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第113号

2011年09月12日

【編集あとがき】

 

第113号を無事発行することができました。

以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。

 浅田さんの論文=日本の社会は、次のような点でとても良くなっていると思います。まず、自動車、家電製品、電車、ケータイ、パソコン、等々、ほとんど国産品で対応できています。最近、中国製品がかなり目につきますが、素材などは日本のものを使っていることが多いようです。また、日本の住宅の品質は、かなりよくなっていると感じます。住宅メーカーなどの努力の結果でもあり、技術やデザインなど、世界に負けないレベルではないでしょうか。電気・上下水道・高速道路・通信ネットワーク・宅配サービスなどの社会インフラの整備度合いも高いと思います。治安や人権などについてもそれほどひどい状況ではないでしょう。「がんばれニッポン」などといったやや煽情的なコピーが溢れてはいますが、強権力の独裁政権による統制があるということでもないと思います。しかし、「自分は裏切られた」世代の典型の司馬遼太郎氏の追い求めた純粋さのある率直さのようなものは、石原慎太郎氏の著作のような統一体としての在り方に無理感があるような言動の跋扈をみるにつけ、きびしいのではないかと思います。日本の状況は、今後、どのような変化をたどるのか、一人ひとりの人間としての責任も問われているようにも感じます。「お国のため」に死ぬことが責任であった時代もすぐそこにあったのであり、どう対処するのがよいのか、考えさせられます。

 

 薗部さんの論文=「和魂洋才」の視点から言えば、「洋才」路線を突き進んだものの刀折れ矢尽き、「和魂」からも「洋魂」からも見放され、自己のアイデンティティーとしての故郷を失った浦島太郎的在り方が想起されます。萩原朔太郎、あるいは詳しく分かりませんが森芳雄といった人たちは、西欧芸術を、「和魂」を保ちながらも、もっとも鋭く「洋魂」とでもよぶべきものに肉薄してかすめ取ってきた人たちなのかもしれません。しかし、「和魂」を維持しながら、「洋魂」そのものに触れるのでもなく、「洋才」を「才」のレベルに止まらず提示することは本当に可能なことなのか考えさせられます。「和魂」と「洋魂」の両立、共存とは、可能なのか、可能ならどのようにして可能なのか、突き詰める必要があると思います。しかし、一つの絵であっても、ある見方をすると二つの顔が向き合っているようにみえ、別の見方をすると一つの壺にみえるという「ルビンの壺」というのがありますが、「和魂」と「洋魂」というのも、そのような存在の仕方をするしかないものなのかもしれません。しかし、松尾芭蕉の「古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」という言葉がフィクションであったとしても、常識人や一般生活者とは、かなりかけ離れたものが感じられます。西欧文明における詩人の理性と芭蕉の超俗的高貴性などとの間にはなにがあるのかなど、考えさせられます。



(以上 記 深瀬)

「負けること勝つこと(69)」 浅田 和幸

「問われている絵画(104)-絵画への接近24-」 薗部 雄作

「『和魂洋才』から『洋魂和才』へ」 深瀬 久敬

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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