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第109号

2010年08月15日

「近代社会化の理念の再考」 深瀬 久敬

  1.近代社会化の理念の誕生・特質・広がり

 (1) 近代社会化の理念は、キリスト教の普遍化・世界宗教化を推進する営みの中で行われた唯一絶対の神の存在を論理的に証明しようとする努力の破綻によって生み出された。

 (2) キリスト教の普遍化・世界宗教化への理論武装の手段として、ギリシャ哲学におけるプラトン、アリストテレスの哲学が援用された。その背景として、古代ギリシャの都市国家においては、都市国家間の紛争調停の手段として論理性が最も普遍性をもつものとして重視されていたことが指摘されている。

 (3) 唯一絶対の神の存在を論理的に証明しようとする営みの破綻は、存在の意味などを問うことを放棄し、世界を、様々な側面における現象を定性的定量的な因果関係として説明し理解するという科学的客観的世界観を切り開くことになった。

 (4) こうして獲得された科学的世界観は、マルチン・ルターの信仰義認論(注。一人ひとりの人間が天国に行けるかどうかは、教会の権威によって決まるのではなく、一人ひとりの内面の信仰の在り方に依存するという考え方)の登場ともあいまって、次のような新たな人間観を打ち立てた。

  1.権威への盲従の排斥。

  2.個々人の自意識の確立(個の確立)。

  3.個々人の自由・平等の理念(自由競争や自己責任の概念)。

  4.物質的な価値や便利さ・快適さへの欲求の比重の増大。

 (5) こうした特質をもつ近代社会化の理念は、産業革命、大航海時代の植民地獲得競争、帝国主義による支配、二度の世界大戦、社会主義革命、米ソ冷戦構造におけるソ連の敗退、グローバリゼーションの浸透、といった過程を経て、地球全体を覆うに到っている。

 補足1. キリスト教における唯一絶対の神は、イエス・キリストの十字架上での贖いを通して、人間への愛と原罪からの救いを示し、人間同志が互いに愛し合い神の御心にかなうように生きなさいというメッセージを発したのだと思う。それは、今日においても強力な影響力を持っており、近代社会化の理念の推進の中でも、常に通奏低音としての存在を堅持している。

 補足2. マルクス思想は、近代社会化の平等の理念を、その物質的側面に焦点を当て、その実現の具体的道を示したものである。したがって、その思想は、近代社会化の理念を前提とした思想であるとみなすのが適当であろう。


2.近代社会化の現状

 (1) アメリカ合衆国は、近代社会化の理念を最も純粋に追求した国家である。個人の自由・平等、物質的価値の重視、権威主義の排斥などの面で際立っている。こうした在り方が、国土の広大さとあいまって、今日、唯一の超大国としてパックス・アメリカーナを実現し得たと考えられる。一方、キリスト教原理主義を信奉する人々やアーミッシュと呼ばれる近代文明の利便を拒絶する人々など、多様な価値観の集まりでもある。近年においては、サブプライム・ローン問題などに象徴される金融モラルの破綻とも思われる自由競争の行き過ぎ、貧困大国とも呼ばれるような貧富の格差の増大、中国資本の存在感の高まり、等の問題に直面している。

 (2) 中国は、1990年代の「改革・開放」政策以降、近代社会化の理念における物質的価値を最大限に享受する方向に転換した。しかし、それ以外の理念については、社会全体の秩序を揺るがす危険性が高いため踏み込むことができないままでいる。地球資源の制約との関連もあり、中国が今後どのような理念に基づいて社会運営を図っていくかは、人類全体の課題となりつつある。

 (3) アラブ・イスラム圏は、基本的に、近代社会化の理念を全面的に拒絶していると言ってよい。イランにおいては、イスラム法学者が最高指導者とされているし、サウジアラビアはサウード家を国王に頂く絶対君主制国家である。イスラム教は、祈りの時間や食事などを始めとする日常生活の規範を取り決めており、それによって集団としてのアイデンティティーを保持する仕組みを形成している。また、歴史的、伝統的な文明へのプライドも高く、こうした点からも近代社会化の理念を容易には受け入れられない事情があると推察される。

 (4) ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドは、職業区分を伴うカースト制度の国であり、近代社会化の理念から見れば、不平等、非効率は一目瞭然である。しかし、その一方、カースト間の干渉がなく、職業も一定していて、社会秩序の安定という点からは、脱却することは非常に困難であるという印象を受ける。IT産業における特異な才能などによって、富を獲得できたとしても、それを社会全体にどのように配分し、社会の納得を得るのかなど、第三者的観点から見ると中国以上の困難さが感じられる。

