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第116号

2012年6月8日

「「科学の世界」をどう位置づけるか」 深瀬 久敬

 

 わたしたち人間は、基本的に、次の四つの世界に生きているように思う。一つ目は「生命としての欲望の世界」、二つ目は「宗教の世界」、三つ目は「統治の世界」、そして、四つ目は「科学の世界」である。まず、これら四つの世界について、その内容を述べたい。

 

 一つ目の「生命としての欲望の世界」とは、なぜわたしたち生命が誕生し存在するようになったのか、その理由は分からないが、細胞膜をもつ前真核細胞に好気性細菌がミトコンドリアとして取り込まれたり、真核細胞のなかにはミトコンドリアを始めとする様々な細胞小器官が含まれていたり、DNAからタンパク質合成に必要な各種アミノ酸を作り出す3塩基コドンコードは全ての生命に共通するものであったり、などの生命の根源的な姿を知れば知るほど、その生命体としての維持がいかに精巧なハードとソフトのメカニズムを具備しているか驚嘆せざるをえない。そして、有性生殖の世界では、オス同志は、特定のメスとの交尾権を巡って必死の闘争を繰り広げ、一方、メスはいかに優秀なオスと交尾し立派な子孫を出産するか様々な策略を巡らす。また、生物は生き延びるために、特定の花と昆虫との間で種別を超えた共生関係を樹立したり、断崖絶壁のようなところでも自在に動き回ることを可能にする特殊な蹄を身につけたり、どんな極寒のなかでも新芽を凍結から守る巧みな技を編み出したりしている。

 こうした目を見張るような種固有の様々な工夫は、枚挙に暇のない。こうした、それぞれの生命を持続したいという強烈な意志は、一体、どこから来るものなのかは分からない。しかし、こうした生きもののなかでも、人間は、欲望という面ではひときわ複雑で底無しのものをもっているように思える。性欲はもちろん、食欲、権力欲、物欲、金銭欲、名誉欲、知識欲など、人それぞれによって欲望の対象による強弱は異にするとはいえ、必要のレベルを越えてまでもわがものにしておくことにやぶさかではない。

 どうも、この宇宙のなかの地球という惑星に、たまたま存在するわたしたち生命とは、生きるという内容は問わないにしても、それを持続し、より存在の基盤を強固なものにしたいという点では、すべて共通であるらしい。

 

 さて、残りの三つの世界は、一つ目の「生命としての欲望の世界」を基盤として、人間がよって立つ精神的世界である。

 

 まず、二つ目の「宗教の世界」とは、生命として存在する上での最も根源的な精神的意識の世界である。人間は生きていく上で衣食住を確保しなければならないが、衣は、他の動物の毛皮であったり、植物の葉っぱであった。食は、他の動物、鳥類、魚、そして、木の実、芋、さらには米や麦などであった。住は、洞窟や樹木を編んだ夜露を凌げる程度のようなものであった。こうした生存の基盤をなんとか確保するなかで、朝日が昇り出し、雲や山頂を輝かせ、夜の帳が少しずつ明けていくさまに、また今日も生きなければならないという気持ちを新たにすることになったであろう。日中の太陽のきらめきと気温の上昇、そして時には降りしきる雨や雪などにあっても、生きていくための労働に黙々と従事し、それを運命として受け入れることを知っていた。夕方ともなれば、太陽は夕陽となって、地平線、水平線のしたに次第に沈んでいき、その周辺は赤やくらい青に彩られ、しばしの休息の時間を宣言された安らぎとともに、今日一日の無事な労働への感謝に安堵の気持ちに満たされた。そして、夜、満点の空にたくさんの星々がきらめくのをみて、亡くなった父母や不幸にして幼くして亡くなった子供たちに思いをはせ、自分たちもなんとか生を全うできるよう祈りたい気持ちになるのであった。

 もちろん、わたしたちの日々は、こうした平穏な毎日が続く訳ではなかった。大雨や旱魃は、すぐに飢饉をもたらし、餓死の危機をもたらした。地震、津波、火山の噴火なども同様であった。さらに、さまざまな病気が、老若男女を問わず、みさかいなく人々を襲い、その原因不明の災いに人々は恐怖の底にたたき込まれることになった。こうした人間の悲惨は、自然がもたらすものだけではなかった。人間の欲望が膨らみ、それらが衝突し、その解決の道が閉ざされるとき、殺し合いの戦争が始まった。昨日までは仲のよかった骨肉の間でも起こった。こうした殺戮に止まらず、強奪、暴行、偽証など、生の安定を脅かすものが身の回りにあふれていた。また、内面の孤独感、絶望感、憎悪嫉妬などの精神的な危機に落し込まれることもあった。

 「宗教の世界」の根底には、このような生命の根底に宿っている精神的な感覚が横たわっている。宗教的な儀式、それに携わる特権的な人々、それらが行われたりそうした人々が住む特殊な場所としての神殿、そして、そうした世界のことをことばにした経典などは、地域や民族によって多様なものが生み出されたが、宗教としての根底にある世界は、人間としての上述したような恐怖心、畏敬の念、罪悪感、孤独感といった普遍的なものと言わなくてはならないと感ずる。

