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第110号

2010年11月08日

「負けること勝つこと(66)」 浅田 和幸

   暑い夏が漸く峠を越し、少し涼しくなったかと思っていたら、尖閣諸島の領土問題を発端にした日本と中国との激しいバトルが起き、それへの日本政府の対応が「弱腰だ」とか「及び腰だ」と言って、盛んにマスコミが煽っています。

 それに呼応するかのように、中国においても、日本への対応が生ぬるいということで、反日のデモが内陸部を中心に起き、そのデモの様子なども報道され、これまで「友好ムード」だった日中間の雰囲気が一挙に変化しました。

 確かに、「領土」を巡る問題は、各国の国民を熱くさせ、それぞれの権益を一方的にまくしたて、それを押し通そうという力学が働きやすいことは、十分に予想されたことでしたが、日本国内のマスコミを含め一般の国民の過剰な反応には、少々「時代錯誤」のような気配を感じたのは僕だけでしょうか?

 以前から、「嫌中・嫌韓」といった中国や韓国に対する批判的な論調は存在していました。距離が近く、同じ相貌をしているという点でも、また、これまでの歴史においても、そういう近親憎悪的な感情を日本人が持っていることは十分に理解できます。

 さらに、明治以降、朝鮮半島の植民地化、満州事変以降の中国本土への日本軍の軍事進攻により、今でも、日本人の心の奥底には、韓国や中国を自分達より下に見るといった傾向があることも理解できます。

 特に、戦中世代に止まらず、こういう「嫌中・嫌韓」感情は、若い世代にも蔓延しており、今回の尖閣諸島での事件に対する日本政府の対応を、「弱腰」と批判する向きが多いことも不思議ではありません。

 ただ、僕が「時代錯誤」というふうに感じた原因は、いつまでも日本人の間で、日本の国力が中国や韓国に関して、経済的にも軍事的にも優位であるという認識についてです。

 だから、過激な論者は、週刊誌の誌上で「戦争だ!」などという勇ましい言葉を発し、それを支持する人たちもいるといったことが、日本では特に異常視されていません。

 勿論、かつて「領土問題」は、それが戦争への道であった時代もありました。近いところでは、イギリスとアルゼンチンが大西洋上にあるフォークランド諸島を巡っての戦争もありました。

 そういう意味で、今回の尖閣諸島の事件も、かつてなら戦争一歩手前の事件となった可能性はあります。しかし、現状はあくまでもその可能性は0%に近いものでした。

 それは、日本、中国、韓国を含めたこの東アジアの情勢が、この程度の事件で、戦争と言った大事件に発展する状況ではなく、また、一部の過激な人たちを除外して、それぞれの国民も、そういうことを望んでいないということが挙げられると思います。

 その中で、日本国内からこういう過激な声が挙がり、それに一定程度のシンパシーを感ずる人たちがいるということについては、冷戦構造が崩壊し、世界経済がグローバル化して行く現状を、まだ認めたくない日本人が多いのだなと改めて感じました。

 多分、この東アジアの地域に冷戦構造が厳然と確立し、日・米VS中国・ソ連といった対立関係が明確な時代においては、こういった事件は、直ぐに「戦争前夜」といった事件にまで燃え上がったことと思います。

 でも、時代は変わりました。冷戦構造は消滅し、中国はアメリカに次いで二番目の経済大国となり、中国経済の如何では、世界経済も不安定化するといった現状では、この程度のことで「戦争」を叫ぶことの「時代錯誤」は、誰の目にも明らかなように思います。

 何故なら、平和であることが、経済の発展の第一条件であり、貿易も含め、戦争が起これば、世界経済は大きなマイナスを抱え込むことになります。

 さらに、アメリカのイラク侵攻、アフガニスタン侵攻を見ていても、アメリカ経済に大きな負担を掛けることはあっても、戦争によりアメリカ経済が活性化し、アメリカに大きな富みをもたらしたことはほとんどないようです。

 つまり、現代においては、戦争は必ずしも経済効率の良いイベントではなくなったということです。それよりも、平和が確立され、各国が経済的繁栄を求めるやり方の方が、世界経済に良い影響を与えるという共通認識が出来あがっています。

