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第107号を、2010年02月08日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=人間を含めて、すべての生きものは安易な環境に漬かれば漬かるほど、そこから抜け出せなくなるという習性をもっていると思います。まして、労苦無くして、そういう環境を保証しますなどと、エデンの園の蛇のような誘いを受ければ、なおさらのことでしょう。
きびしい自然に、みんなの力を合わせて働きかけ、わずかな成果をえられることをともに喜び感謝するというかつての地域の主体性が希薄化するのも必然でしょう。公共工事や補助金によって、支払う額の10倍の便宜を享受できるとすれば、まともに努力すること自体に疑念を抱くようになるのは自然のなりゆきでしょう。そうした悪循環が、国の借金をますます加速させることになります。国民の貯蓄を回しているのだからこれは借金とは言わないとか、資産の分を差し引けば借金の額はそれほどではない、といった甘い言葉に、心を動かさない勇気をもつことは至難のことのようです。
全体の状況があやしくなっても、既得権にしがみつこうとする傾向は、時代に密着しすぎて消えていかざるをえなかった芸術家と同じことだと思います。
既得権を守るために、「依らしむべし、知らしむべからず」を信条とするような古いタイプの政治家は、退場すべきときだと思います。その地域に必要なものはなにかを、時間軸上で見極め、機能的に対応していく仕組みが、これからの社会には必要不可欠のように感じてなりません。
薗部さんの論文=「その時代にしか属していない」ものは、時代に密着しすぎているがために消えていったという言葉に、芸術のむごさのようなものを感じます。しかし、そのことは、地上にあるすべてのものに当てはまることであり、さらに、生身の人間である以上、時代性から完全に超越することは不可能なことではないかとも思われます。
そして、今日を生きる、敏感な美的・知的好奇心にあふれた若者たちに、この現在という時代がどのように見えているのかということ、そして、そうした若い芸術家が、素直に成長していくための条件とはどのようなものなのか、ということが気になります。そういう環境が提供されていない社会は、たぶん健全な社会とは言えないのではないでしょうか。
芸術家の役割とは、日常生活に追われている人々には、なかなか見えにくい、その時代や地域の特異性を超越した、生命としての人々のこころの奥深くにあるものを想起させてくれることではないかなどと思います。そこでは、そうした時代や地域の特質を背景としながらも、これからの数十年、数千年の先までの変化を読み解いたものであることも期待されているのではないでしょうか。
人々の心のありようが、ますます隔絶化されようとしているこれからの社会の中で、芸術がその接合装置としての役割を果たしていけるかどうかが問われているようにも感じました。
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