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今年の春のことでした。百年に一度という未曾有の不況の煽りで、職を失い食べるものにも事欠くといった人がいるというニュースの後に、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)のための日本での練習試合に、平日にも関わらず2万人を超える観客が日本全国から宮崎県の地方球場に集まるといったニュースが報道されていました。
一方では厳しく悲惨な現状がありながら、もう一方には気楽で豊かな暮らしが存在しているという、このコントラストの強さが、いまの日本の現実ということなのでしょうか?
確かに、困っている人たちはいる。しかし、そういうものとは全く無関係に暮らしいる多くの人たちもいる。なにか、もう一つリアルな実感がないままに日々の時間が流れていっているように感ずるのは私だけでしょうか?
今から八十年前。千九百二十九年十月にアメリカで起きた「ブラックサースディ」。この株式の大暴落をきっかけに世界同時不況が始まりました。結果、脆弱な日本経済をも呑み込み、日本国内の経済にも深刻な影響を及ぼし、その経済不況が、その後の日本の軍隊の大陸侵出に繋がったと歴史では述べられています。
実際、アメリカも含め、世界の経済は壊滅的な打撃を受け、その回復には第二次世界大戦という地球規模での戦争が必要だったなどという研究もされています。
そして、今回のアメリカ発大不況は、麻生首相の言葉を借りれば「百年に一度の大不況」ということになっていますが、現在のところ、八十年前に起きたあの大不況に比べ、日本国内に関してはそれ程大きな影響を及ぼしていないというのが、多くの日本人の実感ではないかと思います。
八十年前との違いは、「大不況」という大きな波に日本社会が襲われたことは間違いないのですが、そのマイナスの影響を受け止めることが出来るだけの経済的な豊かさを私たちが獲得していたということなのでしょうか?
それとも、首相の言葉が少々大袈裟で、それ程に深刻でもないことを敢えて深刻に宣言し、自らの経済政策の妥当性を明らかにしようとしたパフォーマンスだったということでしょうか?
これは、まだはっきりとした結果は出ていません。ある経済学者によると、混乱はまだ序章であり、これから数年掛けさらに深刻な事態が訪れるという悲観的な予想がある一方、別の経済学者は、もう混乱は収まりつつある。今年の終わりには経済も回復し、再び好景気の波が訪れるという楽観的な予想もあります。
勿論、あくまでも「予想」ということですから、どちらが正しいのか専門外の私には分かりません。ただ、今回の大不況の訪れも、それが現実になって初めて多くの人たちに認識されるといったものですから、端から「予想」というものは当てにならないものだということは私にも分かります。
さて、二つの現実がいまの日本の社会にあるという話から始めましたが、これは別にいまに限ったことではなかったように思います。かつて、八十年前の日本においても、一方では悲惨な現実がありながら、もう一方では、そういうものとは無縁にのんびりと豊かに暮らしている人たちも多かったということです。
つまり、私たちは過去の歴史を振り返るとき、ある結果に繋がる原因のみを探し当て、それでもって合理的に結果を説明しようとする傾向があるということです。
例えば、大不況で農村が疲弊し、それがきっかけで青年将校の不満が高まり、二・二六事件が起き、それが軍部の台頭を許し、最終的には太平洋戦争への破滅の道を歩んだのだと。
確かに、この叙述は間違ってはいません。でも、少々単純化する余り、事の本質の一面しか見ていない欠点があります。また、これとは全く逆の歴史認識ですが、前自衛隊最高幹部が論文で発表した「日本は侵略国家ではない」といった叙述も同様の欠点があります。
しかし、多くの人たちに歴史を理解してもらおうとすると、こういった簡略化・単純化は必要不可欠です。そして、細かいことには多少目を瞑って、大きな事柄だけを繋いでいくことで、一本の道にしようという方法が取られ、そして、やがてそれが定着していくというのが現実のようです。
それともう一つ、あるカテゴライズされた言葉を使用することで、本来、その中には種々雑多な思想や考え方がありながら、そういうものを捨て去り、自分たちに都合の良いものだけを残そうという思考方法です。
例えば、「軍部」という言葉があります。この「軍部」は多分、現在の「霞ヶ関」といったものに近いカテゴリーだと思います。「軍部独裁」といった表現をしますが、これは別に一人の独裁者が君臨しているというより、合議に基づいた組織であり、ある意味で、官僚制の純粋結晶と言っても良い組織であり、意志決定機関であると思います。
さて、官僚制ということであれば、その組織に帰属している構成員は独断で事を為すことはできません。つまり、必ず上司の決裁が必要になるということです。特に、軍隊のように武力を有した組織であるなら、その命令系統は絶対的なものです。
部下が上司の命令に背くと言うことは、犯罪行為であり、それを許してしまえば、軍隊という組織が成立しないくらいに致命的犯罪と言うことになります。
さて、こういう組織である「軍部」。この「軍部」の意向で、中国大陸への侵略戦争が始まったということになっていますが、事はそう単純なものだったのでしょうか?
