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第114号

2011年12月7日

「負けること勝つこと(70)」 浅田 和幸

 

 三月の大震災から半年以上の時間が経過し、日本国内も当初の衝撃から少しずつ立ち直りつつあるといった感じです。

 ところで、ここに来て、これまで日本社会の中に厳然と存在していながら、隠されていた「ムラ社会」というものにスポットが当たっています。

 「原子力ムラ」といった原発関係者を揶揄する言葉と同様に、この秋に暴露された「ムラ」を巡ってのトラブルとしては、「オリンパスの損失隠し事件」「読売巨人軍のGM解任劇」「大王製紙の創業者三代目の特別背任」といったものです。

 勿論、トラブルの中身は、三者三様全く異なったものですが、そのトラブルを引き起こすことになった原因が、実は、全く同じ原因であるというところに注目しています。

 その原因とは、度重なる社会の変化に関係なく、日本社会にしっかりと根を下ろしている「ムラ意識」にあると私は考えています。

 かつて、「村八分」という言葉がありました。江戸時代の村落共同体において、村のルールに従わない家を、村落共同体から排除することを指していました。

 「村八分」になれば、その家の家族は、村の行事への参加や農作業に必要な手助けといったことから排除されることになります。但し、「火事」と「葬儀」に関しては、その限りにあらずということで、村民もその時だけは関わり合いを持つという制度です。

 これは、「火事」を放置すれば、他の村落共同体の住民に被害が及ぶことになる。死者を放置すれば、伝染病などの蔓延に繋がるといったように、共同体の構成員にとって不利益と見なすものには手を差し伸べるが、それ以外の場合は共同体から排除するという理論に基づいています。

 現在でも、農業を営んでいる地域では、「講」とか「惣」とかいう組織が存在し、それが農作業に関連する共同作業や水利に関しての取り決めを行っています。

 ちなみに、私の住んでいる金沢では「まんぞう」という言葉で、かつて専業農家だった農家(現在はほとんどが兼業農家ですが)の集落において現在も続いています。

 その「まんぞう」の寄り合いでは、一年を通じての農作業の段取りを決めることを含め、参加者全員が、この取り決めに応じて行動するといったように、現代においても脈々と「ムラ」の形は生きています。

 勿論、かつてのようにあからさまな「村八分」といったルールはありません。でも、この「まんぞう」で決めたことに逆らうようなことを行えば、当然、陰に日向に周囲の人間から排除されることは回避できないようです。

 さて、ここで大事なことは、この「まんぞう」で決められたことが「正しい」か「正しくない」かということではなく、決められたことを「守る」か「守らない」かというところです。

 現在、「まんぞう」の役員は、ほとんどが持ち回りで役員を選定し、その役員が一年間のスケジュールを決めるといったやり方を取っているようです。

 だから、力で持ってルールを決めるわけではありませんが、ここでは決められたルールの正否ではなく、守る・守らないという行動が優先されるわけです。

 そういう意味で、「まんぞう」の構成員が、正否について発言し、このルールを変更させようと目論んだとしても、望ましい結果を導くことは難しいことに思います。

 ただ、一つの方法としては、その人が持ち回りの役員となり、その役員という権限を使って、これまでのルールを変えることは可能なやり方と思いますが、別の役員が反対すれば、それも難しいことになります。

 つまり、「ムラ」で決められたルールとは、正否を問うことはあらかじめ排除されており、そのルールに従うか従わないか、守るか守らないかのみを問うルールと言っても良いと思われます。

 さて、「まんぞう」の場合は、役員も持ち回りと言うことで、権力や権限が集中することはありませんが、これが、企業や行政組織ということになると、権力や権限が集中する存在を生み出すことになります。

 例えば、社長、知事といったように、企業のトップ、行政のトップに君臨するということは、その組織内の人事権を掌握し、自らが恣にそれを行使することも許されることになります。

 勿論、それが必ずしも不合理であり、非常識なものであると決めつけるつもりはありません。「適材適所」という言葉通りに、絶妙な人事配置を行い、それにより活力溢れる組織を生み出しているトップも存在しています。

