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第103号を、2009年01月05日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=浅田さんの主張の中心は、『古い「既得権」に変わるこの時代に適合した合理的な「権利」を、「選挙」や「議論」を通して導入することで、米国のオバマ次期大統領と同じように、日本の社会の変革を図ることが可能である。』ということのように思いました。しかし、私としては、この認識にかなり疑問を感じます。理由をいくつか述べます。まず、日中・太平洋戦争について、軍部や内務官僚の組織の暴走を許したことへの反省が国民として全くないように感ずることです。GHQから憲法第9条を与えられたので、それでもう戦争しなくて済むといった安易な発想のみが先行し、官僚組織の暴走にどう国民が歯止めをかけることができるのか、そうした仕組みを構築しようとする気概が欠けていると感じます。また、言及のあった二世や三世の家業的国会議員への批判については、そういう議員を当選させない見識を国民は本当に持っているのかと言えば、否と思わざるをえません。マスコミのあり方として、事故米の問題などで、民間会社の社長の謝罪の模様は何度もTVに登場しますが、農水省の官僚が謝罪に登場することはありません。マスコミは叩きやすい表面的な部分を叩いてよしとしているようです。一方、全国紙のような新聞では、官僚がリークする情報を政党などより早く、あたかも決定政策のように大々的に報道します。TVの政治討論会のような場でも、政治家たちがもっともらしいことを言いますが、実施部隊である官僚は登場しません。また、省益よりも国益を優先するとか首相が言っても、その国益は、霞が関官僚組織の利益であって、国民一人ひとりの幸福ではないような印象を受けます。欧米の政治家は、国益からさらに地球社会のあり方まで踏まえた見解を表明し、説得力や協賛を得ているのと比較すると、官僚の作文に乗っかった日本の政治家の見識はどうしても狭いものになってしまいます。
明治維新は、西欧列強の脅威という外圧が、一部の人たちの眼を覚まさせ原動力となりました。今の日本の社会に、そうした変革を推進する眼を覚まさせてくれるものはなんなのか、考えさせられました。
薗部さんの論文=私は、以下のような文章に、人間の美意識とか、人間存在の根底を示唆するものがあるような印象を受けました
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『しかし現象としての人間でありながら〈道〉の本体を見てしまった者──そしてそれと一体になってしまった者は、相対的価値観によって成り立っている人間社会のなかでは精神的に孤立する。けれども、いったん見てしまった者は、もはや見るまえの自分に戻れない。見者の宿命だ。心に見えたものを見ないと…つまり真実を偽って生きることはできない。』
『彼は、他人の目に余る不法を見ながらも、もし何とかして自分自身が、不正と不敬行為に汚されまいままこの世の生を送ることができれば、そしてこの世を去るにあたっては、美しい希望をいだいて晴れ晴れ心安らかに去って行けるならば、それで満足するのだ」と。』
『〈美〉を見てしまった者もまた同様である。〜「物をそのまま見ない人の気がしれなくなった」。〜同じものを見ても、現象の美をとおして母体の美を直視する眼と、もろもろの個物の美にとらえられてそれを相対的に見る眼では全く違って見える。そしてまた既成の美意識をとおして見るのでは、さらに違って一段と母体の美からは遠ざかる。』
『〈道〉でも〈美〉でも、いったん見てしまった者はもはや見る前の自分にもどれない。だから、その眼に見えたとおりを言葉にして言うと、世間一般の見方と逆になる。そしてことごとく衝突し、嘆きはやがて絶望になる。』
『しかしわたしたちは、真の〈道〉や〈美〉を知る前に、まずいろいろな一般的な道や美を知りすぎている。〜しかしこの旅路では、最もよく踏み慣らされ、最も人通りの多い道ほど、どれもみな最も多く人を迷わせるものである。」』
『それにしても、視覚のほかはすべて非映像的な五感の感知したもの、あるいは混沌とした心理状態などを、あんなに鮮明で意外性にみちた映像として創作するのは、いったい人間のどんな器官によってであろう。』
『冒頭から人間とその社会をつなぎ合わせている言葉の約束的意味を全否定して語りだすのだ。そして「人々はだれでも美しいものを美しいものとしてわきまえているが、実はそれは醜いものなのだ」と言い切る。さらに「世間でいう善とか美とかいうものは、みな確かなものではなく、それにとらわれるのはまちがっている」』
『しかし、ここでわれにかえり、やおら逆転して、「だが」と言う。「私には他人とちがっているところがある。それは[母]なる〈道〉の乳房に養われ、それをとうといこととすることである」。まさに道と一体になり、そして〈世〉のなかに眼を向け、シニカルに賛美しつつ、道の住人の孤立を憂いながらも、〈道〉を生きることに究極の安心を確信してそれに徹するのだ。』
今日、私たちは、生命としての基本である自然からどんどん乖離した存在に変貌しようとしていると思います。こうした状況の中で、人間はその存在の根元としての美とか共同体を作り出すやさしさとか、そういったものを改めて問い直す必要性を感ずる中で、こうした示唆は貴重だと感じました。さらにこうした美意識ややさしさのようなものは、人類の古来から普遍的なものなのか、自然と乖離する中で新たな変容を求められるものなのか、といった疑問が湧いて来る思いも否定できませんでした。
(以上 記 深瀬)
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