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第106号を、2009年11月01日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=「消費行動が変わると言うことは、根本的な生活全体の変化を意味している」というのは私も実感します。若者の場合は、ケータイ電話の利用料金がお小遣いのかなりの部分を占め、CDの売上減やクルマ離れを招いているようです。これも、「シンプル族」的な価値観への変化なのかもしれません。一方、かつての中産階級は、激安商品を求めて、東奔西走しているような気がします。
しかし、最近、思うことは、消費ブームに湧く中国からの観光客が、秋葉原や銀座で、日本製品の品質への絶大な信頼のもと、高価な製品を大量に購入している姿をみるとき、日本の社会は自信をもってもよいのではないかということです。また、観光地などにおける日本的もてなし方への高い評価、自動車などのものづくりにおける日本メーカー独特の細かい点までにおよぶこだわり、マンガ・アニメ・ゲーム・相撲・日本食などのエンターテイメント系における日本人の感性の普遍性、などを思うとき、日本の社会は、こうした日本人のもつよい点をもっと積極的に磨いていく社会的仕組みを構築していくべきではないかと思います。
地元の仕事や天下り先を作ることを主目的とした中央集権的な公共工事はもう止めて、インターネットを前提とした地域固有の情報発信、欧米の一流大学に比肩できる教育プログラムの開発や教員の養成、などに資金を投じていくべきのような気がします。少資源国として、日本はやはり外需の開拓に熱心でなくてはならないと思います。内需開発における農林業や介護業においては、日本人の感性を磨いたものとして、世界に普遍性の通用するレベルに磨き上げたい気持ちです。
人間存在への深い洞察を意識しながら、価値観、人間観、世界観における日本的切り口を地球社会全体に提示し、現在、普遍的とみなされているアメリカ流儀を充分補完しうるような情報を発進することを目指してもよいのではないでしょうか。
薗部さん=かなり乱暴に要約すると「一般論として、五十年代の作品には、絵画へのひたむきさや造型的な集中度が感じられ、迷いのない素直な感性の肌が感じられ、それ以降のものには、生な情念のようなものが座を占め、饒舌にもなる。これは、画家自身の内なるものや時代状況の変化が関わっている。」、「何でも〈描く〉ということを念頭にして見るなかで、アングル、スーラなどの作品にはつよい印象を受ける一方、デビュッフェやオズヴァの絵については、気味悪い強烈な印象やわからない絵という印象がつよいが、それらは、画壇だけではない文学畑や前衛作家などの文学や思想とも関係しているためと気付かされた。」ということでしょうか。
”ひたむきさ、高い集中度、迷いのない素直な感性の肌”といったものから、”生の情念や饒舌”への変化は、絵画の分野に限らず、芸能などのサブカルチャーを含むいろいろな分野にも言えるような感じがします。人間や時代の状況が影響している中で当然かもしれません。しかし、五十年代は、それまで西欧が確固とした自信に裏付けられてきた価値観や人間観に、かなりのダメージを受け、うろたえていた頃と言えなくはないでしょうか。そうしたうろたえが、キュビズムによる視覚の不完全性や、美意識を共有することを拒絶しあうことに逆に安心や別次元の美を見いだそうとする傾向があるように私には感じられます。従って、それは絵画という表現だけでは限界を持つものとなったのではないでしょうか。日本の絵画が、海外のそうした問題意識をどのように受け止め、どのような回答を返そうとしているのか、興味を喚起されました。
(以上 記 深瀬)
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