 ただ、その時にあっても、そこで問われていることは、「正否」ではありません。この人事配置が正しいとか正しくないとかではなく、トップの決めたことに従うか従わないかということであることには変わりありません。

 だから、トップの判断が正しく、間違えのないものであれば、それに従って行うことは、正しく、間違えのないものとして評価されることになります。

 しかし、もし、それが間違ったものであったなら、その間違えを指摘することでは解決になりません。もし、指摘して、命令に従わないなら、多分、トップにより、その人間は組織から排除されることになります。

 これは、なにも日本の組織に限ったことではないと思います。人間の組織であるなら、必ず、こういうことが起きるものだと思っています。だから、それを防止するためのルールが決められているのだと考えています。

 一番良い例は、アメリカの大統領です。大きな権力を掌握しているアメリカ大統領。それ故、どれほど有能な人間であっても、最大二期八年間しか、その席に君臨することは出来ないルールが設けられています。

 多分、歴代の大統領の中には、二期以上大統領を続けても、なんの問題もない有能な大統領も存在したことと思います。しかし、反対に、一期の任期だけでも、問題が山積した大統領も存在したことと思います。

 それで、どんな場合にも、二期八年以上権力の座に存在することが出来ないというルールを作り、それに則って、大統領の選抜を実施しているというところに、人間の知恵を感ずるのです。

 そういう点で、日本の場合、権力の横暴に対する防御システムは非常に不完全です。その結果、一度権力を握ってしまうと、その人間の権力を抑制することが難しい状況を招くことが往々にしてあるのです。

 ここには、人間は不完全である。その人間の作った制度は当然不完全である。故に、何重もの制御システムを組み込んで、その不完全さを補っていかないことには、非常に危険な場面に遭遇するという知恵が足らないのです。

 今回の大地震、それに続く大津波により被災し、最悪の原発事故を起こした福島第一原発も、同様な知恵の足り無さにより、これほどの事態を迎えたのでした。

 どんなことがあっても、原発は安全であるという言説が一人歩きし、「もしも」のことが生じたら、どのように対処していくのかということを考えなくて良いという結論を、専門家集団ですら無批判に受け入れたのでした。

 つまり、「安全神話」を疑うと言うことは、この神話を信奉している権威のある専門家、権力のある専門家を疑うと言うことに通じるため、彼らの権威や権力にひれ伏す人たちは、誰一人、疑問を口にすることすら許されなかったわけです。

 しかし、現実は、そういう神話を吹き飛ばすほどの強烈なものでした。巨大な津波が押し寄せ、炉心を冷却する電源を失った原発は、メルトダウンを起こし、大爆発と共に、空気中に大量の放射能をまき散らしたのでした。

 そして、この深刻な事態を前にして、なすすべのない人たちが口にしたのは、「想定外」という言葉でした。ただ、この「想定外」という言葉は、逃げるための、責任逃れをするための言い訳でしかないものです。

 放射能という恐ろしいものを扱うときに、何重もの安全装置を設け、人間の脳が想像しうるだけの問題を想定した上で、その想定を超えるような事態に至ったときにのみ、この「想定外」という言葉を使用しても良いと思えます。

 でも、今回の事故に関しては全く違っていました。これは、先ほどから書いてきた「ムラ社会」にしか通用しない理屈ですが、「ムラ社会」においては絶対的な価値判断の基準なのです。

 つまり、「正否」ではなく、「ムラ社会」で決められたルールに従うか従わないかというだけです。多分、研究者や専門家の間では、安全性確保の対応が弱いとか不十分だとかいう意見を持っている人もいたことでしょう。

 ところが、それを表だって言えば、自らが属している「ムラ社会」から排除される可能性がある以上、自らの損得勘定も含め、「ムラ社会」の掟に逆らわない生き方を選んで来たということでしょう。

 これについては、私自身も、その方達の態度を居丈高に責める気持ちになれません。それというのも、私も組織の一員として仕事をしてきた中で、そういう事態を前にしたことがたびたびありました。

