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第108号

2010年05月23日

「これからの学問の在り方」 深瀬 久敬

   私たちの生きている近代そして現代という時代を、私たちはどのように受け止めればよいのであろうか。人類の歴史は、地球の約46億年の歴史や約30億年前の生命誕生の歴史といったスパンからみれば、まだほんの一瞬の時間にすぎない。しかし、その発展の速さはめざましく、しばしば、古代、中世、近世、近代、現代などと区分けされる。この区分けを、地球上のあらゆる地域にそのまま当てはめることにはかなり困難があるが、大きな流れとしては妥当なのではないだろうか。

 そして、今日、グローバル化の嵐が吹き荒れる中で、近代という呼び方には、一つの大きな共通概念が存在する。すなわち、近世ヨーロッパで起きた、宗教改革、科学革命、産業革命、民主主義思想を踏まえたフランス革命などによって代表される巨大な地殻変動的な変化がその端緒となったということである。それは、世界をそれまでの直線的発展の様相から、指数関数的発展の様相にスイッチさせるエポックメイクな変革であった。それ以降、帝国主義的植民地支配をはじめ、大量生産と大量消費の生活文化の地球規模での拡大が始まった。さらに、この近代化の理念は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸への大量の移民が始まり、アメリカ合衆国が建国されたことによって、より純化された形で強力に推進された。現在、アメリカ合衆国が、経済、軍事、教育など多くの分野で、地球社会の覇権国家として君臨していることからも、このことは否定できない事実であると思う。

一方、近代社会あるいは近代化と呼ぶときに大切なことは、なぜ、近代化と呼ばれる事態がヨーロッパにおいて起こり得たのかという事情を理解し、胸におさめておくことである。この点について、教科書的に言えば、まず、古代ギリシャにおいて、?定義や定理に基づく演繹による論証を打ち立てたユークリッド幾何学、?自然の根底には数学的調和があると説いたピタゴラス、さらに、?世界にはイデアとよばれる永遠不滅の完全無欠の絶対的存在があり、私たち自身も含めてこの世界に存在するあらゆるものは、それを鋳型として不完全に作られ、常に生成と消滅を繰り返す運命にさらされている存在にすぎないとするプラトンやアリストテレスに代表されるギリシャ哲学といったものがある。そして、いま一つは、ユダヤ民族の伝統から誕生したキリスト教が世界宗教に脱皮していく過程で、神の存在証明や神をイデアとして捉えるスコラ哲学の深化におけるキリスト教神学と古代ギリシャ哲学の強固な融合であった。したがって、プラトンやアリストテレスは、ヨーロッパ文明においては、キリストに先立つキリスト教徒という位置づけがなされている。

 しかし、ここで大切なことは、近代社会は、ギリシャ哲学を取り入れたキリスト教神学体系の構築作業の挫折から生まれたという点である。すなわち、ギリシャ哲学にしろ、キリスト教神学にしろ、その目指すところは、世界の意味を解明することであり、そこから、人間は、どのような存在であり、どのように生き死んでいくべきかという問いに答えることを究極の目的としていたということである。すなわち、人間の存在や世界の成り立ちの意味を知ることなし、人間としての善き在り方とはどのようなものかという問いに答えることはできない。今日では、世界の存在の意味を、論理的に証明しようとすることは、不可能な命題であることは広く受け入れられているが、ヨーロッパ中世末期に、この厚い壁を乗り越えるために大きな方向転換が起きた。それは、意味を問うことは放棄し、その代わりに、私たちの目にする現象を、解析的に因果関係として理解しようとする態度を中心に据えるというものであった。それは力学体系の構築を果たしたガリレオやニュートンの業績に見れば一目瞭然である。そこには、アリストテレスのような、物体の落下は、ふるさとに帰りたいという意志によるものだといった生物学的な説明は一切含まれていない。このことは、科学が、キリスト教のような宗教的権威から解放されたことを明らかにしている。

このような存在の意味を不問にする態度の上に成り立つ科学的成果のみに目を奪われがちな近代という社会には、したがって、大きな落とし穴があることを充分理解しておく必要があると思う。そして、それ以降、哲学は、カントに見られるように、科学的認識を正しく行うためには、人間の理性はどう用いられるべきかといった観点に転換していった。しかし、その一方、人間の存在の意味を問うという願望は絶ちがたく、ヘーゲルの弁証法や人間精神といったものや、社会格差の現実を無視できない気持ちから誕生したマルクス思想といったイデオロギー的なものへの変節も見られた。結局、世界観や価値観の座標軸を喪失した人類は、欲望の暴走としかいいようのないかつてない大量殺戮を伴う二度の世界大戦を経験することになった。そして、経済成長が人間活動の中心に据えられ、税制や公共事業を担う国家と産業社会の中核を担う企業組織との絶えざる緊張関係が作り出され、その中で私たちはこまねずみのようにGDP成長に駆り立てられる宿命に陥ってしまっているかのようである。

