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第106号

2009年11月01日

「負けること勝つこと(62)」 浅田 和幸

   前号で予想していましたように、8月30日の衆議院議員の総選挙で、自民党が民主党に大敗し、選挙による政権交代というものが、戦後初めて日本で実現しました。

 ただ、その後の新聞やテレビなどのマスコミの報道は、余りにも性急に政権交代の果実を求める余り、新しい変化を前向きに捉えようとするより、なにか粗探しをするといった後ろ向きに捉えるといった論調が目に付きます。

 それは、マスコミ自身も、この戦後一貫して続いた自民党政権との間で結ばれてきた「利益共同体」として、「官僚」と同様に既得権を喪失しかねないといった危機感の現れなのかも知れません。

 勿論、「変化」というものには、そういう軋轢は必然的についてまわりますし、それを恐れていては「変化」することが出来ないと言った自己矛盾が存在しているわけですが、余りに性急に「結果」のみを求めることは、折角の「変化」のプラス面をマイナスに変えてしまう危険性もあるように思いますので、この号では、「政権交代」に関しての話題はパスしたいと思っています。

 多分、これから先、これまで隠されてきたことや曖昧にされてきたことが、白日の下に晒されることも出てくることと思います。でも、それを否定的に捉えるのではなく、新しい社会を、新しい環境を生み出すための「生みの苦しみ」と肯定的に捉えて行くという心のあり方が国民にも求められているように思います。

 さて、今回の話題は「消費」についてです。新聞の報道によりますと今年の八月に「消費者物価指数」が、前年比で二・四%下がり、デフレ傾向が鮮明になりつつあるようです。つまり、この原因は、消費が低迷し、価格競争が激化したことによるものと見られています。

 実際に、「高級品」を商品の中心に据えてきた百貨店では、その高級品が売れず、売り上げの落ち込みは急激で、売り場の担当者も茫然自失といった有り様のようです。

 わたしの住んでいる金沢市にも、地元資本の百貨店と大都市資本の百貨店の二つの百貨店がありますが、地元資本の百貨店の経営状況は、まだ「倒産」といった最悪の状態にはなっていませんが、相当厳しいものがあるようです。

 ただ、こういった百貨店の売り上げの落ち込みは、ここ数年前より続いており、特に目新しい話題ではなかったようですが、昨年九月の「リーマン・ショック」以降、その落ち込み幅は、予想を超えるものであり、さすがに危機的な状況と言って良いほどの領域にさしかかっているようです。

 こういった「ものが売れない」傾向は、日本経済のバブル崩壊後に顕著に現れた現象として「消費不況」という言葉も生まれました。 高度経済成長の時代、「ものが売れない」といった社会現象はほとんど生じませんでした。新しい製品が生み出され、その便利さに、消費者はこぞってその品物を購入しました。

 ところが、その経済成長が一服し、さらには「バブル経済」が崩壊した後、日本の社会では「ものが売れない」という傾向が強まり始めたのでした。

 勿論、そうは言いながらも「もの」は売れていました。それまでの生活必需品といったものではなく、生活を豊かにするもの、あるいは趣味として使用するものといったように、高度経済成長により「豊かな社会」へと変貌を遂げたことで、日本人の消費志向は大きく変化したのでした。

 しかし、現在の「消費不況」というものは、どうやらこれまでのものとは決定的に違っているように思えるのです。本当は生活に必要なものでありながら、それすら購入することができないといった状況が見え隠れするのです。

 数年前まで、日本社会は、所得に比べて貯蓄率が高いと言われていました。アメリカのように「宵越しの銭は持たない」といった消費傾向ではなく、将来のため、老後のために「貯金」をするというのが一般的な日本の消費傾向でした。

 ところが、それ以降、日本社会の「貯蓄率」は低下傾向から脱することができません。確か、昨年辺りでは、「貯金」が一円もない家計が二十%近くに上るという統計も出ていたように記憶しています。

 これは今までにない異常な事態です。本来なら、貯金をしないということであれば、それが消費に回るはずなのに、貯金も減る、消費も減るという二重の問題が出現しているのです。

 つまり、これは「家計を必死に支えるために、貯蓄を取り崩している」ということであります。あるいは「最低限の生活を支えるしか所得がないために、消費も貯蓄も出来ない」ということでもあります。こういうことが日本の家計に生じているのです。

