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第105号

2009年07月21日

「負けること勝つこと(61)」 浅田 和幸

   この文章が印刷され、手元に届く頃、まだ国会が解散されず、解散権を失効した麻生内閣は、自民党の党内からの「麻生下ろし」の大合唱の中で、「風前の灯」といった状態かも知れません。

 勿論、東京都議会選挙(7月12日投票)の結果によっては、それ以降の政治のあり方も大きく変化していくことと推測できるので、あくまでも現時点での憶測にしか過ぎません。

 しかし、そういった憶測に現実味が感じられるというところに、いまの日本の政治の置かれている状況があることも、これはまた否定できないことです。

 僕は、この「負けること勝つこと」というタイトルで、様々なことを取り上げて来ましたが、ここに来て、戦後の日本の政治において初めてと言って良いくらいに、「政権交代」といった言葉が現実味を帯びてきたように感じています。

 「政権交代」ということに限れば、かつて細川内閣が成立した時に、それまで政権政党であった自民党が初めて野党に下野し、新たな政治状況が生まれたことはありました。

 しかし、あの時は、なにか一種の弾みのようなもので、政権を奪取した方も、その後の政権運営に関しての確たる方法論もなく、さらには、細川総理のスキャンダルにより、形が出来る前に崩壊してしまったと言って良いようなものでした。

 そういう意味で、今回は、政権交代を唱える野党=民主党が、政権交代後の青写真を提示し、それに向かって政権交代を目指すのだという基本線がはっきりしているところが、前回の場合とは決定的に違っているように思えます。

 さて、この「政権交代」は、選挙の投票結果により明らかになるわけで、選挙に勝った政党が与党に、負けた方は野党になるわけです。だから、現在、圧倒的な議員の数を有している与党=自民・公明党は、なんとしても政権の座にしがみついていたい、それを守りたいと思うのは当然のことと思えます。

 ところが、不思議なことに、選挙に勝つという大前提がありながら、実際に与党=自民党が取り組んでいることは、全く逆の「負けること」を目指しているようにしか思えないことです。

 どうやら、勝負のタイミングがズレてしまったため、そのズレを縫い合わそうとすればする程に、どんどんズレが拡大し、勝負に討って出る前に自滅しているといったところでしょうか?

 こういう勝負のタイミングのズレですが、なにも政治に限ったことでなく、あらゆる勝負ごとに共通のものに思えます。ちょっとしたズレを修復できぬまま、どんどん傷口が拡大し、致命的な敗北を喫することをスポーツの場面でもよく目にします。

 ただ、スポーツに関して言うと、いくら致命的な敗北でも、命を取られるといった結果に繋がることはほとんどありませんし、また、挽回を行うチャンスも用意されています。

 しかし、政治、さらにはそこから派生する広い意味での戦いということになると、そう悠長なことを言ってはいられません。かつて、自民党の政治家の大野伴睦氏は「サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙で落ちればタダの人だ!」と喝破しましたが、政治家にとって、この勝負のズレは、政治生命を失うことに繋がるもののようです。

 そういう意味で、麻生総理の勝負への対応はズレまくっているといった印象が否めません。昨年、福田総理が二代続けて、任期の途中にも関わらず政権を投げ出した際、福田総理の目論見は、自分ではなく、麻生総理に解散をしてもらい、それにより与党が過半数を確保するといったシュミレーションに基づいてのものだったと推測できます。

 ところが、麻生総理本人もその積もりで臨んだ国会の会期中に、アメリカ発の経済危機が押し寄せて来たことで、突然、その方針を転換して、解散を先送りして、政権運営を行うという選択を選んだのでした。

 確かに、昨年のあの経済的危機は、従来のものとは違った大規模で待ったなしの危機であったことは間違えありません。ただ、その時の対処の仕方としては二つ方法があったように考えます。

 一つは麻生総理が選んだものです。しかし、もう一つ別の方法がありました。それは、この危機を乗り切るために、新しい日本のリーダーを国民が選び、そのリーダーの元で一丸となって危機に対処するという方法でした。

 勿論、時間的なロスは出てくることでしょう。でも、そういう初期的なタイム・ロスを補って余りあるメリットが、そこには存在しているのです。それは、危機に対し、自分たちが選んだリーダーを支えようという強い決意です。

 翻って、現在の政治的状況は、まさに真逆の状況となっています。自分たちが選んでいない正統性のない総理大臣が、漢字も読めず、決断も出来ないお粗末な人物だということがあからさまになったことで、リーダーに必要な求心力というものが皆無の状態なのです。

 それは、国民だけでなく、麻生総理を選挙で選んだ自民党の内部からも起こっている最悪の事態です。自分が選んだリーダーを、引きずり下ろそうと画策する人間が、日を追うごとに増えていくということ自体、自民党という政党が、政党の体裁を為していないということの証明のように思えます。

 つまり、国民は直接、麻生総理を選ぶ権利がなかったことで、その後生じた様々な問題で、麻生政権の正統性が担保されていない。さらには、それを選んだ自民党の国会議員自体が、その正統性を否定しようとしている。

