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第105号

2009年07月21日

「問われている絵画(97)-絵画への接近16-」 薗部 雄作

   一九七〇年代に、先端物理学と禅や道教や神秘思想などをドッキングさせて世界的に話題になった──この流れは依然として今でも続いている──いわゆるニューサイエンスのフリッチョ・カプラの『タオの自然学』やJ ・E・ラヴロックの『地球生命圏』、ロンドン大学の理論物理学者デイヴィット・ボームと神秘思想家クリシュナムルディとの対話『真理の種子』など、これらの現象も、あるいは桜沢如一の遠い反響であるのかもしれない。なぜなら物質の究極問題に対する物理学の限界を、そしてその限界に対する回答を示唆するのが、ほかでもない『易』や『老子』の思想であり、そして『易』や『老子』の思想を食養の根本原理とし、それを化学や物理学さらに分光学ともむすびつけ、一九三〇年代にヨーロッパ各地において講演や著作による活動をくり広げており、それは多くの人々の関心を引いて思想や身体に影響を及ぼしていたのであるから。当時のヨーロッパにおける桜沢如一の知名度は日本での想像を遥かに超えている。彼の書く本にしても、日本の読者向けに書いたものとフランス語で書かれて当地で出版されたものでは論理と格調が違う。それは翻訳されたものからでもわかる。彼自身も、その著書の目的を一般大衆にではなく、影響力のある知識レベルの高い人たちに向けて書いている。そして劉生同様、日本の読書人や知識人にあからさまな限界を感じていると言っている。「この種の書を邦文で出すのは有害無用である」と。さらに「他の多くの例の如くに(たとえば仏教の淵源、サンスクリットやバーリ語原典を日本人がパリやベルリンに学びに来ねばならないように)、後日、『易』の原典をも日本人がパリやベルリンに聞きに来ねばならないような日があるかもしれない。」と予言しているが、事実それに近いことは、それ以後も依然としてしばしば起きている。芸術作品なども海外で評価されると、その評価はすぐに逆輸入される。かつて浮世絵が西洋で評価されて逆移入されたように。


 たとえばフリッチョ・カプラ(一九三九年ウイーン生まれ)の『タオの自然学』は一九七五年に刊行されて世界的ベストセラーになったが、そのなかで彼は「過去数十年にわたり、物理学と哲学者は現代物理学がひき起こした変化を論じてきたが、その変化の方向性がすべて同一で、東洋神秘思想の世界観とひじょうに類似していることはまったくといっていいほど認識されていない」といっている。そして社会・経済学者にして物理学者J・R・オッペンハイマー(一九〇八〜一九六七)
は、原子物理学によって発見された世界は、今まで知られていなかったわけでもなく、特に新しいのもではなく、すでに先例があり仏教やヒンドゥー教では中心的な位置を占めていた。」また量子論で相補性原理を提唱したデンマークのN・ボーア(一八八五〜一九六二)
は「われわれはブッタや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めなければならない」と。そして不確定性原理・量子力学の提唱者、ドイツのW・ハイゼンベルク(一九〇一〜)は「日本から理論物理学者の領域ですばらしい貢献がなされたことは、東洋の伝統的な哲学思想と、量子論の哲学的性格との間に何らかの関連があることをしめしているのかも知れない」といっている。

 しかしながら、桜沢如一はすでにそれ以前からそのことをズバリ指摘し、提唱し、さらにその先の観点から食養理論を述べているのであった。ボーアの相補性原理とは、まさに『易』のいう、宇宙を含めた現象世界一切は陰と陽の相補性により成り立ち、個々の現象物はその配合・バランスによるものてあるといっているのであるから。そしてこれこそ一九三〇年代にパリを中心にヨーロッパ各地で桜沢如一の主張していたことである。さらに彼は、類似しているだけではなく、現代物理学の壁や限界にたいして『易』はすでに五千年前に回答まで与えていると言っている。


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(1)昭和十六年一月執筆四月出版桜沢如一著
  「健康戦線の第一戦に立ちて」の表紙
   桜沢如一『無双原理・易』より



