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第106号

2009年11月01日

「人間の存在についての再考」 深瀬 久敬

  1.政権交代の理解

 自民党から民主党への政権交代が起きて約2カ月程が経過した。官僚組織と呼ばれる中央省庁の高級公務員と自民党の既得権化した族議員の密室政治が打破され、漸く国民目線の政治に転換されたような気配が感じられる。天下りに象徴される官僚組織の利権追求の露骨さに辟易させられた思いや、官僚の作成した答弁書を棒読みする閣僚の無能さへの嘆息から、少し解放された感じもする。確かに、「無血の平成維新」と呼べる程の改革なのかもしれない。官僚組織の論理は、戦前の統帥権の亡霊のような形で、戦後も徘徊し続けてきたようにも思える。その一方、「コンクリートから人へ」の資源配分の転換を唱える民主党に対しても、友愛とか弱者への優しさを強調するあまり、非効率の垂れ流しとなって、赤字国債によって、国民の貯蓄を食い潰そうとしているのではないかという懸念も拭い去れない。特別会計のような伏魔殿を含めて、官僚組織の強固な利権構造をどこまで突き崩せるかを含めて、しばらくは見守るしかない。


2.普遍的課題としての景気対策

こうした官僚主導から政治主導への変革が進む一方、私たちの関心は、景気動向や雇用の状況といった身の回りの経済生活の在り方を無視することはできないようである。数次の補正予算が組まれ、景気浮揚、消費拡大、二番底回避に向けた様々な施策が行われようとしている。私たちの社会は、今や大量消費を前提とした産業構造が既定路線となり、この路線に変調をきたすと、雇用の機会が喪失され、貧富の格差が増大し、自殺や不特定の人を対象とした無差別殺人事件が起きたりする。確かに、マルクスが指摘した通り、私たちは経済生活を無視しては生きていくことはできない存在となっている。


3.大量消費社会の人間存在

このような大量消費を前提とする社会構造は、英国におきた産業革命に始まり、米国のT型フォードの大量生産に象徴されるような米国流の物質文明によって確固とした位置づけを得たと言えそうである。今現在の景気低迷は、その米国社会におけるリーマン・ショックに端を発する消費意欲の抑制がきっかけになっている。こうした中で、私たちの日本の社会は、㈰IT技術や電気自動車や医療技術などの指数関数的な科学技術の発展、㈪中国を始めとする激しいグローバル競争、㈫急速な少子高齢化社会への移行、といったかつてない厳しい挑戦のもとに置かれている。こうした状況の中で、私は、改めて、人間とはどのような存在なのかを根源から問い直してみる必要に迫られていると感ずる。以下、価値観、人間観、世界観という観点からその考察をしてみたい。

(1) 価値観−持つことと在ること

 人間が求める価値には、内面的で精神的な在り方のよさに関するもの、および、外面的で肉体的な所有に関するものの二つがあると思う。前者は、宗教、美意識を追求する芸術、茶道とか武道のような「道」を極めるようなものである。安心、感謝の念、自尊心などを深めるものと言える。他方、後者は、様々な欲望を満たそうとするもので、物やサービスなどを獲得することによって、より便利で快適な環境を享受しようとするものである。そこでは機能とか効率も大切な要素になっている。今日の社会においては、衣食住の基本的な欲望が満たされると、科学技術の発達によって生み出される様々な電子機器や医療技術やインターネットサービスなど、より高度な欲望を実現しようと目まぐるしく社会は変動している。大量消費を前提とする産業社会化や都市化は、こうした傾向に基づいている。

(2) 人間観−なっていくと作られる

 人間観としての人間の捉え方には、まず、人間は環境に適応するべく自在に変化をし、既定されていないあるものになっていく融通無碍の存在であるという見方、および、神のような絶対的な存在によって作られた被造物であり、ある枠と限界の中に閉じ込められ、常に理想を仰ぎ見ながらも、自らの制約の中に苦悩する存在であるという見方の二つがあると思う。