 この二重の否定により、麻生内閣が、どのように新たな経済政策を企画し、実施しようとしても、それを支え、その目標に向かって一致団結するということが起きてこないのです。

 これは、日本の国民にとってはとても不幸なことに思えるのです。僕自身、麻生内閣が実施したこと全てが否定されるといった極端な失政を行ったとは考えていません。しかし、そういうプラスの評価よりも、マイナスの評価が余りにも大きすぎて、その結果、国民の心は益々離れていっているのです。

 問題は、施策の有効性とか経済危機への対処の仕方とかいった技術的なことではなく、正統性のない人間が、いつまでも政権の座についているということなのです。

 だから、昨年の早い時期に、麻生総理が決断し、国民の民意を問うていれば、例え、ギリギリの過半数で、政権運営が厳しい状態になったとしても、再び、民意を問うというチャレンジも可能だったと思います。

 ところが、それを放棄したことで、総理大臣のキラー・コンテンツである「民意を問う」=「解散権」の行使すら出来ない状態に陥っているのです。まさに、勝負のタイミングを失したことで、全て裏目に出ているというのが現実です。

 さて、それでは何故麻生総理は勝負のタイミングを外してしまったのでしょうか?これは、本人に直接聞いてみないことには、真実は分からないかも知れませんが、外部から眺めて見ると、次のような三つの理由が考えられます。

 一つは、「欲望」というものです。つまり、漸く総理大臣の地位を手に入れたのだから、少しでも長くその座に座りたいという「権力欲」です。こういう「権力欲」は、なにも総理大臣に限ったことでなく、様々な組織の中でも見られることです。つまり、「権力欲」によって生ずる「自己保身」です。

 二つ目は、「決断」というものです。特に、権力という大きな力を行使する所では、様々な思惑が交錯します。そして、それは時には自分の思いとは正反対の結論を求められる場合もあります。その時に、どう「決断」を下すのか?つまり、「自己決断」です。

 三つ目は、「自尊心」というものです。政治家として活躍して来た人間である以上、多分、他人よりは大きな「自尊心」=「自信」を持っていることでしょう。実際、そういうものがなければ、人の上に立つリーダーにはなれません。つまり、「リーダー」としての脈々たる「自尊心」です。

 多分、この三つのものが様々に影響を与えることで、麻生総理の勝負勘をズレさせたことと思いますが、特に、僕が注目したいのは、二番目の「自己決断」というところです。

 実は、この「自己決断」ということが、勝負の決め手という点では大きな影響を与えるものと思えます。特に、様々な思惑が重層し、そのどちらにも配慮しながら、最終的に判断すると言うことは厳しいものに思えます。何故なら、この判断により、それまで自分の味方であった人を裏切ることもあるからです。

 いや、もっと厳しい状況であれば、自身の命が脅かされる事態に追い込まれることだってあるわけです。そういうギリギリの決断を迫られたリーダーは、まさにその身を削るようなことも厭わない覚悟が必要になってきます。

 さて、戦いもなく平和な状況が続く日本社会の中で、こういう身を削るような決断を迫られる経験をする人は随分少ないと思います。勿論、会社の経営者で、会社の存続を巡っての決断を迫られる人はいるわけですが、それにしても命まで取られるものではありません。

 そういう環境の中でも、麻生総理の場合はさらに恵まれた環境だったように思います。大企業の創業者の一族に生まれ、その母親が大政治家の娘といった「華麗なる家系」を背景に、彼の生涯は常に陽の当たる、そして、与えられた人生だったように思います。

 子どもの頃から現在に至るまで、多分、麻生総理は、フツウの意味での「決断」というものを一度も経験してこなかったのではないでしょうか?僕自身も大したことは言えませんが、少なくとも、社会人になる時には、どういう職業に就くかということで、その時なりの決断を下しています。

 しかし、麻生総理にはその選択すらなかったことと思います。だから、そういう生き方をしてきた人間が、初めて目の前にした「決断」が、今回の「決断」だったのではないでしょうか?つまり、プールで五十メートルも泳げない泳者を、いきなり波の荒い大海に放り出し、そこから岸まで泳ぎ切れと命令するような無謀なことに思えるのです。

 だから、彼は側近たちに相談しました。これは、多分、彼がこれまでにやってきた常套手段だったのでしょう。そして、そこで得られた判断を自分の決断として選択してきたのが、彼の人生だったように思います。

 しかし、リーダーというものは本来孤独なものです。何故なら、リーダー以外の人間は、自分が本来下さなければならない「決断」をリーダーに任せることで、彼のリーダーとしての権力を保証しているからです。

 だから、リーダーは自分で決断しなくてはなりません。それがイヤならリーダーであることを下りるべきなのです。ところが、麻生総理は、リーダーになった瞬間に、その「決断」を他人との合議に任せたのです。

 これは、リーダーとして失格でした。つまり、その瞬間に彼は「顔」を無くしてしまったのです。その点、賛否両論はありましたが、小泉総理が下した「郵政民営化」という「決断」は、その内容よりも、リーダーが下した「決断」ということで、とてつもないパワーを発揮したのでした。

 多分、いまもって、国民のほとんどは、あの「郵政民営化」がどういうものであったのか判然としていないのが実体のように思われます。しかし、一国の総理大臣が、その政治生命を賭けて、決断したというその一点に共感を覚えたのではなかったでしょうか?