いま、歴史を振り返るときに、私たちがつい陥ってしまう思考の落とし穴について考えてみましたが、実は、これはなにも過去の歴史についてだけでありません。
現在進行形の事件等に関しても、同様の誤りを犯していることに、最近私は気が付くようになりました。その一つの例は、つい先日起きた「北朝鮮の飛翔体」に関しての報道を含め、日本政府などの対応についてです。
私は、この「北朝鮮の飛翔体」を巡る一連のマスコミの報道を見ながら思い出した言葉がありました。それは「大本営発表」という言葉です。
私自身は、戦後に生まれたことで、直接、それをラジオニュースで聞くことも新聞の紙面で読むことはありませんでしたが、ドキュメンタリー番組や歴史書により、これまでにこの「大本営発表」というものを何度か耳にしたり読んだりしてきました。
この「大本営発表」という言葉ですが、戦後において、これはマイナス評価の言葉、悪いイメージの言葉として使われてきました。真実とは異なった、自分たちに都合の良い報道を流すこと。これが「大本営発表」のニュースと言うことのようでした。
事実、戦中において勇ましく各家庭に届けられた「大本営発表」は、戦争が始まった当初は、正しい報道もあったようですが、戦局が日々悪化していく中で、捏造され、曲げられ、事実とは正反対の報道がなされたようです。
そして、その事実を薄々は分かりながら、それが誤りであることを指摘できず、命じられるままに、各報道機関は、その嘘のニュースを報道し続けたというわけです。
戦後、その点についての反省が起こり、そういう事実に基づかない報道ではなく、きちんと事実に基づいた報道を行うことが、マスコミの使命であるなどと言われてきました。
そのことで、国民大多数も、マスコミへの信頼を回復し、マスコミが報ずるニュースは正しいものであるといった共通認識を持つようにもなりました。
しかし、事実はそうではなかったようです。実は、戦後も「大本営発表」は継続していました。さらに、テレビといった新しいメディアが登場してくる中で、益々、そういった傾向は強まったように思われます。ただ、そうは言いながらも、マスコミの現場では、そういう「大本営発表」を検証するような動きがあったことも否定はしません。
でも、今回の一連の報道を眺めていると、現場の段階においてもこの「大本営発表」に抵抗し、独自の視点で、現実を報道するといった取り組みがほとんど消えかかっていることに改めて気が付きました。
さて、一つの素朴な疑問を提出したいと思います。北朝鮮の発射したミサイル?人工衛星?まあいずれにしろ日本上空を過ぎっていった飛翔物体は、本当に、マスコミ報道や政府見解のように、日本にとって脅威なのでしょうか?
確かに、その先端に核爆弾を付ければ、核ミサイルとしての脅威はあると思いますが、それなら、日本上空を過ぎり、二千キロも離れた太平洋上に落下するほど高性能のミサイルよりも、もっと射程距離の短いミサイル実験に何故騒がなかったのでしょうか?
