昨年の十二月に出版された中央公論新書「昭和陸軍の軌跡〜永田鉄山の構想とその分岐〜」川田稔著を、暮れから正月にかけて読んでいました。
著者の川田氏は、この新書の「あとがき」に次のように本書の出筆の動機を記されています。
「昭和陸軍は、満州事変を契機に、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒した。その昭和陸軍が、どのように日中戦争、そして対米開戦・太平洋戦争へと進んでいったのか。その間の陸軍をリードした永田鉄山、石原完爾、武藤章、田中新一らは、どのような政戦略構想をもっていたのか。」
この新書が出版された昨年の十二月は、太平洋戦争が日本海軍の真珠湾攻撃で始まってから七十年目に当たることもあり、特に、いつもの年以上に、太平洋戦争への関心は強かったように思います。
そういう中で、現在に至るまで誰もが無謀だと考え、最後まで戦いを回避しようとしていたアメリカとの戦争を、何故、日本陸軍が決断したのかということについては、公の会議などで発言された言葉などから明らかになっていますが、そういう発言の背後にある思想や考え方については、ほとんど明らかになってはいませんでした。
わたし自身も、この「あとがき」に書かれていることとは、まるで正反対の解釈をしていました。例えば、政党政治が不安定であったために、陸軍の暴走を招いたというのが、多分、ほとんどの人たちが信じているものであると思います。
ところが、そうではなく、比較的安定していた政党政治を、陸軍の方で自分たちの都合の良い方向に国を動かしていく目的のために無理矢理潰したということを本書で知りました。
さらに、日本陸軍は、構想もないままに、なし崩し的に戦線を拡大し、その収拾をつけることが出来ぬままに、無謀と思われたアメリカとの戦争に走り自滅したというのも、これまで世間に流布してきた通説でしたが、これもそうではなかったということをこの本で知りました。
つまり、戦後のわたしたちに伝えられてきた戦前の歴史の一部は、実は、戦後に改竄され、ある意味戦後生き残った人間に都合の良いものに書き換えられていたという可能性があるのです。
そういう意味で、この本はとても興味深いものでした。そして、特に、わたしが興味を覚えたのは、日本陸軍が、このように力を得て、自分たちの都合の良い政治状況を作り出していった要因の一つが、彼らが日本の将来にわたっての「国のあり方」を、誰よりも鮮明にイメージし、それを実現するために、なにをやっていけばよいのかということを知っていたという点です。
これは、実に興味深いことです。いまの日本の社会を見ていても、将来の「国のあり方」を、きちんと提示し、そのためになにをなしていけば良いのかを明確に説明できるリーダーはいません。
ここが大きな問題なのです。かつて、戦後の日本経済が実現した高度経済成長期、正しい、正しくないではなく、この経済成長が成功した後には、どういった社会が実現するのかを、明確に提示し、言葉で説明出来るリーダーがいました。
その一人は「所得倍増計画」を掲げ、日本の高度経済成長を推進した池田勇人首相でした。彼は、敗戦で大きなダメージを受けた日本社会に対して、所得を増やし、生活を豊かにしていく方向性を示したのでした。
そこには、アメリカ社会がモデルとしてありました。戦勝国ということだけではなく、日本人の生活とは大きくかけ離れた豊かな消費生活に誰もが憧れを感じていました。
いつか自分たちも、そういう豊かな生活を送ることが出来るようになる。そういう「夢」を、日本人の誰もが持てるというメッセージを発することが出来たのでした。
多分、その後の田中角栄首相の「日本列島改造論」も含め、戦後政治において、自民党が圧倒的存在感を発揮し、この国をリードしてきたのも、こういう明確なメッセージを、国民に提供することが出来たからだったと思います。
つまり、いつの時代にあっても、国の将来に対しての明確なメッセージを持っていないリーダーは、国民の求心力を保つことが出来ず、極めて不安定な状態に晒されるということです。
ただ、戦前の日本陸軍のリーダーたちと戦後の池田、田中首相とは、決定的に異なっているところがあります。それは、前者が武力を基にして政戦略を構想していたのに対して、後者は、武力ではなく経済力を基にして政戦略を構想していた点でした。
ここに戦前と戦後の決定的な違いが存在しているのです。それは、軍隊という戦う組織の根本的な問題点です。つまり、軍隊とは戦いがないとそれだけで存在そのものが否定される組織だからです。
同じ武力を持っていて、警察とは決定的に違います。警察は、日々の暮らしの治安を維持することが主な目的ですが、軍隊は、防衛もさることながら、武力を行使し、他国への武力侵略を前提に組織されているのです。