 さらに、日本に関して言えば、日本は日米安全保障条約の枠組みでしか動くことができません。つまり、日本の自衛隊が単独で、軍事行動を起こすことはあり得ないことです。

 こういう環境を冷静に考えれば、一部の日本人が叫ぶ「戦争」という言葉の時代錯誤ぶりが明らかになるのではないでしょうか。つまり、今の時代、そう簡単に「戦争」など出来ない時代と言っても良いように思えます。

 ただ、前にも書きましたように、日本人の心の中は、かつての「冷戦構造」の枠組みの残滓が抜けきらず、ついつい、「冷静構造」の枠組みで、今を判断しがちだと言うことのようです。

 さて、今回の事件で改め明らかになったことは、日本は中国に対して、実は何一つ切り札を持っていないと言うことでした。資源、経済といったどの面を取っても、日本の中国への依存度に比較して、中国の日本への依存度が低いということでした。

 多分、大多数の日本人の心の中には、中国の方が日本への依存度が高いという、勝手な思い込みみたいなものがあったように思います。確かに、十年前の中国は、そういう日本人が抱いている中国像に近いものだったと思います。

 しかし、ここ十年の中国の経済的な発展は、そういう日本人の優越感を根底から突き崩すほどに突出したものであり、世界ナンバー・ワンのアメリカですら、現在では、中国の動向を無視するわけにはいかぬ程のパワーを持っているのです。

 どうやら、私たち日本人は、なかなか現状の世界の姿を認めたくないという思いが強いようです。日本の携帯電話を指して「ガラパゴス化」という言葉が使用され、国際基準ではない日本独自のシステムへの批判が最近見受けられますが、単に技術だけでなく、世界の見方も「ガラパゴス化」が進んできたように思えるのです。

 さて、ここで少し視点を変えた話題をします。二十世紀中に実現することなどないと思われていた「冷戦構造」の崩壊、それによる経済のグローバル化の原動力とは一体なにであったのでしょうか?

 それは、ソ連を始めとする社会主義経済の非効率化や官僚主義による組織の硬直化。資本主義経済が実現した富に比較して社会主義経済の敗北。勿論、それ以外にもいろいろあると思いますが、僕が一番重要に思える要素は、世界の経済をリードしている人たちが、新しいマーケットを発見したということではなかったでしょうか?

 千九百七十年代の初頭、ローマ・クラブという団体が「成長の限界」という論文を発表しました。その論文に書かれていたことは、それまでのような高度経済成長の実現が困難となり、世界は、全体的に停滞期へと突入して行くという暗い否定的な予測でした。

 その時代、僕は大学生で、日本でも環境問題が盛んに問題となり、それまでの能天気な高度経済成長万歳といった論調も陰り出すと共に、経済成長を支えた資源の枯渇ということが注目され、それに追い打ちをかけるように「石油ショック」が日本経済に大きな打撃を与えるといった時代の変わり目でもありました。

 当時、僕が読んでいた本の中で、作家の阿部公房氏が書いた評論に「辺境から」というタイトルのものがありました。その本の趣旨は、文明は常に「辺境」からエネルギーを吸収することで、新しいものを生み出して来たというものでした。

 いま覚えている例として、現代美術を作りだしたアーティストの一人ピカソが、アフリカの土俗的なアート(ヨーロッパ文明にとっては辺境の地であるアフリカ)や仮面からインスピレーションを得て、新しい表現を生み出したというものでした。

 だから、現代は、そういう「辺境」が無くなったことで、文明の活力が失われ、新しいものが生み出されていないといった結論だったように思います。

 実は、それと同じことが経済においても言えたのではないでしょうか?資本主義陣営と社会主義陣営と言う形で固定していた「冷戦構造」は、七十年代初頭辺りで、資本主義経済も社会主義経済の発展も頭打ちになって来ていたということです。

 それは、マーケットが飽和状態になったことを意味しており、新しいマーケットが求められていたということです。そして、よくよく周囲を見渡してみると、資本主義陣営に属する経済界のリーダー達は、ソ連や中国という社会主義陣営に、新しいマーケットの可能性を見つけたということです。

 つまり、「経済的辺境」を見つけた以上、問題は、いかにして、その辺境を取り込むかということに尽きます。そのためには、これまでのように政治的・軍事的に対立していたのでは無理であり、その緊張緩和が何よりも重要な課題となったわけです。

 そして、アフガニスタンでの戦争により経済的に疲弊したソ連の指導者ゴルバチョフは、「デタント」=「東西の緊張緩和」を断行し、ソ連は崩壊し、ロシアが生まれることになりました。