 

 三つ目の「統治の世界」とは、「宗教の世界」における、ここちよい気持ちを持続し深化させ、悲惨な状況を排除することを主眼とする世界である。人間社会の安心と安定を確保すると言ってもよい。

 仁徳天皇の作と言われる「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」という和歌は、こうした「統治の世界」を端的に物語るものだと思う。

 こうした「統治の世界」では、聖の面と俗の面とが区別され対応される傾向があったようだ。聖の面は「宗教の世界」の精神面を主とするものであり、国の統治理念として、キリスト教、仏教、儒教のような宗教的色彩を帯びたものが立てられた。一方、俗の面とは、犯罪や租税などに関する法律の整備、度量衡や貨幣の統一、道路や給水や治水などのインフラの整備といったことになるだろう。また、「統治の世界」の安心、安定は競争相手がいない方がよい訳であるから、天下統一は至上命題であり、それに関連して軍備は必要不可欠なものであった。

 こうした「統治の世界」における聖と俗の面とは表裏一体のものであり、これらは人間社会全体の在り方をどのようにするのが適当か、という観点について精神的な面と物質的な面の全体を既定するものとなった。病人、弱者、貧困にあえぐ人たちを社会としてどう処遇するかも大切な問題であったろう。哲学や宗教などの学問も、こうしたパラダイムのもとで深められたことは言うまでもない。読み書きソロバンといった初等教育をはじめ、儒教教育などもこうした活動に含まれるものと言えるだろう。経済活動を活発にし、地場産業を起こし、物質的豊さをその地にもたらし、合わせて、その地域の文化芸能の世界の固有の深まりを目指すことも忘れられなかった。

                                       四つ目の「科学の世界」は、15世紀ころ、ヨーロッパの地で見いだされたものである。「宗教の世界」、「統治の世界」に次ぐ、第三の精神的世界であると思う。「科学」ということばは、各々専門化された個別の学問の世界というニュアンスが中心になっているが、サイエンスというときには、単なる純粋な知識そのものに近いニュアンスをもつらしい。こうしたことばの問題はさておき、「科学の世界」というときに最も大切な概念は、客観するというところにある。そこでは、「宗教の世界」や「統治の世界」とは異なり、人間としての視点というものは基本的に追いやられている。そういうものとは関係なく、自然現象としても、社会現象としても、あるがままを客観的、論理的、因果関係的、定性定量的に、語弊があるかもしれないが、万物を創造した神のような立場から観るのである。もちろん万能の神ではない人間は、全体を観るのではなく、部分、部分を個別に観るのである。

 そこには、宗教的権威もなければ、統治上の権威も関与しない。ただ、客観的に正しいと論理的にも実証的にも思われる事実を事実としてひたすら受け入れることに務める世界である。しかも、なにが客観的に正しいのかという判断は、絶対のものとはされない。現在の認識可能な範囲においては、正しそうであるとみなされるのにすぎない。もちろん、それが正しいとして、さらにそれらを前提として認識理解を深めて行ってもよい訳である。しかし、あるところまで認識が深まったとき、回避できないような矛盾にぶつかったようなときには、その前提としたところまで立ち戻り、再び、認識の再構築をやり直せばよいということになる。

 このような「科学の世界」でものを観るという態度の獲得は,「宗教の世界」や「統治の世界」を全てと受け止めてきた人間に画期的な変化をもたらした。まず、自然現象の理論的説明による理解は、飛躍的に深められた。コペルニクスの地動説、ガリレオの運動力学、ニュートンの万有引力などから、ついには、相対性理論、量子力学、素粒子論、最新宇宙論まで、あれよあれよという間に、「宗教の世界」では、まるで神秘のヴェールに覆われていた世界が、一気にこじ開けられた感じである。

 そして、「科学の世界」の知識は、人間の欲望を実現する技術へ応用され、その因果的スパイラルの相乗効果は、自動車などの輸送分野、コンピュータやネットワークなどのIT分野、医療分野、家電製品分野など、まさに燎原の火のごとく広まり、わたしたちの日常生活の在り方を一変させる勢いは止まるところをしらない。

 さらに、「科学の世界」は、人間社会の「統治の世界」の基本理念までも変えようとしている。「科学の世界」は、人間は平等で、一人ひとりが基本的人権を有し、個としての自由が保証された存在であるという人間観をもたらした。これは、伝統的に「宗教の世界」と「統治の世界」が営々と築き上げてきた社会の在り方を根底から覆すほどの影響力をもつものであった。フランス革命を皮切りに、民主主義や理性に基づく統治が叫ばれ、統治の理念としての宗教は追いやられ、人権宣言などを盛り込んだ憲法が、統治理念の根底に据えられた。こうした世界観に基づく憲法をもたない国は近代国家とみなされないことから、明治政府があわてて大日本帝国憲法を策定したことはついこのあいだのことである。さらに付言すれば、近年、挫折したとはいえ、マルクス思想に基づく社会主義による統治理念も、「科学の世界」の見方を根底にしたものだと言えるだろう。

