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第116号

2012年6月8日

「負けること勝つこと(72)」 浅田 和幸

 

 いま飛ぶ鳥を落とすといった勢いの橋下大阪市長の政治塾「維新政治塾」が、四月十四日から本格的な政策議論を始めたという新聞記事を読みました。

 この「維新政治塾」は、橋下大阪市長がトップを占める「大阪維新の会」が、次期の衆議院議員選挙の候補者として相応しい人材を確保するために作られた塾とのことです。

 その新聞記事ではこの塾の内容に関して次のように伝えています。

『同会は「出席すると五点、遅刻なら二点、欠席は0点」などと評価基準を設定。受講生は講義ごとに厳しく採点されることになる。配点は百点のうち、論文(五十点)、人物評価(二十五点)、迷惑行為や規律違反の有無(二十点)、出欠(五点)に四分類。六月までの計五回の講義で点数を積み上げ、「優等生」が衆院選候補の対象となる「塾生」に選ばれる仕組みだ。

 十四日の講義では早速、午後一時までの受け付けに間に合わなかった受講生が「遅れると減点ですよ」と維新の会の議員にたしなめられる様子も見られた。

 政治塾では、ほかにも政治活動で塾の名前を使うことや、講義内容を録音したり「ツイッター」などインターネット上に投稿したりすることを禁止。講義中の私語も厳禁とし、受講生の管理を徹底している。』 以上が、新聞記事から一部を抜粋したものです。

 わたしは、この記事を読みながら、一部週刊誌では、次期の総理大臣候補として騒がれている橋下大阪市長が主催する塾としては、なにか幼稚だなという印象を覚えたので、記事を切り抜いて、ここに掲載しました。

 かつて、少年漫画の「タイガー・マスク」の中で、プロレスラーを養成するための道場「虎の穴」が子どもたち間で話題になりました。

 この穴の中では、プロレスラーを目指す若者達が、日々の過酷訓練により鍛えられ、その試練を乗り越えられた者だけが、プロレスラーとして栄光のデビューを果たすというストーリーでした。

 勿論、主人公伊達直人は、その「虎の穴」の試練を乗り越え、無敵の王者「タイガー・マスク」として、大活躍をするというストーリーだったと記憶しています。

 さて、国会議員を養成する塾であることを表明し、人材を集めているこの「維新政治塾」ですが、この程度のレベルで、衆議院議員として立候補できるのであるなら、最近流行している「ファースト・ファッション」ならぬ、「ファースト・ポリテックス」として、大いに注目を集めることと思います。

 わたしが、政治とは無関係な「タイガー・マスク」の「虎の穴」の話題を出したのは、この漫画が連載され、それを読んでいた子どもたちにとって、プロレスラーという職業で成功するためには、これほどに過酷な試練が必要であるという共通認識があったからだったと思います。

 勿論、漫画ですから、現実よりも誇張して描かれていることぐらい、子どもでも十分に理解できることでした。ただ、それが全く根も葉もないナンセンスなものであれば、共感を得ることはなかったと思います。

 つまり、プロレスラーで成功を収めるためには、他人とは異なった特別な修練が必要であり、それは、ある意味想像を絶するようなものであるという共通認識があったことが、この物語にリアリティを与えていたと考えています。

 そういう意味で、国会議員という選挙で選ばれ、国の方針を決定していく重要な仕事に携わる人間であれば、相当高いレベルの教養と人間的な魅力と公平で冷静な判断力の持ち主であることが求められるように思います。

 こういった人間を、この程度の研修で養成できるとしたら、多分、大学や大学院といった高等教育機関は必要ないかと思われます。勿論、塾生として登録した人間は、皆、これだけのレベルに達している人間を選択してあるという言い分もあろうかと思います。

 しかし、そうであるならば、遅刻したら減点するといった、小学生を対象にした学習塾レベルの減点主義は、なにか異質な感じを覚えてなりません。

 少なくても、自分の意見を有し、国家・国民のために全身全霊を打ち込み、仕事をして行こうという有為な人材に対して、こういった統制主義は相応しくないと思うのです。

 正直なところ、多少、常識から外れていても、新しい発想を有し、他人に真似できない行動力により、現在の困難な状況を、積極果敢に打開していくことが出来る人間であれば、この塾の設立の主旨に相応しいようにわたしには思えます。

