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第107号

2010年02月08日

「機能主義への潮流について」 深瀬 久敬

 

 私たちは、つい数10年前まで、自然という恵みと脅威を前提とした、厳しく貧しい生活の中で互いに不足を補い合い、ともにみんなで助け合って生きていくことを当然のものとしていた。それは、明治維新以降の、軍隊を必然とする富国強兵やサラリーマン戦士を当然とする経済大国への邁進の中であっても同じであった。一つの目標に立ち向かうために、一人ひとりが自分の欲望を抑え、みんなで協力することが当たり前とみなされた。生老病死といった人間としての基本的な苦しみにも耐え、集団や組織の中の厳しい拘束も全体のために甘受することが求められた。こうした人間社会の在り方の中で、現実を前向きに受け入れるための宗教や芸術を通して、信仰心や美意識が深められた。また、盆踊りや鎮守の祭りといった助け合って生きていることの喜びと感謝をみんなで表現し、その絆を確認しあう習慣も身近なものであった。それはまさに、生活共同体、運命共同体といえるものであり、濃厚な人間関係に伴う重苦しさはあっても、そういう絆なくして、私たちは生きていくことが困難であった。

 しかし、国家主導の巨大開発プロジェクトの推進などによって、科学技術の飛躍的発展がもたらされる中で、一つとして、バブル経済がはじけ、成果主義、機能主義がなだれ込み、そして、いま一つとして、米ソのイデオロギー対立が消滅し、新自由主義、自己責任、競争重視の風潮が社会を覆うようになった。すなわち、人間観においては、その人がどのような機能能力をもつかが、その人の存在意義、価値評価を決定する大きな要素となった。価値観としては、人々の機能やサービスを取引しあう手段としてのマネーがすべての尺度となり、ひいてはマネー資本主義と呼ばれるものをも生み出すまでになった。また、世界観においては、消費を落ち込ますような経済活動の停滞はあってはならないものとみなされ、経済成長こそが最優先の課題であるとの共通認識が形成されるに至った。

 このような人間観、価値観、世界観に基づく機能主義が浸透する中で、科学技術や産業の発展によって、身の回りにはコンビニや宅配サービスがあふれ、生活の便利さや快適さは飛躍的に改善された。しかし、その一方で、高齢者の介護は介護保険で、子どもの養育は子ども手当てで、対応されるものとされ、また、生活費に困窮する人には生活保護費で対応されるものと考えられるようになった。すなわち、社会的なセーフティーネットが構築され、人間関係の希薄化が容認され、かつては日常生活の中での助け合いで対応された課題が、税金という公的に集められたお金の力で解決されるものとみなされるようになった。不充分なセーフティネットの中で、ホームレスの若者の増加などは、こうした社会的傾向を背景にしているのだと思う。

 おそらく、こうした機能主義の思想は、今後、強化されることはあっても、後退することはないのではないだろうか。そうした中で、どのような機能が新たに必要なのか、その機能をどのように実現していくか、を的確に解決していく仕組みが社会的に要請されていくことになる。それは、NPOのような非営利の活動組織なのかもしれない。ともかく、洪水のような災害を防ぐのは、かつてのように、その被害に会いそうな人々が協力しあって対応するのではなく、税金を受け取っている行政という機能組織が、解決すべき問題とみなされる訳である。そうした場合、利用する人々が互いに協力して、必要の範囲で対応されていた農道の整備が、マニュアルに準拠した画一的な対応になり、コストと利便性が釣り合わないといった問題が生じないような機能の柔軟性が必要不可欠になるだろう。自然に働きかけるウェイトより、人為的な働きに依存するウェイトが高まったことに起因する社会運営の考え方の転換と言ってもよいかもしれない。

 以上、機能主義への時代的潮流を述べたが、以下、いくつかの点を補足したい。


(1) 行政における機能主義

 昨年夏の衆議院選挙で民主党が圧勝し政権交代がもたらされた。これは、民主党が、天下り廃止や官僚内閣制の打破を前面に打ち出したことが、少なくとも都市部においては大きな勝因になっているように感ずる。郵政民営化を問う選挙で、小泉自民党が、都市部で圧勝したのと構造は基本的に同じだと思う。「上から目線」ではなく、「国民目線」の大切さを強調したことも影響しているだろう。富国強兵や殖産興業の時代は、官主導でよかったかもしれないが、機能主義の時代には、現在の官僚機構は、組織利権確保に傾いた金食い虫的な側面が目立ち始めている。また、後期高齢者、障害者、退職者といった言葉を本人に向かって使うことをなんとも思わない感覚にも驚く。そう呼ばれた人の気持ちの痛みに思いがいたらないらしい。地方分権を進め、地域ごとの必要性をきめ細かく見極め、効率的に対処する仕組みがこれからは大切になると思う。効率無視のカンフル剤的公共工事依存とそれに伴う天文学的財政赤字を招いた官僚依存体質の自民党に対して、ノーがつきつけられたということだろう。公共のことは全て公開を旨とし、事業仕分けや資産仕分けを含めて、地域の人々の主体的な参加者意識に基づく機能主義が社会運営に反映されるべきだと感ずる。

(2) 人間関係の希薄化

 生きていくことのたいへんさを解決する手段であった互いに助け合うという必要性が減少し、生きていくことそのこと自体の困難さから解放され、その結果、人間関係の希薄化が受容された。しかし、次に待っていたのは、孤独死への不安であったり、成績や資格によらずに自分の存在価値を認めてもらおうとする恋愛アディクションであった。科学技術の成果が、科学と同じように、人間社会を分断したということであろうか。孤独死に直面している人を早期に発見する警報装置の設置などが進められているが、この問題は果たしてそういう問題なのだろうか、と考えさせられる。また、機能主義に伴う競争の激化が、人々の精神的ストレスを高めていることも、同じ視点からの課題とみなすことができると思う。