 (5) ヨーロッパは、近代社会化の理念の誕生の地であり、欧州連合(EU)の形成によってアメリカ合衆国やロシアなどに対抗しようとしている。論理性の重視と生命力の発揮の狭間で、どのようにバランスさせるかといった問題や、様々な伝統的文化や価値観をもつ多数の民族や国家を、全体として仕切るための論理をどのように具体化するかといった問題などを抱えている。


3.日本における近代社会化の状況

 (1) 日本は西欧地域以外で、最も早く、かつ、短期間で、その近代社会化の理念を手中におさめ、欧米先進諸国に肩を並べるに到ったとみなされている。

 (2) その背景として、まず、日本は島国であり、海外から新しいものの考え方やハード・ソフトの事物を導入することに、アンデンティティーの喪失といった危機意識を抱くことなく、ひたすら好奇心のおもむくままに、前向きに取り入れることが可能であったという点が指摘できる。それは、奈良時代の仏教や室町時代の朱子学の導入がそうであった。さらに、幸いというべきか、日本には、古事記や万葉集といった仏教伝来以前の日本の古層とも言うべき自然観、人間観が存在した。それは冒頭の「大日本(おほやまと)は神国(かみのくに)なり」で著名な北畠親房の「神皇正統記」にみられるような万世一系の天皇が支配するという神道国家観の土台を形成するものともなっている。

 補足3. 仏教のメッセージは、なかなか明確ではないが、弥陀の本願として、生きとしいける衆生全体が、極楽浄土に迎え入れられるよう全身全霊で祈りを捧げる僧侶やそれを請い願う世俗者が、全体として協力し合い、社会全体の平安の実現を図るということであろうか。親鸞、道元、日蓮を始めとする鎌倉仏教においては、日本の風土への土着性が色濃く認められるように感ずる。

 補足4. 朱子学は、室町時代に明との交流を通して、主に禅僧を介して導入されたものである。江戸時代には、儒学者である藤原惺窩が徳川家康に講義を行い、さらに、林羅山、荻生徂徠など、徳川幕府と深い関係をもった。また、山崎闇斎は朱子学の「居敬窮理」の他者への敬虔さを重視し、また、神道とも関連した。さらに、陽明学的な中江藤樹、士道論を説いた山鹿素行、「道の外に人無し」と人倫の関係を重視した伊藤仁斎など、その影響は庶民にも及んだ。そして皮肉でもあるが、こうした理へのこだわりを脱しようとする動きが、戸田茂睡、契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって推進され、それが、国学を誕生させる契機ともなっている。

 (3) 積極的な導入の背景として、いま一つ言えることは、江戸時代の末期に活躍した佐久間象山、橋本左内、高野長英といった人々は、精神的な側面においては、日本は決して西洋には劣ってはいず、ただ科学や技術の面でのみ遅れていると考えた点が指摘できる。したがって、彼らは、科学と技術に限定して積極的な導入を図るべし、という考え方をもち、それを具体的に蘭学や洋学として押し進めた。こうした姿勢は、その後の自由民権運動、内村鑑三や新渡戸稲造のキリスト教の位置づけ、大正デモクラシーなどを通して、西欧文明の内奥を理解することが必要不可欠であることを思い知らされていくが、そうではあっても、西田哲学のように、禅的な見方に立って、主客の区別の対立を純粋経験が分化したものと考えるような独自の哲学を打ち出したりするようにもなっていく。しかし、神と対峙する個の確立といった理念を実感として理解することは、不可能に近いように感ずる。

 (4) 太平洋戦争・日中戦争の敗戦後、日本は天皇制国家から、アメリカ合衆国の主導する民主主義国家として衣替えされることになった。そして、アメリカ流の物質文明主導の近代社会化の路線を邁進し、一億総中流と言われるような、表面的には、近代社会化の理念を優等生的に実現することになる。しかし、その有頂天的な行き過ぎはバブル崩壊となり、その反動として、年功序列制などが悪平等や非効率の元凶とみなされ、成果主義や非正規社員の大量生産、資格試験主導の競争激化、自己責任といった近代社会化の根幹に触れる課題が噴出する事態に直面することになった。さらに、貧富の格差の拡大、低コスト化・産業競争力強化のもとで進む生産拠点の海外移転などの問題も顕在化している。今日、日常的に、デフレ、ワーキングプアー、孤独死、シャッター通化、限界集落といった不安を煽り、希望を萎えさせる状況が続いており、近代社会化の理念を、その根底から再考する段階に来ている。