実は、もう十年以上も前に、テポドンではなくノドンという射程距離の短いミサイルを北朝鮮は打ち上げに成功しています。つまり、戦略核という点では、北京、ソウル、東京も十数年前から北朝鮮のミサイルの射程内に入っているということです。
つまり、その気になれば、いつでも北朝鮮は「ソウルを火の海」にすることは可能ですし、日本国内のどこかにミサイルを撃ち込むことも可能になっています。
ところが、今回の一連の騒動を眺めて見ると、突然、こういった脅威が自分たちの周囲に起きたといった対応でした。これまで安全であったものが、突然、危険なものに変わったといった慌てぶりでした。
でも、冷静に考えてみれば、今回発射予定のものより、十数年前に発射されたものの方が、何十倍も脅威であったことは理解できるはずです。ところが、そういう視点での報道はほとんどされていませんでした。
さらには、ミサイルが日本国内に落下するかも知れないという仮定に基づき、自衛隊が所有する迎撃ミサイルが、市民生活のど真ん中に持ち込まれ、まるでそれが私たちの安全を確保する重要なアイテムであるかのようにも報じられました。
そして、いつもならそういう武器の配備や配置に反対を表明する政党や市民団体もほとんど声を上げることなく、当然のようにこの事態が合意され認知されました。
さて、もう一度問いかけてみたいと思います。本当に北朝鮮の飛翔体は、私たちにとって脅威なのでしょうか?
今回、私が注目したのはアメリカの反応でした。日本では連日新聞紙面のトップで報じられていた北朝鮮の飛翔体発射に関して、アメリカではほとんど話題にもなっていませんでした。
さらに、アメリカの国防相がテレビのインタビューに対して、今回の件で、「我が国に関しては一切の脅威はないので、なんの対応もしない」と答えていました。(但し、日本海及び太平洋上にはアメリカのイージス艦が配置されていました)
仮に、日米安全保障条約という条約により、今回の飛翔体が、同盟国である日本になにらしかの危険をもたらす可能性があるものであったなら、アメリカはその危機に対してなんらかの対応を行うことになっていたと思います。
もし、危険がありながら放置するということであれば、それは、日米安全保障条約に大きく違反していることであり、その事実が分かり次第、北朝鮮への抗議よりも、まず、アメリカに抗議することの方が必要のように思えますが、どうも、そういう抗議もないということは、そういう違反もなかったということのようです。
ここで、もう一つ、今回の発射に関して、北朝鮮は中国、ロシア、アメリカには発射通告をしましたが、日本には一切しませんでした。これについても、日本国内では北朝鮮の対応について、「日本を無視している」といった感情的反応が主流のようです。
でも、冷静に考えてみれば、今回の飛翔体発射は、別に日本に向けて脅威をアピールするものではなく、アピールしたいアメリカに向けて通告するという北朝鮮の行動は、極めて合理的なものに思えるのです。
つまり、今回の発射は、国内向けには「金日正体制」維持のための引き締めをアピールすることであり、もう一つはオバマ政権となったアメリカへ、自国のミサイル技術の能力を誇示するという二つの目的しかなかったということです。
ところが、自国の頭上をミサイルが通過するという事態に、そういう冷静さを失った日本人は、かの国の意図を理解せず、ただただ慌てふためき、騒ぎまくりました。これは勝手な想像かも知れませんが、そういう日本人の姿に、多分、かの国の人々も苦笑いを浮かべているように思えてなりません。
ここまで北朝鮮の「飛翔体」の問題について書いてきましたが、それではこの一連の事件で明らかになった報道の問題とはなんでしょうか?
私には問題が三つあるように思います。まず、一つは発信側の問題です。今回、アメリカの偵察衛星が撮影したという写真が何枚も公開されました。ただ、その写真は不分明なもので、詳細が分からない写真でした。こんな解析度の低い映像を垂れ流していながら、ほとんどこのことに言及するマスコミはありませんでした。
つまり、本当はもっと解析度の高い写真が存在し、それを見れば今回のミサイルがそれほど危険性の高いものでないことは分かるはずなのに、敢えて、解析度の低い写真を流すことで、不安を煽りたいという政府の方針に迎合していたということではないでしょうか?
