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第111号

2011年02月07日

「ゲーム化する世界」 深瀬 久敬

   私たちを取り巻く世界の変化のスピードを、客観的かつ定量的に測定することが可能なのか定かではない。今日の世界の変化のスピードはとてつもなく速いという気がするが、それは単なる私の主観であり、相対的な印象でしかすぎないのかもしれない。また、変化が直線的なものから指数関数的なものに変移しているとは言われても、対数グラフで表現すれば、直線的と言えなくもない。

 しかし、変化のスピードを問題とすることはともかくとして、その変化の内容そのものについては、その変化の先にはなにがあるのか、人間は古来、強い関心を持ち、不安や希望に一喜一憂してきたように思える。その変化の先にあるものを知りたいがために、人間は様々な記録を残し、史伝や思想などを含む学問体系を構築してきたのであろう。

 そうした営みを踏まえて、私が思うのは、今日の世界の変化のスピードを支配している主要な要素は、全てがゲーム化という巨大な渦に巻き込まれていることではないかと感ずる。

 ゲーム化の潮流は、規模的にも、内容の複雑化や多面化においても止まるところを知らず、地球規模のものから、私たちの日常の隅々にいたるまで押し寄せてきていると思う。具体的には、グローバルなマネーゲーム化、デジタル機器やコンビニなどによる生活の便利さ快適さの身近な浸透、成果主義に基づく働き方、などを指摘することができる。

 世界のゲーム化とは、私たち一人ひとりが、ゲームのプレイヤーとして、ゲームの対戦相手である競争者に勝つことを最優先すべき課題とされることであり、そのゲームの世界に専念することを余儀なくされているということである。

 こうしたゲーム化の傾向は、今日、ますますエスカレートしているように感ずるが、その原因としては、科学技術の発展があり、それに基づく新しいゲームを可能とする絶え間のない新たな仕組みの登場があるのだと思う。

 そして、人間という生きものは、組み込まれた欲望の強さの故に、目の前にしたゲームの勝利者になりたいという欲求を拒絶することができないように作られているらしい。


 このような、世界をゲーム化の渦の中に巻き込もうとする状況は、どのような問題をはらんでいるのであろうか。以下、四点ほど取り上げてみたい。


 第一に、ゲームは他者とのつながりを分断するという問題がある。ゲームは敵対し競争する相手とその相手を打倒しようとする自己という二つを中心とする世界を構成する。プレイすることに必要なリソースの調達を含めて、全てが自己責任によってなされなくてはならない。かつての村落共同体の中にあったような様々な他者との支え会いのような連帯感はそこにはない。今日、無縁社会といったことが指摘され、孤独死を回避しようといろいろ工夫されたりもしているが、その解決策もゲーム的な手法にすぎないように思われ、人間本来のもつ絆に基づくものとは異なるようである。

 第二に、ゲームがトーナメント式に進展していくにつれ、勝者と敗者に二極分化していかざるをえず、両者の格差は拡大していく。すでに今日の社会において、非正規社員、ワーキングプア、わずかな年金で孤立して暮らす高齢者、就職先を見つけるのが困難な若者たち、などの格差社会の深刻な様相が垣間見えている。ゲーム化を強める社会の中で、こうした格差の拡大に歯止めをかけることは、果たして可能なのであろうか。

 第三に、ゲームのルールは、だれがどのように決め、そのルールはどの程度まで守られる保証があるのかという問題である。ゲームに勝利するために、プレイヤーは、使用可能なあらゆる手段を講じようと虎視眈々とするのは当然のことであろう。中国の市場開拓や工場展開に勝機があるすれば、それを厭わないだろう。また、強いプレイヤー同志で合併することで、より強いプレイヤーに勝利できるのなら、それも当然の選択肢であろう。代理母出産やクローンの作成が倫理規定によって禁止されているとしたら、それを必要として価値を認める人は、その抜け道はないかと探索するのは自然の流れではないだろうか。完璧なルールやその厳正で公平な審判は、どこまで期待してよいのか、非常な困難がつきまとうと思われる。また規制緩和を通して新たなゲームの展開を期待する人もいれば、既得権益の中であらゆるゲーム化を拒絶する人たちもいることも指摘できるだろう。

 第四に、ゲーム化を強める世界は、一体どこまで進めば終わるのであろうかという問題である。なにか自己増殖するがん細胞のように、その宿主が命を落とすにいたるまで、歯止めがかからないのではないだろうかという印象も受ける。あらゆるリソースを使い果たし、全てのプレイヤーが息絶え、地球の環境を壊滅的なまでに破壊し尽くさないと、このゲームは終わらないのであろうか。ゲームを止めるには、鎖国とか厳格な身分制度とか、そうした強権的な対応しかないのであろうか。