 この傾向は、「リーマン・ショック」の後に顕著になってきています。急激に落ち込んだ経済状況で、「派遣労働者」といった、元々不安定な労働者だけでなく、正社員と呼ばれている安定した労働者に至るまで、急激な所得減に襲われているからです。

 これまであった「残業代」や「ボーナス」といったものが、ほとんどなくなり、ローンを抱えている家計では、そのローンを支払うために貯金を取り崩さないといけないといった非常事態に陥っているのです。

 その結果、生活に最低必要なものしか購入しないといことで、物価はどんどんと下落し、安くないと売れないから、さらに安くする。すると、利益率が下がり、企業の財務を圧迫し、ひいては社員の給与等が下落するといった負のスパイラルが働いているのです。

 特に、深刻な業界は百貨店といった、これまで高級品を扱ってきた業種です。ブランド品といった高級品を売ることで、利益率を上げてきた百貨店などは、まともにその負のスパイラルに巻き込まれています。

 それでは、この不況が回復し、経済的な余裕が出てきた数年後には、現在の「消費不況」というものが解消されるのかというと、少々疑問に思えるところがあります。

 勿論、少しは解消されることは間違えありませんが、それではかつてのように消費が回復するのかというと疑問です。それは、「消費」というものに対する考え方が、実は、大きく変化しているからなのです。

 この「消費」に対する変化は、或る意味では世代間の変化と言っても良いかも知れません。つまり、わたしを含め上の世代の方たちといまの若い世代の価値観が大きく変わっているのです。

 わたしを含め、戦後の高度経済成長時代を同時代として生きてきた人たちの「消費」に対するイメージは、「消費=幸福」といった図式が成り立っているように思います。

 つまり、身辺に「もの」が増えるということは、「幸福」の指標であるといったイメージを現在に至るまで持っているのです。それは、子どもの頃、家の中に新しい便利なものが増えていくことを実感した世代だからです。

 わたしの経験ではこうでした。千九百五十一年生まれのわたしは、テレビではなく、ラジオを聞いて育った最後の世代だったように思います。テレビが家庭に入ってきた小学校の低学年まで、エンターティメントなものはラジオが全てでした。

 ラジオから流れてくる「相撲中継」「のど自慢」「ラジオ劇」といったものを耳にしながら暮らしていました。そして、電化製品と言えば照明用の電灯が全てでした。

 それが、高度経済成長が始まったことで、次々と新しい便利な電化製品が家庭の中に入ってきました。当時、子どもたちも大人たちも共に魅了した番組は松下電器が提供していたクイズ番組「ずばり当てましょう!」でした。

 このクイズでぴったり金額を当てると「電化製品一式」を手にすることができるのでした。まさに、それは夢であり希望の世界でした。まだ、高価で手が出ない、冷蔵庫や洗濯機といったものが、この番組を見ている視聴者の購買欲を刺激していたのでした。

 いつか、あんな風に便利な電化製品に囲まれた生活を実現したい、テレビの中ではなく、現実の世界としてそんな夢のような生活を実現したいと熱烈に願ったのでした。

 こういう動機付けをされながら成長してきたわたしたちの世代は、「消費=幸福」という図式をなんの疑いも迷いもなく信ずることが出来た世代なのでした。

 しかし、わたしの子どもたちの時代になると、その風景は一変していました。千九百八十年に生まれたわたしの息子の時代になると、現在の生活の中で、その当時になかったものと言えば、パソコン、携帯電話といったものぐらいで、それ以外のものはほとんど揃っていたように記憶しています。

 つまり、その年代以降に生まれた日本の若い世代にとっては、わたしたちの世代のように、自分の生活が「もの」によりどんどん豊かに便利になっていくという実感がなかったと考えて良いように思います。

 最初から、「もの」は溢れており、逆に、「もの」がないということが、そういう生活をイメージ出来ない世代と定義付けても良いように思えます。それ故、「消費=幸福」といった図式を、単純に信ずることができない世代なのではないでしょうか。

 ただ、そうは言うものの、若い世代の消費動向に関しては、その親の世代の消費動向と連関する部分も多くあります。親の消費行動を参考にして、自分の消費行動を選択するといったことは、現在も顕著であると思います。

