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とはいいながらも、作品と作者との関係はそれほど単純なものではない。作品から深い感銘を受ければ、それをつくった人を知りたくなるのは人情だ。けれども数千年の時を経た作品ともなれば、もはや作者の人間像などわからないことも多い。それより複数の……集合的人間によってつくられたという場合もある。そのような作品にたいしては、わたしたちもあえて生身の作者像を求めようとはしない。不滅の光をはなちつづける作品そのものと真摯に向き合うだけだ。とはいっても、それを残した人間──制作した人間像がおぼろにでも伝えられている場合、たとえ後からつくられた逸話のようなものであっても、それを知ることによって、作品にもさらに独特のいろあいがくわわるというのも事実だ。

老子 牧渓 宋時代末期から元時代初期 |
憂世の哲学者! 冒頭から高らかに〈道〉を説いてゆく強靭な精神の持ち主──悟徹の賢者のみをイメージしやすいが、しかしそこには深い憂愁もあった。
うかつにもわたしは、まともに読まないうちから、ゆるぎない古典であり、そこでは〈道〉を説く無為で無欲な超脱した賢者のみを漠然とイメージしていたのであった。しかし老子自身はそんな単純なものではなかった。というよりやはり人間であった。世を捨てたとはいえ終始人の暮らし…政治には関心があった。たしかに〈道〉の住人としては泰然自若としていたであろう。しかし現象としての人間でありながら〈道〉の本体を見てしまった者──そしてそれと一体になってしまった者は、相対的価値観によって成り立っている人間社会のなかでは精神的に孤立する。けれども、いったん見てしまった者は、もはや見るまえの自分に戻れない。見者の宿命だ。心に見えたものを見ないと…つまり真実を偽って生きることはできない。
憂世の哲学者! イデアの住人プラトンも終生世の中…その在り方に関心があった。そして大作『国家』や『法律』のなかにその基本形を書き残した。しかしやはり、国のなかではアウトサイダーであった。プラトンは言う「国の政治に関しては、およそ誰ひとりとして、何ひとつ健全なことをしていないと言っても過言ではないし、正義を守るために相共に戦って身を全うすることのできるような、味方にすべき同志もいない。野獣のただなかに入りこんだ一人の人間同様に、不正に与する気もなければ、単身で万人の凶暴に抵抗するだけの力もないからには、国や友のために何か役に立つことをするより前に身を滅ぼすことになり、かくて自己自身に対しても他人に対しても、無益な人間として終わるほかはないだろう……」そして「すべてこうしたことをよくよく考えてみたうえで、彼は、静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ。あたかも嵐の最中、砂塵や強雨が吹き付けられてくるのを壁のかげに避けて立つ人のように、彼は、他人の目に余る不法を見ながらも、もし何とかして自分自身が、不正と不敬行為に汚されまいままこの世の生を送ることができれば、そしてこの世を去るにあたっては、美しい希望をいだいて晴れ晴れ心安らかに去って行けるならば、それで満足するのだ」と。
〈美〉を見てしまった者もまた同様である。劉生も言う「すべてが氷解した。」「物をそのまま見ない人の気がしれなくなった」。なぜその美を殺して「あんな変なものにするのか。」それは「あんなに美しい物があそこに見えないからだ」と。同じものを見ても、現象の美をとおして母体の美を直視する眼と、もろもろの個物の美にとらえられてそれを相対的に見る眼では全く違って見える。そしてまた既成の美意識をとおして見るのでは、さらに違って一段と母体の美からは遠ざかる。
いったん〈美〉を見てしまった者、そして美と一体になってしまった者には、その母体…源泉を見ないまま時の流行ともに常に変転しながら現象してゆく周囲の美的状況にことごとく絶望する。「三越で支那と日本の古い南畫を見て、心が大へん楽しい思いをしての帰るさ電車のなかからふと正に出来上がろうとしている京橋を見てしまった。」そしてそのとき「思わず同車の人に気のつくほどに顔をしかめ、声を発した」と劉生はいう。そして「何という醜い冷たい感じであろう。そこにはただ美を知らない鈍い頭で考えた冷たい醜い線があるのみである」と嘆息する。しかし設計者も多くの人もそのようには見ない。新しく美しい京橋ができたと見る。老子も言っているように「人々はだれでも美しいものを、美しいものとしてわきまえているが、実はそれは醜いものなのだ」というふうには見ない。そして劉生はさらにいう。「私の心はたちまち暗くなり、誇張でなしに、厭世的な淋しさに襲われた。」そして京橋はほんの一例にすぎない、この京橋に見られる醜さ、生意気と無知の冷たさは、実に大正年代に出来る一切の日本建築、装飾、工芸、のみならず更に美術、音楽、演芸にまで及ぼしてみられる」とエスカレートしていく。
