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第113号

2011年09月12日

「『和魂洋才』から『洋魂和才』へ」 深瀬 久敬

 

1.明治維新以来の近代化路線の限界

 日本の社会は、明治維新以来、西欧に追いつき追い越せを旗印にして、近代化の道を邁進してきた。そこでの基本理念は、「和魂洋才」、「脱亜入欧」、「文明開化」であった。日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争、ジャパンアズナンバーワンとも評された経済大国、バブル経済崩壊など、幾多の紆余曲折を経て、近代化の帰結は、曲がりなりにも今日の状況に到っている。そして、今、次のような点で、日本の社会は、大きな曲がり角に来ているように思われる。

 国際的状況の観点からは、第一に、中国の台頭などを通して世界の多極化が進み、今後の世界の動向が混迷していること、第二に、地球温暖化や資源枯渇といった地球規模の難題に直面しつつあること、などがある。国内的状況の観点からは、第一に、少子高齢化や景気対策としての無節操なバラマキ等に起因する巨額の財政赤字の累積、第二に、福島原発事故における放射能物質放出事故に起因する政府不信の高まり、第三に、競争の行き過ぎに伴う自殺やこころの病の増大、などがある。

 

2.「和魂」とはなにか

 こうした国際的、国内的状況を前にして、わたしたちは、まず、国の基本理念としてきた「和魂洋才」の「和魂」とはなにか、ということを振り返ってみる必要があるだろう。思いつくままに、いくつか列挙する。第一に、古代社会からの伝統として、万葉集や古事記に顕れるとされる「清き明き心」、第二に、源氏物語に登場する「もののあはれ」の心情、第三に、平家物語や徒然草などにみられる「無常観」、第四に、親鸞や道元といった鎌倉仏教における深化した日本的霊性、第五に、世阿弥の能や利休の茶道や芭蕉の俳諧における「わび・さびの世界」、第六に、盆踊りや民謡にみられる日本各地の民族のなみだともいえる心情表現、第七に、「葉隠」とか新渡戸稲造などによって表現された「武士道精神」、第八に、江戸幕府をはじめ、藩校や寺子屋などで教授された「儒教的教養」、などがあると思う。さらに、里山や海岸線などの自然の風土の美しさ、旺盛な好奇心、立ち居振る舞いの美しさ、などもあるように感ずる。(「大和魂」は、「和魂」の一つの側面のみを取り上げたものであろう。)

 

3.「洋才」として表現されたもの

 このような「和魂」を基礎として、西欧の学問知識を取り入れ「洋才」として表現されたものとしてはどのようなものがあるだろうか。例えて挙げれば、ものづくりにおけるひたむきさ、品質へのこだわり、チームワークを通した団結力、もてなしの機微の深まり、マンガやアニメなどのクールジャパンと言われるようなもの、などが思い浮かぶ。野球のサムライジャパン、男子サッカーのサムライブルー、女子サッカーのなでしこジャパンなども入るかもしれない。音楽や工芸などの芸術の世界においても世界的に活躍する人がかなり見られる。もちろん、それらは、純粋な「和才」とは異なった「洋才」的装いをもって表現されたものである。

 

4.改めて問われるべき「洋魂」

 確かに、これらは、日本の社会をそれなりの国に育て上げてくれた。しかし、今日のような大きな曲がり角に来て考えなくてはならないことは、「和魂洋才」と言って無視してきた「和魂」に対する「洋魂」とは、いったいなにか、という点である。近代化という歴史のうねりに適切に対応していくためには、「洋魂」の本質を蔑ろにしては不可能である。近代化のうねりが地球規模に浸透し、さらに新たに中国、インド、ロシアなどの「魂」が参入してくるなかで、「洋魂」の正面からの受け止めを避けては通れない。

 

5.「洋魂」の本質とはなにか

 では、「洋魂」の本質とは何なのであろうか。わたしは次の三つではないかと思う。

 

(1) 一つは、絶対の神と一対一に対峙するときの眼に基づくような客観である。深い孤独と個としての自己が厳しく問われるような「観」である。起源的には、やはりキリスト教に引き継がれたユダヤ教の一神教にあるのだろう。近代西欧社会の始まりは、長年蓄積された天体の観測データを精査に分析した結果として、天体の動きを説明するには地動説が妥当であるという態度を鮮明にしたところにある。ガリレオは、さらに、落体の実験を行って、権威とされてきたアリストテレスの観念的説明を覆した。権威や因習に依らず、ありのままの事実を事実として説明するという態度は、近代化の根幹の一つである。それが、ニュートンやアインシュタインによる「神は世界をどのように創ったのか」という問いに立ち向かわせ、科学技術の基盤となった。そして、こうした客観の視点は、人間自身にも向けられ、啓蒙思想となり、人間の平等性や人権思想に発展せられ、民主主義思想の基盤ともなっている。

 

