとく見つけてくださる皆様に
 感謝です。長野からわざわざ二子玉川までは大変です。

・ガソリンの値段がいくらになったら車に乗らなくなるだろう。タバコは?酒は?限界まで値上げしてみれば?

・虫の音に風流を感じてなどと人間の勝手。短い命を次に繋げるのに必死でメスを呼び続け、愛も、恋も、好き
 も、嫌いもなく、ただただ生殖のためだけのシンプルな叫びは、ここまで下品だといっそ清々しい。


44、朝顔

 8月31日の朝。まるで夏休みの宿題に、ギリギリ間に合わせるかのようなタイミングで、鉢植えの朝顔が
一輪の花をつけた。
 それは昨年10月、大阪高島屋へ実演に出向いた時、宿泊先からデパートへの通い道の途中にある、
空き地の金網(フェンス)一面に実にいい朝顔が咲いていたのに始まる。
 当に、これぞ朝顔!という、最近の改良に改良を重ねた大輪の、色も複雑で艶やかなものではない朝顔。
商業主義のために人工的に作り変えられた豪華さは微塵もないが、朝顔の原型はこれなんだよ・・・と。
野生の逞しさなるが故の可憐さか。花も葉も小ぶりで、特に花は直径5cmに満たない清楚な赤紫と青紫。
 毎日の行き帰りに立ち止まっては眺めていました。

 以前果物が甘くなってしまったと嘆いたことがあったが、花も改良が加えられ、豪華に艶やかにというだけ
でなく、その種にはなかった形や色まで人工的に作り出している。花に意志があれば拒否するだろうに。
 あまりにもケバケバしい姿を見ると、美しさよりも街娼婦(大衆論の中の街娼婦の美学はこの際別にして)の
厚化粧みたいだと感じるのは私の想像力が卑しいからか・・・?
 
 その後今年の3月にまた大阪高島屋で仕事があり、同じ宿から同じコースで通っていたら、件の空き地に
朝顔の蔦が枯れて絡まっているではないか(あたり前のことだが)。
 よく見ると種がいくつも口を開いている。思わず手にとって、ティッシュペーパーに包んで持って帰って来た
のである。それを5月に種まきをして、水をやり、肥料を与え、先月九州の実家へ帰った時も一緒に持ち帰っ
て、水を欠かさないように日に当てるようにしながら、待ちに待って開花を迎えた訳であります。
 
 朝顔というと加賀千代と反射的に連想するくらい、釣瓶に絡んだ歌が有名であるが、蔓の伸びるのが本当
に早い。ひ弱そうな細い腕をするすると伸ばして、そこらにあるものに構わず絡み付いて行く姿は些かのひ弱
さも感じられない。みごとである。

 自然を守ろう。などとは人間の思い上がり。
自然はか細く、可憐に、逞しく。とても適わぬ気品をもって存在している。


43、クイズ

 テレビのクイズ番組が盛んである。 クイズが嫌いではないのでそこそこ見ているが、内容がお粗末で
びっくりするのがある。
 ひとつにはバラエティー番組として、役回りや年齢などにより無知を装って、視聴者の優越感をくすぐろう
との意図が見え隠れするものもあるが、中には真剣(まとも)に無知で驚くばかりのものがある。
 前者の場合は演出の巧拙を楽しめばそれなりの面白さ(それにしても見え透いた技法ではある)もあるが、
先日見たのは回答者が、弁護士、国際弁護士、国立大学出身を売りにしているタレント、元NHKのニュース
キャスター、アナウンサー、知性派といわれている中年俳優、普段うるさく薀蓄を語っているおっさん等などが
打ち揃って回答者席へ。

 回答が手書きされて画面に映し出されるのだが、ほとんどがひらがな表示なのである。それも人名。
「あくたがわりゅうのすけ」「しょうとくたいし」「ゆかわひでき」まだまだ続くが、人名くらいはちゃんと書いて
欲しいものである。特に芸名、号、ペンネームなどは、わざわざひらがなにしている人もいるくらいだから、
逆に漢字で表記された人物名は、漢字で正確に表示しなければ正解とは言えないのでは・・・?
 おまけに夏目漱石と森鴎外を間違えたり、太宰治を芥川と答えたり、時代と言ってしまえばそれまで
かも知れないが、前述のとおりのお歴々であれば何ともはやである。

 私とてさして物知りでもなく、誤字脱字は日常であるが、芥川龍之介くらいは書ける。ということはクイズ
に答えられても「その程度のことは・・・」であり、答えられなかったら「バカじゃねェーか」である。正解して
大喜びするほどの内容とは思えない。
 こんな番組を見ていると、見方のポイントが製作者の意図と、お茶の間でズレが生じてしまうような気が
する。せめてもう少しウイットにとんだ、洒落た問題が出せないものか、答えられないものか。

 その中から今回の参議院選挙に、立候補するとかしたとかという人物がいるとのこと。
平和で、豊かで、恵まれた国、「日本」ならではの現象。まことにもって慶賀すべきことがらである。

 「このたびわたくしはめでたくこっかいぎいんのせんせいになりました。」ってか。


42、いなか者

 ちょっと前のことになるが、石原東京都知事が「田舎者に東京のことがわかるか」だか「田舎者が東京
のことをとやかく言うな」だか、という意味の発言をされているのをTVで観た。
 なんのことやらと思っていたら、今話題の東国原宮崎県知事が、ご本人のブログの中で東京批判をされ
たのに対しての反論だったらしい。読んでみたが内容は具体性を欠き、都の政策に影響力や権利などない
立場からの発言で、聞き流しにしてもいいと思うし、先輩知事として笑いとばした方がむしろ貫禄を示せたの
ではとも思ったが、きっと正直な都知事の正義感と、誠実に政務に励んでおられるというプライドが許さなか
ったのかもしれない。

 重ねていうが内容は然程のこととも思えない。
話は「いなか者」についてである。いなか者は「田舎者」と書いて、地方出身者又は地方在住者のことを指
していう蔑称だが、実は「田舎者」は「井中者」であってどこに住んでいても、どこで生活していても、見識、
視野の狭い者。即ち「井の中の蛙大海を知らず」と例えられる、狭い世界しか知らない者のことを指していう
のだとの説を聞いたことがある。
 
 なるほどこれだけ交通も流通も発達し、情報は多岐に渡ってスピードアップしていれば、世界は狭くなり
都会や田舎という、地域で区別する意味がなくなって来ているように思える。住む場所よりも個人個人の
見識や感性、センスや知識などの資質を基準に「井中者」とした方がいいのではないだろうか・・・・。

 ということではあるが、ついでにもう一言。「井の中の蛙・・・」は狭い世界しか知らない、見識のない者の
蔑称として使われているが、この言葉にはその後があるのだという話を聞いたことがある。
 
 「井の中の蛙大海を知らず。されど天の深さを知る」と続くというのである。「されど天の深さ」となると、
薀蓄のある言葉になって、悪戯に大海原を漂流(ただよ)うよりも、道を極めた深遠さの方が物作りを生業
とする身には大いに共鳴できる。
       
       こうなると田舎者も井中者も悪くないではないか。  おとなの蔑称バンザイ!!


41、情報
 
 洋服ブラシの最盛期とでもいうのか、2月から3月をピークにデパート(主に高島屋)から実演の依頼が
相次いだ。直接お客様と接して衣類のお手入れ、ファッションケアについてお話しするのが楽しいが、同時
に製作もして行かないと、仕入れ商品を売る訳ではないので間に合わない。 接客の間も真剣に作業を続
け、食事以外の休憩もとれない状態がずっと続いた。
 家へも仕掛り品を持ち帰り、塗装や仕上げの作業を深夜まで全員総掛かりである。それでも何週間かお
待ちいただいた方もいらっしゃって、ご迷惑をおかけした。

 そんな状態で新聞もテレビもゆっくり見ている暇も無いくらいであるが、お客様からのお話しで、「この間
新聞にでてましたね。」とか「テレビで洋服ブラシのことをやってましたよ。」などと聞かされて、ウチへ取材の
話しはなかったし、あっても応じる時間がないのだが・・・と一応内容を調べてみると、「馬毛の洋服ブラシが
いいのだ。」とか「毛足を長くしているから生地にやさしい。」とか、些か無理な論理をもっともらしく書いてある
だけである。それでも新聞に書いてある方が正しいということになり、実際の使い勝手や、作りの違いによる
仕上がり具合など、比較も対照もされていない記事が認められることになってしまう。

 以前、ウチに来たある雑誌の記者に、洋服ブラシの歴史から、現在の生活環境、服飾の素材、ケアの
為のクリーニングや染み抜きの問題点。季節替わりの保管やメンテナンス等。それらを考慮した上で、
洋服ブラシを作る為の素材選びから、製作技法、工程などなどを説明し、だからウチのブラシはこれだけの
効果があり、顧客からの信頼を得ているのだと話していたら、「洋服ブラシがこんなに奥深いとは思っても
みませんでした。認識を新たにしました。目からウロコですね。」というので、思わず「その驚きようからは、
目からウロコどころでなく魚が飛び出すだろう。」と笑ったことがある。

 あるテレビ番組でやらせや仕込みがあったと騒いでいた。情報過多の現代、見聞きしたことよりも自分
の判断基準をしっかりと持つべきであり、ものを買うときは精一杯疑って掛かるべきですよ。
 
 実は安くていいものなどありません。高くてひどいものはよくあるのです。  ご注意を!!


40、謝罪

 このところ、毎日テレビで誰かが謝罪をしているのに出くわす。ホントに毎日。毎日誰かが・・・。
それもいい歳をした分別ある成人(おとな)で、それぞれいい地位や責任ある立場にいる人たちが・・・。

 警察官が、校長が、教育委員会が、先生が、大臣が、頭取が、総裁が、県知事が、代議士が、社長が、
「申し訳ありません」「遺憾の意を」「同じ過ちを二度と・・・」同じパターンの繰り返し。
 聞く方が麻痺して来て怒りの気さえ萎えてしまう。むしろそんな慣れが怖い気がする。

 ことが起きた当初は、「私は関与しておりません。辞任するつもりはありません」「職務を遂行し、事態の
収拾をはかるのが責務と考えます」と答えていた翌日、逮捕されるらしいとの報に一転、「議会の混乱を
避けるため、辞任をいたしますが、私はあくまでも関与しておりません」と、そしてその日のうちに逮捕。

 いろいろ判ってくると、その内容や手口が驚くほど幼稚で、大の大人が本気でバレナイと思っていたのか
と呆れるばかりである。少なくとも人の上に立って、政治や経済や自治や教育に携わっているエリートの仕
業とは思えない位お粗末である。 あたかも「おあずけ!」を守れない駄犬並みに、目先の小銭に自制が利
かなくなるようである。 その度にマスコミは「庶民の気持ちが解らない政治家が・・・」と批判のコメントをす
るが、なに政治家なんて元々庶民が成り上って来たものと思えばいい。庶民なればこそ権力の座についた
途端、分別も理性も無くしてしまうのではないか。前の選挙でも当選したら、「外車に乗れる」と悪ハシャギを
して、顰蹙(ひんしゅく)を買ったアンちゃんがいたではないか。
 
 印で押したような往生際の悪さ。 紋切り型で謝るくらいなら謝る必要はない。懲りもせず同じ過ちを繰り
返すなら謝らなくていいから、使い込んだ金を全額返せ!である。
 威厳も誇りもないこやつらに、「切腹させる価値もなし。」とお奉行さまはおっしゃるのではあるまいか?
 