〈道〉でも〈美〉でも、いったん見てしまった者はもはや見る前の自分にもどれない。だから、その眼に見えたとおりを言葉にして言うと、世間一般の見方と逆になる。そしてことごとく衝突し、嘆きはやがて絶望になる。劉生はさらにいう、「画家としてこの世がますます醜くなって行く、美しいものが日ごとにこわされて行くのを眺めるのがつらい。」「わたしは今日の日本の(また世界の)趣味なり審美なりのひどくなっていくのを正視するのがつらい。」とますます心は落ちこみ、やがて一種あきらめの境地に近づいて言う。「八代山人書画に隠る、という言葉を思い出す。八代山人は明朝の皇族の子であったが、清朝の代になって、逃れて山へ隠れ、書画の三昧に入って暮らしたそうである。そしてやはり世を厭い、世に隠れて生活を送ったとか……」自分もそのようしたいとつくづぐ思う、と。
しかしわたしたちは、真の〈道〉や〈美〉を知る前に、まずいろいろな一般的な道や美を知りすぎている。そればかりではない。これから歩き始めようとするわたしたちの前には、ささまざまな道の入り口でいろいろな人がこれこそが真の道や美であると大声で呼び込んでいる。そしてわたしたちは、そこを通らずには前へ進めないようになっている。
老子と少しニュアンスの違いはあるが、そのことをセネカは次のようにいう。「主導者─自然─には従わずに、われわれをそれぞれ別々の方向へと呼び込んでいる者どもの、ざわめきや騒々しい呼び声に従って緒々方々を放浪し続けているかぎり、われわれの短い生涯も過ちのうちに磨り切れてしまうだろう。」それというのも「この場合は他の旅路とはちがい事情を全く異にするからである。」「他の旅路では、よく知られている或る道があるし、また土地の人に聞けば道に迷うような目には会わない。しかしこの旅路では、最もよく踏み慣らされ、最も人通りの多い道ほど、どれもみな最も多く人を迷わせるものである。だから「何よりも大切なことは、羊の群れのように、先を行く群れの後に付いて行くような真似はしないことである。それでは「単に誰でもが進んでゆく道を歩むにすぎない」と。
すでにふれたが、『史記』には「老子は道と徳を修めた。その学説は自己をかくして無名でいることを要務とする。周の都に長く住んだが、周の国力の衰えを見て、やがて立ち去り関(かん)まできた。そのとき関所の監督官であった伊喜(いんき)がいった。「あなたはこれから隠者になられるのでしょう。むりとは思いますが、私のために書物を書いてください」。そのとき老子ははじめて上下二巻の書を著わし、〈道〉と〈徳〉の意義を述べること五千余字言。そして立ち去り、どこで死んだが知るものはない。」(小川環樹 訳)と記されているという。想像をかきたてる記述だ。少しできすぎた伝説にも思える。そして話のなかに時代的な矛盾もあり「はっきりしないことが多く」学者のなかには老子という人物はいないという人もあり、またこの「伝説を修正しながらその時代を定めようとする人もいる」という。しかしながら、時代的な矛盾があり信用できないとはいえ、伝説というものもまた、全くの無根拠からは生まれないであろう。話のかたちは変わっていても、それが生まれる何らかのきっかけや片鱗のようなものが、たぶんあったのであろう。たとえば、わたしたちの夜みる夢が意外性とみ、なかには何故こんな夢をみたのかと不思議に思うこともしばしばあるように。しかしそれもまた、思いもよらない変身をとげているとはいえ、夢の映像となって出現するには、やはりそれを生み出した何らかの原因というものがあるにちがいないのである──それにしても、視覚のほかはすべて非映像的な五感の感知したもの、あるいは混沌とした心理状態などを、あんなに鮮明で意外性にみちた映像として創作するのは、いったい人間のどんな器官によってであろう。『史記』の記述も、当時のさまざまな情報…言い伝えのなかから司馬遷が簡潔にやや文学的にまとめたのであろう。
王室図書館の役人とあるが、いずれにしても、今風にいえば国家直属の何らかの役人であったのだろう。したがって政治権力の中枢部とも密接している。そのような場所では、とかく言論…言葉は災いの元となりやすい。孔子が訪ねて礼についての質問に「聡明と雄弁とを棄てて我執から離れよ」と諭したというが──もっともこれは、後に起こった道家の人たちが孔子をしのぐためにつくった話ではないかといわれているが──それはともかくとしてそのような環境で、つい自己の聡明を雄弁に語って失脚した者も多いであろう。言論の自由などない時代である。そんな状況のなかで真理を生きるためには、あくまでも「自己を隠して無名でいることを要務とする」のは必然である。まして、老子の思想は一般社会の通念…常識とは正反対である。