現在、日本では戦前のような軍隊はありません。憲法九条により、交戦権を放棄している日本では、自らの国を防衛する「専守防衛」を目的とした「自衛隊」しか有していないのです。
かつて、イラク戦争終了時に、自衛隊がイラクの治安維持のために派遣される際、国会でも大きな議論になったのも、基本的には、日本人が武器を携帯し、他国に行くことを想定していないためでした。
いずれにしても、軍隊とは武力を有し、クラウゼヴッツの定義したように「戦争は外交交渉の一つの手段である」ための重要なアイテムであることは間違えありません。
それ故、軍隊に属する軍人たちは、自らの存在理由として、常に戦うことを選択せざるを得ないわけです。もし、戦前の日本に問題があったのなら、軍人たちの構想を超えるだけの日本の将来に対する構想を作り出すリーダーがいなかったということでしょう。
さて、著者の川田氏は、この本のタイトルとして「昭和陸軍」という耳新しい言葉を使用しています。普通なら、「日本陸軍」とか「戦前の日本軍」といった言い方が一般的ですが、ここで敢えて「昭和陸軍」という言葉を掲げているのにはわけがあります。
それは、明治維新後に生まれた近代的な兵制を基にして作られた明治、大正期までの「日本陸軍」と、昭和以降の「日本陸軍」の質が違うという分析を基に、敢えてこういう呼び方をされているのです。
ここには、日本だけではなく、世界史的な変化が横たわっています。つまり、十九世紀から二十世紀に世紀が変わることで、戦争の質が劇的に変わったからでした。
そういう意味で、日本とロシアが戦った日露戦争は、十九世紀型の最後の戦争といっても良いかも知れません。ところが、それから十年も経たないうちにヨーロッパで起きた第一次世界大戦は、日露戦争とは全く性質を異にした二十世紀型の戦争でした。
どこが違っているのか。それは、十九世紀型の戦争は、戦争の期間も短く、紛争の地域も限定されており、最終的には外交交渉により停戦・終戦を迎えるといったものでした。また、戦い方にしても、従来の火器と歩兵の突破力が中心でした。
それに対して、二十世紀型の戦争は全く違っていました。期間も長く、紛争地域も広範囲にわたり、軍隊だけでなく、国民も否応なく戦争に巻き込まれると共に、軍事的な決着がつくまで戦いを止めることが出来ず、さらには、飛行機、戦車、毒ガスといった新たな武器が投入され、恐ろしいほど大量の戦死者や負傷者が生み出されました。
これは、軍人たちにとっては衝撃的な出来事でした。これまでは、質の高い優秀な軍人を作り出すことが軍事力とイコールであったのに対して、二十世紀型の戦争は、兵士だけではなく、その国の資源力、経済力、工業力といったものも重要になり、それが劣った国は、戦争に勝利することが出来ないことを意味したのでした。
そのことにより、軍人たちは、十九世紀までの対外戦争は軍隊の力による部分戦争であるなら、二十世紀型の戦争は、国を挙げての全面戦争=総力戦になるという事実を突きつけられたのでした。
そのことにいち早く反応したのは、当時、まだ陸軍内部の中堅将校たちであり、彼らにとって、これまでの軍隊のあり方では、この厳しい現実に対処できないという共通認識が生まれたのでした。
多分、当時は、まだ山形有朋を含め、元老といった存在が、日本の政治・軍事の実権を握っており、その影響力の基に、日本陸軍の組織も形成されていました。
しかし、明治維新から日露戦争にかけて、日本社会をリードしてきた有力者たちも年老い、新しい国際環境に対して、的確な対処を行っていくことは難しくなっていました。
また、政党政治家たちも、目の前にある国内のさまざまな問題の解決に目が行きがちで、第一次世界大戦により、戦争の質が大きく変化を遂げたという痛切な認識はありませんでした。
それ程、この変化は劇的であり、速度も速く、その全体像を明確に捉えることは難しいことだったわけです。その中で、その後の陸軍をリードしていく人材として永田鉄山に川田氏は注目しました。
この永田鉄山は、陸軍軍務局長在任中に、相沢中佐により執務室で斬殺された人物として、松本清張の著書「昭和史発掘」の中でも取り上げられています。
わたしもそれを読みましたが、松本清張の興味は、二・二六事件勃発前夜の、陸軍内部での派閥抗争、統制派と皇道派の対立が中心で、永田鉄山の思想や陸軍への影響力については、それほど詳しくは書かれていなかったように思います。
そういう意味で、本書によって改めて永田鉄山の思想を知ったわけですが、満州事変から始まる戦前の日本陸軍の大陸進出は、この永田鉄山の抱いた構想を、具現化していくプロセスであったことに驚きを覚えました。
