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これまで、この表題で書いてきた文章は、人間の作りだした社会で営まれているさまざまな出来事を題材として取り上げてきました。ただ、今回の原稿を書くにあたって、これまでのスタンスで書いていくことに少々戸惑いを覚えているのです。
それは、あの東日本大震災という未曾有の天災とそれに続く福島での原発事故があったからです。地震の被害に関しては、これまでも阪神大震災を体験していますが、今回の地震の後の大津波による被害は、未体験であったと共に、大きな衝撃を、僕たち日本人に及ぼしたように思います。
多分、こういう感覚は僕だけではなく、多くの日本人が感じているものだと思います。つまり「三月十一日を境にして、日本の社会が大きく変化した」という感覚です。
僕は、戦後に生まれたので、太平洋戦争が天皇の玉音放送により終結した八月十五日の記憶はありません。あくまでも、想像ですが、玉音放送により日本の敗戦を知らされた当時の日本人も、いま僕たちが感じている感覚と似たものを味わったことと思います。
ただ、それは戦争という人間の営みが起こしたもので、多くの尊い命が失われたからと言って、天災ではなく人災と呼ばれるべきものでしたが、ある時を境にして人間の意識が「変わった」という点では、同列に論じても良いのではないかと思っています。
終戦時に生きていた日本人、その中には僕の父や母もおりましたが、彼らの回想を聞くと、ほとんどの人たちが、その日まで日本が敗北することなく、戦争は永遠に続くと感じていたようです。
勿論、一部の人たちは、厳しい現実を目の当たりにして、日本の敗北を覚悟していたわけですが、そうでない人たちは、そういう現実を見ることもなく、ひたすら勝利を信じていたわけです。
ところが、八月十五日に、日本は戦争に負けたとして、降伏宣言を天皇は全国民に向けて発表しました。その瞬間、それまでの現実は一挙に崩壊し、ほとんどの日本人は、新たな現実=敗戦の日本を受け入れることになりました。
実は、これと同じことが、東日本大震災が起きた三月十一日の前と後とで起きたように思います。テレビの画面で、黒い海の水が、次から次へと押し寄せ、船を、車を、建物を、人間を飲み込んでいく映像を前に、誰しも、「これは現実の出来事なのだろうか?」と心の中で反芻したのではなかったでしょうか・・
そして、ほんのしばらくの間、画面に起きている現実を認めたくない思いと認めざるを得ない思いとが、交錯し合っていましたが、最終的にそれが現実だと認めた瞬間、それまでの安穏とした日常とは打って変わった現実の厳しさに、心が凍るような感覚を覚えたのではなかったでしょうか?
しかし、一方では、僕は戸惑いのようなものも覚えていました。それは、ある意味での現実感の喪失です。まるで、映画のワンシーンとしか思えない非現実感です。
多分、これは終戦時の日本人が誰一人感じなかった感覚ではなかったかと思います。この非現実感は、テレビという映像がもたらす非現実感だからです。日本で起きている出来事なのに、なにか遠い国で起きているようなそんな非現実感でした。
実は、金沢に住んでいる僕は、三月十一日の地震の揺れを全く感じませんでした。大地が大きく揺れたという実感のないままに見ていた大津波の様子は、本当に遠い星の出来事のように実感の伴わないものでした。
ここに、終戦時に生きて玉音放送を耳にした人たちとの決定的な断絶が存在しているように思います。彼らは、さまざまな面で、戦争から大きな被害を受けていました。
直接、死に至ることはなかったにしろ、飢えや家屋の喪失、更には近親者の戦死といった厳しい現実があったのです。ところが、大津波の映像をテレビの画面で見ている僕は、そういう現実とは無縁のところに立っていたのです。