 ところが、現実は、正反対であり、塾長(?)である橋下大阪市長の命令を、忠実に聞き、彼が導く考え方を無批判に踏襲していく人間が求められているのです。

 「タイガー・マスク」の「虎の穴」とは言いませんが、なにか他人とは異なったことをなし得るためには、それ相応の試練というか、乗り越えなければならない限界があるように思えます。

 しかし、この「維新政治塾」には、残念ながらそういった高邁な精神もそれを実現していくための仕組みや制度も見あたらないのです。なにか、職場での研修会といったぬるさが目に付きます。

 私塾と言えば、江戸時代の幕末期に、長州藩士吉田松蔭が自宅で開いた「松下村塾」が有名です。それは、この塾生から、後の明治維新の指導者が生まれたということが理由のようです。

 ただ、この時代は、現在のような公的教育機関は存在していませんでした。武士の、それも中級以上の武士のための教育機関として藩校が各藩にありましたが、そこで学べる人間は限られた人たちであり、また、そこで学ぶ内容も儒学を中心としたもので、必ずしも新しい時代に対応したものではありませんでした。

 だから、それ以外の新しい知識を学ぼうとするなら、知識を持った先人が開く私塾に入るしかないという状況でした。そのため、医学を学ぶ者なら大阪の緒方洪庵の「適塾」にといったように、各地にそういう私塾が開かれていました。

 つまり、公的教育機関がなかった時代において、私塾の果たした役割は大きく、それを受講した塾生の中から、大いなる人材が輩出されたとしても不思議ではなかったことと思います。

 しかし、現在は、公的教育機関が充実し、さらにはインターネットも含め、学ぼうという姿勢さえあれば、瞬時に、世界中の知識を手に入れることのできる時代です。

 こういう環境にありながら、敢えて私塾を開き、そこに集った塾生達に教育を行うと言うことは、かつての私塾とは異なった別の目的があるからではないでしょうか?

 その目的というのは、ある政治的野心を抱いた人間が、自らの政治的野心を実現させるために必要な「数」を確保するための手段として、自らの手勢を増やすということでないかと思えるのです。

 小泉元首相が国会を解散して郵政民営化の是非を問うた衆議院議員選挙の際に、自民党が大勝し、その際に、新たに衆議院議員になった自民党の国会議員を「小泉チルドレン」という呼び名でマスコミは呼びました。

 これは、小泉首相が、郵政民営化に反対する自民党議員に対して、党の公認申請を受理せず、新たに公認候補を立てて、その結果当選できたということで、小泉元首相の強引なやり方がなかったら、自力で国会議員にはなれなかったことを揶揄しての命名でした。

 彼らは、次の総選挙の際、政権交代を旗印にした民主党の前に、ほとんどが落選することになりました。そして、新たに、民主党に「小沢チルドレン」が誕生したのでした。

 それでは、次の総選挙で、橋下大阪市長率いる「大阪維新の会」が主催している「維新政治塾」の塾生が大量に国会議員として当選した暁には、「橋下チルドレン」という呼び名で呼ばれることになるということでしょうか?

 さて、これまでも戦後の日本政治において、新党ブームにより、新たな国会議員が大量に生まれることがありました。例えば、千九百七十六年の第三十四回衆議院総選挙でブームを呼んだ「新自由クラブ」。

 あるいは千九百九十三年の第四十回衆議院総選挙でブームを呼んだ「日本新党」といったように、いくつかの新党ブームがあり、それに乗じて国会議員になった政治家もいました。しかし、それを「●●チルドレン」といった呼び名で呼ぶことはありませんでした。それではなにが違っているのでしょうか?