(3) 文化の多様性と文明の衝突

 機能主義が、地域ごとの多様な文化を否定する方向に働くことにどう対応していくかという問題がある。日本の地方都市は、ターミナル駅を始めとした画一的なイメージが強まっている。郊外の大型スーパーの出店によって、伝統的な商店街がシャッター通り化したのも同じことだろう。ひとつの文明が多様な文化を平準化していくと言ってもよいかもしれない。しかし、日本は、地域毎の多様性を長く維持してきた歴史を持った国である。機能主義と文化の多様性の両立を図る智恵が絞られなくてはならない。また、地球規模では、BRICsと呼ばれる国々を始めとして、大量消費経済が雪崩を打って浸透しつつある。地球環境の保全といったスケールの問題が顕在化する中で、文明の衝突への懸念も起こりつつある。銃砲を街中にあふれさせ、人々の自由を最重要視するという米国のような国と、中央集権による国家秩序の維持を最優先する中国とが、互いの文明をどのように受容し合うのか、今後、大きな課題になるように感ずる。

(4) 新たな国の在り方

 日本の風景が変わろうとしている中で、どのような変貌を遂げるかが問われていると思う。郵便局は日本の原風景といった言葉を聞いたことがあるが、今の日本の風景を代表するものは、コンビニと宅配便ではないかと思う。そして、身の回りには中国製品があふれ、国内に身近に存在していた生産工場は縮小を余儀なくされている。汎用プロセッサを核とした家電製品のデジタル化や電気自動車への流れは、日本の風土の中で培われてきた、経験、かん、品質へのこだわりといったものを駆使するものづくりの競争力を奪いつつある。省エネ、省資源、街中の美化、農林漁業を含む食料品の生産、健康や介護サービス業の確立など、これまでとは異なる切り口による産業の育成や、そうした仕組みを海外に提供する仕事が期待されるのではないだろうか。需要の中身をきめ細かく踏まえた上での適切な機能主義によって新たな国のイメージを構築していくべきだと感ずる。ちなみに、現在、農業を法人企業が営むことが許されているのは、日本のみだと聞いたことがある。基本的に、農業は生きものを相手にする仕事であり、サラリーマンに務まる仕事ではないという論理らしい。確かにサラリーマンの責任範囲は限定されてはいるが、嵐がきても勤務時間ではないから対応できないという論理は通用しないように感ずる。農業分野での機能主義の導入は不可避だと思うし、そうしたビジネス・モデルの確立は意味があるのではないだろうか。

(5) 細胞生物学における機能主義

 私たちの体は、約60兆個の細胞から構成され、各細胞は、㈰DNAを格納する核、㈪メッセンジャーRNAに基づいてタンパク質を合成する粗面小胞体とリボソーム、㈫合成したタンパク質を適切な場所に送り出すアドレスを付与するゴルジ体、㈬好気性環境の中で効率的にエネルギーを産生するミトコンドリア、㈭異物や老化した細胞部分を溶解するリソソーム、などの細胞小器官を含んでいる。細胞自体が、代謝と複製という生命の一つの単位としての機能を有しており、さらに、そうした細胞が、私たちの体が、脳、心臓、肝臓、目や耳などの感覚器官、等の臓器をもっているのと同じように、細胞小器官をもっているということに驚かされる。そして、各細胞は、受精卵から分裂増殖していく過程で、複写された同一の完全なDNAを持ちながらも、上皮細胞、血液細胞、筋肉細胞、神経細胞、生殖細胞など、200種にもおよぶ機能の異なる細胞に分化していく。このことは、私たちの体は、60兆個の多様な機能を担っている生命体を内包した存在であることを意味し、マトリョーシカと呼ばれる同じ人形が入れ子構造になったロシア人形と同じ作りなのではないか思わざるをえない。自分とは一体どのような存在なのかと自問せざるをえない気持ちになる。

 さらに、細胞の不思議はこれに止まらず、㈰3つ毎の塩基をコドンとして20種のアミノ酸を対応付けていること、㈪分子シャペロンはタンパク質合成の品質管理や再生機能を担っていること、㈫ミトコンドリアは原始真核細胞と共生を図った独立した細菌であったこと、㈬細胞膜は構造の維持や代謝を担うのみならず、他の細胞との多様な連絡機能を有すること、などその実に精巧な作りに驚嘆を禁じ得ない。今日、スーパーコンピュータの開発においては、膨大な量の設計仕様書が記述されるが、人体の様々な機能の設計仕様書が全て30億対の塩基配列によって記述され、それが全ての細胞が所有していることに驚く。そして、細胞内のDNAの長さは、信じがたいことだが、1・8mにもなるとのことである。細胞生物学の分野は、まだまだ分からないことがたくさんあるし、がんの発生するメカニズムやエイズ・ウィルスへの対応など、まだ混沌としている模様である。しかし、私たちは、こうした私たち自身の体の構成と個々の細胞の働きから、地球社会の運営の在り方のヒントを受け取ることは、必然の義務ではないかとさえ思われてならない。

 以上、機能主義への潮流は抗いがたいものであるという前提にたって論じてみた。様々な心情的な復古思想が存在するが、新たな切り口に基づく対応がこれからの地球社会の運営には必要不可欠のように感ずる。

「負けること勝つこと(63)」 浅田 和幸

「問われている絵画(98)-絵画への接近18-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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