まるで、神のように、大津波に呑み込まれていく人々の姿を、天空から眺めていたのです。そこには、流されていく人たちの叫び声も、音を立てて押し寄せてくる海水の冷たさも匂いも、何一つ存在していませんでした。
ただただ、人が呑み込まれて行くのを、高みの見物といった具合に眺めているだけでした。カメラのレンズが捉える現実を前にしながら、その全てが作り事にすら思えてくる印象を拭うことが出来ずにいたのでした。
正直なところ、テレビから流れてくる映像は、それほど衝撃的なものではありませんでした。これに似た映像を、数年前にインドネシアで起きた大津波の映像で見た覚えがあったのでした。
海岸から押し寄せてきた黒い海水が、道路に溢れ、人や建物を呑み込みながら、恐ろしいスピードで内陸部まで進んでいくインドネシアでの映像は、今回の映像をデ・ジャブーのように感ずる原因の一つでした。
更に、これまで何十本も制作され、公開されてきた地球最期の日を現す映画の映像を思い起こさせるものでした。巨大な波が都市を襲い、人や建物が呑み込まれていくシーンは、繰り返し親しんできた映像でした。
だから、余りにも見慣れた光景故に、現実感が乏しく感じたと言うことも考えられます。しかし、それ以上に、自分自身の生命を脅かすものでないという安心感の方が、より強かったのではなかったかと思っているのです。
まさに神の視点です。自分とは無関係の天災が刻々と生じているのを客観的に眺めている。「凄い!」とか「信じられない!」とか声を出しながら、そのくせ、どこか他人のような自分がそこにいることの後ろめたさを僕は感じていました。でも、後ろめたさを感じながらも、その光景から目を逸らすことの出来ない自分も感じていたのでした。
そういう意味では、敗戦直後の日本人とは違っています。彼らは、それぞれに強制的に戦争に関与させられ、そこから逃げることが出来なかった人たちだからです。それは、指導者であろうがそれに付き従った一般人であろうが分け隔てはなかったのでした。
それ故、詭弁ではありましたが、戦後いち早く「一億総懺悔」といった言葉で、戦争責任を国民全体の責任とする論調が生まれ、それを是認する向きも多かったのでした。
しかし、今回は違いました。地震と津波に襲われた人たちとそうでない人たちとの間には、超えることの出来ない大きな断絶が存在しているのです。
地震の直後に石原東京都知事が「今回の地震は驕る日本人に下された天罰だ」という発言をしましたが、彼にしては珍しく、その勇ましい警世の句を撤回しました。
その理由は、もし今回の大地震が日本人への「天罰」であるなら、何故、東北地方の名前も知らぬ小さな街々にしか壊滅的な被害をもたらさなかったのかを説明できなかったからに違いありません。
もし、彼の言うように大地震が日本人の驕りへの天罰であるなら、まず一番先に罰せられるのは、東京であり、そこに住んでいる彼を含めたエリートと呼ばれる人たちではなかったでしょうか?
ところが、現実は全く違っていました。高齢化が進み、産業が衰退しつつある過疎地帯を津波は襲いました。阪神大震災の時には、被災地の神戸の避難所には、多くの子どもたちや若い人たちがいましたが、東日本大震災に襲われた東北地方の避難所には、圧倒的に老人たちの姿が目に付くのです。
まさに、これからの日本の行く末がそこにはあります。復興などという綺麗な言葉が踊っていますが、家を失った老人たちが、自費で自宅を再建することなど不可能に近いことは、誰もが分かりながら、それを口にすることが憚られる状況にあります。多分、急増される仮設住宅が、その人たちの終の棲家と言うことになるのは明白です。
つまり、今回の災害は、日本の弱い部分を直撃した災害ということです。それは、東北地方にありながら、東京への電力供給を行うために建設された福島第一原発も同じことが言えます。
その結果、今回の災害により、日本人は二つのことに改めて気づかされたのではないでしょうか?