 国政選挙では、その時の社会状況、国際的環境、国民の政治的嗜好により、新たな政治勢力が突然、国民から支持されることが日本に限らずあります。

 後で振り返ってみると、どうしてこんなことに熱狂したのかと不思議に思うのが、「ブーム」の特徴です。だから、小泉郵政選挙も民主党により政権交代選挙も、今になってみると、どのようなエネルギーが働き、あれほど大きな変化を生み出したのか、正直理解できない部分があります。

 ただ、その大きなエネルギーを生み出したものが、個人なのか集団なのかによって、その後の展開は変わります。例えば、ヒトラー率いたナチス党は、ヒトラーが指導者につくまでは、それほど目立った集団ではありませんでした。

 ところが、ヒトラーが指導者についた時から、ナチス党は大きなエネルギーを持ち、人々を巻き込みながら、急速に拡大し、やがては国政選挙において第一党を確保するまでになりました。

 そして、最終的には、ヒトラーの独裁政治が始まるわけですが、この場合、ヒトラーを支持し、彼に忠誠を尽くした人たちは「ヒトラー・チルドレン」と呼んでもよいようにわたしには思えます。

 勿論、政党ですから、たった一人の力で出来るわけではなく、多くの同志的な繋がりがないことには、社会的な力を持つことは出来ませんが、その求心力として存在しているのが、個人なのか、あるいは思想を共にする集団なのかにより、最終的に政党内部では違いが生じてくるということです。

 さて、そういう視点で眺めてみると、「小泉チルドレン」「小沢チルドレン」「橋下チルドレン」の共通項が見えてくるのではないでしょうか?

 それはいずれも、一人の政治家の野心に群がるように集まった人たちで結成されている集団であるということです。「小泉トルドレン」は、小泉元首相が、どうしてもやりたかった郵政民営化を実現するために集めた人たちでした。

 それ故、考え方も価値観も全く異なった雑多な人間で構成されていました。これまで、何度も選挙に出て、当選できなかった者もいれば、たまたま募集に応募して名前を候補者名簿に掲載された者もいるといったものでした。

 その結果、当選したうれしさの余り、国会議員のさまざまな特典に興奮し、手放しで喜ぶ姿がテレビで放映され顰蹙を買った若者に、マスコミが飛びついたこともありました。

 いずれにせよ、小泉元首相は、この雑多なチルドレンの数を頼みとして、念願の郵政民営化法案を国会で議決できました。そして、それを終えたことで、自分の仕事は全て終えたと述べ、総理大臣を辞職し、新たな政権が誕生しました。

 しかし、その後の政権は、迷走の度合いを深め、数は多いが、中身はバラバラということで、国民の支持を失い、短期間でクルクルと首相が交代する不安定な政局となりました。

 そして、それが民主党の掲げた「政権交代」というスローガンを実現することになったのでした。それは、振り子の反動のように動き、自民党は大敗し、政権は民主党に移りました。

 その時、大量の新人議員が生まれたわけですが、彼らの一部は「小沢チルドレン」と呼ばれるようになりました。それは、小沢元代表が、各地に飛び、スカウトした議員達だったからです。

 さて、国民の期待を満帆に受け、滑り出した民主党鳩山政権でしたが、沖縄の基地移転の対応を巡り迷走を重ね、政権を投げ出してしまうことになりました。

 また、幹事長に就任した小沢元代表は、自らの資金管理団体の収支報告書の虚偽記載ということで、裁判の被告となったことをきっかけに、表舞台から身を引かざるを得ないこととなったのでした。

 そして、小沢元代表に敵対するグループが担いだ菅元代表が首相になったことで、小沢チルドレンを含む小沢グループは、党の運営に対して反旗を翻すなど、内部での抗争が激化すると共に、参議院議員選挙で民主党が敗北したことで、衆参ねじれ状態が出現し、一挙に政局は不安定化することになりました。

 現在も、消費税の増税を巡り、民主党党内での対立が続いています。現野田総理大臣は、消費税増税に舵を切りました。それに対して、小沢元代表を中心とした小沢グループは反対を表明しています。

 しかし、小沢元代表は、以前から消費税増税に関しては容認すると表明していました。つまり、この対立は、消費税増税の是非ということより、選挙で勝つためにはどちらが有利かといったものにしか思えません。

 ところが、小沢元代表が消費税増税に反対しているという理由から、小沢チルドレン達も消費税増税に反対しています。チルドレンですから、親が反対すれば、当然それに従うというのは、家庭教育においては麗しい姿かも知れませんが、国会議員としてはどうでしょうか?

