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第112号を、2011年06月06日、無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=確かに、日本軍の不敗神話と原発の安全神話には、なにか日本社会の根底によこたわる共通性がある感じがします。保安院の発表も、なにか大本営的であり、現場の状況をどこまで把握した上で話しているのか、よく分からないものでした。状況認識の仕方も、その状況への対応の仕方も、あまりに類似点がありすぎて、やや愕然とする思いです。原発の抱える課題については、マスメディアや参議院の行政監視委員会「原発事故と行政監視の在り方」のインターネット配信などでかなり明らかになってきていますが、いろいろな反対意見を聞きながら、論争の場を設け、全体の問題点を整理して明確な方向性を示すような責任者もいなければ、そうした権限をもつ機関も存在しないということに違和感を強く感じました。みんな言いっぱなしで、責任もなく、事実認識と対応策の明確化が一体どのように進められるのか、全く見えないという状況です。情けないことですが、外国からの事故調査団が妙に頼もしく見えてしまいました。今回の大震災を「第二の敗戦」と見立てて、日本再建の足掛かりにしようとする見解は、評論家の田原総一郎氏とか、かなりあるようです。しかし、こうした状況認識の仕方と対応責任の不在の状況において、それがどこまで可能なのか疑問を禁じ得ません。欧米では公共の利益のためには、政府がかなりの権限を行使すると聞きます。それは公共や普遍性への認識が社会全体として浸透しているためではないかと思います。日本においては、公共性や普遍性への共通認識が曖昧なため、政府も遠慮するし、国民も権利を妙に振り回すのではないでしょうか。いろいろな意味で、日本の社会は、私たちの置かれている状況をいかに正しく認識し、対応していくが、今ほど、強く問われているときはないのではないかと思わざるをえません。
薗部さんの論文=現代芸術、反芸術、前衛芸術ということばは、最近はほとんど聞きませんが、確かに、心地よくあってはいけないとか、偽りの満足とか、否定とか、破壊といったニュアンスが込められたものであったと思います。なにか普遍に対する多様、絶対に対する相対、といった反骨があったのかもしれません。空とか、無限や永遠のイメージを排除するとは、普遍に対して、個別の中に閉じ籠もりたいという願望を意味するものなのでしょうか(普遍にのみこまれまいとする個としての意志?)。しかし、それが放射能による汚染を防ぐためのドームのようなものであったりすると、普遍への反旗といった勇ましさよりも、なにか人間の愚かさを象徴するものに映ります。放射能汚染によってその地域での居住が禁じられてしまった人々の無念さ、憤りは想像を絶しますが、それが現実であることに人間の驕りへの天罰という側面もあながち否定できないような気持ちになります。バベルの塔を教訓として、私たちの状況認識が適切なのかどうか、常に、問い続ける姿勢が失われてはいけないということを感じました。
(以上 記 深瀬)
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