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第111号

2011年02月07日

「問われている絵画(102)-絵画への接近22-」 薗部 雄作

   吉田秀和は、「私は、ときどき美術雑誌などで、現代の日本画家の近業などを写真で紹介されているのを見る機会があるが、そういうとき、たいがいの場合、絵を見た途端、ほとんど反射的に感じるのは、こういう絵はもうどこかで見たではないかということである」そして、今までに自分が見てきた日本画を思いおこすと、それはゴーギャンその他のナビ派の作風を思わせるもの、その他、今世紀はじめにアールヌーボーとして、さんざんヨーロッパや日本ではやったもの、数えあげれば、そのほかに、いろいろ源泉をあげられようが、とにかく、この〔すでに見た〕という感じを与えられるのが、ほとんどなのである」と。ようするに、オリジナルな創作ではなく、まず、見た瞬間に何かの様式や誰かの作風が目についてしまうというのだ。「それでも、そういう絵の中には、じっと見ていると、気持ちのよい絵もないわけではないし、また、色が冴えていたり、形の抽象化が洗練された感覚のうらづけがあってはじめて可能になるだろうような、かなり高度の技術と様式感をもって遂行されている絵があったりして、そういう意味では感心することが少なくない」が、けれども「そういう絵の場合でさえ、私は、そこに何かが決定的に欠如しているという感じを受けてしまう」という。


 そして「きれいごとなだけで、感動をよばない、という言い方は好まないが、現代日本画では、きれいさと感動がちぐはぐになって」いて、むしろ「きれいごとである」のと「感動的である」のとが「矛盾し合い、排除し合っている」ように見える。そして、ときには「はっとして息をのむような仕上げの美しさにぶつかることはある。しかし、それは装飾的な美しさなのであり、その中では「生命」を感じさすようなものは、むしろ、不純物として邪魔をしているにすぎない」。また「それが逆になっている日本画もなくはない。だが、そういうときは、どうしてかわからないが、私には西洋画の場違いな導入であるか、あるいは、まるでディレッタント的な表現であるように見えることが多い。そこでは、ダイナミズムが空転していて、かえって、内容の希薄な絵でしかないように見えてしまう」と。


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セザンヌ サント・ヴィクトワール 1887
48才のときに描かれたこの作品では安定した充実感のようなものを感じる。



 そして問うのだ。「なぜ、そうなるのか? 試みに、日本画というものが、すでに芸術としての生命を終えてしまって、そこではもう創造はできないのだ、という仮説を立てると、どういうことになるのだろうか? 」と、かなり絶望的な気持ちになる。でも、そうはいうものの、それらの絵に、「ある種の〈美しさ〉のあるらしいことまでは否定しない」。それらの絵を見ていても、「あのほうがこれより美しいと思うことは少なくないのである」から、と。つまり、総体的には、作品にとってもっとも肝心なものの欠落を感じてしまうが、それを抜きにして見れば、あれよりもこの方が美しいという、相対的な判断でなら、よいものもあるというのである。


 けれども、「そういう〈美しさ〉がいけないとは考えないが、その美を生む母体というか、それを支える審美感とその技術とが何かの展開を妨げているのかもしれないという気がする。」「といって、それを破壊しようとしている〔日本画〕により充実したものを見るわけではないのは前述のとおりである。」ということになり、「要するに、私は、現代日本画を見ていると、寒々とした感じを覚えてくる」のだ。そして「結局、こういう仕事をしている人たちも、ずいぶんむつかしいところにいるのだな」という印象が残り、「どうしてこう寒々とした光景に接するはめになってしまったのか? 」という疑問と共に足早にその場を去ってゆくという。


