萩原朔太郎は晩年の『帰郷者』で「明治以来、盲目的に西洋を崇拝してきた日本人は、今やそのエキゾチシズムの夢から醒めて、初めて自己の本性を反省し、批判的に自覚することの知性に到達した」のである、といっている。しかしまたそれ故に「我々の時代の知識人種が、もっとも痛ましく自ら傷つき、敗北の苦汁を嘗めているのである」と。なぜなら「今の時代に於ける、我々インテリの運命は、ちょうど龍宮から帰った浦島に譬えられるからである」。かつては、まるでわたしたちの魂の〈故郷〉であるかのように憧憬した西洋の文明や芸術が「単なる蜃気楼の幻影に過ぎないことを」知ってしまったのだから。これを書いたのは昭和十五年(一九四〇)第二次大戦直前である。大正年代に岸田劉生はこれ同様の感をいだいて画壇のなかで孤立した。
そして今「我々は〈無〉の玉手箱を抱えながら、寂しく昔の故郷にまで、漂泊して帰らなければならない。」つまり、しょせん西洋は本当の我々自体ではない、ということに気がついたのだ。だからといって、もとの…現代の日本…自分のところに帰ってみれば、そこには何もない。本当の西洋もなければ、自国の伝統もない。何か不可解な西洋的芸術や教養が蔓延してしまっているのだ。というのも、我々の教育が全面的に西洋文化を表面的に取り入れてしまったからだ。たとえば小・中学校の音楽教育などでも、つい最近まで西洋音楽が主体で自国の伝統音楽はまったく取り入れられていなかった。こうしてよくよく周囲を眺めて見れば、あらためて、自分の周囲には、たよるべき確たる何ものもない。つまり、「帰ってみれば、旧知はどこにもなく、昔あったすべての物──すべての日本的なる美しい物、懐かしい物、床しい物──は跡形も消滅している」のだ。そんな世界にまいもどった詩人…「帰郷者」は、こんどは多くの人々からは、むしろ見知らぬ異邦人−奇異の人として「白眼視され、砂風の吹く廃跡の部落」のなかを「零落の悲しい姿で、乞食のように漂泊しなければならないのである。」と。
つまり、真の詩人として生きようとすると、一般生活からは浮き上がってしまうというのだ。実際、それは朔太郎の生涯のドラマであり悲劇でもあった。ようするに、詩人という職業は社会にも特にない。この現実社会のなかには、詩人にとって確固とした生きる場所もないのだ。しかし、あえて詩人として生きるには、この不可能とも見える状況を生きる以外にはない。そして、それが詩人というものの運命であるというのが、朔太郎の詩人としての決意であった。しかし次第に、あるいはよく見れば、詩人といわれている人たちが、必ずしも、それほど徹底した人たちばかりではないことにも気がついてきた。つまり、詩人でありながらも、普通の生活者でもあるという折衷的な詩人もまた大勢いるからである。そしてまた、その生活を歌うのが詩であると信じている詩人もまた多い。そのような詩人には社会も寛容である。しかし朔太郎は生活派の詩人ではなかった。詩人の生にのしかかる「現実」の重圧は、晩年になるにしたがって、いよいよ重く苦しいものとなったように見える。
朔太郎は、晩年の「詩人の風貌」という文章のなかで次のようにいっている。「ちかごろの若い詩人はスマートで知識人らしくなってきたが、それだけ世間の常識人に近く、真の詩人らしいところがほとんどなくなってしまった。」つまり、詩人が、身をもって〈詩〉を生きるのではなく、いつしか次第に…意識してか無意識的にか…世間的な常識に譲歩して、一般人にちかづいてしまった。しかしそれは、それだけ詩人としての純度や密度が薄められてしまったのだ、といって嘆いている。それが詩人の風貌にも如実に現れている、と。そして詩人の風貌を特徴づけるものとして、「超俗的高貴性、卓抜性、放浪性、瓢逸性、不羈性、神経性、憂鬱性、聡明性、偏執性、感情過敏性、狂熱性」と言葉を連ねている。
たしかに、ざっと見わたしたところ、大方の特性が一般社会ではあまり歓迎されないものばかりである。それではなぜ、詩人がこのような特性を持たなければならないと主張するのか。朔太郎はいう「詩人は常に美の幻影を求めて、夜のイメージの中を往来しているので、夢の世界の地形や風習には馴れ親しんでいるが、白昼の意識や理性の支配するただなかにおかれると、夢の世界と全く違う法則で成り立っている「現実」のごつごつした不慣れな地形が、歩行をつまずかせ、ことごとに夢を破壊してゆくので、詩人を耐えがたい思いに導いてゆくのである、と。そして「詩を作らないときの詩人、白昼の意識を回復しているときのた詩人は、穴を這い出した土鼠のようなものである」という。にもかかわらず詩人も人間であるので不可避的に昼の世界にも出現していざるをえい、というところに詩人の悲劇があり、そんな事情が、しぜんに詩人の風貌にもそのような特徴を刻み付けるのである、と。
しかし、穴を這い出した土鼠は、そこで遭遇する現実という避けがたい境遇に対して、やかて懐疑を提出するようになる。それゆえ、詩人の一面は常にかならず哲人としての、あるいは思想詩人としての風貌を持つことになるのである、という。たしかに、朔太郎の全仕事を眺めると、夜の産物である詩作品と並んで、昼の哲人−思想詩人としての作品が多数のこされている。そして、わたしが、詩作品にもまして関心をそそられるのも、これらの産物であった。
つまり昼の哲人は、現実のあれこれを懐疑したり考察するだけではなく、夜の〈詩人〉に対しても、鋭い批評の眼を向けているのだ。さらに同時代の詩の現状や日本という特殊な環境における詩の可能性にいたるまで、実に多角的に精密に考察しているのである。なかでも、わたしが注目させられるのは、初めにも触れたように、当時の西洋一辺倒の表皮的模倣の横行や、あるいは容易な日本回帰のはざまにあって、おのれ自身に立脚しながら、世界性を保持した、真に創造的な仕事はどのようにして可能であるのか、というきわめて切実な問題に真正面から取り組んでいるところである。『詩の原理』がその理論的集大成であった。

森芳雄 二人(1950) |

森芳雄 人々(1951) |
読みはじめていた「美術手帖」の十一月号(一九五一)に、自由美術協会の画家・森芳雄の「アトリエ訪問記」が掲載されていた。当時の森芳雄は「二人」や「人々」で注目され、新聞や雑誌などでもよく取り上げられていて、初心者のわたしには、スターのように輝いて見えた画家であった。しかしそれは、たんに人目を引く表面的な画面作りのはなやかさではなく、素朴で堅実な構成力ある作品であった。その力が、見た瞬間、わたしを強く引きつけたのであった。雑誌に掲載されていたのはモノクロームの写真であったが、わたしはくり返し眺め、読んだのであった。特に「二人」は、後に、東京に出てきてから、新宿の紀伊国屋書店内の目立つところに飾られていたので、原画を何度も見ている。
けれども、このような力作を次々に描いていた森芳雄ではあったが、まもなく…たぶん数年の後には、しだいに作品の力も弱まり、そして、美術界からの注目も消えてしまったようであるのだ。かつて次々に力作を発表し、「アトリエ訪問記」にまで登場し、わたしもそれを熱心に読み、つよい関心と刺激とを受けていたので、それは不可解でもあり、また大変残念でもあった。いったい、そこには何があったのだろう。あるいは画家の内部に、あるいは外部に、何かがあったのだろうか。などということが、ながいあいだ気になっていたのであった。
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