 まずは食養家・桜沢如一の口から直接自身を語ってもらおう。

 「なぜ私が右のごとき著『無双原理・易』をパリで発表したかというと、それには次のような理由がある。」

 「私は陰陽原理の煙滅を恐れた。万人ことごとくこの根本原理を無視して滔々として不幸の深淵に呑まれてゆくのを見て戦慄し、粉骨砕身してこの道の為に力を厚くし、家累を巷に捨てて顧みず、狂人とされてきた。」

 そして「私が、病身の自分を改造し、ここ十五・六年と言うもの、ほとんど風邪にすら冒されないような身体にしたばかりではなく、その間、無謀きわまる過激な方法で心身を使用するを得しめた石塚左玄の、いわゆる生化学的食養療法報恩に一生を捧げるつもり」になって、ここ「十五・六年来、その普及のために、着実に講演に治療に、できるだけの努力をしてきたが、それをさらに徹底させしめ、一挙に全世界に広めようという大望から、西欧に渡って泰西医学界や一般識者に武者修行を試みにきたのであるが、仕事は、案の定、はなはだ困難であった。」


 「一九二九年春、私は一切をすてて、日本も、家も、子もすて、故国の春に背いてタダ一人、出発した。シベリアを横断してパリに着いた時、天にも地にもただ二百円の金が全財産だった。他に本の入った箱一つ、タイプ一台、ソレカラ私の乞食生活が始まった」。


 「あの屋根ウラのハマグリ室(天マド一つしかない室、天マドを朝になるとハマグリの様にポカリと開ける室)には暖房装置はモチロン、火をたくシュミネさえなかった。一番小さなガスコンロを求めてきて私はそれに兵隊ハンゴーをかけて、一日一回御ハンをたいていた。ガス代を節約するためだった」。「机は日本から本を入れて送るために作った木箱(作らせる時、私は机の代用となる様な寸法に設計しておいた)。夏でも時々火をたくパリで私は冬でも火をたかず、来る日も、来る日もタイプをたたいた。生まれて始めて十本の指がシモヤケになり、クツ下を両手にソットきせてねた」。


 そして「一年後に私は本書(『無双原理・易』)をヴラン社から出した」。


 「私が、自然主義文芸の発祥の地たるフランスに来て、モーパッサンやヴェルレーヌの像のそばに住居しながら、思いもよぬ『易』の本を発行させたり、それが動機で、N・R・F(『新フランス評論』) のアンドレマルロー君やポール・ヴァレリイその他の人々に引き合わされ、さらに続けて執筆するようになったりするとは、いかにも人生の喜劇らしい」などと、今では考えられないほどフランス文学に関心のっよかった当時の日本の教授や文学青年なら眼を見張るようなことを言う。そしてマルローについては、「さて、今一人の拙書の理解者はアドレ・マルロー君である。彼は拙書を東京のフランス書院で求めてきたという。彼は、人も知る欧州文壇の新進で、その近著『人間たる条件』(邦訳『人間の条件』)で、ごうごうたる世論を醸している男である。なかなか鋭い観察力と摂取力をそなえた男で、若いのにN・R・Fの幹部としてヴァレリーらと共に活動している」(一九三一年パリ)と書いている。


 「治療をして大衆を引き寄せることは、たいして困難ではなく、それは、むしろ日本におけるよりは容易であったが、この種の大衆は、日本におけると同様、金もうけにはなっても、けっして道を広める役にはたたない。病気を治すということは食養の大目的もない(中略)私は、知識階級、とくに欧州各国の知名な学者を目標に戦いを始めたものである。」。そして、当時の欧州の学者たちの精神構造の特徴をさして「しかるに、彼らは科学によるのでなければ何事をも承認しない。科学が彼らの共通国際語なのである。私は科学を知らない。そこでコツコツ二・三年かかって(ソルボンヌ大学やパスツール研究所で)ようやく自分の意を発表するだけの程度で、この科学の大要を鵜呑みにした。」


 しかし、わたしは桜沢如一の年譜を見て、第二次大戦の敗戦前後の彼の行動に注目させられる。

 一九四一(昭和十六年)
 三月 『健康第一線に立ちて』の書により露骨に反戦論、日本必敗亡国論を展開、十万部以上配布、(十ヶ月目に予言どおり、第二次世界大戦開始)。この書の扉に日本の敗戦の可能性を警告(四年後に実現)。