 いっそテレビに謝り専門チャンネルを用意しておくか・・・と、 そのテレビ局も謝っていたっけ!?


39、野性

 残暑が厳しくて。などと言ってるうちに、いつの間にか秋の気配が吹く風に、日差しに・・・。
セミの声がコオロギに変わり、空き地にコスモスが揺れ、散歩道の辺り一面に異臭が立ち込めている。
銀杏(ぎんなん)だ。公孫樹(銀杏・いちょう)の葉は色づくにはまだ少し早いが、実(み)はすでに落ち
始めていて、その臭いである。微かな苦味とむちっとした歯ざわりが独特の風味をもつ銀杏は、好きな
食べ物のひとつである。焼いても煮ても揚げてもうまいが、異臭を放ちぶよぶよとした果肉に包まれた、
種の中身を最初に食べた人は、かなり勇気がいったのではなかろうかと想像する。

 何年か前の今時分だったろう、渓流釣りの禁漁直前に長野の山奥に入った。同行者(つれ)と昼の握り
飯を食べながらキノコの話になって、「昔は毒キノコで随分死んだんでしょうね。」と。「そうだろうね。」と
相槌は打ったものの、どこか腑に落ちないのは、生きるための必須条件である食が、命取りになるという
危険性は、如何にも不合理ではなかろうかという疑問である。
 自然界には毒も薬も存在するのであるが、一方でそれを嗅ぎ分ける本能も、対抗策として備わっていた
のではないだろうか。当時の人は野性の勘という能力が鋭かったのではないだろうか。
 食える、食えない、危ない、大丈夫だと判断しながら生きていたのだろうと思う。

 やがて文明と共に村から社会が生まれ、分業による役割分担が組織化され、合理化された結果自分で
判断しなくなり、毒キノコを嗅ぎ分ける野性の能力が退化したのではと。
 何も毒キノコだけでなく、自然界のあらゆる現象に対して、自力で対応する能力は、ほぼ退化してしまった
といっても過言ではあるまい。

 さらに文明が高度化して来ている。コンビニで売っている乳製品の、賞味期限の日付けが間違って印刷
されていたというニュースがあった。
 味覚も食の安全も企業まかせ、表示された数字が頼り。数字さえ合っていれば「おいし~ぃ」ということ
になり、食中毒も風味のうちになる日が来るかも・・・。

 銀杏の異臭を「食える。」と判断した、偉大なるご先祖様の野生の勘に感謝の秋である。


38、

 最近テレビを見ていて気になるというより、むしろ気障りといった方がいいような不快さを感じることが
多くなったのは、当方の歳の性なのであろうか。
 言葉遣いから立ち振る舞い、道具の扱い方、処理方法等など・・・。特に目立つのが箸の持ち方扱い方。
ドラマは余り見ないが、たまたま見た時代劇の中で、名のある藩の名のある武士が、ぎこちない箸使いを
していて、その人格までうそ臭く見えてしまって興醒めた思いがある。
 昔の映画を観るとほとんどの人が正しい箸使いをしている。見ていて安心である。

 グルメ番組もやたらと多く、全国からあれがうまいの、こんな珍しいものがの、沙汰の限りではない。
申し合わせたようにキャスターと称する可愛いお嬢さんたちが、変てこな箸の持ち方で、目をパチパチさせ
ながら「お~いしぃ~!」とおっしゃる。何、若いお嬢さんばかりではない、いい歳をした分別盛りの親父タレ
ントまで、10人が10人、100人が100人まともな箸使いをしているのを見たことが無い。
 ホントにこの人達の味覚を信用できるのかしら?もっとも味覚の情報番組としてより、無作法高座の番組
だと思って見る楽しみ方もあるのだが・・・?

 一方巷では、イタリアンだフレンチだ、ハワイアンからロシアンは言うに及ばず、ベトナム、インド、スペイン、
ギリシャ、まだまだ・・・全世界の料理が溢れかえり、食のグローバル化は進むばかりである。
 「今更、箸などちゃんと持てなくとも不便は無いわけで、自由に気ままに食べれりゃいいじゃん」であろうが
そうはいかない。

 高名な落語家の二代目が、箸をちゃんと持てないのである。日本の伝統的大衆芸能の担い手がである。
そばを食う所作がうまいの、うどんとそばを食い分けるの、と芸について喋るのだったら扇子でない本物の
箸もちゃんと使って欲しいのです。その落語家の箸の持ち方がきれいだと褒めていた、最近売り出しの女芸
人がいた。きっと基準が違うのだろう。(カナズチの人から見れば、5mしか泳げない人も泳ぎのうまい人?)

 グローバルって自国の文化という背骨がしっかりしている前提がないと成り立たないのではないだろうか。

 「細かいことを」とおっしゃいますな。キチンとした箸の持ち方が出来るばっかりに、重箱の隅から隅まで万
遍なく突っつき廻すことができるのですぞ。
 


37、道交法

 2006年6月1日から道路交通法の一部が改正され、駐車違反の取締りを民間に委託する新たなシス
テムが導入されて話題騒然である。
 予てより私は駐車違反をゼロにする方策、というのを提案(といっても知り合いの間だけのウケ話として)
していた。事は簡単で、駐車禁止区域を無くせばいいということなのである。 現代社会生活の中で、車は
切り離して考えることは無理であり、普及台数は増加の一方で、車社会とは車優先の社会であるといって
も過言であるまいと思う。(人命の方がという反論もあろうが、人命尊重など今更議論せずとも当然という前
提の上で)。 一方、道路事情はそれに追いつかず、駐車スペースを確保するのも覚束ない状態である。

 が、車は走る道具ではあるが、走っているだけでは無意味なので、必ず止めなければ用事が立たない。
移動して止めて用を足すのであるという本質を無視したら、ただの邪魔な異物でしかない。その車を止める
場所が無いのだから、せめて広い道路では少時間止めることができてもいいのではないかと。もうそのこと
を許容するだけの社会構造になっているのではないかと。その上で運転者のそれぞれが高度なマナー意
識をもてば・・・と。

 以前、北海道の帯広で牧場を持つ友人に、酒気帯び運転で捕まった不満(?)を聞かされたことがある。
彼曰く、夜5Km位離れた隣人の家で、お酒を飲んで帰宅中に検問にあったとのこと。「周りは見渡す限りの
自然の中で、家もなければ夜中に 歩く人もいない。道路はどこまでも真っ直ぐで通いなれた一本道。まさ
か5Km先のうちに帰るのに、飲んでるからと45Km離れた街からタクシーを呼ぶこともあるまい。帯広では
酒気帯び運転位大目に見るべきだよなァー。」であった。

 無茶な論理のようではあるが、もしかすると理想的に成熟したおとな社会というのは、各々の自覚で責任
を持つ社会であり、ルールなどで縛らずとも各々のマナー意識で、守られる秩序の方が大切なのではないか
・・・と考える。

 帯広は酒気帯びOK。東京は路駐OK。 地域や環境や条件に応じて的確な対応がなされれば、むしろ合理
的と言えはしないか。

 先月免許証の更新をしてきた。今回は無違反で手続きが簡略化されたので、手軽に済ますことができたが、
正直にいうと無違反ではなく、無検挙(見つからなかっただけ)である。過激発言を承知でいうと、違反をせず
に走ったり止まったり出来る道路はないと断言してもいい。 
 
 スピード違反についても云々(あれこれ)、これは又の機会に・・・。


36、先生

 デパートに、洋服ブラシの製作実演をしながら、説明販売をさせていただく為に出向いて行くと、売場の
担当者を始め各社員の方々に、「先生」と呼ばれることが多い。
 「先生は止そうよ」というのだが、若い社員さんは「何とお呼びすれば・・・?」などとおっしゃる。名前が
あるのだから「石川さん」とでも呼ばれるのが一番いい。

 以前、職人展などの催事に出ていた時は、ほとんど先生で通されていた。わずか一週間の催事で何十
人もの職人、販売員の名前を一々覚えていられないから、「先生」で括ってしまえば当たり障りもあるまい
という便宜上の都合からだろうが、「先生」と声が掛かったら、そこらにいた数名の職人が一斉に振り向い
たのを見て、笑いを抑え切れなかった記憶がある。

 いつから職人が先生になったのやら。先生の枠がいつの間にか広がって、先生のバーゲン品みたいなの
まで出てきている。 ちなみに今回、「先生(私のこと)もその内、伝統展や職人展などに出られるのでしょう」
ともいわれた。
 実はそんな催事に出てたのですよ。それが嫌で辞めたのですよ。内容がこうで、何が本物で・・・と長い
説明も面倒なので笑ってやり過ごすが、せめて先生だけは勘弁してください。ということにしている。

 取引の都合で有限会社を設立した時も、「社長」と呼ばれてぎくっとしたことがあって、思わず「キャバレー
の客引きじゃあるまいし、社長は止せ!」である。
 高度成長期に、八百屋も魚屋も親父が社長で、カミサン専務という現象が現れた。営業上の都合を本気
で「社長」「専務」は可笑しいよりもむしろ辛いとさえ感じてしまう。そんな社長さんに会うと、「おい、社長」など
と声を掛けてしまいそうである。

 無理にシニカルに物事を見ているわけではないが、特別な人が先生であり、社長であり、お役人であり、
知事であり、大臣であり、首長であって、特別な人は普通の人とは違うべきなのです。
 特別な人は「人間だから間違いも・・・。」などと普通の人の弁明をしてはいけないのです。そんな重責の
ある立場を市井の職人が背負えるわけがありません。 各々夫々に分をしるべし。


35、

 立春と共に急に暖かくなったような気がする。 私は南国宮崎の生まれで、その性かずっと寒さは苦手で
あった。・・・あったと過去形で書いたのは、この何年か暑いより寒い方が心地よく感じているからである。
歳を重ねることで身体のバランスが狂ってきたのか・・・?そんな中、テレビなどで「もうすぐ春ですね。」だの
「暖かくなりました。」だのとはしゃいだ声を聞くと、凛とした寒さが、冷たい緊張感がもっと続けばいいと思った
りするのである。身の締まった心地よさは寒さの中にあるように思える。

 などと能天気なことを言っているは、本当の北国の寒さを日常に経験したことなどないからである。ニュースに
よると今年の冬は稀な豪雪で、死者の数も130名以上とか。 
 命がけの雪下ろし。それをしなければ家ごと崩壊という理不尽。エネルギーもパワーも否応なしに消耗させら
れる生活。何とも非生産的で強制的な浪費にはやり切れない思いがあろう。

 ”雪やコンコ、霰やコンコ・・・”とチラチラ舞う雪に戯れ、それが10cmも積もれば朝の交通は乱れ、寒い寒い
と大騒ぎしてすべったの転んだの、果ては骨折やら救急車やら・・・。こんな程度の奴が春を待ち侘びてては、
失礼も甚だしいし、申し訳けのしようもない気がする。

 絶えて、偲んだ末に、久し振りに陽が射し、気が付いたらここ何日か吹雪かない。 積もった雪の表面が
心なしか丸みをおびて見えて来て、時々舞う風花が日に照らされてキラキラと光る。 気温はまだ零下だけれど
もう雪下ろしもいいだろうと。
 そんな人たちだけに春を待つ権利はあるような。自然の過酷さと直に向かい合った人たちにだけ、自然の恵み
はあればいいような・・・。経済優先のはての「地球にやさしいエコロジー」など・・・嫌悪嫌悪!