一つは、日本の豊かな社会が、実は都市部だけであり、それ以外の地域は、都市部の豊かさを保証するための犠牲を強いられているということです。
もう一つは、その豊かな都市部の生活も、簡単に覆されるような脆弱な基盤の上に乗っかっているということです。
一つ目は、実は以前から薄々ながら分かっていました。かつて、大量の若い世代が故郷を捨て、都市に移り住み、そこでの生産活動が日本の高度経済成長を生み出し、その負の部分として、故郷の方での過疎化が進んできたことは、いろいろなメディアで取り上げられてきました。
そういう意味で、これについては、薄々分かっていたことがあからさまになり、きれい事で済ますわけにはいかなくなったといった程度です。
それに対して、二つ目のものは想定外でした。まさか、原発事故が首都圏の電力事情を悪化させ、便利で快適な都市生活を崩壊させることになるとは、首都圏に住んでいる大部分の人たちには思ってもみなかったことと思います。
しかし、現実は彼らの甘い期待をうち砕きました。計画停電といった想定外の出来事に、右往左往する人たちの様子は、便利さと快適さを追求した私たちの生活の脆弱さを露わにしました。
これから夏場に向けて電力消費量が上昇していく中、単なる節電と言うことで済むのか、それ以上の大きな生活の仕組みを変える取り組みが必要になるのかは分かりませんが、いずれにしろ、三月十一日以前の生活に戻れないことだけは事実なのです。
もう一つ、今回の天災で明らかになったことがあります。それは大津波により電源を失い、コントロール不能となった福島原発の事故とそれに伴う放射能汚染です。そして、この事故の経緯が、いかにも日本的であったことです。
この事故が起きるまで、原発を運転している電力会社、政府、マスコミ、有識者も含め、原発の安全性に関しては、「絶対安全」という四文字を疑う者はおりませんでした。
それ故、日本国民の大多数の人間も、原発の「安全性」を信じていたのでした。マスコミの場でも、事故が起こり、人間に被害が及ぶような危険な状況は、万が一といった確率でも生じないといった確信が語られていました。
ところが、大津波に襲われた福島第一原発は、非常用の電源を全て喪失したことで、核燃料の冷却が不可能になり、その結果、炉心の温度は上昇し、炉心のメルト・ダウンを阻止するために、最終的に放射能を帯びた水や水蒸気といったものを、外部に放出することになったのでした。
それまで安全だと思われていた原発は、その時を境にして、人間が制御できない化け物となり、現在に至るまで、沈静化できておりません。
その結果、原発の周囲二十キロ圏内に暮らしていた人たちには、その区域からの立ち退き命令が出され、数万人の福島県民は、自宅での生活を放棄して、避難所での生活を余儀なくされています。
大地震とその後の津波により壊滅的な被害を受けた東北各県の沿岸地方では、一ヶ月を経過して、漸く復興への槌音が聞こえ始めてきましたが、同じように被害を受けた福島第一原発の周辺では、そういう動きもありません。
テレビの映像に映る人影もない無人の町に、厩舎から逃げた乳牛の群や野犬の姿を見るにつけ、この地域が再び活気を取り戻すにはどれほどの時間がかかるのだろうかと思ってしまいます。
それにしても、原発の安全神話が、こんなに脆く崩れてしまうとは、ほとんどの日本人が想定していなかったことに思えます。それほど、日本の原発は安全であり、世界に誇りうる高い技術を持っていると確信に近いものがあったのです。
特に、地球温暖化を阻止するために二酸化炭素の排出量の削減のかけ声の下に、クリーンなエネルギーということで、原発が次世代エネルギーとして注目されてきました。
そして、民主党政権になってからは、海外での原子力発電所建設に関して、政府が入札参加企業を積極的に支援するなどして、日本の優秀な原発技術の海外進出の後押しを行ってきました。
その最中に、今回の事故が起きたのでした。ただ、原子炉の運転そのものは、地震直後に止めることは出来たのでしたが、その後の炉心冷却に失敗したため、放射能漏れという最悪の事態に陥りました。
そういう意味では、原子炉運転に関しての技術は優れていたことは間違いなかったようです。しかし、その後の対処に関しては、お粗末といっても良いぐらいのていたらくでした。
これに関しては、原発の安全性を過信する余りに、放射能漏れといった深刻な事故が起きないことを前提に、それに対処する方法を考える必要がないということで、これまで進んできたことが指摘されています。
勿論、こういう技術的な自信は技術者にとって必要なものとは思います。それでも、万が一を考えて、様々な工夫を行い、最悪の事態を回避することは、なにを措いても必要なことだったのではないでしょうか?