今回、テレビの報道の中で、こういう軍事機密に関する写真は、アメリカ軍の許可がなかったら配信できないということを専門家が語っていました。それは、逆に言えば、鮮明な映像はあっても、アメリカ軍の意向で、それが配信されないこともあるということです。
多分、もっと解析度の高い写真はあったと思います。そして、それを検証したからこそ、アメリカの国防相は「脅威はない」と断言したということでしょう。しかし、日本ではそうは報じられませんでした。逆に、脅威を煽るプロパガンダに利用されたのです。
それでは、このプパガンダは自衛隊が行ったものなのでしょうか?確かに、そういう一面もあると思いますが、自衛隊というより、迎撃ミサイル配備を推進したい勢力が仕掛けたプロパガンダのようにも推測できます。
例えば、軍事産業により大きな利益を得ている企業。国防族という政治家たち。さらには、危機管理に必要な通信設備やIT技術を売り込もうという企業。そういった人々の思惑が一致する中で、今回の世論誘導が行われたように思えてなりません。
そういう意味で、このプロパガンダにまんまと乗せられ、「脅威」の大盤振る舞いをしたマスコミ報道は、かつての「大本営発表」とほとんど変わらないものに思えるのです。
次に、受け手側の問題を考えます。今回の騒動で多くの市民から発せられたコメントの中で、とても気になる二つの言葉がありました。それは「怖いですね」「不安です」という二つの言葉でした。
ニュースの際に、必ずそういったコメントが準備され流されていました。勿論、これは「ヤラセ」ではなかったと思います。本当に、インタビューに答えた人たちはそう感じていたことと思います。
でも、なにが「怖く」なにに「不安」なのかという質問はほとんどされませんでした。まるで、お天気の話をするような調子で、ほとんど人たちがこの言葉を口にし、それをマスコミも当たり前のように流していました。
正直なところ、私にはなにが「怖く」なにに「不安」なのか良く理解できませんでした。上空からなにか飛翔体が落ちてくるということが怖いなら、多分、空港の付近に住んでいる人たちの方が、より一層「怖く」「不安」だと思います。
また、核を搭載していることが「怖く」「不安」であるなら、原子力潜水艦や原子力空母が寄港する基地周辺に住んでいる人たちの方が何倍も「怖く」「不安」だと思います。また、原発施設の周辺住民の方が何十倍も「怖く」「不安」だと思います。
どうでしょうか?私には市民の人たちが口にしている言葉に切実さを感じられませんでした。多分、それ以外にうまい言葉が見つからなかったから、こういう漠然とした言葉を使うしかなかったのでしょうか?
いずれにしても、彼らの語る「怖さ」も「不安」も、中国の故事にある杞の国の住人で、いつ空が落ちてくるか不安だと訴えた人のように「杞憂」に過ぎないものに思えると断定するのは言い過ぎでしょうか?
つまり、私たちは正直なところ正しい事態を理解せずに、与えられた情報を鵜呑みにして、感情的な言葉を口にしているということのようです。かつて、戦前の情報が統制されていた時代を経験していながら、どこかまだそういう上からの情報のみを信頼したいという気持ちが強いと言うことでしょうか?