 

 いま、私たち人類が直面している問題は、このわずか五百年ほどの間の「科学の世界」の台頭が、今後、わたしたちにいったいなにをもたらすのだろうか、ということである。そのことに関連して、わたしは、以下に四点ほど、吟味してみたい。

 

 第一の点は、「科学の世界」は、決して、人間社会に安心と安定をもたらすという趣旨によって登場したものではないという点である。「宗教の世界」と「統治の世界」は、人間社会の安心と安定を主眼として展開されてきた。確かに農産物の生産性の向上や宗教的世界の深まりや交通機関の改善など、進歩といえる変化がなかった訳ではない。しかし、今日の「科学の世界」がもたらしているような急激な変化はかつて経験したことがなかった。例えば、アナログ技術からデジタル技術への変化は、わずかこの10数年の間に、わたしたちの日常生活を大幅に変化させつつあり、産業の構造にまでそれは及んでいる。もはや、生活の安定よりも、技術開発に伴う市場競争についていくことの方が問題にされている。こうした不安定さは、一体、われわれ人間になにをもたらすのであろうか。技術進歩についていくために、人々は、常に新しい知識を吸収していかなくてはならないし、パソコンやインターネットを使いこなせない人は、それだけでハンディーを背負った生活を余儀なくされることになる。これは「生命としての欲望の世界」の実現という側面ももつものかもしれないが、逆に、自らの欲望ゆえに、破滅に向かう可能性もあるのではないか、と危惧されてならない。

 

 第二の点は、価値観の転換に関する問題である。「宗教の世界」と「統治の世界」がメインであったころは、人間の在り方、社会の在り方が主題とされた。宗教が大きな社会的影響力をもったのも、そのためであった。いまから思えば、身分門閥制度のような不合理な側面もあったが、それぞれがその身分のものとしての在り方をいかに高めるかといった問題意識もあったのだと思う。しかし、「科学の世界」の広がりは、在り方の問いから、いかに多くを所有するかという問いに価値観を転換させてしまった。すなわち、生きていく上での課題を「在ること」から「持つこと」に転換させてしまったのである。

 社会主義革命を炸裂させた一つの要因は、プロレタリアートと呼ばれた貧困にあえぐ人たちの存在であったし、また、今日、グローバル化とマネーゲーム化する資本主義経済のもとで、貧富の格差問題を深刻化せしめている要因も、こうした「持つこと」を価値の中心とする世界の出現に負うところが大だと思う。さらに、年金制度、医療保険制度、公務員制度など、大衆迎合的な政策に走りすぎ、国家破綻の危険度が高まる状況も、こうした価値観の転換が影響しているのではないだろうか。

 

 第三の点は、多様性の保持に関することである。「科学の世界」の台頭は、人間の欲望を実現するための強力な手段を提供してくれることになった。かつては、農業生産の向上は、鉄製の農機具や水力あるいは風力などを利用した脱穀機などの導入といったレベルに止まるものであった。しかし、いまや害虫に強いように遺伝子組み換えが行われた種子、目的選択的な農薬など、その生産性向上の手段の高度化は止まるところをしらない。

ここで問われることは、こうした人間の欲望の実現は、本当に、物心両面のゆたかさを人類にもたらすものなのか、という問いである。一般的に、工業製品は、画一化されコストダウンされ、そのため多様性は排除される傾向にある。

 地球上の生きものの多様性は、目も眩むばかりであり、こうした世界を創造した神の偉大さを思わずにはいられない。それに対し、人間の欲望のあまりの狭さには目を覆いたくなるばかりである。食べ物にしても娯楽にしても、アメリカ製のハンバーガー、デズニーランド、ハリウッド映画などが世界中に蔓延しているのを見れば明らかであろう。こういう巨大産業があるからこそ、弱小の多様な産業が存続できるという論理は苦しい弁明だと感ずる。巨大スーパーが郊外に開店し、それによって、町の中心地にあった商店街がシャッター通り化するのも同じことのようだ。

 自然開発などによって絶滅危惧種は増えており、また、温暖化に伴い植物の多様性も減少しているようだ。都市化に伴う地方文化の衰退や地方都市の画一化も同列の問題かもしれない。多様性ということについては、これまでとは本質的に異なる次元で論ずることが必要になってきているのであろうか。人間の叡知が問われているように感じられてならない。

 

 第四の点は、「科学の世界」というものを、「宗教の世界」や「統治の世界」とどのように位置づけて捉えるかという問題である。「科学の世界」の台頭によって、「宗教の世界」は今日、社会の前面からはかなり後退した印象を受けるし、「統治の世界」も、民主主義の礼賛が多いなか、格差問題への対応への見通しはよく見えていない。グローバリズムが急速に進むなかで、こうした「科学の世界」の位置づけに関する正面からの議論が、誕生の地であるヨーロッパからも聞こえてこない。こうした問題提起こそ、日本の世界における使命なのではないかとわたしには感じられてならないのだが、どうであろうか。

「負けること勝つこと(72)」 浅田 和幸

「問われている絵画(107)-絵画への接近27-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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