わたしも、戦後社会の中で、日本陸軍の構想のない場当たり的な大陸進出とその後の太平洋戦争までの道のりという解釈を、なんの無批判もなく受け入れてきました。
多分、この「地球」の中でも、そういった発言を繰り返してきたように思います。しかし、この本を読んでみて、それが誤りだったことが分かりました。勿論、構想ですから、必ずしも、作者の意図通りに、その後の歴史が動いたわけではありませんが、しかし、基本的には永田鉄山の構想を踏み外すことなく、戦争が実施されていたことは否定できません。
それでは、永田鉄山は、第一次世界大戦後の世界をどのように見ていたのでしょうか。彼は、これは序章に過ぎないという見解に立っていました。つまり、しばらくの小康状態はあり得ても、再び、世界全体を巻き込んだ世界大戦が勃発すると考えていたのです。
実際、第一次世界大戦が終了した時、それは「第一次世界大戦」とは呼ばれていませんでした。「第二次」があったため、それと区別する意味で、「第一次」と呼ばれるようになったわけです。
しかし、その段階で、永田鉄山は、もう一度大きな戦争が起き、その時には、ヨーロッパだけでなく、日本、アメリカといった軍事強国が戦火を交えざるを得ないという結論に立っていました。同様の結論は、永田鉄山より少し後輩に当たる満州事変を画策した石原完爾も持っていました。
彼は、それを「世界最終戦争」と名付け、この最終戦争に勝利した国が、世界の覇権を握ることになるという認識の基に、その最終戦争での日本の敵はアメリカであると予想していました。
多分、この二人は、共通の認識の基に立っていたのでしょう。そして、その世界大戦を戦うための準備として、どのような国を作り上げていくのかという課題に基づいて、大陸進出を図っていったと断定して良いようです。
このように、戦後社会で流布されていた日本陸軍の場当たり的な軍事行動といった批判とは全く異なった政戦略が考えられ、それを支持する軍人たちが、それを実現するために権力を握り、最終的には、軍人たちによる国家運営を達成した長期的展望が存在していたというのが歴史的事実に近いようです。
それでは、何故、大陸進出を図ったのかというと、日本国内における資源の無さ、さらには工業力の脆弱さ、相対的な国力の弱さの克服のために、それを解消する新たな場所として狙いをつけたのでした。
勿論、日本の中国大陸進出は、日清・日露の二つの戦争の原因でもありました。また、山県有朋が「満蒙は帝国の生命線」と述べたように、日本にとって重要な戦略的地域でした。
しかし、それは、どちらかと言えば、大国ロシアと向き合い、日本本土を防衛するといった主旨が強く、そこに日本の権益を独占的に確立するという踏み込んだ意識は支配者層にもなかったように思われます。
しかし、若手の軍人たちは違っていました。彼らは、第一次大戦後に訪れた世界的平和の背後に燻っている世界戦争の予感に気づき、その世界戦争を戦い、勝利するための方程式を中国大陸求めていたということです。
「昭和陸軍」という名前は、先ほども書きましたように、それまでの日本陸軍とは質的に異なった存在であると同時に、最終的には世界戦争を経て、世界一の軍事国家の建設を密かに目論んでいた集団であったことも意味しています。
これは、極端な言い方を恐れずに言えば、天皇制そのものを否定してしまう過激な思想を内包していたように思います。別に、自らの上に天皇を戴く必要はない、もし、自らの野望を阻止する勢力として天皇が働くなら、それすら排除し、自らの目的を達することも厭わないと言うアナキーな思想でもありました。
二・二六事件に連座して刑死した思想家北一輝の「日本改造法案大綱」が、若手将校に大きな影響力を及ぼしたというのも、昭和陸軍の組織の中には、そういった天皇制そのものを否定するアナキーな思想が芽生えていたという証拠かも知れません。
いずれにしても、元勲たちが生きていた明治・大正時代の陸軍にあっては、天皇の軍隊という色合いが強く、まさに「皇軍」として存在していた陸軍も、新しい世界情勢の前に変質を遂げ、右翼と共に軍部も批判した美濃部達吉博士の「天皇機関説」以上に過激な思想で国家運営に直接関与する組織に変貌していたのでした。
こういう背景を理解すると、何故、満州事変、日中戦争の開戦時に、天皇が開戦そのものに反対を表明しても、それを無視する形で陸軍が戦線を拡大し、さらなる状況を生みだして行ったのも理解できるように思えます。
もし、昭和天皇が本気で、軍隊の意思を阻害するような行動を選択すれば、二・二六事件のようなクーデターを起こし、天皇を退位へと押しやり、陸軍の傀儡となる新たな天皇を擁立するといったことも視野に入っていたことと思われます。
