1.人類の伝統的権威について
古来、わたしたち人間にとって、生きていくということは、決して生やさしいものではなかった。病気は避けられないものであったし、地震、津波、洪水、干ばつ、火山噴火などの自然災害もあれば、戦争、日常のいざこざ、火災、不慮の事故など人災も身の回りにあふれていた。納得がいかないおのれの早い死を受け入れることに煩悶したり、身内の突然の死に悲嘆にくれたり、生き地獄的な光景を目の当たりにして人生の無常に打ちのめされたりすることも、歴史の上では数えきれないほど記録に留められている。
こうした悲惨な状況をこの社会から一掃しようと、人間は権威を押し立てて対応してきた。それは政治的権威や宗教的権威といったものであり、苦しみには、そうした権威を、共同体として強い絆のもとで、もり立てることによって対抗しようとするものであった。そうした権威は、王、皇帝、天皇、祭司、神官、祈祷師などと呼ばれ、通常、貴族、王族などの特定の人々によって基本的に世襲を通して引き継がれた。
そうした権威のあり方は、地球上の地域や時代によってさまざまであったと言えるようだ。中世のヨーロッパでは、政治的権威と宗教的権威ははっきり分かれていて、国王と法王がいた。また、中国では、皇帝がすべての権威を一元的に担っていたようだ。日本では、武家が作る幕府と天皇とが、上下関係的に権威を二分していたようだ。(注。このヨーロッパにおける、水平的多元的権威の分散形態が、近代社会を生み出すうえで大きな意味をもったらしい。)
ともあれ、近代社会というものが始まるまでは、こうした自然発生的ともいえる伝統的統制的な権威が、わたしたちの社会全体を覆っていた。そして、その権威のもとで、ひとつの運命共同体として、みんなで災いが遠ざかることを祈り、恵まれた境遇にあれば、それをみんなで感謝し、そうした社会の安定した秩序が継続することを喜び、祈った。そうした権威でも対応できないことについては、私たちは、悲しいことではあるが、仕方がない、やむを得ないという気持ちで受け入れるしかなかった。運命として、祈りと諦念の気持ちをもって、悲しみから救われるしかなかった。
2.西欧近代における新たな権威の誕生
しかし、近世ヨーロッパにおいて、そうした権威に対して、根本的亀裂を生じさせる事態が起きた。それを象徴するできごとが、コペルニクスによる地動説の登場である。それは長年の天体観測のデータを数学的に分析した結果を、無理なく単純に美しく解釈、説明する行為の結果としてもたらされた。それはガリレオ、ニュートン、デカルトといった人々による科学という新たな学問分野の構築の第一歩になった。それまでの伝統的統制的な権威とは全く独立した権威がここに産声をあげた。それは、自然界の数学的解釈の端緒を開き、力学、電磁気学、化学、予防医学、近代数学、量子力学、相対性理論など、今日の数えきれないほどの科学的成果をもたらすものであった。こうした新たな近代的科学的な権威は、人間観や社会の統治理念など、あらゆる分野にその影響を及ぼした。それは、ヨーロッパ近代からの、大航海時代、植民地支配、産業革命、フランス革命、帝国主義、社会主義、二度にわたる世界大戦、産業経済社会化などを通して、地球上の隅々にまで拡散浸透した。
3.権威のパラダイムシフトの状況と内容
今日のわたしたちの社会の権威は、基本的に、近代的科学的な権威が主軸になっていると言えると思う。政治体制としての民主主義は、人間の科学的視点を尊重する理性を前提としたものであるし、産業経済社会は、科学技術的イノベーションを原動力として運営されていることからも、そのように言えるだろう。すなわち、近代的科学的な権威は、その効用の明確さや論理的説得力において、伝統的統制的な権威の影を薄くさせるほどの影響力をもったということである。
言い換えれば、今日のわたしたちの人間社会は、近代に入ってから、権威のパラダイムシフトの渦中にあるといえる。それは、伝統的統制的な権威を後退させ、近代的科学的な権威を前面に登場させた。この過程において注意すべきことは、キリスト教のプロテンタンティズムによる宗教改革の影響もあり、個人に焦点をあて、個人の自由を重視する価値観に転換させ、集団全体のあり方への関心を従的な位置づけに退けたことである。都市化に伴い、強い絆で結ばれた伝統的共同体の崩壊をもたらしていることもその一つの現れと言えるだろう。また、ギリシャ文明の影響もあり、知識や論理の価値を飛躍的に重視するようになったことにも注意する必要がある。こうしたヨーロッパ近代文明を端緒とするパラダイムシフトは、近世に入ってからのアメリカ合衆国の勃興によりさらに拍車がかけられ、いまや地球社会全体を覆うまでに普遍化しつつあると言えるだろう。
4.権威のパラダイムシフトに伴う課題