「言葉によって言いあらわされることのできるものは…すべて一定不変の名ではない。」冒頭から人間とその社会をつなぎ合わせている言葉の約束的意味を全否定して語りだすのだ。そして「人々はだれでも美しいものを美しいものとしてわきまえているが、実はそれは醜いものなのだ」と言い切る。さらに「世間でいう善とか美とかいうものは、みな確かなものではなく、それにとらわれるのはまちがっている」などなどと。そんなことを職場の日常や人間関係で終始いっていたひには、とても自然なつき合いはできないであろう。しかしまた、それを隠していたからといって、まったくの普通人になりきれるものでもないであろう。それは風貌に、雰囲気に、自然に現れ出てくるであろう。内面と外面もまた一体であるのだから。周の衰運を予見して職を辞したというが、理由はそれだけではないのかもしれない。また国を出るとき関の伊喜(いんき)が執筆を頼んだというのも、すでに特異な思想家としての老子の名は周辺に知れわたっていたからであろう。でなくて、どうして伊喜は執筆依頼などを思いきって言うであろう。これも作り話だといえばそれまでであるが……。いずれにしても何んらかの自他の動機…きっかけがあって書物は書かれて残ったのだ。たとえ「自己を隠して無名であることを要務とする」ことに徹していたとしても。
憂世の哲学者! 『老子』第二十章で老子は、「学ぶことをすてよ。そうすれば思いわずらうこともない。」「唯(はい)と阿(ああ)というのとが、どれほどのちがいがあろう。善と悪とのちがいだって、どれくらいのものであろうか。[他人の畏れ避けることは、わたしも避けなければならない]というが、なんと〈真理〉から遠いことよ。それでは、どこまでもきりがないだろう」。すべてはみな道のさらに奥…玄…〈一なるもの〉から生み出された現象界のもろもろだ。玄のなかから眺めれば、それらにどれほどの違いがあろう。「多くの人は楽しそうに笑い、お祭りのいけにえのごちそうを食べ、春の日に、高い台から見はらしているようだ。」しかし「私はひとり身じろぎひとつせず、何の兆しも見せないでいる。まだ笑ったこともない赤子のようだ。」そして「ふわふわとぶらさがり、」人間社会の「どこにもくっついていないかのようだ。すべての人はあり余るほどもっているのに、私ひとりは何も彼も失ってしまったようだ。」「私の心はまったくの愚かものの心なのだ。それほど私の心はなまくらなのだ。」「世の中の人々は光り輝く(かしこい)人ばかりなのに、私ひとりは暗い(無知)のだ。」「人びとは活発ですばしっこいのに、私ひとりは心がもやもやしている。大海のように動揺し疾風に吹きまくられて、とどまれずにいるみたいだ。私ひとりは扱いにくいいなかもののようだ。」と、世の中を基準にした自分の立場と心境を吐露する。しかし、ここでわれにかえり、やおら逆転して、「だが」と言う。「私には他人とちがっているところがある。それは[母]なる〈道〉の乳房に養われ、それをとうといこととすることである」。まさに道と一体になり、そして〈世〉のなかに眼を向け、シニカルに賛美しつつ、道の住人の孤立を憂いながらも、〈道〉を生きることに究極の安心を確信してそれに徹するのだ。
老子の人間像を描いた後世の作品のなかでは、わたしには牧谿(正没年未詳 伝歴は不明な点が多い。宋時代末期から元時代初期に活躍した禅宗画家)の描いた老子像が実在の老子にちかいような気がする。それは激しく、野性的で、何かをうったえているかのような表情だ。その頃──同時代には文人画家や宮廷画家のように大きな勢力を占めなかったものの、五代末北宋の巨然(─?─九七六〜九九二─?)や劉生もうらやんでいた八代山人(一六二六〜一七〇五)などのように、時代の転換期に現れて、優れた作品を残した僧侶画家が存在したが牧谿もそのなかの一人である、と小川裕充は書いている。老子の姿にたくした画家牧谿その人の反映ではないかという人もいるが、しかしわたしには、道の住人として世のなかを憂いる哲学者─アウトサイダー─老子をいたずらに聖人化することなく、生々しく描いているようにも感じられるのである。これに比べると、よく見かける『「老子出関の図』(画院画家であった商喜が明代宣徳朝一四二六〜三五頃に描いたものとして知られている)は『史記』の伝説を美化して再現した芝居の一場面のような作品だ。職を辞して隠者になろうとする老子に従者などがあったかどうかわからないが……それに、その時このような高齢であったかも疑問であるが、この絵では、牛車に引かれた老子は気品のある白髪の老人だ。関の人たちにも恭しく迎えられている。 (以上)

老子出関図 商喜 明代1426〜35年頃(熱海美術館蔵) |
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