十七日間に渡って、イギリスを会場に繰り広げられてきたロンドン・オリンピックが八月十二日に閉会式を迎えました。今回、会場がイギリスと言うことで、日本とは八時間の時差があり、競技の決勝戦が、丁度日本の真夜中に行われたということで、寝不足になった方たちも多かったのではなかったかと思います。
日本選手団は、開催前には金メダル十五個の獲得を目標としていましたが、得意な種目の柔道や体操で、思うような成績が上げられず、最終的に金メダルは七個でした。
しかし、これまでメダルとは無縁であった競技で、メダルを獲得するなど、全体としては、オリンピック史上最多の三十八個のメダルを獲得する結果となりました。
金メダルということにこだわれば、目標の半分しか獲得できなかったことで、残念な結果と言うことになるかも知れませんが、これまで世界の水準に達していなかった競技が、世界水準に達したという意味では、史上最多のメダル獲得は喜ばしいことだったとわたしは考えています。
それで、今回、テレビで各種目を観戦しながら、いくつかの感想や感慨を覚えましたので、それについて書いていきたいと思っています。
まず、日本のお家芸と呼ばれ、これまでにも数々のメダルを獲得してきた柔道の惨敗についてです。開催前、日本柔道へのメダルの期待は非常に高いものでした。特に、日本の男子も女子も軽量級のクラスに関しては、世界ナンバー・ワンの選手を擁しているということで、金メダルは当然という雰囲気でした。
ところが、実際に競技が始まってみると、海外の格下の選手の厳しい攻めの前に、防戦一方といった有様で、そのまま判定で押し切られ銅メダルすら獲得出来ないといった状態に陥りました。
これまで日本の選手が必ず勝ち抜いてきた女子の四十八キロ級、五十ニキロ級に関しては、日頃の実力が十分に発揮できぬまま、敗北を喫し、その現実に呆然としている日本選手の表情が印象的でした。
多分、彼女たちにとって、これは「悪夢」とでも呼ぶべき現実だったことと思います。しかし、本当に夢ならば良かったのですが、夢でなく現実であるところが、彼女たちの途方に暮れた表情によく表れていました。
さて、柔道に関して、今回のオリンピックからルールが改正になりました。これまで、いきなり足を取って倒すといったレスリングのような技も認められていましたが、今回からは、きちんと組んで技をかけるということに改正され、日本選手に有利になったと言われていたのでした。
ところが、このルール改正の恩恵を日本選手は余り受けることが出来なかったように思います。逆に、ルール改正が足かせとなり、勝負に負けたといったシーンもあったように思いました。
それは日本選手が綺麗な一本勝ちにこだわり過ぎた面です。きちんと組んで投げるということがルール化された結果、投げ技で一本を決めるということが日本選手には求められたようです。
しかし、海外の選手は全く違っていました。彼らは、勝負に勝つための作戦を考え実行したのでした。どんな勝ち方をするのかではなく、勝つためにどんなことをするかを求めたように思います。
だから、相手が寝技に弱いと分かれば、徹底的にその弱点を突くという作戦を立て、実践に移したということです。ところが、日本の選手は立ち技の一本勝ちにこだわっていました。結果は、金メダルの獲得が、女子柔道で一個という開催前の期待を大きく裏切るものになりました。
さて、この厳しい結果を受けてわたし自身は次のように考えています。日本人は、過去において成功したもの、それにより権威的になったものに関して、相変わらず「理想」と「現実」のギャップを埋めるのが下手だなということでした。
実は、この柔道と全く正反対のことを実践してメダルを獲得したのが女子のバレーボールだったと考えています。ソウル・オリンピック以来、二十八年ぶりのメダル獲得と言うことで、日本国民に感動を与えた女子バレーボール。
彼女たちが、厳しいメダル争いに勝利できた要因は、徹底したデーター分析と自分たちの得意技の熟練化だったようです。特に、メダル争いの韓国戦では、準レギュラー扱いの迫田選手を、韓国戦のスパイク決定率が高いという理由で起用し、それが見事に的中するといったように、客観的な事実を積み上げることで成功しました。
かつては、日本の女子バレーボールは世界に通用する力を持っていましたが、近年では、体格的なハンディにより、メダル争いは厳しいというレベルの実力でした。
