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第110号

2010年11月08日

「変化について」 深瀬 久敬

   この20年ほどのあいだにおける私たちの社会の変貌ぶりは、その前の状況を遠い昔のように思わせる。こうした短期間における大幅な変化は、これから先、この社会はどうなっていくのか、自分自身の生活はどうなっていくのか、といった不安を抱くことを禁じ得ない。

 社会的な大きな変化を列挙すれば、次のようなものがある。


第一に、多くの市街地でシャッター通りが出現している。人の流れが変わった。郊外に大型スーパーが出現し、道路が整備され、一家に複数台の自動車をもつことが当たり前になった。街の中には駐車場が目立ち、人の気配が希薄な感じだ。公共工事で仕事と収入に恵まれた人もいれば、買い物難民化して日々の生活に不便をかこつ高齢者も目立つ。村落共同体として地域を支えていく力は急速に弱まりつつあるようだ。


第二に、仕事のやり方が変わった。職場ではパソコン画面とにらめっこして黙々と仕事をする人が多くなった。連絡も電子メールでするのが普通になった。半期毎に目標管理シートのようなものに、チャレンジする項目と各々のウェイト、さらに、前期の成果実績を記してレビューするのも日常的な風景になった。幹部社員がそれぞれの部下の評定を持ち寄り、査定ランクを相談しあうという情緒的な雰囲気は霧散した感じだ。資格の取得も目標管理の重要な要素になり、休みの日はその勉強に追われるのも日常茶飯になった。職場には派遣社員が目立つようになり、なにか仕事仲間とは違う、目には見えない垣根のようなものを意識することになる。それは、コスト意識への刺激を受けるものであり、格差社会、機能社会、競争社会への煽りを意識せざるをえないものでもある。

第三に、身の回りに中国製品があふれるようになった。衣類関係では、中国製品でないものの方が珍しい。食料品でも中国産が多いようだ。軽快な使い勝手のホッチキスも、予想に反して中国製品であった。家電製品は中国製、スマートフォンや液晶テレビやタクシーの車は韓国製という時代が近いのかもしれない。日本の国内の工場は、人件費の削減と中国市場に進出するために、国外に出ていかざるをえない状況に立たされている。蓄積されてきた技術が流失することに歯止めはかけられないだろう。日本全体が、地球規模でみれば、シャッター通り化しているようだ。ジャパン・パッシングが進んでいくと、日本の社会はどうなっていくのであろうか。ハブ空港化とか観光立国とか、頑張ればなんとか可能なのか、かなり心配である。

第四に、情報関連の仕組みの驚異的な進化がある。通信は、アナログモデムから、ISDNを経て、ADSL・光・CATVのブロードバンドに変容した。CPU性能やハードディスク・USBメモリの容量は、桁違いに向上した。インターネットを介した辞書代わりの情報検索、動画鑑賞、ネットショッピング、音楽ダウンロード、ブログ開設などは日常化した。ケータイはスマートフォンに移行し、モバイル、ユビキュタスの進化は止まるところを知らない。デジタル技術、半導体加工技術、ソフトウェア開発技術などの進展は、書籍の位置づけ、世論の作られ方、宅配便と連携した生活の在り方など、その影響は計り知れない。

 第五に、社会構造も様々な変貌を遂げつつある。少子高齢化は止めようもなく、街中の図書館は退職した団塊世代であふれ、入場制限が掛かったり、無縁社会、独居老人、孤独死などが社会問題となっている。年金歳出や医療費も膨れ上がりつつあり、社会にぶらさがっているだけの人たちの増大にどう対応していくかが、国家レベルの喫緊の課題になっている。国も地方も、もう既に借り入れ可能な限度近くまで借金を積み重ね、いまや返済の目処さえ危ぶまれている。なにか日中・太平洋戦争に突き進んだときのようなモラル・ハザードと同じような雰囲気を、この国家予算の半分以上を借金で賄うという繰り返しを当たり前とする社会に感じざるをえない。会社中心から家計中心の経済に移行させるとか、供給サイドから需要サイドに軸足を移すとか、国家資本主義のもとでインフラ輸出の競争力を高めるとか、市民感覚を取り入れるための裁判員制度や検察審査会とか、いろいろ言われているが、誰がどのような論拠を踏まえ、どのような責任のもとで推進されているのか、実感として理解するのは難しい。

