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第104号

2009年04月20日

「人類社会の急変貌〜科学と神の座標軸からの吟味」  深瀬 久敬

  1.社会の加速度的変化

 この10〜20年ほどの私たちの社会の変化のスピードはかつてないものである。そして、その変化のスピードはますます加速度がかかっているようである。具体的に言えば、次のような側面がある。

 (1) 地球温暖化が身近に実感されるようになってきた。猛烈な暑さや集中豪雨を伴う異常気象は毎年のように起き、北極海の氷はかつてない縮小を見せているという。昆虫や植物の生態系にも様々な異変が起きているようである。二酸化炭素の発生抑止への取り組みが本格化しつつあるとはいえ、回避の見通しはまだ明らかになっているとは言えない。

 (2) 投機マネーの嵐は世界経済を危機に陥れている。米国に発する住宅ローンや自動車ローンの不良債権を、高度な(?)金融工学を駆使して高い格付の証券化商品に仕立てるという手口は破綻した。そのつけが世界の金融市場を混乱に陥れ、製造業などの実態経済や米国への輸出に依存してきた日本経済や中国経済にも影響を及ぼし始めている。石油や穀物の資源市場や不動産市場も、投機マネーの引き上げで乱高下の様相を呈している。米国社会の身の丈にあった消費をわきまえない生活態度や金融業者が異常なまでの巨額の報酬を手にしていることにも問題があるようである。

 (3) パソコン、インターネット、ケータイ、薄型TV、等のIT分野の進歩は、半導体技術の発展とも相まって、目を見張るものがある。小型化、高性能化、高機能化は、まさに日進月歩である。検索技術に象徴されるような、こうしたIT技術の進歩は、コンビニ、宅配、ネット通販などとも相乗し、価格競争や新たなビジネス市場を創出している。その一方、競争に破れた商店街を消滅させ、闇サイトや学校裏サイトなどなんでもありの社会を出現させつつある。

 (4) 中国やインドなどのかつての途上国が、インフラ整備などに巨額の投資に走る中で、食料、石油、鉱物、水などの資源確保が切実な世界的課題になりつつある。石油や穀物の価格が乱高下したり、魚類の絶滅が懸念されたりしている。また、さとうきびを原材料とするエタノールが一般化したり、電池技術を駆使する電気自動車の開発が脚光をあびつつある。

 (5) 医療分野では、DNAや遺伝子の解読が進み、いよいよ医療への応用に凌ぎが削られようとしている。iPS細胞の活用、細胞生物学や脳科学の成果などを駆使した再生医療などのバイオ産業が世界中で展開されようとしている。

 こうした社会変化は、経済成長の推進、景気対策などを理由に必然のものとして「改革」という名のもとにビルトインされ、成長の鈍化は社会を停滞させるものとして絶対にあってはならないものと受け止められている。財政赤字の国家が、定額給付金といったものを配布してまで、消費を促す姿勢というものには、人間として素直には受け入れがたいものを感ぜざるをえない。


2.社会変化の原動力としての「科学」

 こうした加速度的に速まる社会変化の原動力となっているものは、では、一体何なのであろうか。私は、それは「科学」の進歩であると思う。では、「科学」の本質とは何なのであろうか。私が思うに、「科学」は、自然の特定の一つの現象面のみを切り取り、その現象の因果関係を数学的法則として表現し、理解したとするものである。コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、等の16〜17世紀のヨーロッパの科学革命の時期に、人類によって獲得された画期的な意識である。

 この「科学」について、いくつか補足をしてみたい。

 第一に、「科学」は、18世紀のイギリスの産業革命の頃には、まだ、リベラル・アーツとして、メカニカル・アーツとは独立の存在であり、直接、産業革命に貢献することはなかった。しかし、次第に、「科学」の知識を踏まえた、特定の目的を実現する技術に応用されるようになった。それが本格化しだすのは、米国の原子爆弾開発を目的としたマンハッタン計画である。それ以降、技術開発は、巨額の資金投入のもと、計画、実行、確認、評価(PDCA)のサイクルに則り、産業競争力を高めるために国家規模で推進され、また、企業レベルにおいても新製品開発などの企業活動の基本として定着するに至っている。

 第二に、「科学」の意識は、人類によってどのように獲得されたのか、という問題である。プラトンのイデア論やアリストテレスの「不動の第一動者」としての神の概念が、キリスト教の神の存在証明などに取り込まれる中で、理論的な精緻化が進み、さらに、プラトン以前のギリシャの人間のありのままの姿が見直されるというルネサンスを経て、次の段階の宗教改革を通して、初めて獲得されたものだと思う。宗教改革においては、個人は聖書の理解、等を通し、個人の信仰のあり方そのものによって義とされるという信仰義認論が標榜された。そこでは、神と個人とが直接、一対一で対峙することになり、勤勉に働けば天国に入れるといった神との契約も一人の個人として引き受けるものになった。こうした態度は、神と個人との対等的な対峙の姿勢を含意し、その中で、瞬間的であったにしても、人間が神の視点をもつという結果を招いたのではないだろうか。それが、自然界の現象を、なんの畏怖心もなく、客観的に定量的に観察することを可能ならしめたのではないだろうか。神を、この世界の全てを支配する存在として、畏敬の念で観ている限り、こうした不遜ともいえる意識をもつことは不可能であったと思う。こうした意識は、人間中心主義の思想を生み出した。(注。旧約聖書にも、人間が全ての生物を支配することが記述されているが、「科学」を前提とする人間中心主義は、もっと強いものである。)それは、西洋近代を支配した、理性とか精神とかに象徴される人間観であり、植民地主義などを支える思想ともなった。ニーチェやハイデガーは、こうした人間中心主義に異議を唱えたし、20世紀の構造主義などの新たな思想によっても、否定された。また、最近では技術文明が進み、環境問題が叫ばれる中、再吟味の傾向も顕在化してきている。