 このようにして誕生した近代社会の特徴をまとめれば、次のようになると思う。第一に、意味を問うことよりも、現象を理解し、それを身の回りの利便に応用することを中心とする社会であること。すなわち、人間の日常の在り方の善さとはどのようなものかとか、真善美とはなにかといった真理の探究といった高尚な理念が消し去られ、世俗的利便的価値の追求に翻弄されがちであるということでなる。さらに、それは自然との乖離を含意するものでもあり、私たち自身が自然から造り出されたものであるにもかかわらず、自然とは遊離した存在として位置づけられることになる。日本の古事記では、人は「青草人」といった表現がなされ、地面からはえてくる生命そのものといった解釈がなされている。こうした生命力といったものも、自然からの乖離に伴って失われていくものであり、これは、ニーチェやハイデッガーの指摘に通ずるのだと思う。第二に、効率化の価値観がクローズアップされ、多様性が排除され、画一化の圧力が高まる社会になることである。工業製品ではインタフェース仕様やサイズなどの規格化・標準化、そして、サービス産業においてもマニュアル化や資格化が押し進められ、それらに合致しないものは無価値の評価を受けることになる。生物多様性や伝統文化の多様性などが消滅の危機に立たされていることも、こうした傾向の延長線上にあるものと考えられる。第三に、価値観が外面的なものにシフトした結果、内面的な価値はないがしろにされる傾向にあるという点である。美意識という点においても、視線の新しさや外面的視覚の多様さや奇抜さに比重が移り、内面的な美意識の表現ということが問われなくなりつつある。人間の在り方の善さとは、人間の内面的なものとの向き合い方に大きく関わるものであり、この点からも、近代社会は大きな危うさを抱えているように感ずる。

 このような考察をもとに思うことは、学問というものを人類は、大切にするべきであるし、学問は人間の人間らしい在り方を実現していく上で必須のものであると認識するべきであるということである。現代社会においては、学問というと実学系のものが主流になっている。それは、自然現象などの再現性に基づく論拠の確実性に起因している。再生医療、電気自動車、高速インターネット、スマートグリッドをはじめとする環境対応技術などは、こうした学問の成果であり、そのソリューション提供の強力さゆえに、強い説得力をもっている。そして、これらの技術は、これからの私たちの社会の在り方を大きく変貌させる可能性を秘めたものであることは間違いない。一方、こうした実学の成果の説得力の強さ故に、これらを求める人間の飽くなき欲望に歯止めをかけることが困難になっている。例えば、再生医療の一部に「救世主兄弟」と呼ばれるような免疫型が同一であるという理由によって、胚細胞の段階で選別され育てられるという自然の摂理からは逸脱した行為にまで踏み込む状況が起きている。また、高額ながん治療技術などが開発されても、どこまでの範囲の人々がその恩恵を享受できるのかといった切実な課題に直面することも明らかだと思う。

 一方、古来から、一般的に学問といえば、読み書き算盤のようなノウハウ的なものを含むとはいえ、人間の在り方の善さを求めるものが中心であった。例えば、論語、朱子学、歌論、仏教教学、芸能美術などを挙げることができる。そして、これらの伝統的学問は、論拠が曖昧で確実性がないという理由によって、現代では学問としての主流からは脇に追いやられている印象である。しかし、有機化学反応という現象だけが起きている人間の脳の中に、なぜ、意志とか心とかが存在するのか、という問いに対して実学系の学問は、全く踏み込めないでいることも事実である。人間の在り方の善さとは、まさにこうした心の在り方の問題であり、それに踏み込めない実学的学問は片手落ちの誹りを免れない。戦争、社会的紛争、テロリズム、貧困、格差問題、環境破壊などは、人間の心の在り方を大きく損なうものであり、これらをいかに回避するかは、人間社会にとって切実な問題となっている。さらに、古来から人間そのものは全く進歩していないと言われるように、一人の人間が一度に理解し考えられる範囲は実に限られたものである。その判断にはしばしば間違いが生ずるし、集団的な盲目的状態は、その間違いに起因する悲惨さをより一層深刻なものにしている。

 したがって、実学的学問と在り方の善さを考察する学問とは、車の両輪のような存在であり、そのバランスを失うことは、人類滅亡の崖っぷちに立たされる可能性を意味している。バランスを失わないためには、広く開かれた議論の場が存在すること、過激な偏った見方を抑える質の高い教育が幅広く行われること、バランスを駆動する調整役的リーダーシップが確立されること、などが考えられなければならないだろう。こうしたバランスのとれた学問が、地球社会全体に深く入れられることが、これからの地球社会を適切に運営していく鍵になるように思えてならない。 (以上)

「負けること勝つこと(64)」 浅田 和幸

「問われている絵画(99)-絵画への接近19-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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