そういう意味で、二・二六事件は、天皇だけでなく、政権の中枢にいた要人たちにとって、軍隊からの無言の圧力となったことでしょう。(事件を起こした若手将校たちは、逆に天皇親政による復古政治を望んでいましたが、永田鉄山を中心にしたメンバーたちは、それとは正反対の天皇傀儡政を推進していました)
ただ、永田鉄山亡き後、そのメンバーたちの間で意見の食い違いが生じてきたのでした。満州事変を起こし、満州国の建設を推進した石原完爾は、世界最終戦争を戦うために、新たな戦争を起こさず、満州を拠点とした工業化を推し進め、国力を蓄え、その段階で、数十倍もの格差があったアメリカやイギリスとの国力の差を縮めていくことを考えていました。
しかし、同じく永田鉄山の薫陶を受けていた武藤章たちは、満州に止まらず、中華民国が支配している中国の華北、華中までも、日本の勢力圏内に置くことを考えていました。
ただ、目的は同じでした。将来起きる世界大戦を日本が勝利するための国力の充実、工業力の充実、重要資源の確保という点では差はありませんでした。
違いは、その準備のプロセスでした。石原完爾も、最終的には中国全土を日本の支配下に置くことを想定していました。しかし、その前に、取りかかったばかりの満州国の育成に力を注ぐべきだという点だけが異なっていたのでした。
基本的に、彼ら軍人たちは戦争否定論者ではありません。いつ戦うかという時期の問題だけで、戦うことを否定することは断じてなかったということです。
ここに軍人たちの限界が見えています。彼らの最終目標は、どんな場合でも戦争に勝利することでした。例え、外交交渉で解決できる問題であったとしても、それで解決するわけではなく、武力に訴え、白黒つけるというやり方を選択するのです。
多分、戦前の日本の不幸は、日本の将来について明確なビジョンを有していた人たちが、軍人たちであったことです。そのビジョン実現の手段としては、彼らには戦争以外の選択肢がなかったということです。
つまり、ビジョンがなかったために無謀な戦争に突入したのではなく、ビジョンを実現する手段として戦争以外の手段を持っていなかったということが問題だったのです。
それは、満州事変が始まる前に、浜口内閣の外務大臣幣原喜重郎が、国際協調ということで、中華民国の権益を日本が認め、相互扶助による互恵的な貿易を通じて、日本と中国との結びつきを強めるという外交方針が閣議決定されたことでも分かります。
もし、それが日本政府の方針として踏襲され、それにより、日本と中国との貿易が活発化し、日本の国民も中国の国民も共に豊かな経済成長の恩恵を受け入れられていたなら、多分、その後の歴史は大きく変わっていたものと想像します。
しかし、軍人たちには、そういう選択肢はあり得ませんでした。何故なら、平和になることは、彼らの存在理由を消滅させることを意味していました。
結果的には、敗戦を迎え、同じ結果を招いたわけですが、それは、後生のわたしたちが批判的に言えるだけで、その時代に生きていたならば、多分、こういう客観的なことは言えなかったに違いありません。
そして、戦後の日本の経済成長を考えてみたとき、実は、戦前の日本が取るべきもう一つの道を、戦後社会が選ぶことによって実現できたと思えてくるのです。
戦後のリーダーたちは軍人ではありませんでした。彼らは、戦争をせずに、日本社会を豊かにする方法を、戦前の総力戦を戦う際に立案された施策から引用したのでした。
そういう意味で、戦後の高度経済成長は、軍隊なき経済膨張政策でした。戦闘機や戦車の替わりに、日本製の品物が、大量に生み出され、各市場を席巻したのでした。
現在の中国との経済関係を見るとき、もし、戦前において、平和的な互恵貿易体制が確立し、共存共栄の立場で、経済成長を推進していたなら、もっと早い時期に、日本も中国も豊かな社会を生み出すことが出来たのではなかったかと思われます。ただ、歴史に「もし」はない以上これはあくまでも空想の域を出ることはありません。
ここまで、「昭和陸軍の軌跡」という新書を読んだ感想も含め書いてきました。わたしにとって、この本はもう一つの意味で興味深いものでした。
それは、最近話題になっている国のリーダーを巡っての議論に関連したものです。現在、このリーダーが頼りない、しっかりしていないといった評価が内閣支持率の低下に直接響いています。
現在の首相野田総理も、「リーダーシップがない」という理由で、不支持率が高止まりしています。そして、これは、小泉総理が退陣して以降、同様の傾向が続いています。
この「リーダーシップがない」という評価ですが、いつも不思議に思うのは、この「リーダーシップ」という言葉が、一体、どういうことを意味しているのか曖昧なまま世間的に流布しているのです。