 さらに、現代日本の工芸品にも同様なものを感じるというのだ。「志野だとか信楽だとか、いや唐津だとか、そういう感触を十分に残しながら、しかし、「新しい日本の工芸品」であるように作られている壷だとか、皿だとか、茶碗だとか、花器だとか、あるいは、実用とは切り離された焼きものの置きものだとか、そういう品物たちにも、「美しさは」ある。なかには「高度の雅致」と呼びたいようなものを具えたものさえある」。それでも、「これらのものが、工芸品として、たいそうもっともらしい名がついていたり、それに応じて高額の価額がつけられていたりするのを見ると、わたしはすごく違和感を覚える。」「というのは、その値段や名称それ自体ではなくて、そういうことを通じて表現されている「芸術」「工芸」と呼ばれ、扱われたいという要求についてである」という。「どうして、そんなに〔芸術〕〔工芸品〕になりたいのかよくわからないからである。」そして「あれだけ見事な古いものがあった以上、新しいものをやるのはひどく困難なのだな、と痛感させられる」のだが、また、「たしかにそれは新しいけれど、その新しさの内的な理由が、私には、わからないものが大部分だ」と。ここでも、創作に一番大事な何かが…決定的なものが欠落しているのではないか、という疑問を感じてしまうというのだ。


 私は、はじめ、ここでいわれている「現代日本画」とは、いわゆる日本の「現代美術」のことであると思って読んでいた。しかし、よく読んでみると、そうではなく、伝統的な、現代の「日本画」のことであるようだ。けれども、わたしが、そんな早のみ込みをしてしまったのも、これが、日本の多くの近・現代美術にも、そっくり当てはまるように思えるからである。しばしばいっていることではあるが、たとえば、わが国にも、印象派やロダンなどの影響を受けた画家や彫刻家は大勢いるが、彼らもその影響…スタイルや手法のなかでは大変よい作品を作っているのであるが、やはりそれは、そのスタイルや技法のなかでの相対的なものであって、それを破っておのれの内容によってスタイルまで創造する作家というものは、きわめて希であるからである。

 そして吉田秀和は、「日本画というものが、すでに芸術としての生命を終えてしまっていて、ここでは、もう創造はできない」のではないかと仮説をたてるが、これも日本画だけではなく、現代の絵画…美術全般にも、そっくり当てはめることができるのではないか、とも思えるような気もするからである。


 そしてこんどは音楽の場合にうつってゆく。

 「たとえぱショスタコービッチの《ピアノとトランペットと弦楽のための協奏曲》」を聞く。そしてこれは、「さきにみた工芸品たちとどう違うのだろうか? 」と考えて「答えをさがしあぐむ」。そして「こんなにらくらくと書かれ、音の動きも自然で、流れ全体は軽快で、重苦しいところのない作品に、」何の悪口をいうこともない。「これはこれで大変に結構なことなのだが、私は、この作品をまた聞きたいと思うだろうか? そうはならないだろう。一度でたくさん。」そして「そういうものは、ショスタコービッチにかぎらず音楽にはたくさんある。思えば、作曲家というのも大変な仕事をしている人たちである。」という感慨になる。


 書かれた作品には、それぞれにいろいろな苦労があり、また「そこにどういう心がこめられているか」は、さしあたり「問わないが、いちど演奏され、そのあとでまた、演奏される作品がいくつあるか。もし、演奏されないとすると、それはどういうことになるのか? 」。作曲家にとっては、いや、ものを作る人間には、たいへん厳しい問いである。

 そして、バッハやヘンデルは、後世に演奏されるだろうなどとは、とくに考えずに、注文に応じてたくさん作った。しかし、「それでもバッハから生まれた音楽たちは、彼が死んで二世紀以上もたつというのに、まださかんに使われている──演奏されている。」そして「現代音楽は一度きりしか、演奏されないというが、そういう運命──のもとに生まれた音楽作品は、何も現代にかぎったこと」ではなく、「べートーベンの時代にだって、今日すっかり忘れられてしまった作曲家は大勢いるのだ。」そして、「そういう作曲家たちの作品は、やはり、今、どこで、どうなっているのだろう?」。「それどころか、先日書かれ、昨日、世界のどこかの」大きな現代音楽察のようなもので、大勢の聴衆を前にして、はなばなしく演奏されたばかりの作品は、今日からは、どこにゆくことになるのか? その何パーセントが、明日、明後日、来年になっても生きているのだろうか? 」。