こうした権威のあり方を中心とするパラダイムシフトは、では、これからの人間社会にどのような問題を提起しているのであろうか。大切と思われる、いくつかを指摘してみたい。
(1) 近代的科学的な権威と平等について
伝統的統制的な権威のもとでは、身分制度や世襲制度といった、社会全体の秩序や安定を維持するための仕組みが当然のものとして受け入れられてきた。それは運命であり、仕方のないものとされ、ときには、そうした権威は、王権神授説のような説明によって絶対なものとされた。こうした考え方は、日本の社会における、戦前の国家家族主義や国体論、経営家族主義、家父長制度といったものにも共通するものであり、そこでは特定の権威のもとで差別を暗黙の了解とする一方、強い絆による一致団結が是とされた。
一方、近代的科学的な権威が前面に出てくると、個々の自由や平等といった価値観が重視され、身分制度のような根拠の曖昧な差別は、蒙昧で因習的なものとされ、排除されることになる。フランス革命が掲げた近代市民主義の原理としての「自由、平等、博愛」は、まさにこれに該当する。ただし、わたしが思うに、ここで言う「自由」とか「博愛」とは、実質的には、「自由競争」とか「自己責任」を意味するものである。
したがって、近代的科学的な権威のもとでは、自己主張、自己表現することが必要不可欠なこととされ、そうした場での競争を通して、自己実現を計っていく生き方こそが人間の生き方であるとされる。米国人の生き方などをみていると、まさにそのように思える。
しかし、こうした近代的科学的な権威のもとでの自己実現を中心軸とする社会においては、経済格差という新たな差別化が登場する。アメリカでは99%デモが耳目を集めているし、日本や韓国などでは非正規雇用、ワーキングプア、格差社会の拡大などの言葉が日常茶飯化している。
平等を求める理念は、因習的権威のもとで盲目的な差別に基づいて、秩序・安定を指向する在り方よりは、優れたもののように思える。しかし、結果として差別が消滅することはなく、却って、精神的ストレスを増大させるようである。例えば、インドのカースト制度のもとでは、ガラス窓を拭く仕事のカーストの人は、その仕事が奪われることはなく比較的のんびり仕事をしていられるようである。一方、企業組織内の成果主義は、組織の目標達成にたくさん貢献した人には多く報いようとするものであり、社員のストレスを煽っている。また、全体より個を重視する姿勢は、全体としてのよりよい在り方の実現との整合性をいかに図るかという課題と明確にリンクされなくてはならない。地球温暖化への対策が認識されるなか、新興国が先進国のこれまでの排出責任を指摘して譲ろうとしないのは、まさに、全体としての在り方を重視する伝統的統制的な権威が消滅していることを示唆するものである。
近代的科学的な権威が強まれば強まるほど、全体は平均化され、多様性と特徴のない社会に変貌していくのではないだろうか。日本の地方都市の駅周辺が次第に似たような風景になっていくのは、この現れではないかと思う。熱力学でいうエントロピーが低下し、やがて全体が均一の一定の温度になって安定するのと同じである。個は、ある制約の中にあってこそ、独自の創造を果たせるもののようにも思える。統制的な権威を失うとき、額縁のない絵画が存在しえないように、個としての輝きも失うというのは、言い過ぎであろうか。個としての権利意識ばかりが先行し、パブリックへの意識が希薄化していき、やがて癌細胞のように自らの宿主を死に至らしめ、自らも死ぬしかないというなんとも矛盾に満ちた経路をたどるようなものかもしれない。
(2) 近代的科学的な権威の不完全性について
近代的科学的な権威は、コペルニクスが、長年の詳細な天体の運行に関する観測データを数学的に説明する営為から地動説を見いだしたように、ある特定の現象に注目して導かれるものである。したがって、その権威は、常に部分的局面的であり、全体を覆うものではない。このことは、常に不完全であり、間違いを含むことを含意している。素粒子理論では、クォーク、電子、ニュートリノ、光子、ヒッグス粒子といった素粒子の発見を通して宇宙の成り立ちの解明が大胆に進んでいる。しかし、それも宇宙論というひとつのテーマに限定されたものと理解しなくてはならない。また、この権威は、価値判断をしない。宇宙とはどのようになっているのか、人間の脳や細胞やDNAがどのような仕組みになっているのか、他の動植物がどのような生き方をしているのか、などについての客観的な事実を提示するのに止まり、その価値については言及しない。このような特徴を無視して、政治的な思惑から、科学の権威を利用しようとする企てが社会的になされることがある。科学の権威を、人間が価値判断し、活用しようとする。その結果、どのような事態が社会に引き起こされるかは、人間の責任であり、科学の責任ではない。原子力発電技術、臓器移植、胃瘻といった科学技術の提供する事実を、どのように価値判断し利用するかは、人間の側の問題である。この価値判断の問題にどのように向き合うかは、人間はまだはっきりした答えを見いだしてはいない。原子力発電技術の活用について、国民的議論が必要であるといったことが政府機関の答申として述べられているようである。しかし、深い専門的知識も必要とされるこうした問題について、国民的議論とはどのようにしてなされるべきものなのであろうか。結果の善し悪しは別にして、単に声の大きい一握りの人たちによって、振り回されている印象である。