 もし、そうであったなら、麻生総理の行ったことは、まさに間逆のものでした。つまり、一国のリーダーたる者が、一番やってはいけない「決断」だったということです。

 そして、その後の麻生総理は、自分の発した言葉を具現化しようとする度に、彼以外の人間の力により、それを行使することができず、ズルズルとなし崩し的に解散を先延ばし、政権の延命を図っているといった最悪の状況に陥っています。

 仮に、民主党の小沢氏の献金疑惑がなかったなら、多分、もっと早い時期に自滅していたことでしょうが、なにか、無理矢理のカンフル注射により、辛うじて生き延びている病人のように、青息吐息の状態で今日に至っています。

 こういう風に、これまでの事態を考えてみると、改めてリーダーというものは孤独な存在であるなと思います。確かに、絶大なパワーを手に入れ、その力の前に多くの人々がひれ伏すわけですが、逆に、それによってどれほどの心労や苦しみを我が身に引き受けないといけないかということがひしひしと伝わってきます。

 つまり、こういう苦しみや孤独と言ったことを堪え忍ぶ強い心がないことには、こういう地位を手に入れようという野心すら持つべきではないと思えてきます。

 ここまで書いてきて、矢張り、この麻生総理の「決断できない」背景には、政治家の「世襲」という背景が存在しているように思えるのです。

 但し、僕自身、一概に「世襲制」というものが悪いとは考えていません。当然、「世襲」ということによるメリットもあることと思います。ただ、現在の日本社会に関して言えば、大きな問題があるということです。

 その問題とは、「世襲すること」で、その身に引き受けなくてはならぬ様々な責任、そして、リーダーとしての心の強さを、その「世襲者」が子どもの頃から養成されているのかということが一つです。 

 もう一つは、「世襲すること」で生ずる厳しい試練を引き受ける覚悟が本人に自覚され、それに対処するための訓練や学習がきちんとなされているのかということです。

 実は、いま挙げた二つの問題は、全く解決されることがないままに、無自覚に、選挙民も立候補者も「世襲議員」を生み出しているというのが、日本社会の構図ではないでしょうか?

 だから、新しく議員になるためには、あるいは為政者として名乗りを挙げるためには、テレビという媒体を使い、名前やイメージを売るということが、一番手っ取り早い手段になってるのでしょう。

 実際、宮崎県知事の東国原氏や大阪府知事の橋下氏などは、テレビでの知名度や名声がなければ、選挙に立候補することも、また、当選することも覚束なかったことと思います。勿論、そういう方法が間違っているというのではなく、それ以外の手段がないという社会の閉塞感が問題だと言うことです。

 そして、「自民党をぶっ壊す!」と叫び、「郵政民営化」というスローガンと決断で、選挙に大勝利した小泉元総理も、自分の後継者としては息子を指名してしまうというところに、この問題の大きさが感じられます。

 まるで、江戸時代の大名家のように、その「屋号」が、選挙に勝ち抜くキラー・コンテツということでは、とても、日本社会が開かれた風通しの良い社会とは言えそうにありません。

 その江戸時代から明治時代に時代が変化した際に、「身分制度は親の仇でござる」と激しく糾弾した福沢諭吉。その諭吉が、現状の日本の政治状況を眺めたなら、「議員の世襲は親の仇でござる」と糾弾するでしょうか?

 ただ、諭吉が糾弾したように、政治制度自身が弾力性を喪失し、そこに参入する新しいチャレンジャーや有為な人材が枯渇して行くと、社会全体が不活性化し、閉塞感に陥ることは、時代を超えた真実のように思えます。

 さて、この問題を解決するためにはなにが必要なのでしょうか?まず、有権者である私たち国民が、この状況を打破したいという切実な気持ちを抱くことが重要なポイントに思われます。逆に言うと、有権者自身が、不都合を感じないのなら、別に、これを変える必要もないということです。

 この「世襲」の問題は、なにか「世襲者」の問題といった議論がなされがちですが、実は、「世襲者」の問題より、有権者の問題の方が大きいのです。

 ところが、いつの間にか議論がすり替えられているのです。それは、多分、有権者である私たちにも、この制度がもたらす利点や利益が存在しているからなのでしょう。だから、一種の責任逃れをするように、「世襲者」の問題にしておきたいのだと思います。

 今回の衆議院選挙では、民主党はこの「世襲」の問題をマニフェストに明記し、世襲を認めない方向へと舵を切るようです。その一方で、多くの「世襲議員」を抱える自民党は、今回のマニフェストに明記することはないとのことです。

 ただ、安倍、福田、麻生と三代続いた内閣のトップが、いずれも世襲議員であり、そして、その政権が任期の途中で崩壊してしまう(麻生政権はまだですが)現状を見る限り、この問題をこのまま放置しておくことは日本の社会に大きな禍根を残すもののように思えます。(了)

「問われている絵画(97)-絵画への接近16-」 薗部 雄作

「サイエンスの意識と権威の形骸化」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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