 そして、その中で、自分としては「こちらの方が正しい」と思っていても、上司を含め権力のある人間の前で、自分の正しさを主張せず、相手の言い分を認め、その命令に従うといった経験を何度も行ってきました。だから、自分には関係ないといったスタンスで、その人達を責めることができないのです。

 これは、私だけではなかったようです。「読売新聞のオーナーと読売巨人軍のGM」を巡るトラブルにおいても、心情的にはGMを支持するが、組織の一員として考えた場合、GMのやり方は間違っているというふうに答える男性サラリーマンが目に付きました。

 プロ野球という「ムラ社会」の中の、更に細分化された球団内部のトラブルが、このように公の場に出てくることも少なかったこともあり、大きな話題になっていますが、トラブルの問題点は実にシンプルなものなのです。

 実際のところ、渡辺オーナーの案が正しいのか清武GMの案が正しいのか分かりません。ひょっとすると、二人とも間違っている案を主張しているのかも知れませんし、どちらも正しいのかも知れません。

 しかし、問題はそこにありません。オーナーの命じたことに逆らった部下がいる、つまり、「ムラ長」の言うことに反旗を翻すムラ人がいるということだけです。

 そして、この反旗を翻したムラ人は、このプロ野球という、読売巨人という球団から排除されることになるという事実しかありません。

 ストーリーは、全く左右にぶれることなく想定通り進んでいます。渡辺オーナーの命を受けた球団オーナーが、清武GMを解任し、彼が進めようとしていた体制を根底から否定することになりました。

 これはこのトラブルが生じた時から想定内の事態でした。この決定に対して、世論は渡辺オーナーを批判する向きもある一方、組織の理論を無視したGMを批判する人たちも少なくありません。

 いずれにせよ、ここの図式は「ムラ長」VS「ムラ人」になっています。これはあくまでも推測ですが、清武GMを非常識として非難し、今回の一連の騒動では渡辺オーナー側についた桃井巨人軍オーナーは、渡辺オーナーの理不尽な意見に対して、清武GMと同様の思いを抱き、彼の意見に賛同し、認めるようなことを二人の間では言っていたと思います。

 しかし、あくまでも仲間内の愚痴話。まさか、彼が本気で記者会見を開き、渡辺オーナーを名指しで非難するなど想定外だったようです。ですから、GMの記者会見後は、突然、自分は無関係であり、彼の発言は組織人として間違っているなどと言わざるを得なかったのでしょう。

 実に分かりやすいのですが、彼は、必死に否定してみせることで、球団内での自分の地位を確保し、オーナーにへりくだることで、地位の保全を求めたわけです。

 いくら、桃井巨人軍オーナーが、清武GMと自分は違うと叫んでみても、外部の人間から見ると、結局は、口先だけの男で、最終的には権力に屈した人間というレッテルから逃れられないようです。

 別に、私は清武GMの行為を賞賛しているわけではありません。もし、自分が同じ立場なら、同様な行動を選択したかというと自信がありません。多分、桃井球団オーナーに近い行動を取っていたことと思います。

 それは、この根底には、これまで書いてきたように、「ムラ社会」の原理が存在しており、それが私たちの思考や行動を雁字搦めに縛っており、そこから自由になることが非常に難しいということを理解した上で行動しているという自己分析があります。

 それでは、「オリンパスの損失隠し事件」はどうだったでしょうか。これは、長い間、会社の幹部が、経営の失敗で生まれた赤字欠損を隠し、経営が健全であるように不正な操作を行ってきたことが暴かれた事件でした。

 この不正を暴いたのが、イギリス人のウッドフォード元社長でした。彼は元会長の抜擢により、外国人でありながら、日本企業のトップになったわけですが、そのことにより、長年継続してきた「損失隠し」の実態を知ることになりました。

 例えば、これが日本人の社長であったなら、この事実をつかみ、それを元会長に問いただしたとしても、それを公表することなく、有耶無耶にしたまま、次の社長へと手渡したことと思います。

