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第112号

2011年06月06日

「人間と状況認識について」 深瀬 久敬

   生きものとは、常に動的平衡を追い求める存在だと言われる。すなわち、周囲の状況の変化を認識し、その内容に応じて、より確実に生き残りが図れるように行動していくということだ。したがって、動的平衡のためにとられる行動は、様々な選択肢のなかから選ばれた結果であり、状況認識の内容にこそ本質的な意味があると考えられる。同じ状況にあっても、その認識の仕方や内容が異なれば、動的平衡のためにとられる行動は全く異なるものになりうる。では、人間は生きていく上で、どのような状況認識をするものなのか、以下に四つのレベルから整理してみたい。


 第一に、私的な一個の人間としての状況認識がある。例えば、自分の健康状態はどうか、家族のメンバーに心配はないか、経済的な面でのゆとりは大丈夫か、社会的存在としての充実感をどのようにして得ていくか、といったものである。さらには、美的意識や宗教的意識などを含めて、どのような精神的な世界を大切にし、それを深めていくかという認識もあるだろう。人間として生きていく上での最も基本的な状況認識である。


 第二に、組織に所属するものとしての状況認識がある。その組織の目的の達成やその存続に、どのような役割を通して貢献し、そして、どの程度の利益の配分に与るかということである。現代社会では、こうした組織人としての自己実現や成熟した社会人としての充実感の獲得、を図っていくことが一般化している。一方、組織の中で上司や部下や同僚との状況認識のずれに起因する強いストレスにさらされることもある。また、組織の存続、権限拡大が自己目的化し、本来の組織目標とはかけ離れていく状況、あるいは、巨大組織の中での歯車的存在に堕していく状況、などに起因して、全人格性の疎外に悩まされることもある。こうしたサラリーマンとしての立場とは多少異なるにしても、企業や商店の経営者的立場であっても基本的にはこうした状況にさらされることになる。


 第三に、一人の国民としての状況認識がある。年金や健康保険などの社会保障費の増大や公務員改革が進まないことなどに起因する国家の財政破綻的な状況、少子高齢化や生産拠点の海外移転などに伴う一人当たりのGDPの下落、東日本大震災の津波や液状化に伴う壊滅的な被害や破壊された原発から漏れだす放射能汚染の被害、アウトソースや派遣社員の活用に伴う機能化や効率化に起因する格差社会の増大、食糧自給率を一向に改善できない農業政策の行き詰まり、等々の状況をどのように認識するかは、一国民として避けて通ることはできないだろう。国や民族を離脱することは簡単にできることではないし、こうした状況の影響から無縁でいることもできないからである。


 第四に、一人の地球人としての状況認識がある。ヨーロッパにおける産業革命以来、大量に放出されてきた二酸化炭素に起因する地球温暖化は、近年、さまざまな異常気象をもたらしていると言われる。北極や南極の氷がとけて水没の恐れのある島もあると言われる。中東のイスラム教の影響下にある地域では、西欧近代文明との軋轢がなくなる気配はなく、政情不安やテロ活動への傾斜など、多数の紛争の火種を有しているようだ。グローバルマネーといった金融の世界では、一握りの絶大な支配力をもつ権力によって、マネーゲーム的様相が強まり、それが国家財政をも左右するほどになっているとも聞く。こうした状況への認識は、あまり日常的なものとは言えないが、情報化、グローバル化、宇宙船地球号といったことばが飛び交う中で、無視して生きていくことはできないだろう。


 人間は生きていく上で、前述のようなさまざまな状況認識を踏まえて、自分なりに可能な範囲でさまざまな対応を図りながら、人生を生き、そして、死んでいく存在なのだと思う。すなわち、その人の人生は、その生涯において、どのような状況認識に基づいて行動したかによって、彩られるものなのだ。生きるうえで決定的な役割を担っているとも言えるこの状況認識とは、では、人間にとってどのようなものなのか、いくつかの観点から以下考察してみたい。