 第三に、こうした「科学」の視点は、対象から離れて、その対象の示す様々な現象を切り出して定量的定性的に理解するものである。従って、その対象をいくら細かく切り刻み、より多くの様々な現象を理解したとしても、総体として対象を理解したことにはならない。むしろ、対象を細かく切り刻めば切り刻むほど、総体としての対象の理解からは遠ざかってしまう。こうしたジレンマは、人間の欲望がいつまでたっても満たされないという状況にも通じる。禅の捉え方とか、東洋医学のアプローチとかは、全体を一つのものとして捉えることを重視する。美しいものを観て感動する人間の美意識とか、生かされている喜びへの深い感謝の念とかは、こうした一つのものとしての存在を前提として初めて可能となるものである。カントやマルクスといった人たちは、現象の世界だけで、全ての問題を解決しうると誤解したのではないだろうか。

 第四に、「科学」の意識の獲得は、自然への畏怖心を追いやってしまった。狩猟採集民族にみられるように、自然の恵みによって活かされているという意識を持っていた頃には、自然に畏怖心を抱き、社会にはタブーがあり、その一線を越えてはいけいなという強い自制心があった。しかし、「科学」は、こうした自制心を払拭してしまった。なんでもありの競争を容認し、歯止めというものを失ってしまった。経済成長がビルトインされ、こまねずみ的な存在になってしまった。本当の自分を探して、無限のたまねぎの皮を剥き続けるような状況に置かれてしまったのではないだろうか。


3.「科学」の概念の前提とする「神」の概念

 では、「科学」という意識をもたらした場面における「神」というものをどう捉えればよいのか、私なりに考察してみたい。

 第一に、「神」とは、私たちが、いかに現象としての世界を理解し、理解しつくしたとしても答えのない問いを担ってくれるものと捉えてはどうだろうか。たとえば、「宇宙はなぜ存在するのか」という問いは、ノーベル賞を受賞した「クォークが6種類存在するから、粒子と反粒子の対称性がくずれた」という小林・益川理論が、ジュネーブにある欧州原子核研究機構(CERN)の衝突型加速器「大型ハドロン衝突型加速器」(LHC)によってビッグバンの再現実験を通して、さらに検証されたとしても、なぜ、誕生したかには答えてくれない。同じように、「生命はなぜ存在のか」とか、「人間はなぜ存在するのか」とか、「人間の意識はなぜ生まれたのか」といった問いへの答えをもつことは、現象としてのそれらのメカニズムがいくら解明されたとしても、永遠にできないだろうと感ずる。

 第二に、「神」と一人の個人として向き合う姿勢は、自然を現象として客観的に観るという意識ももたらしたけれども、一方、神と向き合っている自分のあり方を反省する機会を与えてくれもするという点に留意したい。なにかごまかしてはいないか、調子に乗りすぎてやりすぎているのではないか、虚栄心に走り無理しているのではないか、などといった反省である。さらには、自分が生きている社会に、おかしなことが行われているのではないかといった眼をもつことも可能になる。すなわち、自らの個としての存在を根底から再吟味する場を提供してくれる。

 第三に、社会的な組織との関係については、神と個人とが向き合う中で、契約的に提示される内容と、自分が社会的に特定の組織に所属して行う契約的内容とには矛盾があってはならない。その組織として、社会的に、ごまかしがあったり、行き過ぎがあったら、組織のメンバーとして、その是正を求める態度が必然的に醸成されることになるだろう。

 第四に、「神」と一対一に向き合い、個としての存在を自覚することを伴う「科学」の意識は、人類が、通常の意識を獲得した事件につぐ、第二の画期的な覚醒であることを正面から理解することである。そして、その理解は、人類全体によって普遍的に自覚されるべきである。ここで、通常の意識とは、旧約聖書の創世記の第三章に書かれている「自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」という著述に象徴されている意識である。こうした「科学」の意識は、まだ人類普遍の意識とはまだなっていない。たとえば、日本の社会では、改善されつつあるとはいえ、世間はあっても社会はないし、庶民はいても市民はいない。問題があっても、なりゆきでそうなったので、誰かの意志や責任がそうさせたという意識はない。「〜する」のでなく、「〜なった」と理解し、主体がいつも存在しない。誰がそうしているのか、誰がそう行っているのか、曖昧なままに放置されている。日本のものづくりの成功は、熱心な好奇心と創意工夫による部分が大きく、本当の「科学」の態度とはかけ離れているのではないだろうか。ロシアや中国の状況をみても、そうした意味で、個の確立は、困難な状況のようである。


4.まとめ

 「科学」の意識は、その画期的な異議にもかかわらず、まだ、人類に充分、普遍のものになっていない。また、ものごとを一つの総体として把握する能力も、禅や武道といった特殊な世界でのみ通用する段階に止まっている。私が思うに、人類は、本当の「科学」の意識と、ものごとを一つの総体として把握する二つの能力を、バランスよく身につけない限り、真の安定した平和な世界を実現できないのではないかと感ずる。10年後の私たちの世界は、どのように変化しているのであろうか。温暖化の状況、グローバルマネー、インターネットの世界、食料やエネルギー資源、医療サービス、等は、どのような状況になっているのであろうか。そして、30世紀ころの地球社会では、「科学」の意識は、どの程度、普遍的なものになっているのであろうか。ものごとを一つの総体として把握する能力とは、どのようにバランスされているのであろうか。

「負けること勝つこと(60)」 浅田 和幸

「問われている絵画(96)-絵画への接近15-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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