34、顔付き
 
 日曜日にテレビを見ていた。 通常国会から予算委員会を受けて、与党も野党も偽装だ、疑惑だ、粉飾だ、
その責任は、原因は・・・。攻める方も守る方も侃々諤々賑やかなことである。
 内容は似たり寄ったり。誰でも予想できるようなやり取りで、いくら大声を張り上げていても「本気?」と疑わ
しく感じるのは私だけだろうか。

 ひとつ感じたことは、政治家もコメンテーターと称する評論家も、顔付きに個性が無くなって来ているような
気がするのである。昔の政治家は良し悪しは兎も角、与野党を通じて悪人面(それも生半では近寄りがたい
ような。)の人が多くいたように記憶している。 政治評論家もしかり。一癖も二癖もありそうな人たちが、所謂
歯に衣着せぬ物言いをして、納得できる心地よさを感じさせていたものであるが・・・。
 
 町内会の祭りの世話焼きおじさんみたいな幹事長や、田舎の小学校の教頭のような野党議員。普通の勤め
人や、街角ですれ違っても気が付かないような顔付きばかりである。
 見た目で判断してはいけないというが、内容からにじみ出てくる風貌は隠し切れないものがあると思っている。
内容は表面化するのである。 何を言いたいのかというと、弁明が弁明にあらず、追求が追求になっていないの
である。ただただ姑息な言い逃れ、フワフワとマスコミ報道をなぞるだけの質疑。
 これで国民は丸め込めると思っているのか?どうせそうなら、鋭い眼光で身震いするほど睨めつけられる方が
まだ納得し易いのではないかと思うのだが。

 こういう人に限って「最近の若い奴らは何を考えてるのか。」などとのたまうのである。内容は金と地位に対す
る執着と未練だけなのに。
 信頼できる大人の顔付きで法を説き道を指せるような、ちゃんと生きてきたおとながいなくなっている。
安心して委ねられるおとながいなくなっている。 政治家だけではない職人の世界も同じこと。仕事など出来なく
ても、デパートの催事に出て売れれば何でもいい。顔付きはまるで香具師ですよ。
 
 [テレビ観なければよかった。」 受信料を払った上に反省してます。


33、伝統
 
 物作りをしていると、職人としての伝統や歴史ということに出合ったり行き会うことがある。
伝統工芸だの、伝統の職人芸だの、果ては江戸時代からの歴史、創業明治00年だのと謳っている者
もいるし、世間が「何となく」そんなものを有難がっているのが判る。

 それは真に「何となく」であって、作られた物に対する機能や性能、あるいは質や価値観などに対する
きちんとした評価とは違うのである。以前あるテレビ局から取材の話しがあり、打ち合わせをしたことがある。
その段階で無理だと感じたのは、先方の質問が余りにも偏り過ぎていて、結果「この道一筋、頑固な職人
さんが、一本一本真心を込めて・・・。」という台本が読めてしまい興覚めしてしまったからである。
 私の反応を先方も感じ取り、当然取材は取り止めになったが、今更ながら出演(で)なくて良かったと、通り
一遍の構成で製作(つく)られたその番組を見る度に感じていることである。

 先刻、ダンヒル・ロンドン重役のヤン・デベル・ドゥ・モンビー氏にお目に掛かり、ウチの洋服ブラシをご覧い
ただいた。その時のお話しの中で、「物作りに大事なことは、シュール・リアリズムの視点だ。」と言われたのが
強烈な感動として印象に残っている。
 現実に対するシュールな発想から生み出され、広く認められ受け入れられた結果、生き残ったものだけが
伝統となるのである。
 我々はダビンチもミケランジェロもコローもミレーもクールベも、時代に関係なく古典派として括ってしまうが、
決してダリやピカソだけがシュールなのではなく、夫々の時代において彼らは全てシュールだったのではなか
ろうか。そんな彼らの陰で模倣や繰り返しなどから抜けきれず、名も無いまま消えて行った無数の人々がいた
はずである。
 
 ただ古いから伝統と言い、その古さを守るだけの伝統芸では意味があるまい。時代や環境に合った進化を
遂げるには、常にシュールな目で現実を見つめて行く必要があり、その目で物作りの骨格(ストーリー)を組み
立てて行かなければいい物など生まれては来ない。

 マスコミを含んだ世間の勘違いを、世界の伝統あるブランドによって、認識を明確にしてもらった心地よさと、
目指して来た方向が間違ってなかったという誇りが、何物にも変えがたい財産となりました。


32新幹線

 このところ、高島屋の仕事で地方出張が続いている。実演の仕事と事前の打ち合わせで、岐阜、岡山、
米子と立て続けに新幹線で何往復かした。

 「のぞみ」に乗ったのは今回が初めてで、ホームに入って来る時に見る先頭車両のデザインが、漫画に
出てくるアヒルと蛙をごちゃ混ぜにし、扁平を掛けたような感じでちょっと面白い。
 それにしても速いのに驚いた。名古屋まで一時間半弱、岡山まで約三時間は速い。私の中で岡山といえ
ば「内田百閒」である。車内放送が岡山到着間近を告げる頃、その名に由来する百間川を渡るのが、自分の
故郷に帰って来たような感じにしてくれる。 最初に新幹線の計画が出た頃、当時の石田国鉄総裁と会見した
鉄道好きの百閒翁は、「そんな速い幹線を作ったら、慌しくなるだけで旅情は失われるから、私は反対です。」
という意味のことを話されたように記憶している。

 その当時の颯爽と流線型(この表現が既に古いか?)を売り物にしていた「ひかり」「こだま」の容姿が、
今の「のぞみ」と比べると重たく、その分むしろ人間臭くさえ感じるのは、こちらがいつの間にか慌しさに慣れ
きってしまっているからなのだろうか。
 時代を大きく押しやった嘗てのヒーローに、蒸気機関車の持つノスタルジーに似た感傷をもって見る、時代
の皮肉を感じた。

 最後に行った米子は初めての土地なのに、なぜか懐かしい気持ちを抱かせてくれた。ホームに降り、端にあ
るブリッジを渡って改札口へ。出口が一箇所しかないから解りやすい。駅を中心にしてその街の形や構図が
想像できるのである。
 もちろん新幹線の申し合わせたような、ガラス張りの四角い駅ではないから温かみがある。実際に街を歩いて
みて、落ち着きもあり、ゆとりもあるような気がした。
 空が広く、風が通って、夜が暗く、物静かで、いかにも人の呼吸が聞こえて来そうな・・・。

 より早く(速く)、より高く、より便利に、経済的豊かさだけでしか価値の表現ができないで幸せと言えるのか?
仕事でお邪魔して、仕事よりも大切な忘れ物を想い出させてもらったような旅でした。


31、飛行雲
 
 私の生まれ育った地方は、日本でも稀なアクセントあやふや圏である。誰もが皆アクセントやイントネーショ
ン等にこだわりなく会話をする。
 例えば、雨でも飴でも同じアクセントだったり、又あべこべでも一向に構わないし、「絵が描ける。」も「柄が
抜ける。」も同じように発音をする。というよりその違いがあるという認識すらないのである。
 飴が降る訳はなし、雨を舐めるはずもないから、会話の前後の脈絡で話を理解するのだ。

 故郷(いなか)で暮らしている訳ではないので、日常会話をしていて、相手に聞きづらい不快感を与えている
のではないかと気になるが、幼い頃からの習性で、未だに判別できないでいる。
 最近、ある方にそのことをお断りして、聞き取り難いでしょうと伺ったら、「アクセントなどにこだわらない、大
らかな風土でお育ちになったのですね。どうぞそのままで。」とおっしゃっていただいた。その方の大らかな優し
さにホッと暖かいものを感じ、救われた思いがしたが、小さなコンプレックスはなくならない。

 そのくせ自分の訛りを差し置いて、気になる言葉がいくつかある。
「飛行機雲」がそのひとつで、例えば入道雲は積乱雲であるが、見た様からついた名称であり、巻積雲の鰯雲
も同様、鰯の群からの連想。 ならば、飛行機の形をしているのを見立てて、飛行機雲というのが筋であり飛行
中にできる雲は、「飛行雲」と区別して呼ぶべきではなかろうかと思っている。
 このことも前記の優しい方にお話ししたら、「面白いですね。これからは二人の間では飛行雲に決めましょう。」
ということになった。

 「ドタキャン」も「ドテキャン」ではないかと思っていた。土堤際キャンセルで「ドテキャン」。しかし辞書を引い
てみると「土壇場」はあるが、「土堤際」という言葉は出ていなかった。どこでどう憶えたか、土堤際という言葉
が、意識の中に設定されているのだが。

 高く澄み切った秋空。夕日を浴び西に向かって一本、飛行雲が長く尾を引いて伸びていく様を見ながら・・・。


30、

 前回のについてご意見を頂いた。文筆業でもないのにと、思い掛けない反応に驚いたり、拙い戯言を
お読みいただいてる事に恐縮したり・・・。小心者ゆえのうろたえを呈しております。

 ともあれご意見は、話題の「公」の立場の方々による天下り、贈収賄、怠慢、馴れ合い、談合等々に対する
怒りと疑問点のご指摘でした。

 「和」よりも「公」というのは、それが優先されるべき大儀であるはずなのに、いかにも微笑ましい「和」が
「公」を押し退けている、矛盾と勘違いを取り上げてみたので、「公と私」の問題は似ているようで又違った
問題を含んでいるような気がする。
 テレビや新聞のニュースで、毎日のように伝えられる公団、公社の不祥事。政治家や官僚による不正。
大企業との癒着。金が取り持つ余りにも短絡的な構図に、怒りよりもむしろ哀れで滑稽さを感じてしまう。
「人は金で言うことを聞く」とか、「金を積まれたことの無い奴が正義を語るのだ」という意見(?)も聞いた。
 国民性なのか長年に渡る慣習などから来るのか、基本的な認識がずれているようにしか思えない。

 例えば国会の質疑を見ていても、どうも我が同胞は議論や対話に向いてないのではないかと、感じられて
仕方がない。実に議論が下手である。論理構成が稚拙で、単なる揚げ足取り、単なる逃げ口上、単なる言い
訳、単なるその場凌ぎの茶番劇としか写らない。 内容不在の会議。
 もちろん誰も国を悪くしようなどと思ってはいないのだろうが、本気で良くしようという積極性も、感じ取れない
でいるのは私だけではあるまい。

 ここで解散総選挙となれば、当選出来るかどうかという代議士個人の地位が最優先で、党の公認を得る為
に賛成、反対があって、法案の内容についてのフェアーな討論、検討は見えて来ない。まして国民の意思が
反映されているとは到底思えないのである。

 安っぽい正義を振りかざして、「けしからん!」というつもりもなければ、「政治家は井戸塀だ」などと精神論
を押し付ける気もない。 政治(まつりごと)には庶民の遠く及ばざる事ごとが多々あろうことも理解できる。
 ならば公人たるもの、簡単に尻尾を捕まれるような幼稚な行動はお慎みくだされ。いかにも見え透いた弁明
はお見苦しいですぞ。せめて往生際位は毅然となさらねば。それを金では買えない誇りというのだが。

 「和」も「公」も覚束ないとなれば和男も公男もなしで、いっそ八公、熊公にならって和公・・・か。


29、

 何年か前に当時の文部省だったかが行った調査で、日本人の好きな漢字というのがあった。
その結果日本人の一番好きな漢字は「和」だったと記憶している。なるほど中小企業の社長室や、
応接室などに墨痕鮮やかに、「和」と書かれた額や色紙などが、飾られているのを何度か見かけた
ことがある。その会社の忘年会などはさぞかし和をもって盛り上がるのだろうと思う。