 前者は、日本の古事記の冒頭にみられるように、人間は自然発生的な存在とみるものであり、地球上においては比較的普遍的なものである。それに対し、後者は、プラトンやアリストテレスのようなギリシャ思想やキリスト教の思想の中で培われたものであり、近代社会を構築する上での原動力にもなったものである。しかし、近代も成熟するにつれ、大量殺戮を平然とする作られたものというにはあまりの残虐性、理性を誇示するような驕り高ぶった人間中心主義の醜さ、さらに、ダーウィンによる進化論の提示、などを端緒として、ニーチェ、ハイデガー、マッハといった思想家らによって、次第に、前者の人間観への歩み寄りが見られるようである。こうした人間観の変化、すなわち、いけいけどんどん容認主義のような変化が、科学技術の発展をエンジンとする大量消費社会への発展に拍車をかけていると言えそうである。

(3) 世界観−自然との一体と隔絶

 世界観としては、人間と自然との関係をどのように捉えるかという視点から、まず、人間と自然とは一体の存在であり、そして、人間は自然によって生かされている存在であり、従って、人間は自然に対して感謝し畏怖すべきであるという見方、および、人間と自然とは切り離されたものであり、自然は人間が利用するものであるとする見方がある。後者は、科学技術のような自然を客観視し、自然を資源として活用する現代の産業社会が前提としている見方である。近代社会は、後者の世界観の影響を受けたものであり、自然との乖離は、個人間の乖離も含意するものであり、個人主義を標榜し、自己責任や教育による自立を前提とする民主主義の思想も、この世界観に立つものと言える。一方、前者の世界観が提供した人間同志の無条件の協力が排除されたり、大量消費の過熱に起因する地球環境問題に人類全体が騒めきたち、宇宙空間の中での孤立感のようなものさえもたらされている。


4.実社会の切り口から

 確かに、今日の私たちの生活は、外面的価値の追求が大きな比重を占め、規範のないやりたい放題の自由を善であるとして容認し、人間同志の暖かな協力関係よりも機械的機能的関係を当然のものとする傾向が強まっている。しかし、人間は、こうした価値観、人間観、世界観だけで全てを扱い、満足できる存在でないことは明らかである。内面的な価値、人間の限界に向き合う謙虚さ、自然との一体感の中でのやすらぎといったものは、決して手放すことはできないものである。問題は、こうした相いれないようにも思われる人間の中の視点をどのようにバランスさせていくか、人類の智恵が問われているということを自覚することだと思う。そうした問題を掘り下げる一助として、以下、私たちの実社会における、文化、競争、都市と地方、科学技術の4つの切り口から、これらを再吟味してみたい。

(1) 文化−美意識と非合理

 文化とは、一般に、特定の地域の、特定の人々の美意識によって支えられている非合理の産物であると言える。例えば、日本ではかつて、敷居の襖を開け閉めするとき、まず膝をついてしゃがみ、戸を開け、立って出たら、また膝をついて戸を閉めた。一見すれば、非合理そのものであるが、そういうむだな行為をとることが、私たちの美意識にかなった。美意識というものが、非合理の精神によって支えられているという見方は、外面的なものを重視する価値観や効率を重視する人間中心の世界観からは排除されていく運命にあるとも言える。今日、都市化やグローバル化が急速に進む中で、多様な伝統文化が失われつつある。人間の在り方を考える上で、美意識というものを私たちはこれからどのようなものとして位置づけていくか、厳しい問いを突きつけられている。

(2) 競争−自由と効率

 競争とは、すなわち自由であり、そこには自己主張があり、効率化を含む改善への問題提起があり、新たな便利さや快適さの実現がある。競争のないところには、特定の権威が君臨し、人々は身分とか様々な制約のもとで、十年一日の如く生きるしかない。しかし、競争が行き過ぎれば、過剰な自由によって、個人主義が跋扈し、チームワークはなくなり、格差社会の様相を強めることになる。また、iPS細胞の応用技術の開発競争は、医療の世界を一変させるような結果をもたらす可能性があるが、そうした先端技術は、知らない方がいいことまで知ってしまうような、これまで人類が直面したことのないような深刻な問題を提起してくる可能性もある。従って、競争の在り方やその結果の享受の仕方など、直視していかなくてはならない。地球環境問題も、そうした枠組みを意識する中で考慮されなくてはならない課題である。民主党が政権をとり、イギリス流の二大政党制を目指すようであるが、二大政党制とは、要するに、自由競争の幅を広くとるか狭くとるかの選択を中核としたもののようである。もちろん、そこには、価値観や世界観も反映した施策の違いも含まれる筈であるが、それが二大政党制でカバーされるものなのか気になるところでもある。