 六月 『日本を亡ぼすものはだれだ』の書が、反戦思想として発禁される。紙型および在庫二千余冊没収、警視庁、検察庁、愛宕署、西神田署等にて再三留置され、残虐なる取り調べを受ける。

 一九一八(昭和十八年)
 七月頃、軍部の圧迫、右翼暴力団の迫害、日に日に増大する。

 一九四四(昭和十九年)
 七月一日、日本の敗戦近きを断言し、第一戦にあるPU青年学徒四十名に「オシモノオツツミ、サイゴニカツモノタレ」(上官の命に反抗すとも、必ず生きて帰れ、の意)の電報を発信。

 十一月末、ソ違に日本の仲裁をさせんと密航してハルピン到着。満州国教育司長・田村敏雄氏より旅券を得て、単身馬に乗って十二月のソ違国境を突破せんとす。この時、内務省より「反戦論者桜沢如一を逮捕せよ」の入電あり、警視長官、田村氏に引き渡しを迫る。一方、特務機関長土井将軍の「即刻、桜沢如一を銃殺すべし」の命により、憲兵隊に追及さる。田村氏、ニューハルピンホテル近藤繁司両氏の御厚意により、危機を脱出し、一旦帰国して妙高温泉にかくれ、新計画を作製。


 一九四五年(昭和二十年)

 一月二十五日早暁、警官隊の包囲をうけ、午前十時ついに逮捕され、新井署に送られ、地下の暗室に放り込まれ、三ヵ月間零下十余度の暗室にて緩慢な殺人法を試みられ、極度の衰弱に陥り、危篤に瀕する。三月末、同署員の肩にかつがれ、残酷な連続無傷拷問をうける。六月末、突然釈放される。左足の自由及び、視力の80パーセントを失う。七月初め、帰宅後飯村穣氏、帝都防衛最高司令官に任じられしを知り、クーデターの計画を作製して、急ぎ上京途中、諏訪市長・藤森清一朗氏を訪ね、秘密計画を打ち明け、甲府市に下車、旅館に休息して、山梨県日野春の無双原理研究所幹部と連絡し、甲府刑務所に収容されたる秘書、森山シマさんを救出せんため、弁護士、同志らと相談中、甲府署刑事及び巡査十数名の一団により逮捕され甲府署に留置される。翌朝南アルプス山中、長坂署に移される。


(同日、甲府市空襲で全滅。森山シマ奇跡的に助かる。)

 八月十五日、敗戦。マッカーサーの命により釈放さる。

 九月より、長期「民主主義講座」を始め、また「特高を廃絶せよ」等、次々に五通の公開状をマッカーサー元帥に送る。いずれも日ならずして実現さる(『桜沢如一資料集』より)


 そして一九四五年、敗戦を境にして、以後、日本の思想・文化・教育・生活は急変してアメリカ崇拝また欧米迎合一辺倒へ急傾斜してゆくのであった。そんな自国や東洋の伝統には目もくれない社会や文化状況の中で、桜沢如一は、はやくも一九五一年十月から一九五五年一月まで雑誌「新しき世界へ」誌上へ、欧米文明とは異なる日本独自の文明論『道の原理』(原題『柔道の本』)を連載している。そして、すでにふれたように、自国の文化…自分の根っこの部分をいとも軽々しく否定して、さらに昨日までの自分をくつがえし、欧米思想の衣を大急ぎで着て、時代の流れの先端を走っている多くの知識人たちに覚醒をうながすかのように言う。「固有の文明を根絶やしにされた国民の運命がどれほどみじめなものであるか。」そして「文明の母体を根こそぎ取り払われた国民が遅かれ早かれ根なし草のように絶滅するのは火をみるより明らかである。」と。


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(2)同書は扉に黒枠付でこの予言が太い文字で印刷され十数万部頒布された。そして8カ月目に戦争が始まりコノ予言の如く十年以内否五年目に不敗の神国日本は亡び去った。非常時下の軍国主義の重圧と危険がイカバカリ著者にふりかかつたか想像できるだろう。もちろん著者は決死の覚悟であつた。
桜沢如一『無双原理・易』より


「負けること勝つこと(61)」 浅田 和幸

「サイエンスの意識と権威の形骸化」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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