 さて、ここまで書いてきて、以前の「新党結成」による新しい国会議員の誕生とこの「チルドレン現象」の違いを、そろそろはっきりさせたいと思います。

 この二つ違いは「政治塾」の有無にあるように思います。実は、不思議なことに、「チルドレン」を生み出した小泉元首相も小沢元代表も、必ず「政治塾」といったものを作り、そこで「チルドレン」たちを研修させるということを行っています。

 それに対して、「新党ブーム」により大量に国会議員が生まれた際に、同様の「塾」が作られ、それを主導するリーダーが、その塾生達に大きな影響力を行使していたかというと、そういう事実はありませんでした。

 勿論、政策を議論する会議や勉強会といったものは、政党である以上当然のように実施されたことと思いますが、「政治塾」といったように初歩的な学習から出発することはなかったのではないでしょうか。

 つまり、「学ぶ」あるいは「学習する」ことへの向き合い方が、以前の「新党ブーム」で国会議員になった人たちと「チルドレン現象」で国会議員になった人たちとで、決定的に異なっているのではないかとわたしは考えているのです。

 そのようなことを考えている時、東京大学東洋文化研究所准教授で経済学者の安冨歩氏が新聞に掲載した文章「『人知の闇』を超える(上)」に、次のような言葉を見つけました。

 「人間には、確かに『学び』が不可欠であるが、それは大きな危険もはらんでいる。孔子は『学んで、考えなければ、とらわれてしまう。考えるばかりで、学ばなければ、あやうい』ともいっている。学んだことを、無反省に復習したり練習したりすることを、孔子が薦めているとは考えられない。」

 この文章の前には、孔子の書いた「論語」の冒頭の一章「子日く、学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎。朋遠方より来たる有り、亦た楽しからず乎。人知らずして慍らず、亦た君子ならず乎。」

という有名な言葉の伝統的な解釈をこじつけだと考え、上記のような「学び」についての解釈をされているのです。

 まさに、「チルドレン」と呼ばれている人たちに足りないものがなにかを、孔子ははっきりと認識していたということです。いくら、先達の述べる言葉や知識であっても、それを無批判に受け取り、なにも考えずに実践に移すことは、道を誤るということです。

 また、批評的な精神を持って学びなさいということと同時に、自分の内部の声にしっかり耳を傾け、真理を求めることをせず、他人が正しいという意見が、自分のものと違っていても、その人が権威を持っているとか、多数派であるということで、それに同調してしまうことの危うさを説いたものだということです。

 つまり、「チルドレン現象」の問題とは、学んではいるが、その学びを批判せず、ただ受け入れるだけで自己完結していることにあるのです。

 ここに大きな落とし穴があることは、「ヒトラー・チルドレン」を含め、歴史の事実として、わたしたちには理解されていることなのです。しかし、理解していても、その渦中にある時、わたしたちはそれを忘れてしまうのです。

 確かに、学ぶことも大変ですが、考え、さらにはそれを実践することはもっと大変です。「易きにつく」という言葉の通り、多くの人が進もうとしている方向へ足を踏み出す方がずっと容易いのです。

 それに逆らって、反対側に足を踏み出そうとすれば、さまざまな抵抗が生じ、その無言の圧力の前に、心が萎えてしまった弱くだらしない自分の姿を発見する予感に心が震えるのです。

 だから、ついつい、わたしたちは、自分の内部の声に耳を傾け、真理を掲げて、果敢に行動することより、キョロキョロと辺りを見回し、周囲の人間の様子を伺い、多数派の選択する方向へと足を踏み出すことを選択しがちです。

 わたしは、自分を含め、そういう人間の弱さを声高に批判し、責める気持ちはありません。ただ、それを怠ることによって生ずる結果の危うさに目を瞑りたくはないと思っているのです。

 しかし、残念なことに、「チルドレン現象」は、そういう結果の危うさに対して、誰一人責任を取ろうとはしない無責任体制を生みだし、拡大再生産を続けている元凶に思えてなりません。