 電車の中でおばさんが3人。和を大切にしてコミュニケーションの真っ最中である。3人が同時に
申し合わせたように皆一人称で喋っている。否、喋り捲っている。3人の中に聞き手はいない。
 不本意ながら和の外にいる人々が聞き役(?)である。

 やはり電車の中で、子供連れのお母さんがふたり。お喋りに夢中で子供たちがシートの上でバンバン
飛び跳ねているのに知らん顔である。
 また、親子でしりとりをしたり、駅名をたどたどしく読む子を褒めたり、誤りを正したり。何とも和やかでは
あるが、「公」ということを教える訳にはいかないのだろうか。電車の中という公の場では窮屈でも退屈で
も、耐えて我慢をしなければいけないのだと教える訳には行かないのだろうか。
 
 展覧会でも同じ。有名な画家の程、混んでてうるさい。とても絵を観る雰囲気ではない経験を何度も
している。展覧会場は社交場であって欲しくない。なぜ黙って鑑賞していられないのか不思議である。 
 
 団地の中に広場があって、のんびり散策し芝生に寝転がるのも頃合で具合がいい。
夕方近くなると、その広場に犬を連れた人たちが大勢集まって来る。中にはとても団地で内緒で飼う
には大きすぎる犬を連れている人もいる。
 それぞれが楽しそうに話し合ったり笑いあったり。訓練のつもりかボールを投げては犬に拾わせて、
馴染みの無い犬が突進して来るのに思わず怯んでしまう。共通の趣味の人たちには、心和む楽しい
ひと時なのであろう。が、世の中には犬の嫌いな人もあり、小さな子供でも連れてそこで遊ぶには、ちょ
っと不気味で異様な雰囲気がする。

 おとながこのマナーの悪さでは、子供に我慢を強いるのは無理か。
「和を大切に」は、ある特定の集団の中だけの「和」であって、決して「公」の中でマナーを守って控えめに
という和(の)ではないのである。

 たまたま私の名前は和男である。父が付けた名前であるが、どうせなら公男にしててくれてたら・・・と。


28、
 
 寝てると夜中にプ~ンと蚊が一匹。
夢と現の境目で耳障りである。いなくなったと思っていると、また暫くして耳もとでプ~ンという。段々
現の方が勝ってきて、その内、気になって寝れなくなってくる。
 暗闇の中でじっと耳を澄まして、敵の動きを伺っているが待っていると中々近寄って来ない。どっか
へ行ったのかと油断をしているとプ~ン!ここだとばかり羽音を頼りに平手で思いっきりひっぱたくと、
キ~ンと耳鳴りがして蚊は死んだのやら逃げたのやら・・・?

 気にせず寝てしまえと焦れば焦るほど目が冴えてくる。と、そこを見透かしたようにまたプ~ン!
こうなれば正式(?)に蚊を退治してしまうしかない。起き出して灯を点ける。一瞬明るさに目が眩んで
涙が染みる。やはり眠かったんだと再確認するも、放っておいたのではまた邪魔をされると思うから、
必死の思いで敵の機影を探し回る。

 敵も然るもの明るくすると、どこへ逃げ込むのか陰も形も見当たらない。静まったまま10分20分は
瞬く間に過ぎていく。殺虫剤を撒くという手もあろうが、あの匂いが嫌で返って寝つけない。
あちこち探して、やっと柱の上の方にとまっているいる蚊(の)を見つけ、そっと近づくと一瞬目が合った
ような呼吸があって、軽くフッと飛んでいなくなる。
 どうも目が合ったような気がするだけでなく、野生には他の視線を感知する能力が敏感に備わって
いて、警戒心が強いのだろう。

 反面、あのプ~ンという何とも耳障りな羽音は、人の血を吸うために近づいてくるのには不合理だろう
に。蝿などは蚊よりも体系が大きいのに、羽音を唸らせて飛んでるようには感じられない。
 もっと静かに密やか忍び寄った方が、仕事がやり易いように思うのだが・・・?
 合理的に仕組まれた食物連鎖の中で、あの羽音は腑に落ちない。敢えてこじつけるなら身を危険
に曝しても、纏わり付いてじわじわと嫌がらせをしてやろうとの魂胆か。
 
 蚊には蚊なりの行動様式もあるのだろうが、蚊(むこう)の都合で眠りを妨げられるのが不愉快だ。
虫一匹も命、人一人も同じ命。などと嘘臭い慈愛心など持ち合わせてはいない。小さな虫一匹に振り
回されている我が身が何とも哀れであり、たかが蚊一匹で寝不足になり、体力を無駄に消耗させられ
るこれからの季節がつらい。


27、騒ぎ
 
 地震や台風などの自然災害から、事故やテロなどの人的災害、あるいは事件も含めてことが起きる
とすぐに報道され、ほとんど同時に実状を知らされる。

 以前、夜中の地震のときテレビを点けてみたら、アナウンサーが盛んに現地と連絡を取っている。
その相手は、一番揺れの大きかった所の村役場か町役場かの職員で、深夜にも関わらず対応の為に
駆け付けてきた様子で電話応対しているのである。
 まだ発生から間もない状態で、しかも夜中のこと状況など即座に分かるはずも無いと思われるのに、
「揺れはどうでしたか?」「被害はありませんか?」「怪我をした人は?」「津波の・・・?」「建物は・・・?」
同じ質問を何度も繰り返し続けているのに疑問を感じた。

 テレビ局は少しでも早く正確な情報を報せるのが、報道機関としての使命であるというのだろうが、
現地の役場ではよそに報せることよりも、地元民の安全への対応が最優先であろうし、その為に深夜
職員が待機しているのであるから、電話を塞がれていることだけでも大いに迷惑なはずである。
取材電話の相手などしていられまいにと思うと、見ているだけで苛立ってしまった。

 知ることで少しでも手助けになるとでも言うのなら兎も角、遠く離れている人にそんなに早く、そんなに
詳しく伝える必要はなさそうな気がするのだが・・・。
事故現場からの映像でも、こんな場所からのカメラ撮影では救助作業の邪魔になるのでは、と思わせる
ようなアングルがある。

 例えばことが起きたところに知り合いや、取引先などあったとしても、すぐに連絡して様子を聞いたりす
るのは控えるようにしている。飛んで行って少しでも役に立つのであれば出かければいい。
電話で「いかがですか?大変でしたね。お見舞い申し上げます。」など、取り込み中の人にとっては邪魔
以外の何物でもあるまい。 こちらからの義理は落ち着いてからでいいと思っている。

 直接関係ないことにでも騒ぎ過ぎてないか。過剰な反応をしていないか。相手の立場も考えず他所の
不祥事を、いたずらに騒ぐことで自己の安定を求めているのだったら・・・・。正義も報道も嘘臭い。

 気障なようだが、離れたところからじっと見守っている熱い眼差しという優しさはもうないのか。


26、テキ屋さん
 
 子供の頃、お祭りや縁日で露天の夜店を見て歩くのが好きだった。
我が団地でも新興お祭りをやっているが、出店は全て自治会主催で健康的に運営されている。

 裸電球の下で香るカーバイトのガス臭は、何十年の時を超えて今でも鼻によみがえる。子供心に
どこか胡散臭い、謎めいた非日常の魅力を嗅ぎ出していた記憶がある。
 夜店のおじさんの口上に引き込まれ、何度 なけなしの小遣いを騙し取られたことか。
十徳と言ったか、八徳だったかのナイフは、当時5円が価値を持ってた子供の小遣いレートの中で、
20円という破格の値段だった。ナイフに栓抜きや缶きり、ガラスきり、等など色々な機能が付いてて、
普段使い慣れてる肥後の守に比べ、デザインも実にスマートだった。

 そのナイフ、おじさんの手に掛かると、ガラスはすべるような動きで見事に切れ、かまぼこ板がザク
ザクと音を立てて切り刻まれた。清水の舞台からまっ逆さま!飛びついて20円!・・・家へ帰って逸る
心を抑えながら、切ってみても割り箸も切れないのである。
 みごとなまでの販売テクニックとパフォーマンスは、高度な芸能といってもいいすぎではあるまい。
十分に夢を、期待を、憧れを、抱かせてくれて、最後にドラマティックな裏切りを教えてくれた。

 台の上に甘納豆を山盛りにして、三角に折った新聞紙に小さな枡で、これでもかと言わんばかり何
杯もすくって入れてくれてこれも20円。家へ帰り丸まって膨らんでる新聞紙を広げてみると、わづかに
10粒くらいの甘納豆が出てくるだけ。どう考えても未だに解せない。マジシャンのコインやカードを使っ
た、イリュージョンテクニックと同じ目くらましなのだろう。

 さて、お祭りからテキ屋さんが排除され、健康的に運営されると、子供たちの騙される場がなくなり、
見え透いた嘘への免疫が育たなくなるのではないか、というは短絡的過ぎるか?
ブームだ、流行(はやり)だ、遅れてるゥーとばかりに、簡単にマスマーケットの罠に乗せられてはい
まいか?TVの情報だけが正解になってないか?

 先般出店したあるデパートの催事に、かつてのテキ屋と見紛うばかりの職人(売りや)さんがいた。
作務衣を着てもっともらしい雰囲気で座っているのだが、「アゴが上下に動くからって、勝手放題何を
喋ってもいいってわけじゃあネェ!!」と怒りの啖呵が飛んできそうなでたらめ口上が、側で聞くつも
りはなくても耳についてイライラの一週間。技も芸もなくただ売りたいだけの下品な嘘とはったりが、
デパートの中にありました。

 むしろ夜店のテキ屋さんの胡散臭さの方が、胡散臭いと分かる分だけ正直な商いといえるのでは
ないだろうか。  如何かなお立会い。


25、植物の復讐
 
 昨夏猛暑だった性か、花粉の飛ぶのが例年より早くしかも量も多いという予想だ。
私も十年位前から花粉症の症状が出始めて、この時期はずっとつらい思いをしている。

 「植物はやさしいよ、文明と称する人間の横暴にも逆らわず、美しい花を咲かせてくれ復讐もしない。」
とおっしゃるご意見を伺ったことがあるが、自然は人間にとってさ程やさしくはないのではなかろうか。
 一ケ所に根付いて物も言わず、一見従順で物静かな風情に見える植物が、実は陰険で残酷な性格を
内に秘めていたとしたら・・・楚々とした寡黙な美人が実は怒らせると残忍な殺人鬼に変貌して、表面的
な日常とのギャップが恐怖感をより増幅させるスリラー映画があったような気がする。

 あれだけの猛暑で杉の生育が良く、花粉の量が例年の10倍位だと言われているのに、どんぐりなど
木の実は不作で、熊の食物が不足して人里まで出没して人を襲い、あちこちで騒動をおこしたのはつい
この間、同じ夏のことだ。これはきっと椎やブナやナラや栗などの木々が、示し合わせて実をつけるのを
止め、熊の空腹を誘い、間接的に人間に復讐を試みたのではないかと怪しんでいる。

 ずっと食用としていたスギ平茸が、急に毒キノコに変貌して食中毒で亡くなった人もいた。
杉の木なども真っ直ぐに伸びて、建材として使いやすい姿でいるには訳ありで、いい姿形でいれば人間が
群がり植林をして、杉林をつくるだろうことを見越していたのではないか!?その結果根を張らない杉林
は雨や雪による土砂崩れに弱く、多くの災害となって復讐は完結するのである。 もしかするとわざと根を
張らないようにしているのかもしれない。