そして、さらに問題なことはそれを使う側の恣意的な部分が大きいのです。当然、数量化できるものでもありませんし、政治だけでなく、あらゆる場面に使われています。
プロ野球の中日の落合監督について、毎年好成績を残したと言うことでリーダーシップがあったなどと評価されていますが、彼のインタビューなどを聞いている限り、彼にリーダーシップがあるとは思えません。
彼が成功した要因は、徹底した守りの野球を行うことで、敵のチームが自滅していくことで勝利にたどり着くという戦法です。だから、勝つことは勝つが、ゲームとしては面白くないということで、観客動員数が減少し、それで監督を解任されたということです。
しかし、彼にとってみれば不本意のことだったと思います。何故なら、彼にとっての監督業への評価は「勝利」しかなかったからです。面白いゲームや観客が増加するゲームは、彼の職務の範疇ではないと考えていました。
ところが、勝利したことで、彼はリーダーシップのある監督という評価を得ました。多分、彼は、選手の能力をパーツとして考え、自分の理想とする野球を実現するための手足にしか思っていなかったように思います。
これがリーダーシップの中身なのでしょうか?多分、それは違うと思います。彼より、もっとリーダーシップのある監督は存在していると思いますが、勝利という果実を手に入れることが出来ない限り、そう言う評価に至らないのだと思います。
つまり、リーダーシップを発揮することとものごとをうまく解決していくということとは、本来全く異なったことだったはずです。下手にリーダーシップを発揮したため、能力ある部下たちの活躍が阻害され、ものごとが失敗に終わる場合もあれば、なにもしなくても優秀な部下たちの活躍で成功する場合だってあります。
ところが、いつからこういう項目が世論調査に採用されたかは知りませんが、なにかリーダーである必要不可欠な条件となっているのです。
大事なことは、リーダーが掲げるビジョンではないでしょうか?この国の将来をどうしていくのかというビジョンが鮮明であるか、それともないのかがリーダーに求められる能力に思われます。
ところが、ビジョンの前にリーダーシップが要求されています。小泉総理の「小泉改革」。痛みを伴う改革ということで、多くの日本人がその痛みに悲鳴を上げました。しかし、それでなにか新しい日本社会の道筋が見えたでしょうか?
結局、無理矢理導入した民間的な発想は、福祉の分野では、障害者の方たちの自立を阻害する「障害者自立支援法」を生みだし、「百年安心の年金制度」は、五年先も安心ではないというていたらくです。
これが、リーダーシップというパフォーマンスで改革を実行していた小泉改革のなれの果てです。それなのに、まだ、懲りずに国民はリーダーシップを求めています。
多分、いまブームの頂点に達しようとしている橋下大阪市長のパフォーマンスも同じことでしょう。彼のパフォーマンスは、地方の首長レベルでは問題はありません。でも、これが国政と言うこととなると、そんな簡単には行きません。
彼の主張に賛同する人もいれば、反対する人もいます。まさに、国論を二分することになった場合、彼はリーダーシップを発揮して、独裁者として君臨するつもりなのでしょうか?
わたしの目から見ると、そういう独裁的な判断をすることが、リーダーシップを発揮しているという評価に繋がっているように思えるのです。
しかし、これはおかしいでしょう。独断的な決断ではなく、いかに時間がかかっても、国民の合意を得るために、丁寧に議論を重ね、最終的な合意形成に至るということが、リーダーに求められていることではないでしょうか?
戦前の陸軍のリーダーたちは、国を滅ぼそうとして戦争を遂行したわけではありませんでした。しかし、彼らの意図はどうあれ、結局のところ国を滅ぼすことになりました。
日本の運命を担った責任者として、その局面ごとに、リーダーシップを発揮し、戦線を拡大し、世界戦争の勝利者たらんとした結果を思えば、このリーダーシップの使い方によっては、社会に厄災をもたらすことにもなる諸刃の刃だということを、わたしたちは肝に銘じておく必要があると思います。
なにかと言えば、「リーダーシップ」という言葉が一人歩きし、その中身もきちんと議論しないままに、言葉に酔いしれ、右往左往している日本人にとって、もう一度、リーダーシップとはなにかを考える上で、この新書は大きな示唆を与えてくれるものと思います。(了)
参考文献
中央公論新書2144
「昭和陸軍の軌跡〜永田鉄山の構想とその分岐〜」川田稔著
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