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第109号

2010年08月15日

【編集あとがき】

  第109号を、2010年08月15日、無事発行することができました。

以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。

 浅田さんの論文=今の日本の社会に漂う閉塞感は、グローバル化が急速に進展する中で、針路を明確にすべき座標軸が氷解の状況に晒され、さらに、政権交代という画期的な出来事への期待は、政治家の資質の低さのせいなのか、官僚組織や労働組合組織の抵抗のためなのか、よくは分かりませんが、尻すぼみに終わりそうな気配に無関係ではないのかもしれません。

 江戸時代には、徳川幕府は朱子学の官学化を押し進めるために、正統とみなされる学派以外の教育を禁止したようですが、各藩の藩校などにおいては、その藩の社会背景を踏まえて、そう厳しくは守られなかったようです。この論で行けば、今の文科省の全国一律主義はかなり堅牢のようですし、各中央省庁の出先機関の職員は、霞が関より遥かに多人数のようです。

 官僚という言葉がなぜ今の日本の社会で日常的に使われるのか不思議なのですが、本来は、中央集権の権化であるような中国の皇帝の行政を支えるブレーンの人たちを言うのであり、官僚という言葉を使う限り、中央集権からの脱却は不可能なように感じます。その一方で、国家公務員組織の人事や労働形態を変更しようとすると様々な法律を見直す必要があり、一朝一夕にはいかないのだといった説明を耳にします。

 基本的には、代議員としての国会議員の意識の改革が必要なのではないでしょうか。彼らが、その地域のことを国家的な見地から真剣に考え、互いに国全体としてどうするか正面から議論を戦わせるようになれば、かなり変化するように思います。今現在は、中央省庁からの利権をより多く誘導することを最大の任務と考え、それを公約に当選してくる議員が多いようであり、国会議員が既に官僚組織の手先に成り下がっている印象を受けます。なかなか前途は険しいと感じます。

 薗部さんの論文=敗戦後の日本は、高度経済成長路線にうまく乗ったとはいえ、精神面では天皇を現人神として奉った天皇制という鎧を剥がされ、物質面では広島・長崎の原爆投下は言うに及ばず日本中の都市にいやという程の焼夷弾が投下されました。そうした心身両面の空虚な状態から、西洋の芸術の洗礼を受けていた人々がどのように立ち直ろうとしていたのかという問題は、興味深いものがあります。しかし、岡本太郎とか花田清輝といった人たちの諸活動をざっと振り返ったとき、本当に自分たちの大地に根をおろしたものがあったのか、かなり疑問を禁じ得ません。戦後の状況下においては、そうしたポーズのようなものを示すしか残された道はなかったのかもしれません。しかし、そうした状況も、上辺の見かけはいろいろと変化したとしても、本質的に今日にいたるまでなにも変わっていないとしたら、それもどのように受け止めるべきか、徹底した吟味がなされる必要を感じます。日本人に、西洋流の個の確立という概念を受け入れる基盤を期待することには、私自身はかなり疑問を感じますし、それを脇においた、人間社会全体としての在り方を工夫することの方に、日本人は面目躍如とさせる面があるのではないかとも感じます。薗部さんが、「なんだか少し頭が少しよくなったような気がした」というその内容が、その後の作品の創作に具体的にどのような影響を及ぼしたのか、知りたいようにも感じました。

(以上 記 深瀬)

「負けること勝つこと(65)」 浅田 和幸

「問われている絵画(100)-絵画への接近20-」 薗部 雄作

「近代社会化の理念の再考」 深瀬 久敬

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