 まさに、新しいマーケットが・・地球の人口の半分を超えようとするマーケットが出現したのです。もう、こうなれば、この勢いを止めることが出来る人間はいません。

 中国は、世界の工場として、安い賃金と豊富な労働力を武器として、急速な経済発展路線へと転換して行きます。政治的には、共産党一党の独裁政治でありながら、政治は政治、経済は経済とうまく表と裏を使い分けることで、年率で十%以上の高度経済成長を成功させてきました。

 さらに、インドやブラジルといった、それまで経済的には遅れていた国々や資源を先進国に売るだけで、自国の産業を発展させられなかった国々が、その後に続いて産業化を推し進めて行きます。

 それにより、低賃金で購買力が無かった多くの人々が、ある程度の購買力を持った消費者に脱皮し、さらに、その中でも有能な人たちは先進国の消費者を凌ぐ、購買力を持つ消費者に変身し始めたのです。

 これは、まさに日本の戦後の経済成長と同じ足跡を辿っています。購買力の乏しかった人々が、高度経済成長による所得の増大により、優良な消費者に生まれ変わり、彼らの購買力が、さらに経済を発展させるという、プラスのスパイラルが働いたように、いま、後進国・低開発国と言われていた国々が、爆発的な勢いで成長を始めています。

 それにより、世界の勢力にも変化が生じました。かつて、インドを中心に「非同盟諸国」と言う資本主義陣営にも社会主義陣営にも属さない政治的集団が形成されていましたが、現在は、経済的なレベルで新しい集団が生まれています。

 先進国とそれを追いかける新興勢力と最貧・低開発国といった大きく分けると三つの塊に世界の国々が色分けされるようになりました。イデオロギーではなく、経済的豊かさが指標として、この塊を区分けしているのです。

 そういう意味では、まだ経済的辺境は残っています。特に、アフリカ諸国は、最貧・低開発国が多く、工業化を含め、豊かな社会の実現に向けて成功している国々は多くありません。

 そして、そういう経済的格差を利用して、先進国は世界の富の独占的な所有を図ろうとしています。現在、名古屋で開催されているCОP10(生物多様性条約第十回締約国会議)でも、この先進国と途上国の主張の溝は簡単に埋まらないようです。

 いずれにしても、「冷戦構造」という、それぞれの陣営が囲い込み、相手との交流を行わず自足するといったシステムは、現在完膚なきまでに破壊されてしまいました。

 日本が得意としていた官民による「護送船団方式」といったシステムは、「冷戦構造」においては、極めて有効かつ機能的に働いたシステムでしたが、それが崩壊した後は、そのシステムの不備な部分がクローズ・アップされ、それを維持することが不可能になり、金融を含めて様々な業界の再編成が、この二十年近くの歳月を掛けて行われてきました。

 ただ、痛みを伴う改革である故に、激しく出血した所を手当てしながらの歩みであったために、日本に住んでいる人たちには、世界で起きている急激な変化とそれに伴う強烈な痛みを体験することなく、ここまで来られたということのようです。

 しかし、それもここ数年に関しては、手当もままならぬ状態が続き、余りの痛みに耐えかね、叫び声や悲鳴を上げる人たちも多く出て来ました。(それの象徴的なシーンが年末に話題となったテント村なのでしょう)

 さて、ここで冷静になって見ると分かりますが、実は、これと同じことを日本も経験して来たわけです。高度経済成長が始まる以前の日本は、農業を中心にした第一次生産人口が国民の八割以上を占めており、都市部と農村部の経済的格差は大きなものがありました。

 この貧しさ=賃金の安さが、日本が経済成長して行く際の条件でした。同じもの生産するに当たり、賃金が安ければ、製品価格も安くなるのは当然です。

 つまり、日本人も、当時の先進国アメリカやヨーロッパの労働者の仕事を低賃金で奪うということで、初めて高度経済成長が可能になったということでした。

 だから、現在、日本の国内産業が空洞化し、生産の拠点が中国を始めとするアジア諸国にシフトしているというのも、五十年ぐらい前のアメリカやヨーロッパの地位に日本が達したということなのです。

 勿論、これだけ豊かになった日本の社会は、後戻りすることは出来ません。今さら、五十年前の生活に戻ることなど不可能です。そういう意味で、私たちがいま感じている痛みは、簡単に回避することが出来ない痛みであると覚悟する必要があると思います。