 その他に、自然環境の変化も著しい。地球温暖化とあいまって動植物の生態系に異変が起きている模様だ。昆虫の生息地域や果物の生育状況が変わってきているという。熱帯型の局地的な集中豪雨の被害も都市部で起きている。地下街や地下鉄線路内に、あふれた雨水が押し寄せたときの被害をどうくい止めるかが問題になっている。農薬や遺伝子組み替え作物の使用は、田んぼや里山の風景を一変させているようだ。どじょうや朱鷺などのかつての田んぼではありふれたものが今は絶滅に近いと言われる。昆虫や雑草を寄せつけない薬や遺伝子の要素が人間の体内に蓄積されるとき、それらがどのような影響をもつことになるのか、不安を拭い去れない。都心部には超高層マンションが林立するようになった。都市型集中社会の方が運営が効率的であるという見解も否定はできない。しかし、そうした地域には、なにか心の落ち着きが感じられない。機能空間における無機質性に覆われているかのようだ。


 次に、変化そのものについて、いくつかの側面から検討してみたい。

 第一に、生きものにとって、変化は避けられないものだ。「生物と無生物のあいだ」という書物の著者である福岡伸一という人は、生物とは常に動的な平衡状態を求めて揺らいでいる存在であるとしている。なにかの変化や刺激に反応して、次の平衡状態に移行するという変化を常に行っている存在なのだ。流れている存在と言ってもよい。これは、唯脳論の養老孟司という人も言っている。ヘラクレイトスの「万物は流転する」、鴨長明の方丈記の書き出しである「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」、平家物語の冒頭「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」、劉廷芝の「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」なども想起される。漢方薬は、正常ではない平衡状態、すなわち健康ではない状態に、穏やかな外部からの刺激を与え、別の平衡状態すなわち本来の正常な状態に移行させる働きをするのだと言う。

 第二に、変化することに、現状に既得権益をもっている人は反対するし、不満な人は賛成する。二大政党制の保守と革新のせめぎ合いになる。新しい平衡状態のイメージがないままに変化を行うことにはリスクがつきまとう。リスクの高さと現状への不満の度合いが天秤にかけられるということだろう。チェンジや政権交代を呼びかけたオバマ大統領や民主党が、勢いを失いかけている。社会の在り方に、望み通りの変化を引き起こすことは、再現性の保証された既存の知識を活用する科学技術の世界とは異なり単純ではない。その変化が、最悪の場合には全体の破綻を招くことも心配しなくてはならない。仏教の末法思想やキリスト教の終末論は、ある種の戒めであるのかもしれない。食物連鎖の頂点となる存在を失うと、別の種類の生物が繁茂しすぎて絶滅してしまうこともあるという。生きものである限り、無機物とは違い、じっと静止したままでいることはできない。変化の行き末をよく見極め、新たな平衡状態を深くイメージしていくことが大切だと思う。変化はチャンスという視点のみで、目先のチャンスのみ追い求めることは危うい。

 第三に、変化速度の微分値のような点について目を向けてみたい。宇宙の開闢は、136億年前であり、地球の誕生が46億年前、原始生命が39億年前に誕生し、真核細胞生物は22億年前に登場したといわれる。多細胞生物が誕生したのは12億年前で、魚類が5億年前、恐竜が2億年前、そして、700万年前に現生人類が誕生した。440万年前に直立二足歩行が行われ、240万年前に石器が使われだし、1万年前に農耕牧畜が行われだした。今日の私たちには、千年前と言われても、日本では平安時代であり、ヨーロッパでは十字軍が結成された頃である。歴史の変化の速さは主観的なものにすぎないかもしれない。また、私たちの宇宙は、10次元空間に浮かんでいる3次元の膜であり、隣の別の膜宇宙と衝突・反発を永遠に繰り返しているらしいとの説もある。宇宙の重量の25%ほどを占める暗黒物質の正体も解明されつつあり、わたしたち人間の存在を、より深く考察する時代も開かれそうである。しかし、この20年ほどの地球規模の変化は、地球社会にどのような平衡状態をもたらすものなのか、見据えていく必要があると思う。