 何故なら、彼の行動を貫く原理は「ムラ社会」の原理だからです。彼は次のように考えるでしょう。「確かに、これまで会社内部で行われてきた損失隠しは問題がある。しかし、これを自分が告発し、是正しようとすれば、これまでこの案件に関わってきた多くの人たちに迷惑がかかる。更に、そのことにより社会から非難され、会社そのものの存立も危うくなるかも知れない。そうなると何万にも従業員が路頭に迷うことになる。これは犯罪であるから、本来は告発し、きちんとした処理を行うべきだが、それを自分の手で行うには、私にとって荷が重すぎる。この件に関しては、もっと適切な人間が出てくるまで待つことにしよう。どうせ、これまでバレなかったのだから、多分、これからも当分は大丈夫だろう・・」

 勿論、これはあくまでも私の推論に過ぎませんから、間違っている部分もあるように思いますが、大筋のところ、ほぼ誤っていないと思います。

 つまり、この事件の核心は、外国人=非ムラ人が、手違いにより「ムラ長」になってしまったために起きてしまったというところです。元会長にすれば、とんでもない奴を抜擢したものだと悔やんでいることでしょう。

 しかし、ムラの原理とは無関係のイギリス人の社長にとってみれば、こういう訳の分からない理由で、不正を放置しておくと言うこと自身、とても許すことが出来ない問題だったことでしょう。

 この件に関しても、私は「読売巨人」のトラブルに関して桃井巨人軍オーナーが選んだ途を選ぶように思います。損失隠しは重大な問題だが、それを解決するのは自分ではない。いずれ、適切な人間がそれに取り組んでくれるだろう・・といった希望的観測を元にして、責任回避に舵を切ったことと思います。

 最後に、とうとう刑事事件になった「大王製紙創業者三代目による特別背任」です。これは、「大王製紙」を創業したオーナーの子息が、自ら負ったギャンブルの借金を、子会社や関連会社から業務命令として借り入れ、企業に多大な損失を与えたという事件です。

 この事件、一流企業のトップがギャンブルにはまり、多額の借金をこさえたということよりも、東証一部に上場している一流企業。その一流企業の内部で行われていたことが、まるで、商店街の個人商店の内部で行われているお手盛り経営であったことに衝撃を覚えた方も多かったのではないでしょうか。

 人間がギャンブルにはまる。これは現在「依存症」という名前の病気と考えられており、この病気になるリスクは、特定の人に限ったものでなく、誰でもなってしまうものだという認識が一般的です。

 だから、東大を優秀な成績で卒業し、若くして祖父の興した企業のトップとなったエリートであっても、依存症になり、巨額の借金を作ることになった事情も特殊なものとは思えません。

 つまり、個人の問題と言うより、そういう人間が、いくらオーナーとは言え、自らの借金を、理由も明らかにせず、簡単に子会社からの借り入れで解決してきたシステムの問題が特殊なのです。

 現在、企業経営に関しては、以前より外部からの厳しい監査や査定が行われるようになっています。以前なら、企業とって都合の悪いことを隠すことも企業防衛の一環ということで許されるケースもありましたが、現在では「コンプライアンスの遵守」ということで厳しく禁止されています。

 そのために、「オリンパス」では一部の幹部職員が情報を独占し、複雑な金融操作を行い、専門家によるアドバイスを受けながら、犯罪ギリギリのやり方で、損失隠しを行ってきました。

 ところが、「大王製紙」の場合は、そういう操作もありません。まさに、オーナーの鶴の一声で、何億、何十億というお金が借り入れされたのです。さらに、その多額の借金は、事件が発覚するまで、返済を迫られることもなく放置されていました。

 まるで、親の財布から小遣いをちょろまかす子どものようなやり方です。それも、白昼堂々行われており、それについて、誰一人異を唱えることが出来ないというところは、まさに「ムラ社会」特有の事件と言っても良いでしょう。

