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これからの日本の社会、地球社会のあり方を考えるために、以下、三つの側面から検討を加えてみたい。
[自然から急速に乖離する現代社会]
ミトコンドリアDNAの分析から解明されたように、アフリカ東部で誕生した人類は、かなりの短期間のうちに、ヨーロッパ、アジア、そして、ベーリング海峡を渡って北米、そして、南米大陸の先端までその生存範囲を拡大していったようである。そして、人類は、その土地土地の特性に基づいた自然の循環と恵みに、必死に適応しながら、その生存を維持してきた。生命としての基本的な免疫防衛システムの強化とともに、生贄や収穫の一部を祭壇に捧げ、そうした自然の恵みの継続されることを謙虚に祈った。このように人類は自然の脅威と恵みのもとで、その生存を維持するために涙ぐましいまでの努力を図ってきた。
こうした人類の生存のための営みは、農業、漁業、牧畜業、林業、および、簡単な手工業などの第一次産業と呼ばれる活動を基本として長い間続けられた。そして、近代ヨーロッパで起こった産業革命は、蒸気機関のような火力エネルギーを活用して、綿織物の大量生産や製鉄技術の進歩に基づく造船やインフラ整備などを可能とした。こうした科学技術の進歩に支えられた新たな産業の登場は、植民地獲得、帝国主義、プロレタリア運動、社会主義革命などの新たな社会運動を引き起こした。それは、第一次、第二次世界大戦という20世紀を「戦争の世紀」と言わしめるほどの大量殺戮を伴う悲劇をももたらした。
こうした重化学工業を核とする第二次産業において、日本は、物作りの創意工夫の巧みさもあり、戦後、自動車産業、家電産業などの分野の成功によって、旺盛な外需に応えることによって貿易立国としての基盤を構築することができた。こうした成功に基づいて、田中角栄首相時代の列島改造論に象徴されるような全国の道路整備などの公共インフラ整備が大々的に推進され、地方の隅々にまで立派な道路が建設され、車社会となり、その生活形態を一変させることになった。それは、かつての農村や漁村の共同体社会を崩壊させ、郊外の大型ショッピングセンターは地方都市の中心市街地をシャッター通り化し、過疎化は限界集落の多発をもたらし、さらに、米国のプランテーション農業方式によって大量生産された安価な輸入穀物は、農業という営みの存続の前に立ちふさがり、耕作放棄地の増大を招いた。全国の駅周辺は、かつてのその地方都市の独自の味わいを失い、同じようなターミナルビルとハンバーガーショップやコンビニに象徴されるような画一的な街並みへと変貌してしまった。こうした傾向は、日本に限らない世界的傾向と言うことができるようである。
こうした傾向は、さらに、IT技術の進歩によってさらに洗練され、空調のきいた高層タワー型マンションの一室で、インターネットに接続されたパソコンに向かって仕事をするといった生活様式に象徴されるような自然や大地とともに営まれてきた人間の生活様式を一変させるような事態をも引き起こしつつある。身近な自然は、人間自身の肉体と、ペット、観葉植物、熱帯魚のみといった感じになりつつある。数万年にもおよんだ自然の大地の恵みの中で営まれてきた人類の生活様式は、こうした自然とは乖離し、iPS細胞を利用したバイオ技術に基づく医療技術などによって肉体という自然そのものさえ、なにか人工的なものに置き換えられようとしている。こうした人類の歴史の中に大きな比重を占めた自然と乖離することは、人間の謙虚さ、美意識、精神的安定、やさしさといったものに、どのような影響を及ぼすのであろうか。日本の社会における地方の再生やなくならないいじめの問題といった課題も、こうした人間存在への根本的な問い直しを踏まえないとうまく解決できないのではないだろうか。自然と乖離した人間存在をどのように捉えるべきなのかは、哲学的問いかけとも言えるが、人間の精神的安定さや美意識ややさしさを維持していくためには避けては通れない問いであるように思う。
[マネーの奔流にのみ込まれる人間疎外]
社会主義陣営の盟主であったソ連邦が崩壊し、一気に、自由主義経済、市場原理主義、自由競争、自己責任といった言葉に象徴されるような競争原理を積極的に容認する社会風潮に転換した。サッチャー首相やレーガン大統領、そして、郵政民営化を掲げた小泉改革といったものも、こうした潮流の中に位置づけられるだろう。その一方で、社会主義は、社会に対して魅力ある商品を生み出さないし、無競争の中で品質もよくならないし、低価格化の努力もなされず、非効率で退屈な社会しかもたらさないという見方が浸透したと言えるだろう。
こうした社会風潮は、具体的に身近なところでは、次のようなものをもたらした。第一に、?アウトソース、?固定費としての人件費を削減するための非正規社員の活用、?生産拠点の海外移転、などといったコスト競争力強化のための仕組みの積極的導入である。第二に、国家や政府は小さい方がよく、民営化できるものは、できるだけ民営化するべきだという市場を信頼することこそが正しいとみなされ、旧国鉄、旧電電公社、郵便保険金融事業などが民営化された。(私は官僚組織の権限や利権を削ぐという観点からは、是認したいと思う。また、イラク戦争における民間軍事会社の活用といった事実には、民営化の意味の逸脱を感ずる。)第三に、ホリエモンとか村上ファンドといったマネーゲーム的手法によるマネー獲得競争の風潮の強まりである。リスク分散を標榜する金融工学とか証券化とかレバレッジといった言葉に象徴される金融産業がもてはやされ、国家や政府も、こうした金融投資を戦略的に行うべきだとか、学校教育においても金融投資の知識を教えるべきだ、といった意見も出されるまでになった。サブプライムローン問題でこうした風潮には冷や水があびせられたが、マネーを運用して利益をいかに高めるかということへの価値観の共有は広く浸透したように感ずる。第四に、企業経営における資本と経営の分離がはっきり口にされるようになった。会社は株主のものであり、経営の目的は利益を追求し、それを株主に還元することが使命であり、その一環として、高い収益に貢献した社員には高い報酬で報いる成果主義の報酬体系が一般化し定着した。これは、勝ち組と負け組などの格差社会をより一層促進させる思想的基盤を提供した。