人間が、科学的な知識を始めとして、適切に活用できる知識や情報の量は限界をもつものだと思う。人間の脳の思考能力は無限ではない。また、思考の基本となる言葉にしても、その表現には限界がある。言葉によって、その場やその時代の雰囲気を伝えることは難しい。言葉によって伝達されることは、局面的なものにすぎない。こうした点において、近年、チェス、オープンアンサー形式のクイズ番組、将棋といった分野で、コンピュータの並列処理を活用した人工知能が注目されている。医療や軍事といった面への展開も検討されているらしい。こうしたことを通して、人間は、自らの思考能力について、謙虚になっていくべきだと思う。
日本の文部科学省は、科学の発展によって、いずれ全ての課題が解決されるのであり、いまはその途上にあるのにすぎないという見解に立っているようである。しかし、わたしは、これは近代的科学的権威への無理解を示唆していると思う。権威の在り方についての基本的な問いかけが求められている。
(3) 二つの権威の両立について
伝統的統制的な権威と近代的科学的な権威という相いれないふたつの権威と、わたしたちは、これからどのように向き合っていけばよいのであろうか。このふたつの権威を成り立たせている人間の根底にあるものが異なっている。伝統的統制的な権威は、人間の中にある畏怖、祈り、罪悪感といった生命としての根源的な思いによって成り立ち、一方、近代的科学的な権威は、人間の知的好奇心や欲望によって成り立っている。したがって、このふたつは、人間の体を構成している交感神経と副交感神経のような活性化と鎮静化の正反対の役割を担うものではないかと思う。今日、政治的な意味合いで、保守主義と進歩主義ということばが使われるが、こうした見方も同じことのようだ。しかし、このふたつをどのようにバランスさせ、適切に働かせるかという課題については、まだ充分な答えを見いだせていないと思う。多数決論理とか三権分立といったことは見いだされているが、まだ端緒についたばかりなのではないだろうか。
(4) 日本の社会と二つの権威
日本の社会において、近代的科学的な権威は、権威として正面から受け入れられてはいない。科学技術の知識は、明治維新以来、殖産興業、富国強兵の達成の名のもとで、欧米列強から、その実現手段として便宜的に受け入れられたにすぎず、伝統的統制的な権威とあい並ぶ権威としては認められていない。福沢諭吉の「学問のススメ」にしても、そういう位置づけで学問を捉えてはいない。官僚機構の権威が、いまだに根強く継続している一つの原因は、ここにあると思う。さらに、戦後、米国による統治の影響もあり、伝統的統制的な権威は大きく綻びたし、近代的科学的な権威は、表面的理解に止まっている。そのため、中国や韓国の台頭のまえで、その在り方自体に混迷の度合いを深めている。日本の社会は、近代的科学的な権威の本質を受容し、欧米文明国とは異なる切り口での、ふたつの権威の両立する在り方に貢献していくべきだと思う。
(5) 芸術と二つの権威について
芸術は、なにを権威として、それをどのように受け入れ、それへの賛意をどのように表現するか、といった課題を根底にもっているように感ずる。近代に入って、宗教画や肖像画は、かなりの変貌をとげている。さまざまな抽象主義や写実主義が入り交じり、模索の渦中にあるのではないだろうか。交感神経と副交感神経を統合しバランスさせている自律神経の在り方のようなものを、芸術は提示していくことが求められているように思う。
5.まとめ
近代的科学的な権威というものを自覚し始めてから、人類は、まだ数百年しか経っていない。しかし、その結果として得たものは、まさに画期的である。宇宙論、素粒子論、生命科学といった基礎科学から、地球を宇宙から観察する宇宙ステーション、半導体技術や高度な情報処理技術、再生医療やがん医療を含むさまざまな医療技術など、その成果には驚くべきものがある。こうした知見を通して、人間を含む生命というものが、どのような位置付けにあるものか、その驚嘆すべき点も少しずつ明らかになりつつある。伝統的統制的な権威と近代的科学的な権威という二つの権威を、車の両輪として、人類は、より力強く生きていくことが可能になったのではないだろうか。では、その歩みをどのようにすすめていくか、いまそれが問われているのだと感ずる。 |