 新聞報道でしか分かりませんが、子会社の会計責任者は、「オーナーから言われれば断ることなどできなかった」と述べています。つまり、オーナーも会計責任者も、彼らが扱っているお金は、企業の金でなく、個人の金であるという共通認識があったのでしょう。

 だから、なんの躊躇もなく、自らの借金の清算に、会社のお金に手を付けるということが選択されたということです。多分、逮捕され拘置所に止まっている創業者の三代目の胸中には、「なんで自分の金を一時的に借りただけなのに逮捕されるのだ?」という憤懣が渦巻いているのではないでしょうか。

 確かに、「ムラ社会」においては彼の理屈は間違っていません。しかし、世界基準から行くと、それは大きな誤りということになります。頭脳明晰な彼のことですから、この世界基準を理解していなかったわけはないと思います。

 ところが、頭の中では十分理解していながら、実際の行動には全く反映されていません。私より随分若い世代に属する彼がここまで「ムラ社会」にどっぷりと浸かっていることに改めて驚かされます。

 以上のように、日本社会に根付いている「ムラ社会」。江戸幕府が崩壊し、明治維新を迎えても、権力者の顔ぶれは変わりましたが、基本的に構造の変化はありませんでした。さらに、太平洋戦争に敗北した時も、権力者の構造に変化は生じましたが、権力構造の変化はありませんでした。

 この間に、日本社会にはさまざまな欧米等の思想が流れ込んで来ました。日本人のライフスタイルも大きく変化し、私の記憶の中にあるかつての日本の農村の生活風景もほとんど残っていません。

 しかし、表面的な変化とは裏腹に、この国に住む人々の精神の深いところでは、実は江戸時代からほとんど変わっていない価値観が、私たちの考え方や行動を縛っているのです。

 戦後七十年が経過し、ここに来て、この構造の上部を形成していた人たちの既得権の肥大化が社会問題となってきました。「官僚」「マスコミ」「政治家」の既得権。この既得権を手に入れている人たちは、この社会の勝者として君臨してきた人たちでした。 だから、勝者として、いつまでも社会に君臨したいと願えば願うほどに、つまり、自分たちへの風当たりが強くなればなるほど、この既得権を守ろうとする力も強くなってきているように思います。

 そして、私を含め、日本の社会の組織に生きている人間は、この束縛から完全に自由になることなど出来ません。いや、逆に、それを補完しようとする動きに同調する人たちも目に付きます。

 そういう意味で、三月の大地震は、日本の大地を大きく震わせただけでなく、その振動による裂け目から、これまで人々の目に隠されていたものが噴き出すきっかけを作ったようにも思います。

 実は、多くの人たちは、「ムラ社会」の存在には気が付いていました。しかし、それを窮屈だと思う反面、逆に、それとうまく折り合いさえ付けていけば、この社会で暮らすには都合が良いことも理解していました。

 だから、どこかうまく折り合いをつけ、激しい対立を回避しながら、穏やかな暮らしを選択することを選んできたのでした。それを多くの日本人は「生活の知恵」と評価してきたのです。

 ただ、離れ小島であった日本社会も、いつまでも自分たちだけで暮らすわけにはいかなくなっています。これまでなら、海を渡ってやってくるもののうち、自分たちに都合の良いことだけを取捨選択し、社会の中に受け入れるというやり方も許されてきました。

 しかし、ここに来て、そういう自分勝手な取捨選択が許されない環境が生まれつつあるのです。そういう意味では、これまで無意識に認めてきた「ムラ社会」の価値観を捨てなくてはならぬ状況も生まれつつあるように思います。

 そういう外部的環境が大きく変化を遂げていく中、私たちはどこまで日本人の価値観を守りながら、なにを捨て、なにを取り入れていくかを真剣に考えていく必要に迫られています。

 この夏から秋にかけて日本社会で噴き出した事件やトラブルを前にして、改めて私を含め、日本人の生き方が問われているように感じています。(了)



「問われている絵画(105)-絵画への接近25-」 薗部 雄作

「今、私たち人間はどのような状況に
置かれているのであろうか」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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