 地球にやさしく、自然にやさしく、などは人間の思い上がりで、文明の力なぞ知れたものとの警告にあき
らめて降伏するか。自然の中に牙も角も蹄もなく、か弱い裸のままで生まれ出た我々のご先祖さまが、
ひとつひとつ手に入れてきた知恵と力の武器、文明を更に進化させ、地球のエネルギーを完全に抹殺す
るまで戦い抜くのか。

 花粉症のための情緒不安定からか、SF映画もどきの妄想にかられております。  THE END

 


24、すし屋

 すし屋に行ってカウンターに座るのが嫌いだ。混み合っていると尚更で、どうも落ち着かない。
もっとも我々が行くのは、トロが一かんン千円もするような高級すし店という訳にはいかないので、
ざわざわと落ち着かないのは当たり前なのだが、お好みで注文をしようとすると、脇からすっと注文され先
を越されてしまう。
 2~3人の客でもいくつかの注文が重なると、板前さんの手が忙しかろうと思うから、ちょっと待ってからと
構えてしまうのは、同じ職人として仕事の段取りや流れを気にするからである。手が空くのを待ってると、
その間にまた横から新しい注文が入ってどうにもタイミングが難しい。

 ずっと以前に家内とすし屋のカウンターに並んだことがある。図々しいのか無神経なのか、まるでバーゲン
品の取り合いでもするかのように、何人もの客が矢継ぎ早に注文をする中で家内も負けじと注文するので、
見かねて小声でたしなめた。
 それから少し間をおいて家内が注文をしたら、板前が私をちらっと横目で見て「ちょっと待ってて」ときた。
そうなると事情は違ってくる。小声でたしなめたのが板前の耳に達したようなのだが、客の気配りを逆手に
とって開き直られてはたまらない。「プロが素人の客にいうせりふじゃねー!」ということで、すぐに席を立って
しまった。

 人間がみみっちいから余計な気を使うのだし、気を使ったらその反応がみみっちく気になり、その結果で
やきもきイライラ。所詮大物の豪放磊落な無神経さなど持ち合わせていない訳で、結果すし屋のカウンターは
嫌いだということになる。

 新しい年の始まりで、どこの神社も初詣の善男善女で溢れかえっているようだ。史上最高の人出とテレビの
ニュースで伝えていた。
 あれほど大勢の人が一度に押しかけ、あれやこれや、ありとあらゆる願い事を次から次にでは神様もすし屋
の職人以上にお手が回りますまい。ひと段落されてお手空きになられたころに伺いますので、私の願いだけは
じっくりお聞き届け下さいますようにお願い申し上げます。(柏手・拝)


23、電話
 
 携帯電話を利用するようになって、家庭用の電話をあまり使わなくなった。
若い人に話しても理解できないだろうし、理解する意味もなかろうが、ハンドルをまわして電話局(局が
既になくなっている。)の交換台を呼び出し、相手の番号を告げて繋いでもらったり、市外通話は一度申し
込んだ後受話器をおき、再度局から呼び出し合図があるまで待っていたりという電話が、それでも大変
便利なものだったのは、ついこの間のような気がする。それも町内に電話のある家は数軒しかなかった。
 先代円歌師に「呼び出し電話」という、創作落語の傑作があったのもその頃のことだ。

 ダイヤル式電話に驚き、各家庭の電話保有の普及率に驚き、留守電にFAXに驚き、Eメール、液晶表示、
TV付き、匂い付きは・・・否ここまで来ると驚きも薄れて、何でも当たり前でむしろ驚きをなくしている自分に
驚いている。

 昼間仕事をしていて電話のベルが鳴ると、手を止めて立ち上がるのだが、出てみるとセールス電話だ。
マンション、金融投資、内装、墓地、健康食品などなど。慇懃にこちらの名前を名指ししてくるので、もしや
知り合いか仕事の関係かと構えて応対をし、砂を噛むような思いにさせられることがよくある。
 又何の為だか、何が面白いのか、いたづら電話や無言電話も多い。

 何度か同じ経験を繰り返すと、電話に出てもすぐにこちらから名乗ったり、愛想よく出ることをしなくなる。
先方がなにをしゃべるか待って、用心しながら応じるようにしている。 無言電話にはこちらも無言でいる
と数秒経って向こうから切ってしまう。
 セールス電話がきたら、まず相手の電話番号と名前を聞いてから応対し、断るというのはどうだろう。

 先日夜半に電話のベルが鳴った。用心しつつ我ながら無愛想だなと思える位押し殺した声で、「もしもし・・」
「石川さん?」と相手。「ああ」と横柄に返事。「談志です。どうしてる?」「!#$&”」、 訳をご説明して失礼を
お詫び。ものの分かった方だから事なきを得たが冷や汗ものでした。

 私のところへお電話を下さる善意の方々へ、無愛想なのは決してあなただと思ってのことではありません
ので、ご容赦くださいませ。

               「世の中に人の来るこそ煩さけれ、とはいうもののお前ではなし。 百閒」


22、エスカレーター
 
 関東と関西ではエスカレーターの乗り方が違う。
関東では左側の列がじっと立って機械の流れに任せる列であり、右側の列はどんどん歩いて上って行く。
関西では逆に左側が歩いて行くので、一度大阪で戸惑ったことがある。

 ちなみに私は怪我をする前までは、せっかちそうで嫌だなと思いつつも歩いて上る派であった。しかし
手術の後からは体力が落ちたのか歳の性か、軽く息切れがするのでつい左に並ぶようにしている。

 先日、横浜高島屋の仕事の帰り、市営地下鉄で我が家の最寄駅で降り、長いエスカレーターに乗って
ふと見ると、今流行りの超ミニ・スカート姿の女子高校生が私のすぐ前に乗っているではないか。
 それもスカートの裾を後ろ手に押さえながらである。一段下がって乗ってる親父は・・・李下の冠、瓜田
の沓。あらぬ疑いを掛けられぬまでも、立場がよくない。君子危うきに近寄らず。
 仕方がないから右の列に移動したら、後からどんどん上ってくる人たちに煽られて、一緒に上って行か
ざるを得なくなってしまった。三球照代の地下鉄漫才の中に「エスカレーターの階段は何段あるんでしょ
う、数えても数えても後からどんどん出てきますからネ。」というのがあったな、などと考えながら結局最
上段まで上り切りました。疲れての長い上りは非常につらいのです。しばらく息を整えて改札出口へ。

 若い人のファッションが解放的なのはいいことなのだろうから、どんな格好をしても構わないがそれなら
見られる位の覚悟はすべきなのではなかろうかと思う。
 別に興味もなければ、見たくもないのに時として思わぬ事態(シチュエーション)にはめ込まれ、とても
迷惑を蒙ることがあるという例だ。

 いっそこれからエスカレーターを利用するときは、手鏡を持ってそれを他人目に曝しながら乗ろうか。
マンションのベランダに鳩避けのCDがぶら下げてあるように。 ミニ・スカート避け!!。
 


21、味覚

 味覚の秋。くだものが好きである。ことさらリンゴが好きだ。中でも出始めの紅玉に目がない。
締まった硬い果肉の歯ざわりと適度な酸味がうまいのだが、最近くだものが甘くなり過ぎて、返って
食欲を刺激しなくなった。
 ぶどうもみかんも胸焼けがしそうな位甘い。
 
 くだものには適度の酸味が欲しい。ぶどうも酸味が味わいを深くしていたし(以前岩魚釣りに行って、
山中でみつけた山ぶどうのうまさは衝撃的だった。)みかんのすっぱさには閉口する位の物もあったが、
身のしまるような清涼感を感じた記憶がある。
 生産者と販売店の都合で、甘い方が売れると判断して改良を加えたのだろうが、見た目にきれいで色
や形が良くただ甘いだけのくだものは、個性がなく均一的でリンゴ、ぶどう、梨、みかん、どれを食べて
もみんな似たような媚びた味になってしまっている。

 私にとって出始めの紅玉のもつ味覚のバランスは実に具合がいい。甘酸っぱいいかにもリンゴという
シンプルな味は、他の種類では味わえないものだ。
 ところが近年、この紅玉を作っているリンゴ農家がなくなっているのである。富士やサン富士など甘さを
売り物にした種類が主流をしめている。わずかに店先に並ぶものはお菓子用の紅玉で、焼きリンゴや
パイにするためのもので、形が小さく熟れすぎて果肉がやわらかくなっていて、丸かじりの歯ごたえに乏
しいのである。

 人間に食われることをどこかで拒否し、すっぱいぞ!硬いぞ!見た目も悪いぞ!と気位高く無愛想に
いきり立つくだもの。それを超えて噛み締めたら、じわっと後から甘さがにじみ出てくる骨のあるくだもの。
それぞれの本来の味を主張したくだもの。その個性ゆえに好き嫌いも出てくるだろうが、大切な差別化
のような気がする。
 
 どんなひねくれた個性でも、味わいつくして楽しむのが「おとな」の味覚というものなのに・・・。
                                                     リンゴの話です。


20、取材
 
 9月になってぼつぼつと洋服ブラシの注文が入ってくるようになった。まだ暑い日が多いのに9月の声に
秋の気配を感じていただいてのことだろうが、有難い。

 同時にマスコミからの取材の問い合わせも何件か。まず電話で連絡がありそこそこの話をして、取材を
するかどうか判断をしてくるのだが、その時大きく分けて二通りのパターンがある。
 ひとつは衣類のお手入れを中心に、いい洋服ブラシを探している、あるいは物や物作りに対するこだわり
や姿勢を聞きたいというケース。
 もうひとつは先方で職人とはこうというイメージをあらかじめ用意していて、取材する側の意向に沿った
台本(ストーリー)枠に当てはめようとするケース。

 苦手なのは後者の方で、所謂頑固一徹の職人さんがこの道一筋何十年、伝統と日本古来の文化を守り
抜き、コツコツ地味な努力を積み重ね・・・という紋切り型の構成がほとんどだからである。
分かりやすいけど、今更という気がして嘘くさい。内容無視の軽薄(イージー)さが感じられて嫌なのです。

 例えば、一人前になるのに何年くらい掛かりますか?とのよくある質問には答えようがない。あえていうな
ら個人差、本人次第というところだがこれでは答えとして不親切だろうから、適当に5年でまぁまぁ・・などと
答えたら、我が家の優秀な弟子たちには失礼ということになるし嘘である。

 又、実際に仕事を見てもらうと細かさと手間の多さに「大変ですね。」と感心されたり驚かれたりするが、
やってる方はさほど大変だとは思っていない。仕事が好きで才能があれば、多少のことは大変ともつらい
とも感じないものなのだ。逆に手抜きをしていい加減な物を作れば楽かといえば、気分もよくないしその方
が返って不安である。
 つまり、徹夜をしたから大変なのではなく、徹夜をしてでもいい物にしないと不安だということ。

 どこに住んでいようが、何年やっていようが、実用に似合ったいい物を作っていればいい。出来上がった
物の完成度を見極めた取材をしてください。必ずご納得いただける情報を提供させていただきます。

 仕事のこととなると、えらそうで態度が大きくなるけど嘘はありませんのでご容赦。


19、オリンピック

 2004年アテネオリンピックが始まった。早速日本のお家芸柔道で金メダルを獲ったという。
柔道がオリンピック種目になったのは、東京の時からだったと記憶しているが、その時スポーツの祭典
と日本の武道は質的に合わないのではないかと思った。

 前回のシドニーの時に日本選手が「内股すかし」で勝ったはずの勝負を、審判の判定で逆転負けと
なった試合(の)があった。審判がすかし技を知らなかったのだとか、判定員が素人並みのレベルなのだ
とか、後まで物議をかもしたが結局勝敗の判定は覆らなかった。

