第114号を無事発行することができました。
以下、一読者としての感想を述べさせていただきました。
浅田さんの論文=ムラ社会の論理とかムラ意識というのは、日本の社会では、企業組織、行政組織、研究開発型の組織など、あらゆる組織に根付いていて、そこでは組織の論理や既得権益の維持などの価値に比重が置かれ、なにが客観的に正しいのかといった課題は二の次に置かれる傾向があるのだと思います。このことは、わたしが今回書いたことばで言えば、「集合型生存指向の組織」のことになり、そこでは生存し続けることが第一義となります。こうした組織では、皇帝とか天皇といった権威を立てたり、満場一致を基本とするといった智慧を絞ってきましたが、今日のように置かれている状況が複雑化したり、その対処法に深い専門性が要求されたりするなかで、客観的正さを如何に確保するかが厳しく問われることになるのだと思います。そういう正さを担保する手段として三権分立とか監査制度とか社外取締役といったものが、「離散型生存指向の組織」を伝統としてもつ欧米の社会では、工夫されてきたのではないかと感じます。
では、「集合型生存指向の組織」を伝統としてきた社会が、「離散型生存指向の組織」の伝統の中で培われてきた智慧をうまく導入することはできるのでしょうか。なかなか困難なことではないかと思います。さらに、中国の古典「荘子」の中では、胡蝶の夢の話しとして「周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか」という有名なテーマがありますが、人間は、基本的にこの問いを立証することはできないとされ、今日の社会学では「社会の底は抜けている」と表現されるのだそうです。人間という生きものは、そういう確実な基盤上の存在ではないことも確かな事実だと思います。さらに荘子で指摘されているような言葉の不確実性や人間の主体性を脅かす感情の存在など、人間への深い洞察も踏まえた議論が今後、必要になるように感じました。
薗部さんの論文=わたしは今回、人間の指向する価値を、生存指向と機能指向という二つに分けてみました。生活という概念は、その「手段」が前面にでてくるということから、それは基本的に機能指向の世界のことではないかと思います。そして、この機能指向の世界は、目先の部分的世界に焦点が行きますから、どうしてもミクロ的なものになり、全人性といったものが希釈されると思います。芸術は全人性に立脚した創造的なものであると思われますから、そうした機能指向の比重の高い環境とか、生存指向の鋭敏さが後退した世界では、美的創造的感覚が鈍化してしまうのかもしれません。最近、よく感ずるのは、かつての伝統的な日本家屋の中にあった床の間の美が、マンション居住が一般化するなかで急速に消失していることです。床の間は、生存指向の生活の中で、全宇宙の美を象徴的に身近なものにするような場であり、生存指向の空間を象徴するものであったように感じます。機能指向の強化、すなわち、科学技術を基盤とする簡便化、あるいは、言葉などによる抽象性の高度化といった生活力が格段に高まる一方、生存指向の感度の方は急速に弱まっているように感じられます。機能指向の世界の中に、いかにして未知なるものへの畏れといった気持ちも含めて、生存指向の世界の存在する場を身近なものとして確保するかがこれからの地球社会の中で問われているのではないかという気持ちになりました。
(以上 記 深瀬)
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