4.近代社会化のうねりの今後

 (1) ヨーロッパにおける近代社会化の理念の発見は、他の文明圏にあった者からすれば、社会の安定した秩序を揺るがすとんでもないものを探り出してくれたという思いも否定できない。ある意味で、パンドラの箱を開けた張本人に、その責任を問いたい気持ちに通ずるものがある。しかし、近代社会化の理念は、科学技術の成果として、宇宙論・素粒子論、コンピュータやインターネットを始めとするIT技術、遺伝子治療・細胞生物学・脳科学などの生命科学など、今日の世界を語る上で避けては通れない状況を作り出している。パンドラの箱と同様に、もはやその蓋を閉じることはできない。私たちができることは、近代社会化の理念と正面から向き合い、どう対応するか熟慮すべき立場に立たされている。イスラム世界も、ヒンドゥー教の世界も、皇帝支配の長い歴史をもつ中国も、それは同様である。

 (2) 近代社会化の基本理念の一つは、世界を因果関係によって説明し、理解することである。この姿勢は科学の基本であるが、世界を総体として全体性をもって、こうしたアプローチで説明し理解することには限界があり、不可能である。それは、生命がなぜ誕生したのかを問うことと同次元の問いであろう。しかし、そうは言っても、社会に対して、社会の在り方といった問題について、政治なり、行政なり、司法なりが、完全に正しく説明し全員の理解を求めることは不可能であるが、その説明に充分な誠意があるのか、人間として納得のいく努力が払われた上での説明なのかということは、開かれた社会であれば、社会的に見抜くことは可能であると思う。とは言え、全ての人(あるいは過半数の人々)が、そういう冷静さと理性的な判断能力をもちうるという保証がある訳でもない。政治のオープン性、情報公開の大切さと社会の成熟さには、関連性があることは否定できない。

 (3) 近代社会化の理念の基本に、論理性・合理性があり、その行使によって、普遍性の追求が可能となる。その時、論理性は、外面的で物質的な価値観を中心に行使される可能性が高いことは否定できないだろう。様々な多様な文化を形成している心情の表現といったものは、合理的な視点からは、無駄なものとして切り捨てられる可能性がある。伝統的な文化が次々に消滅し、画一化されていく。ハンバーガー、ハリウッド映画、デズニーランドといったアメリカ的な文化によって全てが覆われてしまうことも危惧される。合理性の論理を、どのように行使するのが適切なのかは、人類全体にとって大切な課題になっていくと思われる。

 (4) 西洋近代哲学は、カント、ヘーゲル、ハイデッガーなどに代表され、観念論哲学、実存哲学、科学哲学、現代哲学、功利主義、プラグマティズム、構造主義、等々、思想や社会科学などを含めれば、その学問分野は枚挙に暇がない。しかし、こうした哲学は、欧米の視点からみた哲学を展開しているのであって、近代社会化の理念を基盤として発展敷衍されたものと受け止めるのが正しいと思う。真理を知る論理についても、演繹法や帰納法、さらに言語論といったものまで議論されるが、根底となる論理が正しいのか正しくないのかといった議論は、不毛なものに陥らざるをえないであろう。人間は生命として、常に曖昧さをもち、魑魅魍魎を必然とする存在なのだと理解するのが適切ではないかと感ずる。こうした切り口からの人類全体としての議論を期待したい。

 (5) 日本は、これからの地球社会の中で、どのような役割、位置づけを担っていくのが適当なのであろうか。科学技術立国ということはよく耳にするが、学問立国というべきではないか思う。ヨーロッパに登場した近代社会化の理念を、その根底から咀嚼し、以上に述べたような視点を含めながら、地球社会全体として、近代社会化をどのように受け止めていくか、人類全体が智恵を絞ることに、日本が率先して貢献できれば、それに越したことはないと思う。日本の恵まれた自然の中に、そうした世界中の学問を調整しあうような学問の出会いの場を設け、潤滑剤的な役割を果たせれば、日本としても(国防的観点でも意味がある)、世界としても、評価すべきことではないだろうか。

「負けること勝つこと(65)」 浅田 和幸

「問われている絵画(100)-絵画への接近20-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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