いずれにしても、こういった無批判に情報を受け取り、知らぬうちに型にはまった考え方や行動を取るということについては、北朝鮮の人たちと余り変わることはありません。それ故、私たちが一方的に彼らを嘲笑することは出来ないように思えるのです。
勿論、自分たちは自由で民主的な国に生まれ、そこでなんの偏見もなく生きていると信じたい気持ちは理解できます。しかし、現実はそうではないことにもっとしっかり目を見開くことが、この「大本営発表」から身を守る方法に私には思えるのです。
そして、最後に国際関係における情報についてです。これはアメリカがイラクに戦争を仕掛けた時に、盛んに報道されたことがありました。それは「イラクは大量破壊兵器を所有している。それが世界にとって脅威であるから攻撃する」というものでした。
しかし、イラクを占領したアメリカ軍がどれだけ「大量破壊兵器」を探してみても見つかりませんでした。これは、最初からそんなものがなかったということだったわけです。
ところが、こういう濡れ衣により、アメリカは軍隊を送り込み、日本は占領後の治安維持のために自衛隊を送るといった一連の流れが出来上がりました。そして、全てが終わった段階で、あれは濡れ衣だったという報道がされても、そのために亡くなった多くの人たちの命が戻ることはありません。
今回の北朝鮮の問題に関して、何が一番危ういかと思ったのは、そういう乱暴でわけ分からない国が側にあるから、その危険から自国を守るためには、先制攻撃しかないといった勇ましい議論がなされたということです。
戦後、軍隊は無くなり、自衛隊という名前の「専守防衛」に限定した軍隊(?)が日本の国内で認知されてきました。ところが、この先制攻撃論はそういうこれまでの思想を百八十度転換するものです。しかし、こういう勇ましい議論に表立って反対を表明するマスコミはありませんでした。 逆に、国民の間では、「やられる前にやれ!」式の機運を醸成する空気が生み出されています。
歴史を振り返ってみれば、戦争はそのほとんどが自衛のための戦争と位置づけられました。戦前、日本軍が中国大陸に侵出していったことも、その当時「満蒙は帝国の生命線」という国家防衛論が前提であり、日露戦争以来の仮想敵国ロシアから、日本を守るための手段として認識されていました。
だから、中国大陸に侵出し、傍目からは侵略戦争と見られた数々の事変や戦いも、それは全て「自衛のための戦争」であり、日本国の自立と日本人の権益を守るための正統な戦いであり、「侵略のための戦争」ではなかったという理屈も成り立つのでしょう。
しかし、これはもう一つの見方を無視した考え方です。何故なら、自国にとって「自衛のための戦争」であっても、相手の国にとってみれば「侵略のための戦争」という見方も一方では成立するのです。
勿論、こういう考えそれ自身が結果論であり、どちらが良かったとかどちらが悪かったとかいう善悪の問題に矮小化してしまうことは危険があると思います。確かに、日本が中国大陸に侵出しなかったら戦争は回避できたなどと確信的に言うことなど誰にも出来ないことです。
ただ、私たちが注意しなくてはならないことは、そういう危ういところでせめぎ合っているものが、国際関係であるということです。そのことを、私たちはもっとはっきり認識しておく必要があると思います。
そのためには、私たちはもっと情報というものを疑ってかかる必要があるのではないでしょうか?特に、複雑な国際関係に関わるような情報については、もう少し慎重に扱い、一時の感情に流されぬ冷静さが必要に思えます。
多分、かつての日本国民も政府の発表した「満蒙は帝国の生命線」という国防論を支持したということでしょう。このまま日本が侵出しなかったなら、ロシアがやってきてそこを占領し、やがてそれは朝鮮半島を呑み込み、日本にまで脅威を与えると。
それなら、そういう脅威に晒される前に、早めに日本が大陸に侵出し、未然に戦争を防ごうと。つまり、戦争を防ぐための戦いを先に起こそうというのがその理屈だったのだと思います。
こうして文章にするとなにか不可思議な理屈ですが、多分、これを聴いた当時の日本人は随分と納得したことと思われます。そこが、国際関係の一筋縄ではいかぬ所に思うのです。
実は、これは日本だけの問題ではありません。つい数年前にも、アメリカの人たちも、ブッシュが言い放った「戦争を防ぐための戦争」に賛成しイラクへの派兵を認めたわけです。つまり、いかにこの手のプパガンダが威力を持っているかの証明に思えます。
それ故に、少々くどいかも知れませんが、私たちは冷静に情報や報道を分析し、それに偏りや誤りがないかをきちんと検証する必要があると思うのです。
現在、日本は北朝鮮の制裁に関して、振り上げた拳の下ろし場所を求めて国連での交渉に臨んでいます。しかし、多分、日本の思い通りにはならぬ結果となりそうです。その時、またぞろ強硬論が台頭してくるのではないかと危惧しています。
勇ましいことを言うことは確かに「カッコいい」ことですが、そのために失うものの大きさを考えたとき、私たちには自制も必要のように思えます。
そして、私個人としてはかつてマルクスが書いたように「歴史は繰り返す、一度目は悲劇的に、二度目は喜劇的として」という言葉をじっくり噛みしめて行きたいと思っています。(了)
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