 第四に、先に列挙したような変化は、全て、人間の外的世界のものだ。地域の衰退、仕事のやり方、格差問題、中国製の衣類の氾濫、高速インターネット、地球温暖化、高齢化など、全て、人間の内面の在り方の変化とは切り離された世界でのことだ。確かに人間の気持ちの持ちように影響がないとは言えないが、人間の内的世界を直視することに起因するものは何一つない。これは近年の急速で大規模な変化は、西欧近代化の世界観、人間観、価値観が、その根底にあることに深く関係している。

 西欧近代化は、人間の内的世界と外的世界を切り離し、それぞれを別のものとしてしまった。カント以降の学問は、外的世界のみを取り扱うものとなった。内的世界を取り込む努力もされたが、自分の都合のよい根拠のみを取り上げるために、イデオロギー的な一つの信念のようなものに止まらざるをえないものになっている。芸術や美術の世界においても、近代以降のものは外的世界の芸術的価値の追求を主としてきた。印象派、キュビズム、抽象絵画などは、内的世界と外的世界とを繋ぎ止める努力を懸命に果たしてきたが、成功しているとは言えないようである。

 さらに、外的世界の変化の競争は、単一の価値観のもとで繰り広げられるため、多様性が失われる。そして、それは特定の資源を過剰に消費していく。効率、コスト、規模などを指標として追い求める外的世界における変化は、人間の内的世界とは無関係に暴走を繰り広げているかのようだ。

 哲学や思想は、今日では、西欧に根底をもつものとみなされているかのようだ。例えば、日本思想史と言って、万葉集、古事記、平安仏教、鎌倉仏教、儒教、陽明学、国学などといっても、これらは、無常観に代表されるように、人間の内的世界を対象としたものであり、西欧近代の哲学・思想とは、連絡がつきにくい。カント以前の西欧哲学や思想は、人間の内的世界も統合したものであったと思われるが、内的世界のみに限定された部分は消去されてしまったのではないだろうか。

 また、外的世界では論理が駆使されるが、その論理は、正しいとされる前提を基盤として構築される。したがって、その前提とされることが共有されなければ、論理の結論は全く異なるものになる。中国の社会が民主化されず、共産党一党独裁が行われていることが、人権を尊重する民主主義に反しており、間違ったものであると指弾されている。しかし、これは人権とか民主主義を正しいとする前提の上になりたつ言である。中国社会の秩序に責任を負っている立場からすれば、そういう安易な批判を受けることはがまんならないのではないだろうか。

 外的な世界と内的な世界との価値観は、「もつこと」と「あること」の対比となる。仏教や儒教や国学など、日本の社会における思想は、こうした人間の内的在り方をいかに高尚なものにするか、といった視点を中心に構築されてきた。そして、明治維新から太平洋戦争、そして、戦後の経済復興から今日にいたるまで、内的世界の価値観は忘却の淵に沈められてしまった。そして、今日、外的世界のめまぐるしいまでの変化の中で、内的世界の平安までもが脅かされそうな状況に到っているのではないだろうか。

 国内や世界を問わず、政治は、内的世界の世界観、人間観、価値観を正面から取り上げた議論をしなくてはいけない時代にはいりつつあると感ずる。ケインズ流の公共事業中心の財政出動か、市場原理主導・規制緩和の自由経済競争か、それら二つとも違う第三の道かといった議論の段階は過ぎ去りつつあるのではないだろうか。江戸時代の儒学を官学とするといったアナクロニズムは不適切なことは間違いないが、なにか内的世界の価値観を社会運営に反映させることは必須なのではないだろうか。国民総生産(GDP)に対して、国民総幸福量(GNH)の議論が起きたりはしているが、まともな議論にはなっていない。G20にしろ、TPP(環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定)にしろ、APECにしろ、参加する政治家の視点が、西欧近代化を象徴する外的世界の価値観のみに偏向している限り、この激変する世界の調和について、本当にかみ合う議論を行うことは不可能なのではないだろうか。

「負けること勝つこと(66)」 浅田 和幸

「問われている絵画(101)-絵画への接近21-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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