 柔道は本来「道」であって、スポーツではないと思っているし、そう教えられていた。
すなわち「柔よく剛を制す」であり、「小よく大を制す」である。礼節を尊び、進級試験でも礼節や立ち居
振る舞いまで指摘される。勝ち負け以外に道を求める心がある。いくら強くても道に外れれば邪技、邪道、
邪法であろう。なにもここで精神論を繰り広げるつもりはないが、質の違うものだと言いたいのである。
 理詰めでは行かない、ファジーとも取られかねない日本人の心があるのだ。

 一方スポーツは勝ち負けが目的であるから、勝負の条件は常にフェアーでなければならない。
体重制度や、ハンディキャップ制が取り入れられるし、攻めて技を仕掛けた方が有利と判断するはずで
ある。そこには「すかし技」や「返し技」といった機微に触れる技は存在しにくいだろう。同じ勝ち負けでも
アクティブな考え方がいささか違うように思える。
 今回も北欧とアフリカのどこかの国の試合で、掛けた方と返した方で判定がもめて、結局その技はなか
ったことになったが、外国人選手の中には試合運びや技の掛け方が、まるでレスリングの試合のような感じ
が多くなって来ているようにみえる。

 質の違うものをひとつのスケールで計ろうとすると無理が生じるということである。職人の観点からいうと、
形の違うものはどちらかの形に合わせなければ、ピッタリとはまらないのだということでなのだ。

 世界が狭くなって地球はひとつなどと簡単にいうが、絶対理解しあえないことは多々あるはずで、ルールや
マナーや習慣など、ちょっとした価値観の違いが拡大して行ってしまうこともあろう。
 面倒くさいからまた鎖国でも・・・という訳にも行くまいが、スポーツになった柔道はスポーツとしてのルール
に従わなければなるまい。

 それにしても勝った選手のガッツ・ポーズが、見苦しく馴染めないでいるのは私だけだろうか。


18、猛暑

  8月7日立秋。暦の上では秋なのだが、今年の暑さは記録的である。
ちなみに昨年は異常な冷夏で、農作物の生育や、海の家、夏物市場などへの影響と大騒ぎだった。
 私的には手術後で、胴体に頑丈なコルセットを巻いてのリハビリ生活だったので、涼しい夏には大
いに助けられた思いがある。「大怪我をするなら今年以外にないね!」などとうそぶいていた。

 うって変わっての今年の暑さ。関東では立秋の声を聞いても、連続真夏日の記録を更新中である。
暑くても湿度が低ければ割合平気で、我が家では昼間はクーラーを点けないことが多い。
上半身裸で仕事をしてるが、さして不快でもない。汗みどろになって仕事を終え、さっと一風呂浴びる
爽快感は、むしろ暑くなければ味わえない。

 幼少時に年寄りが、「夏は熱めの湯にさっと入れ。冬はちょっと温めにしてゆっくり浸かれ。」と言って
いたのを思い出した。暑さに耐えることで、逆にその後の爽快感を楽しもうという生活の知恵。
 風鈴の音色に、浴衣の絵柄に、打ち水のしたたりに、五感から伝わる清涼感を大切にしていたという
より、今ほど文明の影響力が行き渡っていなかった時代。なんとかして快適に過ごしたい工夫だったの
だろう。そこから文化が生まれている。

 今の時代、そういう知恵を使わなくともスウイッチひとつで涼感を得られる。文明のお陰と言えばお陰
だがさして快適だとは思えない。知恵で勝ち取った満足感、工夫して得た充実感がないからか?機械
的な無機質感への嫌悪か?見返りの弊害も不愉快である。

 日向に張った、たらいの水での行水がどれほど気持ちよかったか。今ではとても入れたものでは
なかろうが、物質的に不足している時の方がささやかことで喜びに浸れるのだろう。
そんな時代に帰れはしない。ここまで進んだ文明社会を停めたり、ましてや後戻りなど出来る訳もない。

 文明だけに頼って、文明だけを信じて、進むだけ進んで。出てきた弊害を更なる文明で処理して。片方
で私は本物志向です。自然が大好きなんです・・・ってか。


17、職人展
 
 選挙もあっけなく終わり、一週間も経たないうちに話題性がなくなった。無駄に騒いだだけ。

 テレビの報道特番で、デパートの「北海道物産展」催事に出店していた業者が、実は大阪の業者で
北海道に支店も営業所すらもない偽者だった、というのを放送(や)っていた。

 そこで幾つか思いつくまま疑問点を挙げてみる。鮭や、いくらや、かずのこや、蟹等など今や輸入に
頼っているのは常識だろう。北海道から出荷されてても輸入品である可能性は高い。
 次は業者だが、調理法や味付けで技術的に大阪の方が優れていたとしたらどうだろう。最新技術の
捕獲、保存、物流で世界から届いた材料を、さらにいい技術で商品化した・・・と。それを「カナダ産いく
ら丼」では売れまいから、消費者好みの「北海道」というブランド名を付けた・・・と。また、デパートを
掛け持ちで飛び歩ける機動力のある業者は、なかなかいなかった・・・と。

 報道(そ)の後から、デパートの担当者はピリピリしているらしい。
「江戸の職人展」の出展者は東京に住んでなければいけない。というのだが、東京に住んでて地方から
仕入れててもいいのか。ほとんど仕事をしていない、否仕事ができない販売員でも東京に住んでれば
職人でいいのか。江戸とはどこまでをいうのか。新宿、品川、板橋、千住、江戸川、は現東京都ではあっ
ても所謂江戸ではないはず。ついでに、今では江戸下町の代表みたいになっている浅草は下町ではなく
本来場末のはず。

 ちゃんと仕事をするために、都内は騒音、埃、匂い、などの規制で窮屈だからと、地方に引っ越した腕の
いい職人さんを知ってる。北海道だ江戸だ京都だ九州だ、実体のない産地のネームバリューに頼って、
売り上げだけを狙ってる商売。手間を掛けることを面倒がり、内容の良し悪しなど無関心なデパート担当者
の体質。タイトルだけで客が呼べるという企画の安易さにこそ問題があるような気がする。

 前にも書いたと思うが、作務衣や半纏を着て座ってるから職人と思わない方がいいですよ。
片方でグローバルなどと言うのなら、たかがいくら丼どこから来ようが驚く程のことはなかろう。交通の
便は良くなり手軽に移動できるし、今更産直でもあるまいに。
 ハワイ土産をひっくり返してみたら、MADE IN JAPANと入ってたという笑い話は随分昔に聞いた。
日本の職人さん(?)も平気でMADE IN CHINAやKOREAを売ってますよ。
 この際広い心で味噌も糞もいっしょに受け入れよう!!

 暑さの性かちょっとやけっぱち・・・です。 ホントはもっと根の深い問題なのですがネ。


16、選挙

 参議院の議員選挙が始まった。
しばらくは選挙運動でどこへ行ってもうるさい。宣伝カーからボリューム一杯に喚き出す声は、内容の
良し悪しに関わらず不愉快である。というより内容なんか聞いてはいないし聞いていられる場所や状況
とは思えない。

 ただその立候補者が当選すると、私たちの生活が平和で安全で豊かになると言ってるらしいことは
分かる。また、政治にまつわる不正が正され、国民のために粉骨砕身がんばって、住みやすい社会を
実現させていただけるらしいことは分かる。
 でも我々の住んでる日本は、そんなにめちゃくちゃでひどい社会なのだろうか?
むしろ物質的には豊か過ぎるくらいで、飢えや貧困などほとんど無縁だと言ってもいいだろう。
立候補者(彼ら)が大声で訴えるほどひどい国とは思えないのだが・・・?

 不安感を煽り立てて、「それを正すヒーローは私だ!」的な悲壮な訴えは、皮肉にもいささか滑稽に
すら聞こえる。抽象的なだけの表現では説得力などないから、ただただ当選したい個人の欲望としか
感じられないのである。

 前回の参議院選挙のときも、私個人的にはどう考えても「?」という候補者が当選を果たした。
知名度だけを頼りに場違い、勘違いと思える人が何人か当選した。
 結局すぐに辞めたり、お粗末な不祥事が露見して問題になったり、実に低レベルのごたごたが繰り
返された。それぞれの候補者の品性の問題だと思う。

 選挙は決められた候補者の中から選んだ人を記入するという方式で行われる訳だが、投票の際に
当選させたい人と同時に、この人は絶対入れたくない人にも反対投票できるようにしたらどうだろう。
「誰々候補は投票数何票、でも反対票が何票、差し引き何票で落選・・・!」
 
あってもいいと思うけどなぁ。 


15、展覧会

 このところ忙しくずっと仕事をしているので、ちょっと息抜きに展覧会に行って来た。
”モネ、ルノアールと印象派展”(文化村ミュージアム)の招待券を頂いたのである。展覧会は久し振り
で何となく気分がいい。モネもルノアールも好きだ。
光を取り入れることで一気に躍動し、風のそよぎに木々が揺れ、煙がたなびき、ざわめきまで聞こえて
来そうな気がしてくる印象派の画は、いつ見ても新鮮な感動を与えてくれる。

 それ以前の古典派の画家たちもいろいろ工夫し、いろいろ試して、よりリアルな表現法を模索したの
だろうが、革命的に大きく変化をしたのはこの時期のものであり、観ている方にも一番解りやすい。
時代の変化をみごとに表現したモネ、ルノアールの功績は大きい。

 職人の仕事も伝統だの古典だのと、ただ昔の物を繰リ返(リフレイン)しているだけでは意味がないので、
時代や環境などに合わせた工夫がなされるべきなのである。
若い人の新しい発想に対して、年寄りが頑固に受け入れないのは、年寄りの方に想像力による創造力の
エネルギーが不足している場合が多いような気がする。
 価値観のずれにも気づかず、「まだまだ譲れねー!」などと大した仕事でもないのに、頑固ぶってる年寄り
がこの世界には多い。

 もしタイムマシーンかなにかが出来て、レオナルド・ダビンチが印象派を見たら・・・?と考えた。
「モナリザ」と「水浴の女」を比べ、「最近の若い奴らの技巧は何と雑で幼稚なこと。」と嘆くのか、それとも
「こんな手法があったのか!」と斬新な感性を認めるのか。時代の壁を越えた天才同士の対面は、想像
するとどこまでも興味を惹き付けて止まない。

 今までのものを私なりの問題意識で変えてきた。今までにない洋服ブラシを作り出した。
幸い後継者もできた。次の時代に出てくるものが楽しみである。


14、考える人

 このシーズンになると、そろそろプロ野球のキャンプの話題が聞かれるようになる。あまり野球に
詳しくはないし、元々興味もなかった。毎年テレビのニュースで決まって取り上げ、大騒ぎをする
から見るでもなく見ているだけである。

 ついこの間までは、野球選手の契約について騒いでいた。
スター選手の推定年俸いくらで契約、いくらで保留、いくらからいくらに上がった下がった・・・。
他に心配することないの?と言いたくなるくらいの騒動である。
 いつごろから野球選手の収入が話題になるようになったのだろう。川上が、大下が、青田が、
千葉が、あるいはベーブルースが、ゲーリックが、ディマジオが、いくらの金でプレイしていたのか
当時のファンは知りもしなかったし知る必要もなかったろう。

 スポーツマン・シップと金、プライドと金、似合わないような気がするが、それも時代なのか。
金額の高低でしか価値が認められないとしたら品のいい話ではない。高校を出て何年も経ってない
ような若者が、億の金で一喜一憂する姿を親は何と見るのか。