しかし、そのハンディを克服する手段として、日本人の特性を活かし、自分たちの攻撃のスピードを上げると共に、分析により相手の攻撃の傾向を把握し、レシーブを徹底することで実現したのでした。
ここには、自らのハンディを工夫し、克服する際の日本人の知恵が見られます。そして、こういうところが日本人の強さでもあるとわたしは思っています。
ところが、女子柔道は反対でした。これまでの実績が華々しいために、海外の流れや傾向を研究するというより、自らの理想を追い求めることで事足りたと考えたようです。
その結果、日本選手の取り口を研究してきた海外選手の前で弱点をさらけ出し、思うような組み手も取れぬまま、敗北するといったことが続いたように思います。
これは、日本人の持つ弱点だと思います。明治維新後、日本は近代的軍事制度をいち早く導入し、初めての対外戦争である日清戦争に勝利しました。さらに、当時の大国ロシアを相手にした日露戦争も、軍事、政治、国際関係をうまく利用して、辛うじて勝つことが出来ました。
しかし、その後の日本軍隊は、それまでの研究や進取の取り組みを忘れて、かつての栄光にひたすらすがるということで、新たな国際環境に適応できぬまま、アメリカとの太平洋戦争で壊滅的な敗北を喫したのでした。
そこには、自らの弱点を客観的に分析することが出来ず、かつての栄光を「理想化・肥大化」した尊大な精神に呪縛されている日本人の姿があったのでした。
つまり、日本人の弱点とは、一度成功を体験すると、その成功を絶対化し、それを権威化することで、新しい環境や状況を客観的に分析・判断せず、その成功体験のみを精神的な支柱として、無謀な戦いに挑むというところだとわたしは考えています。
今回の柔道でも開催前から「精神論」が語られていました。日本柔道の強さは技の切れと精神力にあるといった言葉を発した瞬間に、敵を攻略するための有効な作戦や戦略は消滅してしまうのです。
逆に、相手は、日本の弱点を見切り、そこを徹底的に突くことで勝利を得ようと戦略を練っていたのでした。そのことは、試合中の選手の表情が如実に語っていました。
「あれ?いつもと違う・・」といった不安な気持ちが、各選手の表情を強ばったものに変えていました。そして、それがいつものような動きの柔軟さを抑えていたのでした。
アナウンサーや解説者が、その点をフォローし「今日は慎重な立ち上がりですね」といった言葉をかけていましたが、実は、その段階で、有効な攻め手を見つけられずに、混乱していたというのが事実だったように思えます。
現在の柔道は、技を仕掛けていかないと「シドウ」というマイナス・ポイントが付けられます。そういう「シドウ」を受けた日本選手は、なんとか現状を打開しようとして、多少無理な形でも技をかけようとします。
まさに、それを相手は待ち望んだかのように「返し技」によるポイントを稼ごうとするのでした。綺麗な一本勝ちではなく、しぶとく相手の攻めを利用してのポイント奪取という作戦に、日本選手はまんまんとひっかかり、日頃の実力を出せぬまま敗退していったのでした。
ここには、「理想の勝ち」ではなく、「現実の勝ち」に徹したリアリズムの持ち主が、オリンピックでは真の勝者になるという現実への冷静な読みが存在しているのです。
こういう海外の冷静な選手を相手にするには、日本の選手は非常にナイーブでした。前にも書きましたが、「どんな勝ち方をするのかではなく、勝つためにどんなことをするか」という点が抜け落ちていたのでした。
逆に言うと、こういう戦略を編み出したチームが、今回はメダル獲得という栄誉に預かることになったのでした。前にも挙げた、女子バレーボール、女子サッカー、女子卓球といった種目がそうでした。
卓球の事情はちょっと違いますが、バレーボールにしろサッカーにしろ、日本人の体格的ハンディを克服するための高等戦術を編み出し、それを着実に実践できたことが成功に繋がっているようです。
ところが、柔道のように体格的なハンディの無い競技では、戦略よりも精神論が重要視されてしまう傾向があるように思います。しかし、今回の競技を見ていて、海外選手の中には、体重では日本人と同じクラスですが、身長や骨格が断然違う選手が数多く見受けられました。