 ゲーム化する世界の問題点は、以上のようなものだとして、改めて、私たち人間とは、どのような存在なのかを踏まえて、いくつかの観点から考察を加えてみたい。


 第一に、人間は、人間自身の存在そのものの根源が分かっていないし、自然という環境とどのような関係にあるものなのかということも断定的には分かっていない。すなわち、私たち自身の存在そのものが謎だらけであり、目先のゲームに勝つことばかりに目を向ける前に、そうした私たちの存在そのものの根底にまず目を向けることを避けては通れないということを認識しなければならないと思う。そうした人間の存在そのものに目を向ける中で、他者、他の生命、宇宙、といった存在をどのように受け取るべきなのか問いを深めていかなくてはならないのではないだろうか。ゲームに勝つための知識とはそこでは全く異質の知識が前提とされるような気がするし、また、人間の脳が、そうした思索にどこまで対応可能なように作られているのか、コンピュータのような人間が作り出した道具が果たして手助けになってくれるのかどうか、などの未知なる課題が広がっているようにも感ずる。

 第二に、こうした世界のゲーム化がもたらされた背景は、西欧近代における真理の探究の姿勢がもたらした副産物として捉えられるという点である。ニュートンは、絶対の神が、世界をどのように作ったのかという真理を知りたいという願望を追い求めた。そうした過程を成功裏に一歩一歩、確実に前進させていく中で、人間ができる可能性の地平線が急に押し開かれたのではないだろうか。人間のもつ能力が肉体的な次元のものから、無尽蔵の知識的なものに幕が切って落とされた。それは、既成の人間観、世界観、価値観などの全てを覆すほどの影響力を内包していた。そして、近代世界は、産業革命による大量生産方式の確立、植民地市場の拡大、アメリカ合衆国の西部開拓、量子力学や分子生物学などをはじめとする科学技術の爆発的な発展、等によって、あっという間にゲーム化の巨大な波で覆い尽くされた感がある。このような西欧近代の真理の探究の姿勢がもたらした人間観の転換やゲーム化の広がりが、唯一の価値観として、世界を覆ってしまうのは妥当なことなのであろうか。ゲーム化する世界から一歩退いて、冷静に見つめなおすことが必要なのではないだろうか。

 第三に、日本の伝統として、ゲーム化される世界とは別の世界を探求してきたことがある。日本では、ゲームに勝つことばかりを追い求めることは未熟なものとみなされてきたように思う。剣の極意は、無心の境地となり、プレイヤーとしての相手の動きに自在に対応できるような自己を顕現することとされた。また、相手に勝つことのみを追い求めることはいやしいものとみなされ、真に強いものは、美意識を伴った技を深めることが求められた。茶道、能、囲碁などの世界では、奇をてらったり、奇策を用いることは邪道とされたようである。日本のものづくりにおける品質の高さというのは、そうした伝統に育まれたものではないだろうか。こうした美意識の発現の仕方そのものには普遍性はないかもしれない。文化とはなりえても、文明とはなりえないのかもしれない。しかし、人間にとっての美意識とはなにに由来するものなのか、美意識にはどこまで普遍性があるものなのか、自然の中での美意識とはどのようなものなのか、などの考察を人間社会全体が深めていく必要があるように感ずる。

 第四に、ゲーム化の傾向に覆い尽くされようとしている世界を運営し、方向づける仕組みとは、どのような仕組みが適切なのか、改めて問い直してみる必要があるのではないかという点である。今日、民主主義の形態が最も普遍的なものとみなされている。この仕組みは、アメリカ合衆国の建国に際して、西洋近代思想のエッセンスを純粋に具体化したものとみなすことができそうである。そこでは、一人ひとりの健全な全人格的な理性が前提とされ、今日でもアメリカ合衆国における運営理念の根底に位置づけられているようである。しかし、そこには美意識のような多様性を前提とするようなものを受容する深みがどのように存在するのか、個人主義の立脚する根底はキリスト教の世界観のようなもので充分なのか、今日のアメリカ社会の高度な競争社会とストレス社会が普遍的なものとは言い難いのではないか、といった課題があると感ずる。さらに、㈰民主主義にも多数派の専制という危惧がつきまとうこと、㈪アメリカ合衆国の建国では女性の存在がクローズアップされたが、ゲーム化する世界のなかで女性がどのような役割を担っているのかということ、㈫個人主義というものを、日本では、夏目漱石や福沢諭吉の思想をベースに受け入れているように感ずるが、中国や韓国やイスラム諸国においては、ではどうなのかという点が明らかになっていないこと、などの問題も指摘できそうである。

 マルクスが経済学に基づいて共産主義の思想を説いたが、それは、ある意味では、ゲーム化する世界への拒絶宣言であったのかもしれないと感ずる。ゲームが全て追放された世界が理想の世界なのかという点には、疑問を禁じ得ないが、ゲームとは無縁の美意識の世界とゲームの世界とが、どのように折り合って、世界全体が運営されていくのが適当なのかは、宗教的な側面も含めて、今後よく吟味されるべき課題ではないかと思う。

「負けること勝つこと(67)」 浅田 和幸

「問われている絵画(102)-絵画への接近22-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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