(2) いま一つは、明晰な論拠を踏まえた論理性である。それは、次のようなことから説明できるだろう。第一に、古代ギリシャのポリス国家では、紛争の解決手段として論理が最も普遍的であるという認識にたち、論理学が尊重された。第二に、ユークリッド幾何学の「原論」は、明確な事実認識としての定義・公理・公準から論理を演繹するものであり、プラトン以来、西欧文明の学問の基盤とされた。第三に、古代ギリシャでは、世界の根源はなにかという問いがたてられ、タレス、アナクシマンドロス、ヘラクレイトスなど、世界の元素はなにか、ついて論じられた。第四に、キリスト教が世界宗教として普遍性をもって拡大していく過程で、スコラ哲学はプラトン、アリストテレスに習って論理性を重視した。第五に、西欧近代の開祖ともされるデカルトは、「われ思うにわれあり」という論拠の上に、世界を論理によって説明、証明できるものと捉えた。(ここで、論理の始まりの論拠が明確であるということが重要である。論拠の曖昧な論理は、空中を漂う浮草のようなものであり、いくら論理を戦わせても意味のある結論は出てこない。論拠を確実にし、体系付けていかなくてはならない。中国や日本に、ユークリッドの「原論」の翻訳がもたらされても、その価値は受け入れられなかったとのことである。やはり精神的に、敷居が高かったものと思われる。)

 

(3) 「洋魂」の上記二つを踏まえた精神として、普遍性、全体性への強い指向がある。全体像を客観的、論理的に説明しようとする姿勢であり、矛盾するものがあれば、それを矛盾なく取り込めるように、説明の範囲や論理を拡張していくというものである。したがって、地球社会の運営という観点についても、西欧的近代の視点からは、常に、地球社会の全体の在り方が問われていることは間違いない。米国の高等教育機関、研究機関、IBMのような先端的企業などは、こうしたグローバル戦略を常に切磋していることに注意すべきである。

 

6.「洋魂」を無視した結果とその背景

 日本が取り敢えず近代化を押し進めるに当たり、無視してきたものが、上記のような「洋魂」であるとして、私は、今日の日本社会の混迷は、こうした「洋魂」の基盤の欠如のまま近代化を押し進めてきたつけが回った結果ではないか、と思えてならない。福島原発事故の説明と対応には、客観性も論拠を踏まえた論理性も欠落している。積み上がる財政赤字の状況と対応としての消費税の引き上げ論にも、客観的かつ論理的説明が伝わってこない。不都合なデータは隠蔽し、なんとかうまくいきますといった甘い言葉のみが飛び交っている。太平洋戦争のときの大本営発表とほとんど変わっていない。「洋魂」をきちんと受け止めようとしなかったつけが、今の日本の状況を作り出している。「和魂洋才」は「和魂漢才」をもじったものである。わたしが思うに、中国から、漢字や仏教や儒教を受け入れるに際しては、日本の社会は、それらに敬意を表し、真っ正面から受け入れ、自らの血肉と化そうと努力したのだと思う。それに対し、「和魂洋才」の姿勢は、そういう本質は受け入れず、表層的な都合のよい面のみを受け入れるという中途半端な姿勢での受け入れであった。それは新井白石、佐久間象山、高野長英といった徳川末期の人々が、東洋社会の精神的優位性は保持可能であるとする心情をあまりに強く持ちすぎたためとも思える。また、「洋魂」をきちんと吸収するには、相違があまりにも大きく、時間的ゆとりもなかった。さらに、自国のアイデンティティーの喪失への危機感もあったろうし、そこそこ「和魂洋才」で成功できた、といった点もあったであろう。

 

7.「洋魂」の導入とそこでの留意点

 今からでも、「和魂洋才」から「洋魂和才」に転換し、「洋魂」の根幹を、日本の社会に根付かせるべく、身近なところから実践適用してみるべきだと思う。行政の情報隠蔽体質、天下り利権体質、理解不能な説明の跋扈、根拠の見えないガンバリズムなど、今日の日本社会を覆う不透明感を払拭するときに来ている。そうした活動を行いながら、次のような点にも配慮していく姿勢が大切だと思う。

 

 第一に、「洋魂」のきちんとした理解と受け止めを通して、世界のなかで日本がどのような存在となっていくか、考慮していくことである。中国や韓国から、米国への留学生が急増しているらしいが、「洋魂」の理解という点では、日本の社会は、かなりの下地が整っていると思う。また、中国のような巨大な国において、民主化など、「洋魂」の根幹に関わる思想が、どこまで浸透できるのか、まだ疑問が深い。日本は、このままでは、世界のなかで埋没してしまうだろう。「洋魂」のきちんとした理解と受け入れのなかから、改めて、地球社会のなかでなにができるか、国を挙げて、考察していくべきだろう。

 第二に、「洋魂」の基盤に依拠した科学技術の発展の驚異性を、「洋魂」を真っ正面から受け入れた上で、これからの発展の方向性も意識しながら吟味することである。暗黒エネルギーを踏まえた宇宙論、他の生命の存在も視野に入れた惑星探査、DNAレベルの解析に基づく生命科学、デジタル技術の急激な進化に基づく情報化社会の進展、相対性理論の構築にも活用された数学など、人類全体の叡知が問われている時代であることを真に理解することが求められている。

 第三に、人間の意識というのは、人類の数万年におよぶ歴史のなかで、いくつかの覚醒の段階を踏んでいるのだと思う。死者への手向け、自然の脅威に対するいけにえ、神官のような宗教的権威、皇帝的独裁者、封建的絶対君主、立憲君主制、ヒトラー的独裁者、民主主義的市民社会など、人々の世界観は、大きな変化を経験してきている。これから人類は、どのような意識の覚醒を経験していくのであろうか。漆黒の宇宙のなかに青く白く輝いて浮かぶ地球の上に生存しているわたしたちの不可思議を思いつつ、その行方を熟慮していく必要があるだろう。

「負けること勝つこと(69)」 浅田 和幸

「問われている絵画(104)-絵画への接近24-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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