 演奏家についも同様なことが言えるという。

 そして、「現代の日本画、工芸品、作曲、演奏をめぐっての問いを通して、私は──問題の内容はみな違うが──その中に何か、私の背筋を冷たくするものが貫流しているのを感じる」。「そうして、また一昨日も、昨日も、音楽を聞き、今日も音楽会にゆき、というような生活は何だろうと、思ってみることが、このごろは多くなった」。「人間の中には、作ることによって、表現することによって、自他に証明してみせなければいられない何ものかがあるであろう」と、創造的行為には納得しつつも、しかし「それが公衆によく伝わらない芸術とは何だろうか? 」。と心に疑問がひろがる。──わたし自身も、どちらかといえぱ、公衆に伝わりにくい芸術を五十数年やっているので気になるところだ──そして吉田秀和はいう、「私は、ときどき、自分たちは「芸術」という名にだまされて、そこに何か大切なものがあると信じていればこそ、平気でこうやっているだけの話で、実際は、「芸術」なんてとっくに死んでしまったか、あるいは、いるとすればまるでちがうところに、それと気がつかずにいるにすぎないのではないかという気がする。ここには、何か「嘘」があるような気がしてならない。」と結論のようにいう。


 吉田秀和は、現在九十七才で、なお新鮮で深みのある批評文を書いている。先の文章は『私の時間』(海竜社一九八二)のなかに入っている。ということは、たぶん七十歳頃に書かれたのだと思う。批評家もときどきこういう感慨に陥るのかもしれない。けれども、こういう疑いや感慨は、批評家だけではなく作る人もときどき襲われるように思う。わたし自身、現在、七十才台の後半にさしかかっているが、似たような心境になることが、ときどきある。というより、まさに吉田秀和のいう、背筋の寒くなる状況や気分に当面している、と実感することがしばしばある。そんなとき作家は…多くの、そしてすでに高齢になって、なお作りつつある作家…画家は、いったいどんな〈希望〉や〈確信〉によって制作を可能にしているのだろう。


 エドワード・サイード(一九三五〜二〇〇三 エルサレムに生まれ、コロンビア大学教授、音楽批評家でもあり、パレスチナや中東問題にも活発に発言した)は、晩年に『晩年のスタイル』(大橋洋一訳)という本を書いている──この本を書いているときサイードはすでに白血病に犯されていた──これは、おもに音楽家の晩年をあつかったものだが、画家の『晩年の作品』という本をつくっても興味深いものになるような気がする。

 ここでサイードは、晩年について、「すなわち人生の最期もしくは晩期、身体の衰弱、体調不良の始まり」また「若者においてすら早死にの可能性をもたらす他の要因の登場」として体験する時期であると定義する。そして、ここで焦点を絞るのは「偉大な芸術家たち」であるが、「彼らの人生の最後の一時期に、彼らの仕事と思索が、いかにして新しい表現様式を獲得したのか」という点に注目して、「そうした作風をわたしは晩年のスタイルと呼ぶことにする。」という。

 サイードはいう、「芸術家の美的営みの有終の美をかざるような晩年の作品を、わたしたちひとりひとりは、その気になれば、いつでも、いくらでも提供できる。」といって「たとえはレンブラント、マチス、バッハ、ワーグナーなど」をあげる。「しかし、和解と達成感がみなぎることのない晩年、芸術家の、妥協を拒み、気難しく、解決しえない矛盾をかかえた晩年はどうなるのだろう。」「もし高齢と体調不良のせいで、〔成熟こそすべて〕という晴朗な精神が生まれなかったならどうなるのか、」と問う。そしてサイード自身は、成熟や達成感や和解のない、「晩年性のこの第二のタイプこそ、わたしが深く興味を引かれるものである」という。「わたしが探求したい晩年の経験とは、不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らいつづける、ある種の意図的に非生産的な生産性である。」と。


 「晩年のスタイル」という用語は、音楽美学者・哲学者アドルノが『晩年のべートーベン』を論じた本のなかで使った言葉であるという。ここでサイードは、べートーベンの晩年と、アドルノ自身の晩年と、そしておそらくサイード自身の晩年も重ねあわせて語る。そしてサイードは、アドルノの著作を引用しながら、べートーベンの晩年の音楽を〈カタストロフィー〉という言葉によって特徴づける。

