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1.サイエンスの意識の特徴と獲得の経緯
17世紀のヨーロッパに、ニュートンやガリレオを代表として芽生えたサイエンス(科学)の意識は、客観的に観察された自然現象のメカニズムを、その因果関係の定量的定性的分析を通して、数学的法則として捉えることを基本としている。
このサイエンスの意識の特徴は、次のような点にあると思う。?自然の恵みへの感謝の念や自然の脅威への畏怖の念といった感情的心情を捨て去っていること。?宇宙全体を一つの生命体とみなすような生命論的世界観(ガイア思想)を排していること。?キリスト教という宗教上の絶対的権威とは切り離された立場をとっていること。
したがって、サイエンスの意識は、あたかも神の目をもって、世界をあるがままに、その意味を一切問うことなしに、無機的なものとして捉えようとする態度をもたらすものと言える。
このようなサイエンスの意識を獲得するに至る経緯には、?プラトンやアリストテレスに代表されるギリシャ哲学、?実験を重視したアラビア科学、?ローマ帝国との棲み分けと世界宗教への脱皮を目指したキリスト教神学の理論的体系化(スコラ哲学)、?人間性の解放を標榜するルネサンスや啓蒙思想の影響、?信仰義認論に象徴される宗教改革の広まり、等が存在すると思われる。
2.産業革命とサイエンスの意識
一方、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸到着に象徴される大航海時代、および、1769年のジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明に代表される産業革命といったものは、たしかにサイエンスのもつ高尚さを欠いている。しかし、人間(ヨーロッパ人)中心主義や「自然は利用すべき存在」とする視点には、サイエンスの意識とその底流において共通するものがあると感じられる。
こうしたサイエンスのもつ精神的側面と技術応用的側面とがあいまって、その後の植民地獲得競争や帝国主義的世界支配への道をひた走ることになった。1533年のスペインによるインカ帝国の征服、16世紀から本格化した奴隷貿易、1840年の阿片戦争、1857年のセポイ大反乱、1880年のボーア戦争など、ヨーロッパ主導による悲惨は、サイエンスの裏側にある人間の不遜さ傲慢さがもたらしたものと言えるのではないだろうか。20世紀を戦争の世紀と言わしめた第一次第二次の両世界大戦では、数千万人の人々が死に追いやられたという事実は、サイエンスの意識の獲得される以前では想像を超えたできごとではなかったであろうか。
3.サイエンスの意識のもたらした副作用
サイエンスの意識は、その技術への応用によって、人間社会の快適さや便利さとともに、人権思想や民主主義思想の基盤といったプラスの側面をもたらしてくれたことはまず認めなくてはならない。しかし、その一方、その副作用として、次のような深層にある変化をももたらしている。1つ目は、飽くなき欲望の追求、2つ目は、機能組織への帰属意識の強化、3つ目は、世俗的精神的権威の形骸化、である。以下、これらについて補足する。
(1) 飽くなき欲望の追求
欲望の追求は、今日、経済成長や産業競争力の向上が、当然のこととみなされていることに端的に表されている。新たな需要を作り出す新製品の開発は、企業活動の基本戦略として位置づけられ、高い比率の研究開発費が投入され続けている。例えば、医療分野では、難病や再生医療に関わる薬や治療技術の開発が日進月歩で進められている。また自動車分野では電気自動車の製品化へ向けての世界規模での競争が繰り広げられている。IT分野では、クラウド・コピューティングなどの従来の利用形態とは全く異なる共通インフラ化技術も着実に進展している。さらに、国家レベルにおいて、ビッグサイエンスへ巨額の国家予算が配分され、定常的なプロジェクトとしてPDCA(計画、実行、検証、見直し)のサイクルを回すことが国家の役割の一環とみなされている。
このような科学技術の進展に基づく新たな欲望の実現を、社会として健全なものにしていくためには、基礎技術からの確実な体系化とそれを支える人材育成を適切な予測のもとに計画的に進めることが必要不可欠である。また、新たな欲望を実現するにあたっては、その解決される欲望の内容、その手段、享受できる人々の範囲、保守、等についての吟味が社会体制として健全に押し進められている必要がある。欲望の実現を、単にイデオロギー的観点から押し止めることは、適切な選択ではないと思う。
(2) 機能組織への帰属意識の強化