こうしたマネー重視の社会運営は、確かに社会の活性化をもたらしたとも言えるだろう。怠けている人は排除されるという緊張感をもたらし、常に、ソリューションの提供という具体的な貢献が人それぞれに求められるようになった。しかし、かつての第二次産業における劣悪な環境で単純作業を強いられた労働者と形態こそ違え、深刻な人間疎外をもたらすことは否定できないと思う。常に成果を問われる正規社員のストレス、いつ解雇されるか分からない契約社員の不安、常に新しい商品やサービスを創出し変化を作り出し競争に勝ち抜いていかなくてはいけない経営幹部の緊張の連続、といったものは、社会運営の効率化という錦の御旗のもとで、人びとの組織の中での歯車化を強いるものであり、人間としての尊厳を損なうものである。
こうした競争こそよい社会を作り出すという思想は、では、私たちはどのような社会のあり方を目指すべきなのかという問い掛けのないままに、ただ目先の都合や状況に適合してなりふりかまわず遮二無二突き進んでいる印象を受ける。人びとの欲望は過剰なまでに刺激され、消費者金融が広く活用され、目前の競争に勝つことや欲望を満たすことにひた走っている。理想や健全な希望をもつことのないまま、ただ熱にうかされたように行動するのでは、人類は滅亡に向かって突き進んでいるのではないか、という暗澹とした気持ちにならざるをえない。
[官僚組織による牧民的社会運営からどう脱却するか]
日本の社会は、基本的に、中国の儒教思想に根ざした「牧民の思想」による統制から抜け出していないと感ずる。すなわち、国民は、官僚組織によって統治される放牧された牛や馬のような存在であり、官僚組織は、国民の一人ひとりの本当の人間としての幸福を実現するためにはどうしたらよいか、ということを第一に考えるのではなく、官僚組織としての権限や権威をどう高めるか、ということを最優先事項として対応しているということである。中国においては、古来、皇帝とか天子とかが、官僚組織を従え、国家運営をいかに安定して行うか、といった現実的な問いが深められてきた。儒教、朱子学、陽明学といったその思想基盤においては、「修己治人」、「先憂後楽」、「聖人学んで至るべし」、「存天理滅人欲」などといった標語が掲げられ、そうした姿勢が社会の安定に資したことも否定はできない。これは日本の江戸時代においてもそうであったし、明治維新における世直し待望論の根底にも存在したと思われる。
こうした陽明学的なプラスの側面は、日露戦争終結くらいまでは作用したが、その後は、軍部や官僚組織の組織権限の強化の側面のみに堕し、天皇神格化や皇国思想に名を借りた閉鎖的組織の論理に埋没していき、満州事変や無謀な太平洋戦争に、組織の論理を最優先するという姿勢を反省することなく突き進み、国内にとどまらない多くの人びとに無残な死と悲惨な苦しみをもたらした。そして、戦後の経済復興においては、官僚組織はその使命感に燃えた活躍を果たしたが、戦前と同じように一度そうした活躍の場が失われると組織防衛を最優先するあり方に回帰した。産業界、そして第二に国民には、目先のほどほどの満足を提供し、自らの権限や経済的利権を保持することを、組織の背後で確実に推し進めた。
こうした官僚組織の牧民的統制のもとで、族議員と呼ばれる政治家は官僚の手の上で操られ利用されるだけの存在となり、人びとは公共工事などの当座の飴を官僚組織にねだる飼われた家畜と同じような存在になった。地方自治や地方議会も、官僚組織に飼い馴らされ、地方交付金や補助金をただねだる存在となり、議会も茶番的な運営に堕している。地方分権とかいっても、地方としてのヴィジョンもなく、安定して餌が与えられる状況を取り払われた後への不安に怯えるのみである。
やや極端な見方に過ぎたかもしれないが、こうした官僚主導の牧民的コントロールが継続する限り、日本の社会はもはや再生不能の状況におちいらざるをえないであろう。北欧のデンマークのように、高い消費税を払っても、政府がどのようにそれを使い、どのようなサービスを提供しているかチェックし、納得している社会では、高い消費税も許容されるだろう。しかし、高い消費税を払ってもそれがどう使われるか、納得を前提としない表面的な説明しかないままに受け入れることには抵抗感が強い。裁判員制度というのも、官僚組織の権威や権限を見せつけるために導入されたような印象であり、人びとの市民としての意識を覚醒しようなどという発想があるようにはみえない。フランス革命で芽生えた市民意識とか、北欧の人びとが政府の行動をチェックする意識とか、国民によって監視され、真に国民の幸福に資する行政サービスとはどのようなものかを真剣に考える政府のあり方とはどのように作られるのか、といった点が問われていると思う。そうした一人ひとりの主体的で全人格的な参加者意識を日本社会の特質を踏まえたものとして顕在化し、組織論理に埋没した官僚組織の統制から社会を解放するために、私たちはどのような創意工夫をすべきか、今、問われているように感ずる。 (以上)
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