 第一に、全ての生きものは、それぞれに固有の状況認識を行っているが、人間の状況認識は、前段に述べたような広範で多様な状況、あるいは、時間軸をも伴った歴史的な状況、をも含む非常に複雑なものである点である。具体的に補足すれば、ある特定の鳥と植物とが、花粉の散布と蜜という栄養分の提供という相互扶助関係を構築していること、また、ある高山植物においては、極寒の環境のなかで新しい芽を守るための実に巧妙なしくみを有していること、などその状況の成り立ちの不思議さには驚嘆すべきものがある。しかし、そうした状況認識は、ある特定の事象に限定されたものであり、複雑性の広がりという点では小さい。また、DNAの塩基配列がヒトと1・2%しか違わないチンパンジーにおいては、瞬間的な記憶力は人間よりも優れていても、将来に向かって絶望したり、希望を抱いたりすることがないと言われる。すなわち、チンパンジーは時間軸の上を生きるということがほとんどなく、彼らには歴史という理解もないということのようである。人間の高度な状況認識の能力は、なぜ与えられているのか、どのように活用していくのが適切なのか、といった問いに思いを寄せてみることは、人間にとって大切なことなのではないかと感ずる。


 第二に、近代社会の枠組みを作り上げていると考えられる西欧文明の特質は、その状況認識において普遍性を重視するという点である。これは、論理性を都市国家間の調整に用いたギリシャ文明や、世界宗教を目指したキリスト教神学の影響の結果だと思う。ギリシャ哲学は世界の成り立ちを客観的に説明しようとし、プラトンやアリストテレスの活躍をみたし、キリスト教はそれらを土台としてスコラ哲学を構築し、教義の理論武装を図り、神の存在証明に挑み、結果的に科学的視座の獲得に到った。遠近法や陰影法の画法は、こうした視座の一環であると思われる。また、18世紀から飛躍的な発展をとげた数学の世界も、それまでの二次方程式の解法やユークリッド幾何学といった特定の対象領域から、より一層共通性や抽象性の高い問題解決の世界を追求していった賜物である。ちなみに、抽象化を推進した数学の中から生まれた非ユークリッド幾何学が、アインシュタインの相対性理論で解明された宇宙の構造を数学的に表現することに成功したという事実は、感動的だと思う。こうした普遍性を徹底して追求する姿勢は、世界を一歩離れて客観する視点をもたらし、人間も一人ひとりが独自の普遍性を探求する平等な存在であるとする近代人権思想の土台となった。


 付言すれば、こうした状況認識のしかたは、世界を一つのものとみるので、世界戦略的な視点を有することに留意するべきだと思う。グローバルマネーとか、グローバルスタンダードとか、そうした視点で他の世界に迫ってくることに、警戒感とまではいかないにしても留意しておく必要がある。一方、こうした普遍性、抽象性を徹底して追求する姿勢は、生命の根源からの乖離を招き、生命としての生き生きとした面を阻害する可能性もありそうだ。それは、抽象芸術が、超克しようとしていた具象芸術が背後に見えているときは、訴求力はあっても、そうした具象的背景が希薄化すると、とたんに無機質化の嵐にさらされてしまうのと似ているのかもしれない。(抽象芸術にもいろいろあるとは思うが。)


 第三に、西欧文明が普遍性を重視したことに対し、日本では、徹底して眼前のものと一体化し、その中に溶け込んでしまうという姿勢をとったという点である。極めるとは、対象と渾然一体化し、同化することを意味する。分け隔てがあってはならず、客観とか、普遍とかという概念は基本的にないと思う。興味本位の客観はあっても、普遍を追求するなかに真理を見いだそうという発想はないだろう。社会の運営も、天皇制や官僚制度を始めとして、家父長的な存在に全てを委ねるという形態であり、したがって、そこには、欧米の公聴会において、委員長の責任において全てを明らかにしようとするような土壌は生まれない。「依らしむべし、知らしむべからず」が、その延長線上にあり、今回の原発事故の放射能汚染の状況についても、政府には、客観的に明らかにして情報公開しようとする発想が根底になく、国民も、ともかく心配しないで済むようにしてくれることが基本的な要求になっているという状況が、こうしたことを示唆していると思う。では、今すぐ、なんでも知らしめることが、国民の主体的参加者意識を引き出す源泉になるか、ということについては疑問が残る。却って混乱を招く可能性もある。西欧のように、人々の意識が、客観性や普遍性を期待する土壌ができていないと思うからである。ある半導体メーカーの経営者が、社員の奮起を引き出すには、経営の危機的な実態を数値的に明示することである、というのを聞いた。それは特定の組織の中で、問題意識を共有できる地盤がもともとある程度備わっている場合に、言えることだろう。近代文明の基盤となっている状況認識と日本社会が培ってきた状況認識とは、その根底において視点が異なっていることを充分理解しておくことが必要である。これからの地球社会の中で、日本がどのような位置づけを求めるかという問いと深く関係してくると感ずる。