(3) 都市と地方−土地の意味

 都市と地方と言うとき、地方の意味するところは、いろいろあるように感ずるが、私は、土地の生産的価値によってその社会を成り立たせているところと定義したい。従って、農業、林業、漁業など、その土地と不可分の生活を営んでいる人々によって支えられているところである。一方、今日の産業形態の在り方によって、都市化は必然の方向である。こうした理解を踏まえれば、過疎地に点在する人々の利便のために赤字の路線バスを運行するとか、ユニバーサルサービスとして過疎地にも郵便局を行き渡らせるという考え方には疑問を感ずる。むしろ、都市に人々を集め、農業の仕事も通勤して手がけるというのが、今後のあるべき姿ではないかと感ずる。これらは効率化の議論であるが、官僚組織の既得権益を最優先し、効率化を無視するような在り方は、やはり徹底して排除されなくてはならないだろう。社会全体が文化としての美意識を含めて、その非効率性をどのように公共の負担として受け止めるか、問われているのだと思う。

(4) 科学技術−その一面性

 科学技術の進歩のスピードは、まさに指数関数的と言ってもよいのではないだろうか。この10年ほどの間に、インターネットや携帯電話、がん治療技術やDNA解読スピードなど、飛躍的な発展を遂げている。これらのおかげで、私たちの日常生活の便利さや快適さは、格段に増えてきているように感ずる。科学の本質は、世界を徹底して客観することであり、従って、世界の全てを客観すれば、なにが正しくなにが正しくないか分かるのであろうか。どうも、そうは言えないようである。確かに、偏見があったり、視野が狭くて見落としがあったり、誤解や誤認識があったりすれば、それは客観とはいえず、間違った結論に至るのは仕方のないことである。しかし、科学は、客観を尽くしたとしても正しい結論に至るという保証は与えないのだと思う。その理由は、科学は価値判断をしないし、また、意味を問うことをしないためである。私たちは、正しい結論は、正しい価値判断に基づくものであると理解しているし、その理由を分からぬままに、正しいという判断を下すことはできない。また、科学は、対象を徹底的に分析する。すなわち細分化し、より詳細に迫り、応用に当たってのリスクを回避しようとする。それは当座の目的を実現する技術としてはそれでよいのかもしれないが、なにが正しいのかを問おうとする立場からは、そうした細分化はますます真理から遠ざけられる可能性も内包している。技術としての応用の側面においては、汎用性の高い特定の除草剤を使い続けることによって、その除草剤の効かないスーパー雑草を作り出し、その排除に行き詰まってしまうといった二次災害を招くことすらある。私たちは、科学や技術のもつ、こうした一面性や負の側面を常に明らかにして、社会全体で問う姿勢を大切にすることが必要不可欠である。


5.まとめ

 以上、私たちの存在自体に関わる価値観、人間観、世界観を概観し、そして、実社会からの切り口として、文化、競争、都市と地方、科学技術の4つを取り上げて考察してみた。しかし、近年の細胞生物学などの発展によって、遺伝子からのタンパク質合成における品質管理の巧みさとか、血糖値を一定にする複合的に組み合わされたメカニズムとか、免疫系の神業としか思えないようなシステムとかを知るにつれ、私たちの理解する意識とは別次元の意識が働いていると考えるのが自然ではないかと感ずる。単に進化論のいうような環境の変化と偶発の蓄積だけで、私たちのような存在が立ち現れると考えることには無理があるように感じられてならない。DNA配列のコドンと呼ばれる単位コードと対応するアミノ酸とは、あらゆる生命において同じであるという事実一つとっても、その対応コードは一体誰がどのようにして考えだしたのか、疑問をもたざるをえない。私たちは、被造物としての側面を確実に備えた存在であり、また、美意識やすべての生命との連帯の輪の中に存在していることも間違いことである。こうした理解を深めながら、人間はその行方を、日常の生活を送りながらも、意識して生き、そして、死んでいく存在なのではないか、という思いを新たにせざるをえない。

「負けること勝つこと(62)」 浅田 和幸

「問われている絵画(97)-絵画への接近17-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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