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第110号を、2010年11月08日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=?中国に工場を移転し製品を安価に製造すること、?中国製の安価な製品を輸入すること、?中国の巨大市場へ進出し企業の維持成長を図ること、などは国内の空洞化の痛み抜きには不可能です。また、農作物の貿易自由化も国内農作物による食糧自給率の低下や伝統的農村風景の消失といった犠牲が不可欠となります。中国の巨大化する軍事力に対抗するためには、沖縄の米軍基地維持を受け入れる必要がありそうです。失業率を抑えるための公共事業や増大する医療費に対応するためには、モラル・ハザードの崖っぷちまでの赤字国債も容認されるのでしょうか。
米ソ冷戦構造の崩壊、新たな金融工学の登場、など世界の状況は刻々と変化しますが、そういう変化に適切に対応していけるかが問題です。比較的情報収集力に優れた大企業などはそれなりに対策を打っているようです。しかし、しがらみの多い巨大な行政組織や中小零細企業などでは、ミクロ的にしか変化が読みきれずに、変化への対応に呻吟することになります。
戦国大名、幕府将軍、大名藩主、官僚組織などをトップリーダーとして、その配下に様々な人材を配した構造で、日本の社会は曲がりなりにも運営されてきたように感じます。これからの日本社会はどのようなリーダーシップのもとで運営されるのが適切なのか考えさせられます。最小不幸社会を構築するという理念はピンときません。変化の本質を踏まえた、外的価値と内的価値をバランスよく実現するような、教育も含めた社会構造の構築を進めるべきのように感じます。変化の本質を見極め、対応策を突き詰めれば、国内空洞化の問題にもなんらかの対応策がある筈です。哲学、思想、芸術などは、本来、こうした世界の変化の本質を分かりやすく提示することを使命としたものだとも思います。
薗部さんの論文=芸術とか美術とはなにかというのは難しい問いであり、正直はっきりわかりません。しかし、芸術は本来、人間の内的世界の価値をうまく表現したものなのではないかと思います。内的世界のよろこびとか悲しみとか、変化への不安とか、不気味な感情とかです。そうした内的世界の価値の共有は、人間との深い出会いでもあり、孤独を癒します。そうした芸術は、それが生まれた特定の文化とか時代とかに含まれていなくとも理解することができるものだと思います。むしろ、かけ離れた状況におかれている方が理解しやすいのかもしれません。「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの」といった位置づけも分かる感じがします。つまり時代や固有の文化を超越します。
アメリカにおいて抽象性が広まった背景は、社会的に未知な要素が強いからでしょうか。人間は不安や未知なるものと向き合うときは、抽象的なものの方が共感を持ちやすいのではないかという印象を持ちます。不安や未知なるものへの恐怖感のようなものを、連帯感によって乗り切っていきたいと思うときには抽象性の方が心強いのかもしれません。しかし、その一方、抽象性がなくても、その芸術を作り出した芸術家個人の内的な刻印がしっかり刻まれていれば、それによって不安や恐怖心を和らげることも可能なのではないかとも感じます。内面的世界と外面的世界のバランスのとり方は、人それぞれの個性や社会状況などさまざまなものに影響されそうです。また、時代のポスターとして、身近においてノスタルジー的な気分を楽しみたいという目的も芸術にはあるのでしょうか。芸術の目的も様々な側面があり、その意義や見方も限定的に捉えてはいけないのだと感じます。変化の激しい時代のなかにあっては、芸術に真に求められるものを探り当てるのも困難さが増しているのかもしれません。
(以上 記 深瀬)
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