 実は、「チルドレン現象」は、個々のチルドレンの問題ではなく、わたしたち日本人全体の問題なのです。前号で戦前の日本人が、軍部のエリート達に引っ張られるようにして、破滅的な戦争へと突き進んでいったことを書きました。

 その際も、「チルドレン現象」は生じていました。美濃部博士の「天皇機関説」のように、それまで特に問題視されなかった思想をフレーム・アップし、それを激しく攻撃することで、天皇を神聖化し、議会などにより天皇の大権(宣戦布告など含めての戦争行為)を抑制されたり、邪魔されたりせず、スムーズに実施していく方便に使われました。

 それを推し進めたのは、軍部に阿る議員や右翼活動家であり、彼らは誤った考え方を、自らの頭で考えるのではなく、逆に、自らの考えにより、彼らの誤りを指摘する人たちを敵視し、少数派へと追い落とすことに執心したのでした。

 その結果、議会も政府も、軍人達の意向を無視して政治を行うことは出来なくなり、なし崩し的に戦線は拡大し、何百万人という日本人の犠牲と、何千万人というアジアを含めての多くの国々の人々が犠牲になったのでした。

 さて、どうでしょうか?その時代と今の時代は全く違っていると胸を張って言える人間がどれだけいるでしょうか?正直なところ、わたしは自信がありません。

 事実、大震災が起こり、福島での原発事故が起きる前まで、わたしは原発を危ないと思っていながら、それでも、現代社会の豊かさを維持していくためには必要なものと思っていたからです。

 しかし、それが全くのまやかしであったことが白日の下に晒されました。わたしは、いかに、自分が無知であると共に、自らの考えよりも、大多数の考えに付き従っていたかということを思い知らされたのでした。

 だからこそ、こういった「チルドレン現象」に、今まで以上の危うさを覚えてならないのです。橋下大阪市長をトップに据えた「大阪維新の会」が始めた政治塾「維新政治塾」の新聞記事を読んで、わたしは益々こういった気持ちを抑えることが出来なくなりました。

 わたしは、橋下大阪市長が始めようとしている「維新政治塾」をイメージした時に、恐ろしく大きいが歪の体に、いくつもの不揃いな手と足が生えており、その上に乗っているのは本当に小さな頭が一つという、化け物を想像してしまいます。

 この化け物は、小さな頭の指示により、動こうとしますが、その頭の中身は、これだけの大きさのものを動かすだけの容量と知恵が足りないために、指示する動きは手や足にはてんでバラバラに伝わり、時には、全く正反対の指示を同時に実行しようとするため、こんがらがってしまい、やがて崩れ落ちるように倒れてしまうのです。

 後ろを振り返ると、「小泉チルドレン」という化け物の残骸が干物のようになって道に落ちています。そこにはヘビの脱皮のように、脱ぎ捨てられた皮がどす黒く横たわっています。

 今度は、目の前に視線を移すと、いくつもの不揃いの手と足がこんがらがり、もう少しで倒れてしまいそうな「小沢チルドレン」という化け物が断末魔の痙攣でビクビクと震えています。

 そして、未来に目を向けると、「橋下チルドレン」という化け物が新たに生まれようと蠢いています。しかも、名前は新しくなりましたが、その化け物の姿は、過去のもの、現在のものと何一つ変わりません。

 そして、よくよく目を凝らして見つめると、この化け物が大きく育つために必要な栄養を、いま生きている人たちが提供しているのです。国民だけでなく、マスコミ、経済人、政治家といった人たちの中で、自分の頭で考えることを止めた人たちが、その栄養を化け物に提供しているのです。

 さて、いま起きつつある化け物の生育に関して、自らがそれに手を貸すのか、それともきっぱりと手を切るのかは、自らが学び、それを元に自らが考えることにより、選択していくしかないことを改めて確認してこの稿を終えたいと思います。(了)

 

参考文献
平成二十四年四月十四日 北陸中日新聞朝刊紙面
平成二十四年五月十三日 北陸中日新聞朝刊紙面



「問われている絵画(107)-絵画への接近27-」 薗部 雄作

「「科学の世界」をどう位置づけるか」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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