 画集にあるロダンの”考えるひと”、筋骨たくましい青年が腕にあごをのせて物思いに耽っている。
何を考えているんだろう?あれほど素晴らしい筋肉質の身体を持っていれば、何のスポーツでも楽に
こなせそうである。
「ダビデの年俸5億とすると、オレは・・・。」かな? 考えてみよう。


13、ほととぎす

 団地(うち)の前に山茶花が一株植わってる。今を盛りに花を付けてきれいである。
その花に目白が来て、‘チョンツ・チョンツー”と鳴き交わして忙しく蜜を吸っているのが可愛い。
2~3日前のこと、ツーィーとひと際甲高くみごとな鳴き声の一羽が来た。私の故郷宮崎では、
昔は良く目白を飼い、鳴き合わせなどして楽しむ習慣があったのを思い出しながら、まるで高度な
訓練を受けたようなさえずりに聞き惚れていた。

 話は変わるが、戦国の天下人を、鳴かないほととぎすとの関わりで性格付けする例えは有名で
ある。殺してしまう信長。鳴かせて見せるという秀吉。鳴くまで待ってる家康。
私は若いころ信長の即断と行動力に憧れてみたり、秀吉の成り上がっていくバイタリイティーを
面白く思ったりしたが、家康の忍耐とねばりは狡猾な感じがして嫌であった。

 しかし、ひときわみごとな目白の鳴き声を聞きながら、もし家康が「わしのほととぎすは絶対に鳴く。
しかも優れた甲高い声で。」と確信していたとしたら、ただ漠然と待っていたと言うことにはなるまい
と思った。攻めて、領土を広げ勢力をほこるだけでなく、江戸300年の太平を築くための構想と信念
を秘めた、ほととぎすのさえずりを見通していたとしたら、家康という人の知性と感性に支えられた
政策力のすごさには恐れ入るしかない。

 太平の世に花開いた江戸の文化。日本人の生活サイズに一番会っているのではないか。今に伝わ
るものも多い。世界的にも高い評価を受ける江戸文化がやがてアメリカに、薩長土佐の地方勢力に
壊滅に追いやられるのであるが、今の売り上げ至上主義が、戦場にも似た市場競争が、ほととぎす
の鳴き声を聞く前に殺してしまわなければいいがと案じるばかりである。  俺は待とう・・・。


12、実演

 年末から年始に掛けて、いつもの事ながらホテルやデパートでの職人展催事に呼ばれる事
が多く、実演を見ていただきながら販売をする。
久し振りに出て行くと、「待ってたのよ。」というお馴染みさんや「前に買ったけど良かったわ。」
というご贔屓さんなど、ありがたいお客さんに出会えるのが嬉しい。

 そうかと思うと、「この道何年ですか?」に始まり、「後継者はいらっしゃるの?」「日本の文化
を守る大切な仕事を頑張ってくださいね。」という何々紀行のレポーターみたいな方が結構
いらっしゃる。お客さまだから笑顔で卒なく応対はするけれど、本心は憮然としている。

 何代目(ルーツ)だとか、何年(キャリア)だとかは、物を作る者としては大して問題ではない
ような気がするのです。それよりも本人の技量(うで)や感性(センス)、現実との接点などの
方がより大事なことではないでしょう・・・か? 今、何を作ってるのか!

 紋切り型の質問には、「どちらまで?」「ちょっとそこまで・・」的なじつに曖昧(アンリアリティー)
なものを感じます。
物を良くみてください。仕事を良くみてください。違いを良く見極めてください。あなたがお金を
払って、買ってあなたが使うものですよ。

 作務衣や半纏を着た親父が座ってるから、「職人展」だから、手作りだから、・・・だからいい物と
決めない方がいい。昔は素人でも目利きが多くて、職人に小言をいうくらいの人が居たらしいが、
今は外国品だろうが機械生産品だろうが、「職人展」というタイトルだけで売れてしまうのだから
恐ろしい!
本質から目を逸らして定型思考が楽でいいかもしれないけど、もうちょっと戦ってみませんか?
もうちょっと疑ってみませんか?今年は。


11、病院(その3)

 手術をはさんで40日間、ずっと天井を見つめたきり退屈を楽しむんだと決め込み、我ながら
みごとに欲望を切断。お陰で気も狂わず、焦りや未練にすがることもなく比較的心豊かに過
ごせたように思う。

 やがて起きる練習をすることになって驚いた。体が縦になることをすっかり忘れてしまってる
のである。ベッドごと少しづつ角度をつけて起こしていくのだけれど、わずか30度の傾斜で
めまいがするのである。そのまま10分位してさらに45度で軽い吐き気をおぼえ、まるで乗り
物酔いである。最終75度まで行った時には、ついこの間まで普通だった眺めが別世界のよ
う、恐ろしい不安定感に不思議な驚きを感じました。
”蛇はこれが嫌で這ってるんだ・・・!?”

 その後から車椅子で移動を許され、半身を起こした状態で食事や用足しが出来るように
なって、今までの不自由さからは比べ物にならない位自由で開放的で、このままずっと車
椅子の生活でもいいと思ったことでした。

 リハビリを続け半年経った今では、日常生活にはほとんど支障ない位自由に動き回ること
が出来るほど回復しました。仕事も好きな釣り(それで怪我したのに、まだ懲りてない!)も
十分出きるほどに。体を切り開いて背骨を直して、普通に動けるようにして貰って、ある意味
職人技ともいえる整形外科の技術はすごい。

余り多くを望まなくても幸せも満足も得られるのです。物の溢てる今、状況をどう受け止める
かで、豊かさは変わりますよ。
10、病院(その2)

 手術直後を除いて6人部屋で過ごしたのだが、わがままな性格だからか馴染めないでいた。
整形外科と泌尿器科の患者がはいっている部屋。とにかく賑やかなのである。
手術(と言っても前立腺の簡単なもの。)を受けるのに不安らしく、まわりの患者に聞いて回る
年寄り。それを受けて病気自慢、病院薀蓄、薬解説、手術話・・・盛り上がる話し手と不安がる
質問者。何の意味もなさない素人診たて。

 小集団に必ずいる「和」を大切にしようとするお節介屋さん。 動ける患者だから親切に寝たきり
の私の空になった食器を返してくれるというのだが、運んでる途中で転んだり誰かとぶつかっ
てどうにかなった時、責任の所在は?などと思うとあわてて断るしかないのだが、本人は親切
のつもりだからしつこい。面倒だから無愛想に声(トーン)を落として断るしかなくなる。
 人情厚い下町の情緒などと言うものも、ちょっとの間なら微笑ましく快適かもしれないが、一週間
もすれば耐えられなくなるではなかろうか?。

 せっかく入院して何にもしなくていい、してはいけない、退屈だけが仕事という貴重な時間。長い
人生でこんな機会は中々あるものではない。テレビも新聞もラジオもパソコンも全てのメディアを
断って、ただただ天井を見ている無の時を楽しんでるのに・・・うるさぁーいンです。「お願いですか
らそっとしておいてください。」

 約二ヶ月病院の職員以外とはほとんど口をきかず。気配を消してるつもりが、返って異様な
空間で目だってしまったような日々でした。

”みんな可愛い小鳥になってー”は無理があるような気がする。



9、病院(その1)

 生まれてから今まで、一度も大怪我や大病で入院したことがなかった。
思いもかけず病院と長いお付き合いをすることとなった。母方の祖父は開業医だったが、私に
病院の知識はほとんどないのです。
手術までの約一ヶ月絶対安静で寝てるだけ。起きることはもちろん、寝返りもうてない。

 食事から排泄、体拭き、爪切り、洗髪(禿げてるから洗頭か)、全て看護師(「看護婦」は雇用
均等法で使ってはいけないんだそうな。)さんまかせ。ベッドから物を落としたら呼び、ちょっと
痒かったら呼び、大変お世話をかけました。
特に排泄は物心ついて寝たまま行った経験がないので、一週間位は全然だめ!下剤だ浣腸
だのあげく、やっと成功した時の爽快感は例えようのないものでした。

 身動き出来ないハンデイキャップを背負って、全てお任せしかないのだが、看護師さんによって
丁寧に拭いていただける方と、割とオオラカにさっと一拭きで始末なさる方がいらっしゃって、
イライラするものの立場上抗議もはばかられ、つらい思いもしました。

 でも基本的には、病院のシステムは良く出来てる気がします。カルテを通じて引き継ぎもする
のだろうが、3交代勤務で担当が替わっても、こちらの状況変化は間違いなく伝えられおり、
新しい担当者でも的確な対応をしてくれて、安心して信頼できました。
日頃体験している百貨店のお客に対する対応の悪さからは、想像もつかないものでした。

 本当のサービスは相手のハンデイを、誠意でどう埋め合わせるかではないだろうか。マニュ
アルによる「いらっしゃいませ。」ではなく・・・!


8、大山ゆき江


 緊急入院となり、その日は検査から検査で引き回され、移動のたびに全身激痛で悲鳴の上げ通し
「痛み」と「熱」にはからきしだらしがないのであります。
検査結果で大体2ヶ月位の入院。当分絶対安静、3週間位たったら手術と診断されました。

 さあ困った!仕事でまとまった注文が入ってて、まだ数本作らなければ足りない。仕事の合間の
息抜きの釣りだったのだ。はじめての取り引きで、しくじる訳にはいかないし。
他のブラシ屋に外注に出そうにも、仕事のしかたが全然という位違うので出来る奴などいない。
「皆と同じにいい加減な仕事をしてれば良かったかな。」自慢と自惚れで他のブラシ屋を馬鹿に
しながら反省(?)

 半年前に毛を植える内職さんを探して、大山ゆき江を採用していた。(ブラシの工程のページにも
書いたが、毛を植える作業は本来内職さんの仕事である。)ところが彼女、私の仕事を見ていて
それぞれの工程に興味を示していたのである。「物を作るのが好きなんです。」とも言っていた。
それでも私の頭の中には、毛を植えるだけの「内職さん」としてしか存在していなかった。

 が、他に頼れないのなら大山しかいないと思い、連絡をして長野まで来てもらった。
材料の仕込みから仕上げまで、全20数工程を細かく説明。わずかの漏れもないように自分の
技術と知識と経験を口移しで説明、メモを取りながら質問を返してくる。質問のしかたで馬鹿か
利口か分かる。悪くない。(ちなみに”仕事は盗め”というのは嘘である。盗むまで待ってる余裕
などない。)わずか半年の経験ではじめての大仕事、重圧から来る不安はとても耐え切れる
ものではないだろうと思う。
「やらなきゃならないんだからやって見ます。」と力強く言って帰って行ったけど・・・大丈夫か?
こっちは寝てるより仕方がないし、最後はあやまって取引やめて、”その先は成り行きまかせ。”
と決めてたら、1週間後にみごとに仕上げた洋服ブラシを持ってやってきたのです。

 まるでドラマみたいな再会。もちろん時間は余分に掛かっただろうが、出来たということは事実で
後は慣れるだけである。ゆっくり、丁寧に時間をかけながら全ての納品を間に合わせてくれた。
 鹿島芳山師が毛の下準備をしに、再度にわたって来てくれたことも大きな力になりました。

 自分の知らない力で、腕のいい新しい職人さんの誕生です。これで「イシカワ」の洋服ブラシを、
将来へ継承してくれる道が大きく開けました。  ビバ!大山ゆき江。


7、ケガしました

 2003年4月24日長野県の山中に岩魚釣りに出かけ、残雪の雪渓で足を滑らせ崖から落ちて、
肋骨粉砕、腰椎圧迫骨折という大ケガをしてしまいました。

 連休前のまだ人が入ってない内に釣ってしまおうと、釣り仲間の大倉さんと午前1時に三軒茶屋を出発。
4時半現地到着、5時から9時頃まで釣り歩き結構な釣果で大満足。
そろそろ上がろうと雪渓(幅10メートル位)の中腹あたりをトラバースして、あと2~3歩という所で足を滑ら
せ、見る見る加速しながら5~6メートル滑降、すがる物も無く勢いのついたまま4メートル位の崖下に叩き
つけられました。

瞬間的な出来事で、何をどうすることも出来ずに「ダイハードはすげエー!」であります。

 ”取り合えず生きてるな”とまづ自己確認。次は全身ギックリ腰状態で、痛いのかだるいのかわが身で
ありながら判断がつかず、全身どうやっていいか、無我夢中のまま何とか水から這い出しました。
着ている物も重く、体を支えてるのもつらく、まったく「身の置き場がない」を文字通りに感じました。

 幸い同行の大倉さんの機転で、携帯電話(谷底から通じたのも奇跡的でした)で行きつけの旅館に
連絡して助けを求めました。後での話しで、地元の人だけに救急も119番でなく直接デスクへ電話して
場所の説明も無駄なく進めてもらったようでした。結果スピーデイに運んだようです。

 ほどなくレスキュウ隊が到着、みごとな手順でスノーボートにくくりつけられ、ヘリコプターで吊り上げて
助けられました。そのまま信州中野の北信総合病院へ搬送、約2ヶ月の入院生活と大手術を受ける
ことになりました。
20数年渓流に入り、時には一人で釣行もし今まで事故にもあわずに来たのに、魔がさしたように一瞬
で引き込まれてしまいました。  お粗末!