 ただ、そういう影響は無視できないものの、若い世代の消費に関する考え方は確実に変化しているようです。この変化に関して、評論家の三浦展さんが「シンプル族の反乱」という本を最近出版して論じています。

そこでは、これまで「消費=幸福」と定義していた価値観に替わり、「自分を極める物語」(個人の内面)、「社会に貢献する物語」(個人と社会の関係)、「人間関係の中にある物語」(個人と個人の関係)といった新しい価値観による「幸福の物語」が生み出され、その「自分を極める物語」を紡ぐ人たちを、「シンプル族」と名付けています。

この「シンプル族」は、「ものを買わず本物志向」、「古いものが好きでテレビを見ない」、「ものに関する蘊蓄を好む」といった傾向を持っていると定義しています。

そして、三浦氏は、この質的な変化により、これまで続いてきた「大衆消費社会」が終焉を迎え、その結果、「社会や家庭や男女観の近代化」や「科学技術の発達」などを「進歩であると信じ続けた時代」が終わると論じています。

確かに、わたしたちの時代は、上記の価値観を信じていました。丁度、大学生の一年の時に大阪で開催された「万国博覧会」のテーマは、「進歩と調和」というものでした。

急速な高度経済成長による社会の歪みが、「公害」や「大学紛争」といったものとして外在化してくる中で、「進歩」一辺倒の明るい未来だけでなく、現実の暗い影の部分とどう折り合いをつけていくのか、と言う意味でこのテーマが選ばれたのだろうと思います。

しかし、現実はまだ「進歩」への熱い期待に満ち溢れていました。「万博」の後に、日本社会が選択したのは、「日本列島改造計画」という、大土木事業国家の建設を目論むものでした。高度経済成長の果実が、大都市近郊に偏向している矛盾を解決するために、地方にも果実を分配していくというこの計画は、大多数の国民に熱狂的に迎えられたのでした。

 残念ながら、「調和」というものより「進歩」が優先したというのが、その後の日本社会の現実でした。勿論、まだ七十年代初頭は、現在に比較して「消費社会」としては成熟していませんでした。 そういう意味で、「調和」より「進歩」が優先したということだと思います。

 そして、その結果、バブル経済をきっかけに、日本人の消費行動は後進国的な段階(生活必需品の消費)から、先進国的な段階(非生活必需品の消費)ということに大きく変化しました。

 「ブランド品」といったものが尊ばれ、それを購入するために外国へ出かけていくといったことも当たり前のこととなりました。もう十年くらい前になると思いますが、ローマに出かけた際に、こういう話を聞いたことがあります。

 映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場に面して、イタリアの高級ブランド品を扱う店舗が並ぶ通りが形成されています。一段高いスペイン広場に立って眺めていると、その通りをブランドものの紙袋を手に持って歩いている若い人のほとんどが、日本人の観光客であるというものでした。

 そして、彼らは父親の「ゴールド・カード」で高価なブランドものバックや靴を購入し、その様子は、かのマルコポーロが書いた「東方見聞録」にある「黄金の国ジパング」を彷彿させるものだというのでした。

 まさに、「ジャパン・マネー」が、世界を席巻していくといった様子がそこには見受けられました。今から考えると、なにか夢物語のようですが、実際にそういう状況が当たり前の風景だったのです。

 ところが、昨年の「リーマン・ショック」以降、変化の速度は加速したようです。イタリアの高級ブランドの「ベルサーチ」が、日本から撤退すると発表したことを新聞が伝えていました。つまり、日本社会は、そういう高級ブランド・ショップにとって、魅力的な市場ではなくなってきたということのようです。

 どうやら、この流れは止まりそうにはないようです。若い世代の価値観の変化により、戦後続いてきた「大衆消費社会」といったものから新しいものへと変わっている最中ということでしょうか。

 ただ、そうは言っても「世論調査」などによると、必ずしもそれが際だっているわけではないようです。内閣府の調査では、二十代の四十四%の人が「物質的な面で生活を豊かにしたい」と答えています。

 そういう意味で、完全に「大衆消費社会」が崩壊したと結論付けるのは無理があるかと思いますが、これが、三十年前に同じ調査をしたのなら、多分、八十%を超える人たちが、それに賛同したのではなかったかと想像すると、それが半分に減少したというだけでも、大きな変化に思えます。