 第四に、では、アメリカや中国は、どのような状況認識をしているのか、という点である。アメリカは、普遍性の探求という点では、西欧のそれを、より徹底しているようにも感ずる。しかし、それはかなり世俗化、大衆化という傾向を帯びている。それは、ハリウッド映画、ハンバーガー、コカコーラ、デズニーランド、アメリカ車などに象徴されている印象である。学問への姿勢は、高邁であっても、なにかブルートな雰囲気が消えない感じである。中国は、現実の秩序や安定性をもっとも重視する国だと思う。現実的な合理主義という点では客観的といってもよいが、普遍性に価値を見いだすことはない。中国自身、西欧近代文明の価値観にさらされながら、それをどのように自国の文明的価値観と両立させるか、もがき苦しんでいるというのが、現状であろう。経済大国化、軍事大国化する中で、近代社会の中で、どのような位置づけを目指すか、注視していく必要がある。それぞれの国の状況認識の仕方は、その国の歴史的伝統の中で培われたものである。こうした国々とのコミュニケーションを円滑に進めるにあたっては、こうした事実を充分理解し踏まえていくことが必要不可欠であると思う。


 第五に、「西欧文明的な普遍性」と「多様性」とが両立するのかという点である。機能性や効率性をもって普遍性と捉えるならば、画一化やマニュアル化によって、多様性は排除されると思う。しかし、普遍性の意味や価値をもっと深く捉え、世俗化されない次元で捉えるならば、必ずしも二律背反のものではないのではないかとも感ずる。普遍性とか客観性とは、人間にとってどのような意味をもつものなのか深めていけば、多様な状況認識を許容する、より一層豊かな多様性を包摂する世界がうまれるのではないかという思いがする。この点については、これから人類全体が智恵をしぼる時代がきているように感ずる。日本にとっては、本当の意味での文明開化の時代がくるのではないだろうか。


 第六に、状況認識の整合性のとり方という点である。これは、近代文明における科学の際立った成功に対して、二度にわたる悲惨な世界大戦を体験し、さらに今日においてさえ、テロリズムや地域紛争の影に脅かされている状況を踏まえたものである。状況認識に相違があるもの同志が、自分がなぜそのような状況認識をしているのかを明確に相手に伝えることは一般的にしない。結果としての要求のみを伝える。それは自己の状況認識は自己の利益を踏まえたものであり、自分に都合のよい状況認識のみを表明し、自分に都合の悪い状況は表には出さず隠匿するからである。圧力を加え、結果のみ受け入れてもらえば、それでよいと考えるせいもある。しかし、互いの状況認識の根拠を、互いに理解しあうことが、本質的な解決につながることは明らかである。確かに、なぜ、そういう状況認識をするのか、という問題は、世界観、人間観、価値観にまで遡り、なかなか理解することは困難な面がある。しかし、こうした課題を克服することなく、状況認識のすり合わせをすることも不可能である。これからの地球社会の在り方を建設的に探求していく上でも、こうした視点からの相互理解のアプローチの研究があるべきだと思う。この点は、状況認識の能力についての学問的研究が深められるべきだという点にもつながる。状況認識は、必ずしも論理的な側面のみではない。直感的な危機意識なども含まれる。東日本大震災では、津波が来ることはたいていの人たちは認識していたが、二階に避難すれば大丈夫だろうといった認識をした多くの人々が、悲惨な結果にあったとのことである。どのように状況認識をし、どのような対応をするのがよいのか、だれのどのような責任と権限において対応するのが適切なのか、といったリーダーシップや状況認識の体制の在り方などを検討する必要があるだろう。民主主義のやり方が、すなわち、正しい状況認識をもたらすという言い方にも疑問をなげかけてもよいのではないだろうか。生きものとしての人間の状況認識を、最高度に発揮する仕組みとはなにか、という基本的問いかけに立ち戻ってもよいのではないだろうか。


 以上、状況認識という点について、人間は地球上で最も複雑で高度な状況認識能力を持っていて、その活用にあたっては、どのような点に留意すべきかということを述べた。私たちは、それを活用することによって、宇宙空間にまで飛び立ち、宇宙論や量子論の世界にまで、その知見を深めることに成功している。そして、今日、医療技術やIT技術などが止まるところをしらない勢いで進歩している。こうした状況の中で、われわれは、急速に変化する状況への認識能力が、ますます厳しく問われている。われわれは、状況認識の能力を、これからどのように磨き、活用していかなくてはならないのか、今、改めて問われているように感ずる。

「負けること勝つこと(68)」 浅田 和幸

「問われている絵画(103)-絵画への接近23-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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