かつての人間存在は、村落共同体の中で、農作業などに従事し、日常はほとんど全人格的存在として生活する人によって占められていた。しかし、第二次第三次産業を主とする都市型の産業経済社会へ変貌するにつれ、私たちは特定の組織の中で機能する存在としてのあり方を主とするようになってきた。殖産興業のもとでの単純労働者、帝国主義的国民国家のもとでの兵士、イデオロギー対立に立脚する米ソ冷戦構造のもとでの企業戦士、株主重視の経営スタイルのもとでの成果主義型自己責任型労働者など、それぞれの組織に応じて、その中でのあり方は変化してきた。
とはいえ、かつての共同体の中での全人格的存在という側面は、急速に希薄化している。企業組織の中での偽装や不正を隠蔽するような社会への背信行為は、全人格的存在としての人間のモラールがなければなくならないだろう。官僚組織において天下り先を開発したり拡張する仕事を行ったものが、組織の中でより高い地位に昇進していくという組織の一人歩き状況も、全人格的な人間としてのあり方を忘却した結果であろう。
便宜として機能すべき作られた組織が、あたかも一個のいびつな人格のように一人歩きを始める事態を防止するのは、もう一つの別のサイエンスの意識なのではないかと思う。サイエンスの意識と全人格性とは、常に往還されなくてはならないだろう。
(3) 世俗的精神的権威の形骸化
権威は,私たちが暮らす社会の安定と平和、そして、信頼関係を保つために必要不可欠なものである。世俗的な権威の背景には、武力、血筋(名門、世襲)、才智、情報力などがある。しかし、近年の民主主義では、社会契約説に基づいた多数決によって選出されたものが担うことになっている。また精神的権威では、生老病死のような人間の内面の不安を救うものとしての宗教的な権威がある。こうした権威は、本来、全人格的な存在として、不可知の部分まで包括的に担うものとして、受け入れられてきたものである。しかし、サイエンスの意識の社会的浸透に伴い、そうした全人格性のプレゼンスが社会的に縮小するのに伴い、権威そのものが機能主義の影響で形骸化しつつあるようである。学級崩壊とか家庭崩壊とか、株主視点からの成果主義やリストラを繰り返す組織の変容は、こうした権威の形骸化を象徴している。日本の政治の世界においても人気先行で、人間的に重みのほとんど感じられない首相が登場したりしている。
権威は、生命はなぜ存在するのかといった不可知のことまで背負ってくれる大切なものだと思うが、社会運営における権威のあり方について、私自身、分からないことが多い。
まず、世俗的権威と精神的権威は、分離されるべきなのか分からない。キリスト教は、「カエサルのものはカエサルに」と新約聖書に既に記述されていたり、ローマ教皇とローマ皇帝とは対等の関係とされたり、フランス革命を機に、政教分離が民主主義の基本とされたりしてきた。日本の徳川時代で言えば、世俗的権威の徳川幕府と神道に基づく精神的権威としての天皇とは、棲み分けをしていたのであろうか。世俗的権威と精神的権威の分離は、世界的に見て一般的なのであろうか。
権威が形骸化すると社会運営は目先的な観点が優先される傾向になると思われる。人間の死や環境破壊など、問題の深刻さが深ければ深い程、当座の問題からは外されてしまうだろう。権威が形骸化していなければ、本質的な問題ほど、より真剣に取り組まれるのではないだろうか。
民主主義においては、多数決をとった方が権威とされるが、その正当性の根拠は曖昧である。それが、マニフェストコンテストであったり、二大政党制(保守か革新か、伝統的価値重視か進歩的価値重視か)であったりすると、なにか機能的で表層的であったり、選択の範囲が狭いのではないかといった疑問も感ずる。余程、しっかりした教育を施した上でないとポピュリズムに堕するように思われる。
美意識といったものも、形骸化した権威が支配する社会では、じっくりとした美の吟味ということがなされにくいのではないかと感ずる。美とじっくり向き合うには、充分信頼されるに値する権威が存在しないと腰が据わらないのではないだろうか。
4.まとめ
サイエンスの意識は、市民の意識ともいえそうである。しかし、人間の意識に完全性が備わっている訳ではない。肥大化した官僚組織が放置されたまま無駄遣いをし続けている様子も見苦しい。コスト競争などの安易な機能主義が、格差社会や非正規社員の増大や派遣切りといった社会不安を巻き起こし、社会の展望に暗い影を落としている。どのような権威が社会的に存在すれば、私たちは安心感のある平和な生活を営んで行けるのか、よく見極めないといけない時代に入りつつあるように思われてならない。
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