 さて、もう一つ、「少子高齢化」という傾向が顕著になる中で、日本の消費動向の変化についてこういう興味深いデーターがあります。それは、「生活関連消費」に関して、中高年が主役となり、その中高年向けの商品やサービスが、国内市場の過半数を占めるという状況になりつつあるということです。(日経新聞10月6日朝刊)

 正直なところ、「日経新聞」の記事を読んで、驚きと同時に気持ちが萎えたのは、「紙おむつ」の市場が、昨年の二千八年度で、大人用と乳幼児用が千五百億円と並んだというデーターでした。

 これまで、「おむつ」と言えば、乳幼児用のものといった先入観がありましたが、実は、「少子高齢化」が急速に進む中で、ここ五年間余りで、乳幼児用は一割需要が減少すると共に、大人用のものが四割拡大したようです。

 つまり、子どもの数は減少すると共に、介護が必要な老人が増大し、そのため大人用の「紙おむつ」の需要が急速に伸びているということです。その結果、メーカーも大人用のものに生産ラインをシフトし、今後は、大人用を主軸として行くというのです。

 これはなにも「紙おむつ」だけの問題ではなく、多分、これから二十年余り(団塊の世代が中高年の中核をなしている間)こういった傾向は続いていくことと思います。子ども向けの消費の減少とそれを補う中高年の向けの消費の増大です。

 しかし、それもやがて高齢者世代が亡くなっていくことで、この傾向も変化していきます。ただ、そうなった時に、減少した消費を支える新たな世代が存在していないという厳しい現実に直面するということです。

 現状では、急激に「少子化」が改善されるといった傾向は見えていません。つまり、団塊の世代を中核とした高齢者が人工的に減少していく中で、それを補う世代が形成されて来ないという現実がそこにはあります。

 これまで日本の人口は右肩上がりに上昇して来たわけですが、これからは急激に下降していきます。人口が減少していく社会というものを、まだ正直なところ想像することが出来ませんが、多分、これまでとは違った価値観が支配していく社会だと言うことだけは理解できます。

 そういう全体的なイメージは理解できるのですが、個別的なものとなるとさっぱりイメージできないというのが、この問題の深刻なところなのかも知れません。

 そういう意味で、「リーマン・ショック」を機に、これまでの外需頼みの日本の産業構造を、内需に転換していくといった経済政策の転換は、言葉では容易いようにみえますが、正直なところ、国内の人口が減少していくという現実を前にすると、なかなか難しいというのがわたしの率直な感想です。

 つまり、「内需」を拡大させるためには、質だけでなく、量的なものも絶対に必要なのです。しかし、現実は「少子化」により、次世代の人口は確実に減少しています。

このように、減少していく消費者向けの産業の発展ということは言葉の矛盾のように感じます。もし、本格的に「外需」から「内需」へと産業構造を転換しようとするのなら、その前に「少子化」への抜本的な対策が急務のように思えます。

 ただ、ここでもう一つ重要なことは、人口が減少していくという現実を前にして、「経済」というものを、これまでと同様に、量を拡大し、消費を活性化することで、社会を牽引していくものという前提で考えて良いのかということでもあります。

 それが前にも書きましたように「シンプル族」と呼ばれる若い人たちです。彼らは、そういう意味で、いち早く現状の問題点に着目し、その問題を解決する方法として、新しい価値観に基づいての行動を取ろうとしているのです。

 しかし、残念ながら、まだそういった人たちは少数派です。逆に、少数派ということで、トッピックスとして扱われているということでもあるようです。

 これまでに書いてきましたように、これからは新しい需要は生み出されても、それが継続的に持続し、さらには拡大していくかとなると不確定な要素が多いように思えます。その時、どのような価値観でもって、「消費」ということと向き合っていくのかは、日本社会にとって重要なことと思われます。

 それは、これからわたしたちがどのような社会を作り出していくのかと同じことを意味していると思います。消費行動が変わると言うことは、単に、政権が変わるという表面的なことではなく、根本的な生活全体の変化を意味しているからでもあります。

 現在、日本では経済的不況からの脱出と言うことで、さまざまな分野でもがき苦しんでおりますが、脱出のための方法論と共に、脱出できた後の新しい社会のあり方に、今後は注目していきたいと思っています。(了)

「問われている絵画(97)-絵画への接近17-」 薗部 雄作

「人間の存在についての再考」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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