6、作務衣(さむえ)


 職人展などの実演で人前で仕事を見てもらう時、それらしい雰囲気を出すために「作務衣」を着たのは、
私が最初だったのではないかと思っている。
すぐに真似する人(の)が出てきて、どこで買ったのか、いくら位するのかしつこく聞かれたのを覚えている
が、今では半纏と並んで、ユニフォーム(?)と思えるくらい職人展を見に行くと作務衣の群れに出会う。
 
 当時は名前も知らないくらいで、「甚平」と同じと思っている人もいたのだ。名前について面白い話がある
ので、そのことをちょっと・・・。
当時一緒に仕事をしてた男が、ある日私に歩み寄り「作務衣は(さむい)と読むのであって、(さむえ)では
ない。衣は(い)であって(え)という読み方はない。」と自信満々詰め寄ってきた。

 ちなみに彼は一時文学に憧れ、童話(?)を書いたと言うことを本人から直接聞いたことがあった。
そうなると私の皮肉屋的性格が、ムクムクと起き上がって来て押さえることが出来なくなる。
「衣に(え)という読み方がないのなら、君ンとこでは単衣(ひとえ)は(ひとい)と読み、衣紋掛け(えもん
かけ)は(いもんかけ)と読ませるわけか?」これにて一件落着。なのだが、この程度の奴が童話だ文学
だと騒いでられては、迷惑なのは買わされる読者の方だ。

 職人の中にこの手合いが結構いるのである。「独りよがりの名人」「視野の狭い自惚れ」「せこい仕事の
言い訳」・・・。本物と偽者は偽者の方が、声が大きかったり強引だったりするから気をつけた方がいい
ですよ。


5、マナーとルール


 久しぶりに朝の電車に乗った。久しぶりと言うのは、勤め人ではないからであるが、たまに催し物に
呼ばれたりすると、むこうの開店に合わせなければならないから、勤め人みたいに朝のラッシュに
乗り合わせることになる。
その度に憂鬱になるのだが、あの行儀の悪さは何なのだろう。

 ワザとぶつかるように歩き、無理に肩を怒らせ、腕をつっぱってゆずらない・・・
そうする事自体疲れそうなものを。
毎日毎日繰り返してるのだろうから、もっと楽に避けたりゆずったり、成り行きや流れに身を任せれば
どれ程上手くいくか、きっと考えてはいるのだろうが、集団の中に入ると見境がつかなくなるのかもしれない。

 そんな中で、女性が座って化粧中なのだ。
これはいやだ。
「なんで悪いの。化粧してはいけない規則でもあるの?」その通り、あなたのおっしゃる通り規則はないの
です。ないからいけないんです。

 規則には、ルールには必ず罰則がつきます。違反をすれば罰則でつぐないができるのです。
マナーに反しても、つぐなえる罰則がないから、一方的に不快感を撒き散らすだけになります。
おとなとして、つぐないの出来ない行為は慎むべきでしょう。

 柄になく道徳的な書き方をして照れくさいけど、本音は罰則覚悟でルールを破り、「ぶっとばしてやろーか」
と言う心境であります。
つまり、ルールはペナルティーを覚悟すれば破ってもいいとは言わないまでも、覚悟の分だけ自己責任に
よる所が大きいが、マナーはそうは行かないから控えめにしませんか?ということ・・・です。


4、進化(?)

 ギックリ腰になった。腰を患った。痛くて耐えられないので、鍼医者に行った。
初めてではないので、慌てることもないが、痛い。
鍼はよく効くので、体質に合っているのかもしれない。

 鍼医者は、行くたびに同じことをおっしゃる。「人間が二足歩行をするようになったから、腰に負担
がかかるのです。」と。なるほど・・・と一応なっとくしたものの、何か引っかかる。
さらに「前傾姿勢での仕事は良くありません。」と。これもなるほど・・・?

 ダーウィンの進化論によれば(進化論を全て読んでもいないのに、断定していいのかネ!)生物は、
環境に応じて形態や、生態を変化させて来たのではないのか。
とすれば,人間昨日今日二足歩行をはじめた訳でなし、いい加減環境に順応してもいいだろうに。
まして前傾姿勢に至っては、何をかいわんや。前傾でなく反り返って出来る仕事なんて、ある訳がない。
(バッキンガムの衛兵があったか。)
立って座って前かがみで仕事をして来て、これからもずっとそうだろう。

 ダーウィンさん人間進化なんてしないんじゃないの。なんとかしてーといっても、当面頼りは鍼医者先生
だけです。逆らっても治るわけでなし・・・。

理論と現実の矛盾の狭間で、今回は弱音の愚痴話を一席。おそまつ。



3、料簡(了見)

 料簡という言葉を余りつかわなくなった。「あいつはいい料簡をしてる。」だの、「料簡の良くない
やつだ。」だの、ことあるごとに耳にしていた。
職人としての料簡、大人の料簡、男のあるいは女の料簡・・・。つまり何々らしさとか、何々(それぞれ)
の自覚に基づいた言葉だったろうが、世の中平等、みんな一緒の風潮からか、何々らしくなくても良く
なったということなのか。

 この間、デパートの職人展の催しに出演してたとき、中年の二人づれのご婦人が、私の前で「ブラシ
は、腕のいい職人から買わなきゃだめなんだって。」ときた。誰に聞いたんだか知らないが聞こえて
しまったから仕方がない、「職人の腕の良し悪しはどこでみるんですか?」とやったもんだ。
一瞬たじろいだ様子のご婦人、気を取り直して「私のブラシには、作った職人さん(実名を言ったのだが、
本人のために伏せる)の名前が焼印で入れてあるのよ。」だとサ。

 それを職人としての、料簡が良くないというのであります。
職人が、自分の作ったものに自分の名前を入れるなんてのは、そのことだけで失格です。
昔から桶でも下駄でも、買って帰った人が自分の屋号や、印を焼印して使ったもの。
職人が芸術家でも気取ってるのか、アホかいなであります。
 
 刃物やブラシなどの道具を、他所から仕入れてきて専門店と称して商売をするなら、ハンドルなどに
社名や屋号を入れる必要があるのだろうが、職人が作った物に職人自身で直に名前を入れる料簡が
まったく理解(わか)らない。
 無知なマスコミの扱いで伝統だの、名人などと取りざたされるから勘違いをするのかもしれない。
もっとも、焼印だけで「名人」になり、それでお客が喜んでるところを見るとどっちもどっちか。

 そのうち、大工が家を建てて、熊公だの寅ンべえだの自分の表札を掛けて行くようになるのか?

 ブランドなどと、外国(よそ)の事情(こと)は知らない。日本の職人には職人の料簡があろうに、
                                                  否!あったろうに・・・か。


2、高級洋服ブラシ

 ホームページのタイトルに「高級洋服ブラシ・イシカワ」と付けた。高級という表現が何とも
落ち着かない。はやい話が嘘くさい気がするのである。

 世の中偽物やまがい物に、わざと高級という肩書きをつけて商売にしようという傾向が見
え、わざわざ高級と断ってる分だけセコいのではなかろうかと勘ぐってしまう。
職人として仕事もできないのに、高齢の販売員にそれらしい格好をさせ、デパートの職人展
などで仕入れ物を並べて売っている業者を数多く知っている。

 いいものは黙ってても十分いいものである。むしろ自信があれば尚そっと居るのがいい。
が、洋服ブラシに関しては今までの物では満足できないから、独自の研究と発想でまったく
違ったものを作り上げたわけで、その違いを差別表現するために高級という手っ取り早い
表現(フレーズ)を使ってしまいました。

 現物を直接見てもらいながらお話できれば、高級だろうが中級だろうがそんなものは一向
に構わないのだが、インターネットというメデイアを通じてご覧いただくため、「違うぞ!」という
メッセージを込めてご理解頂きたかったのです。

 恥ずかしながら、自分でウサン臭いと思ってる表現に頼ってしまいました。
その人間的なセコさは素直に認めますが、物は確かでいい物です。
手植えブラシ全体の精度がもっと上がれば、私が高級洋服ブラシなどと安っぽい表現を
しなくてもいいはずなのですよ。

 長くやってるからいいのではない。手で作ってるからいいのではない。職人と呼ばれてる
からいいのではない。物の本質をきちんと見極めた物作りをしたいだけです。


1、ひとりごと・・・

 職人の目で見たいろいろ、何か気になるあれこれ、いきなり年寄りの仲間に
入った訳でなし、生きてきた積み重ねの経験体験をもとに、ブツブツつぶやいて
やろう・・・かナ。
                                      
 映画が好きで良く見た。 いまも見るけど、なかなか面白い作品(の)に出会わない。
どこか違う、映画ってこんなんじゃない、ワクワクしない、ドキドキしない。
内容も、作り方も、変わってきたような気がする。  
撮影技術も、映像処理も、音声も、昔と比べれば素晴らしい進化をして、臨場感
溢れる・・・溢れすぎてるのに、面白くなア-いのであります。

 2002年3月ビリー・ワイルダーが亡くなった。
じつにうまい監督で、何を撮ってもいい。どんなものでもうまい。一流の腕前の職人
さんといったイメージがあった。
間違いない、信用できる、大丈夫。ワイルダー作品なら見ずテンでお奨めだった。

 その暮にジョージ・ロイ・ヒルが亡くなった。
腕のいい職人の仕事を見て育ち、その腕のよさに憧れ、その世界に入ったのでは
ないか?と思わせる、うまさに新しいセンスが加えられた作品は、すがすがしいショック
を与えられたことを、昨日のようにおぼえている。

 子供のころ、町内にいろんな職人さんたちがいた。なんとなくカッコいい、おとなの仕事、
おとなの世界という憧れを感じたものだ。

 いい仕事を、うまい仕事を、「あいつに任せておけば間違いねえ」仕事を、名もない一人
の職人のいい腕を、残しておきたいねエ。

ページのトップへ戻る