 たとえば、それは「果物に見出だせる類いの成熟とは、似ていない。」「べートーベンの晩年の作品は……円熟していない。むしろ、しかつめらしく荒々しい。甘さがなく、苦く刺々しく容易に亭楽へと身をゆだねない。」また「高次の統合によって和解へと到達したり懐柔されない。」そして「いかなる枠組みにも合致しない。」「それらの和解を拒む姿勢、それらの統合されない断片的性格は、構造と骨絡みになっていて、装飾的なものでもなければ、なにかの象徴的というわけでもない。」「すなわち維持された緊張関係、どこにも回収されない頑迷固陋さ、そして、ばらばらになろうとしているものを無理やりひとつにまとめようとする非情の留め金」。

 晩年性…死に近接し、解体を目の前にしての、精神の、なんという生々しく挑戦的な姿勢だろう。たしかに、その音楽にはむき出された何かを感じる。しかしそこには、同時に〈瞑想〉や〈逡巡〉や〈決断〉、〈克服〉や〈浄化〉への意志もあるように思えるのだが……。

 吉田秀和は、『たとえ世界が不条理だったとしても』(朝日新聞社 二〇〇五年)の「あとがき」に、「新しい世紀に入って三年目十一月(九十才)、妻が死にました。共に生きて、もう少しで五十年になろうという時でした。気がついて見たら、ものを書く気力がまるでなくなっていました。」そして、今まで連載していたものなど」も一切やめ、「音楽会やオペラにも行かない。TVも見ない。CDもごく限られたもの、それもごくたまにしか聞かない」生活になった。すると「そこに不思議な静けさが生まれ、なんともいえぬ開放感を覚え」て「仕事をしないということは、こんなに心に安らぎを与えるものか」そして「今自分はどこか見知らぬ国に来ているのではないかしら」と何度も思ったという。また「何と長い間、自分は閉ざされた生き方をしてきたことだろう。こんなに平穏に暮らせるのなら、金輪際もう二度と仕事なんかしたくない」と思ったと。

 「ところが──どうしてか、自分でもうまく説明できません──しばらくすると、私はペンをとりあげ、《展望》(朝日新聞)を書きだしていました。人間というものは、自分でも自分のことがよくわからないものです」。「《展望》を休んで以来、まわりの人たちをはじめ、知るも知らぬも、思いもかけなぬ大勢の人が温かいねぎらいの言葉や励ましの手紙などをくださったのに心を動かされたのも事実で」あるが、しかし、「それだけでなく、何かが私の内部から突き上げてきた。まるで冬が終わり春が帰ってきて新しい芽が萌えてきたみたいな具合でした。」

 そして、「そうやって、また書きだしてみると、自分はかつてはこうやって長い間生きてきたのだっだ。こんな具合に、自分が考え、感じていることを思いに任せて書き綴っていられるなんて、なんという幸だろう」という思いになるのだった。「書かないでいた時のあの無上の開放感、あの静かな自由、それから、今こうして再び思いのままペンを動かしている時の充実した気分、短い間に、この二つの間を動いてきた不思議な経験。」それはまるで「生と死の間を行き来したような感じ」であったが、やはり「長続きしませんでした。」それは「東の間の夢に終わり、」「二、三回書いたところで、また、休ませてもらうことになりました。」「今はただ、どこかよくわからないところを手探りで歩いているような気持ちです」。


 けれども先にふれたように、吉田秀和は二〇一一年の現在でも、執筆やラジオで、その健在ぶりを、わたしたちに見せている。

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セザンヌ サント・ヴィクトワール 1906
晩年(63才)に描かれたこの作品では、精神の深まりとともに、いよいよとらえがたいものを目の前にしているセザンヌの心の焦りのようなものを感じる。そして、外形は、むしろ解体の兆候を示しはじめている。



「負けること勝つこと(67)」 浅田 和幸

「ゲーム化する世界」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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