 ただ、残念なことに、なかなかそれを実感することが出来ないというのが現実のようです。しかし、今後益々深刻化して行く「少子高齢化」の中で、いずれの時点で、この現実をしっかり受け止め、幻想や甘い期待と決別した上で、自分達の置かれている状態を把握する必要があると思います。

 この十月、日本では「国勢調査」が実施されました。僕も、仕事柄、国勢調査の調査員を依頼され、調査票の配布と回収に携わりました。

 今回、僕が担当した調査区域は、僕の住んでいる周辺(金沢市内の中心部から少し離れた住宅地)でした。この調査地域は、二十年ぐらい前に担当したことのある地域でした。

 そこで、改めて感じたことは、急速に人が減り、高齢化が進んでいるなというものでした。今回の調査票は、一枚について四人の人間のデーターを書くことが出来ます。つまり、四人以上の家族がいれば、当然、もう一枚調査票が必要になります。

 僕の調査地域には、七十を超える所帯数がありましたが、そこで二枚目の調査票が必要だと言った所帯は一桁でした。ほとんどが、一人ないし二人暮らしということなのです。

 二十年前、同じ調査地域を回った時には、二枚目の調査票が必要だという所帯は相当数あったように記憶しています。しかし、二十年後の現在、一人暮らしと夫婦だけの二人暮らしが圧倒的に増えているのです。そして、高齢者が目立っています。

 多分、五年後に調査する次回の国勢調査では、この所帯の二〜三割近い所帯が無くなっている(死亡または施設等への入所で)可能性を僕は感じています。

 これは、僕の住んでいる金沢市に特有の現象ではないと思います。全国規模で、同様の事例が起きている。それが、日本の現状なのです。以前は、地方の過疎地域の人口減少と高齢化が問題でしたが、現在は、都市部での人口減少と高齢化が問題となっています。

 この傾向を止めることは現状ではほぼ不可能です。それどころか、人口が多い地域であればある程、高齢者の増加は急速かつ大量であり、それに対する行政などの対応はお手上げというのが真実に近い日本社会の姿なのです。

 こんな風に振り返って見ると、戦後の日本社会はジェット・コースターに乗っているように恐ろしい勢いで変化してきました。最初は、高度経済成長による人口も経済も右肩上がりのプラスの変化でした。

 しかし、それもある瞬間頂上に到達したと思ったら、今度は急速に落下の軌道を取り始めたのです。最初は、その変化も落下ではなく上昇しているように錯覚して見えました。でも、ここに来て、落下の速度が増すに連れ、それが現実であることを認めざるを得ないところにまで至っています。

 そういう意味で、これまでのシステムや思想に関して、全て見直す必要があると思います。そして、それが可能なのが、昨年の夏に起きた「政権交代」であったと考えています。

 ただ、生きている限り、人間は、現状の生々しさから目を逸らしたいという気持ちがあります。自分に降りかかってくる「痛み」や「苦しみ」から逃れたいという気持ちも強いです。

 だから、「改革」に関しては後ろ向きにならざるを得ません。特に、自分の持っている既得権を手放すことへの抵抗感は強いものがあります。そして、政権交代後に生じたさまざまなゴタゴタは、改めていかに既得権に多くの人々が縛られてきたかということを白日の元に晒しました。

 マスコミや官僚だけでなく、地方のプチ権力の持ち主達も、自分達の権力が削がれ、これまで通りのやり方を否定される政権交代を憎んでいます。

 勿論、そういう気持ちも僕は理解できます。自分自身も、既得権を手放すことへの抵抗感は強いことを認識しています。でも、現状を冷静に眺めて見る限り、それも所詮は儚い抵抗だなと思わざるを得ません。

 何故なら、「少子・高齢化」は、坂を下るように勢いを増し、日々の生活を確実に変化させているからです。つまり、僕達も、そろそろ夢から覚める時に至ったということです。

 世界が刻々と変化しているその姿を、針の穴からではなく、もっと大きな穴から覗き、そして出来ればその空気を感じる必要があるように思います。その時、もう少し等身大の自分達の姿と向き合うことが出来るのではないかと自省を込め感じているこの頃です。(了)

「問われている絵画(101)-絵画への接近21-」 薗部 雄作

「変化について」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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