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第105号を、2009年07月21日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=麻生首相は、自分なりのヴィジョンをほとんど持たないまま、キャラが立つ的な人気が先行して自民党の総裁、すなわち、首相に選ばれてしまったという感じがします。世襲議員が蔓延る中での、自民党の人材不足も否めません。今の自民党に最も歯がゆく感ずるのは、霞が関改革への取り組みの鈍感さです。小泉首相が郵政民営化で大勝したのは、国民の反公務員意識だったと思います。なぜ、郵便局の職員が国家公務員でなければならないのか、なぜ、郵便貯金の巨大資金を官僚が自由に使い方を決めているのか、といったことへの国民的反感が小泉自民党に流れたのだと思います。東京都内の1つを除く選挙区で自民党が圧勝するなどということは、それ以外の理由は考えられません。まるで官僚の回答を棒読みしているような与党閣僚の答弁は、聞くに耐えないものが多かったと感じます。肥大化し自己目的化した官僚組織の解体と地方分権をどう実現するかが、今後、問われると感じます。自民党議員は、地元利権者団体と霞が関官僚の間の橋渡しの中で埋没し、官僚は自民党議員を手玉にとって天下り先作りに奔走してきましたが、その限界も近づきつつあるという印象がします。こうした自民党議員のあり方が世襲の根本にある訳ですから、こうした状況変化の中で、自ずと世襲も消え去っていくのではないでしようか。
薗部さんの論文=確かに、サイエンス(科学)には、観客としての位置のみに止まるため、N・ボーアの指摘するように「認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めなければならない」というのは真実だと感じます。ただ、演技者としての自己を知ることは、生命の根源に立ち返ることでもあり、そう生易しいものではないとも感じます。
また、「当時の欧州の学者たちの精神構造の特徴をさして『しかるに、彼らは科学によるのでなければ何事をも承認しない。科学が彼らの共通国際語なのである。』」という桜沢氏の指摘はよく分かる感じがします。サイエンス以外の知識というか智恵は、一種、宗教的なものであり、信ずるか信じないか、受け入れるか受け入れないか、という次元の問題となり、その論が正しくて信ずるに値するものであるという論拠が客観的とは言えません。表層的なものに拘っていると言われればそれまでなのですが、私自身その辺になにか限界を感じたりします。
「敗戦を境にして、以後、日本の思想・文化・教育・生活は急変してアメリカ崇拝また欧米迎合一辺倒へ急傾斜してゆく」、「自国や東洋の伝統には目もくれない社会や文化状況」、「欧米文明とは異なる日本独自の文明論」、「固有の文明を根絶やしにされた国民の運命」、「文明の母体を根こそぎ取り払われた国民」といった言葉になにか焦りにも似た感覚も抱きますが、神道にみられるような日本的清浄感のようなものを思い浮かべてはみても、その普遍性については、私自身、今ひとつ説明を欠いている感じがしてなりません。
(以上 記 深瀬)
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