そして、こういう素人が考えても常識に思えることが、優秀な専門家集団においてないがしろにされてきたことを、再び日本人は知らされることになりました。
僕はいま再びと言いました。その理由は、かつて私たちの上の世代が経験してきたことを彷彿させる出来事だったからです。それは、太平洋戦争中の軍事作戦でした。神国日本の軍隊が敗北することはないという根拠無き妄想から、無謀な軍事作戦を強行した参謀本部、それにより三百万人を超える日本人が戦死をしました。
これも日本のエリートとして頭脳優秀かつ専門的な知識を学んだ参謀たちが行ったものでした。当然、実施される軍事作戦には、客観的な裏付けがあり、その裏付けに基づいた成算があると信じられていましたが、戦後、この件について検証する中で、実は、そういったものがほとんどなく、感情的というか衝動的なものに大きく左右されていたことが判明しています。
戦争当初は、ある程度客観的な事実を基に構築されていた作戦も、戦争が進み、敗北が続く中で、どんどん行き当たりばったりの作戦が増えていき、それがさらに傷を深める結果になったのでした。
そして、自分の無謬性を担保するために、非科学的な「神国日本」を声高に主張し、その非合理性を金科玉条のごとく掲げ、無謀な作戦を押し通したのでした。
どうでしょうか?かつての軍隊の参謀たちの姿と現在の東京電力を始めとする原子力の専門家の方たちの姿とがシンクロするように思えるのは僕だけの偏見でしょうか?
原発は絶対に安全であるから、それが起こすかも知れぬ深刻な事故はあり得ない。故に、そういうことを前提にした対策を考えることはナンセンスである。こういう理屈により、最悪の事態を想定した対策は取られてこなかったのでした。
どちらも、同じロジックの罠に陥っています。軍隊は「不敗」という神話を、原発は「絶対安全」という神話を基盤にしてロジックが構築されているのです。その結果、その基盤が大きく揺れ、崩れた瞬間に、そのロジックそのものも崩壊してしまうことになるのでした。
しかし、もっと問題なのは、その崩壊した事実を認めたくないということです。それを認めてしまうと自分自身も崩壊してしまう恐怖から、逆に、現実そのものを否定しようとするところです。
自分が決断した事実の結果を認めない。それが「撤退」を「転進」という言葉に替え、「全滅」を「玉砕」という言葉に替える姑息な手段を生み出したのでした。
この現実を認めない頑なな態度こそ、恐ろしい被害を人々に与える結果をもたらしました。戦争の末期、完膚無きまでの敗北を喫しているにも関わらず、徹底抗戦を叫び続けた結果、広島と長崎の多くの市民が原爆により焼き殺されることになったのでした。
今回は、それが放射能の流失による避難勧告でした。地震の被害ではなく、原発事故の被害により、それまでの平穏な日常生活を奪われた人たちは、今更ながら、「絶対安全」という神話を信じ込まされてきた悔しさを噛みしめていることでしょう。
結局、そのツケを払わされるのは、戦争に行かされた兵士であり、原発近くに居住していた市民であり、そこから利益を得ていた人たちでないという構図は、全く変わっていないなと改めて思います。この仕組みこそ日本の社会の宿痾と呼んでいいのかも知れません。(了)
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