すれちがい〜アムステルダム号戦記(五)〜

 夜、沖合いに停泊中のアムステルダム号。
 副船長ジョージ・ペパードが、人目をはばかりながら、アムステルダム号からボートを出してひとりで出かけて行くところを、船長イサベラは見つけました。不審に思ったイサベラは、自分もボートを漕いで、そのあとをつけました。

 岸に着くと、ペパードは、密かに柳生但馬守らと会い、大坂城を大砲で撃破することを自ら請け負い、その計画を打ち明けました。ペパードの計画とは、宴会を開き、イサベラ船長と真田の勇士たちに痺れ薬を盛り、彼らが倒れたところで、大坂城を大砲で攻撃すると同時に、イサベラを殺す…というものでした。
 岩陰で、その密約をすっかり聴いてしまったイサベラは、ジョージより早くアムステルダム号に戻らねばと、急ぎボートで引き返して行きます。長い間海で暮らしてきたイサベラは、ボート漕ぎなら男にだって負けませんでした。

 その頃、アムステルダム号では、才蔵が九度山へ出かけようとしているところでした。主君幸村に報告をし、大砲と鉄砲を買うための金策について相談するためでした。
「イサベラ、帰って来ないな」
 船長がどこかへ出かけたようだと、水夫からでも聞いたのでしょうか。甲板で、傍らに巨鷲ゴンドラを従えて、才蔵がつぶやきました。
「ああ、そのようだな」
 佐助が相槌を打ちます。
「残念だな。出かける前に挨拶をして行きたかったのに…。しかたがない、出発するぞ」
 才蔵はゴンドラの背に乗り、甲板から飛び立って行きます。

 夜空を、ゴンドラは音もなく飛行します。下に広がる海、静かな夜。
 と、その時、向こうから、イサベラの漕ぐボートがアムステルダム号に向かって来ます。ちょうど、すれちがう二人。
 しかし、イサベラは必死で漕いでいたので、上を飛んでいる才蔵に気づきませんでした。才蔵の方はといえば、ゴンドラの翼に隠れて、イサベラのボートが見えません。
 空を切り、潮路を行き、才蔵とイサベラの二人は、お互い気づくことなく、そのままだんだんと正反対の方向へ離れていくのでした。

 イサベラがアムステルダム号に着いた時、才蔵はすでに出かけた後でした。甲板で、ドレスに着替えたイサベラが、遠くを見やりながら言いました。
「そうですか。では、キーリイ・サイゾは出かけたと…」
「はい。仕事で。でも、必ず早くここへ帰って来ると、そう言い残して行きました。大丈夫です。すぐに帰って来ます。あなたのことをずっと気にしていましたから」
 傍らで佐助が応えました。
 イサベラは、寂しげに船室へ入っていきました。

 船室で、イサベラは羽根ペンを手に机に向かっていました。
 その時、遅れて船に戻って来たジョージ・ペパードが、開け放してある船室の扉の前を通りかかります。
「ジョージ」
「は、はい」
 呼ばれて、ヒヤッとした様子のジョージ。
「遅かったじゃないの。どこへ行っていたの? 探したわよ」
 イサベラは机に向かったまま尋ねました。
「は、はあ、ちょっと散歩に…」
「誰かに会いに?」
「いいえ! 何でもありません。散歩です」
「そう」
 イサベラは、誠実な才蔵が自分を騙したなどと、あんな嘘をついたジョージ・ペパードが憎くてたまりませんでした。でも、それを口にすれば、ペパードと徳川との密約を察知したことを悟られてしまうかもしれません。まだ何も知らないふりをしているようにと、小助たちに言われていましたので(たしかそうだったと思うけど記憶違いかもしれません)、イサベラは、努めて穏やかに言いました。
「もういいわ。下がりなさい」

 一方、九度山に着いた才蔵は、すぐさま主人・幸村に報告をしました。金のことは大阪屋惣兵衛に頼むことになりました。
 こうしている間もずっと、才蔵の頭の中はイサベラのことでいっぱいで、早くアムステルダム号に帰りたいと、そればかり考えています。すぐに発とうとする才蔵。幸村が呼び止めます。
「もう行くのか? 少し休んでからにすればよいのに」
「いえ、早く行って、佐助たちにこのことを知らせてやりたいのです」
 才蔵はそう言って九度山を発ち、そのまま大阪屋惣兵衛の屋敷へ向かいました。

 惣兵衛は資金繰りを快く承知してくれました。そして、才蔵がまたもや急いで発とうとすると、惣兵衛の娘・千代が現れ声をかけてきます。
「才蔵様。わたし、お琴を覚えたの。聴いて行って」
「いや、せっかくだけど、急ぐので」
「あら、少しだけならいいでしょう?」
「しかし…」
「ね、少しだけ」
「では…ちょっとだけ聴いて行こう」
 才蔵は断り切れずに座り直しました。
 しかし、千代の琴の調べを聴いている間も、才蔵はイサベラの面影ばかりを追っています。
 たどたどしいながらも一所懸命に奏でる千代の琴の音が、ゆるやかに響き渡りました。

(第228回より)


 空と海の狭間で、ほんとうに静かに、二人はすれちがいました。
 昏い群青の夜、宙と潮路という三次元の行き違い、お互い気づかなかったのは仕方のないこと。徐々に、徐々に、遠ざかっていく二人…。
 この場面、とても綺麗だと感じました。べつに、これきり二人が会えなくなるわけではないし、特に悲壮なイメージはなく、何でもないようなことなのですが、そのさりげなさが綺麗な印象を残します。
 けれど…ずいぶん後になって、そう、わりと最近になって、ふと気づきました。このすれちがいは、この後の悲劇の結末の伏線だったのですね。どうして、長い間そのことに気づかなかったのか。

 ラストの千代の琴の音は、まるで、戦い前のひとときの平和を象徴しているかのようでした。

(2007.4.7)

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