多分、国内の選抜試合においては、絶対にあり得ない状況への心構えが不足していたのだと思います。日本の選手の実力が無いというのではなく、異文化と向き合うための戦略が準備されていなかったということだったのでしょう。
柔道は日本が発祥の地ということで、これまでプライドだけでなく、実績も伴ってきたわけですが、それも国際化されていく中で、各国、各民族の「ジュードウ」ができあがってきた結果だと思います。
日本の柔道に携わる方々や指導者の方たちも、いつまでも過去の日本の柔道にこだわるのではなく、新しい「ジュードウ」とどのように向き合い、日本の柔道の良さや強さを損なわずに、現在の環境に速やかに順応していくことがとても重要に思えるのです。
そういった工夫ができるようになった暁には、再び日本選手の金メダル・ラッシュが現実のものとなるだろうとわたしも期待しています。
この柔道に関して、もう一つ気になったことは「勝負の判定」についてでした。この「判定」については、なにも柔道だけでなく、多くの競技においても問題となり、「オリンピック」ならぬ「誤審ピック」などと揶揄されることになりました。
勿論、どんな競技にもルールがある以上、それを判定する審判員の存在は欠かせないものです。そして、過去のオリンピックも含め、判定を巡っていろいろ物議を醸しだしてきたことも事実でした。
しかし、今回の判定に関しては、ビデオなどのハイテク技術を使用し、一見、より細やかで的確な判断が可能になっているはずなのに、逆に、そのことでトラブルが生じているという、誠に奇妙なことが生じていたのでした。
柔道に関して言えば、日本の選手と韓国の選手の試合で、最終的にポイントでは差がつかず、審判三人による旗判定となり、三対ゼロで韓国選手が勝利したにも関わらず、その後、その判定が覆ったというものでした。
この試合、わたしもテレビで観戦していましたが、正直なところ、日本選手がやや優勢かなといった程度で、審判の旗判定を明らかな誤審として、判定を覆すほどの違いがあったか分かりませんでした。
ところが、審判の判定をチェックする機関からの「シドウ」により、旗判定が覆るというオリンピック史上初めてのことが起こったのでした。
わたしも剣道や柔道を、部活動や体育の授業でやってきた経験があるので、この審判の判定の持つ曖昧さは十分理解しています。一瞬の技を判定する以上、事実より印象の方が勝る場合も往々にしてあったように記憶しています。
しかし、「勝負は時の運」という言葉のように、それにより得する場合もあれば、損をする場合もあるわけで、均してみればイーブンといった結果が出てくるものと思っています。
そういう視点に立てば、審判員として選び、試合を判定させる権限を委託した限り、審判員の下した判断を認めるということが、どのような競技においても必要ではないかと思います。
そして、もし、その審判員の能力が低かったなら、それは、いくら実績があり、自国から推薦されたとしても、オリンピックを始めとして、国際試合の審判を任せないといった仕組みを作ることの方が大切に思うのです。
勿論、人生を賭けて、オリンピック競技に参加している選手達にとって、誤審はあってはならぬものであることは間違いありませんが、そういったものも含めてスポーツの試合は成立しているのだという立場に立たない限り、今後も、こういった判定を巡っての混乱は続くことになると思います。
また、こういう曖昧な決着ではなく、勝負がつくまで延長して試合を続行するという手段もあるように思います。例えば、同じく三人の審判員の判定で決まるレスリングで採用されているように、「ボールピックアップ」によって勝敗を決めるといった手段も考えられます。
審判員の印象といった曖昧さを残すことで、ひとたび判定がもめると水掛け論に終始するきらいがあるようです。そういう意味で、曖昧さを排除するということも必要かと思われます。
しかし、いずれにしても、こういう誤審がクローズ・アップされたのも、メダルを取るのと取らないとでは、天国と地獄ほどの差があるからだと考えられます。これは、日本だけでなく、どこの国も一緒であり、それだけに勝敗にこだわらざるを得ないといったところもあります。
特に、マスコミの対応は百八十度違っていました。開催前、金メダル有力候補ということで、取材をし、期待を高めておきながら、結果が悪いと、ほとんど無視に近い扱いになっていました。
逆に、開催前はメダル獲得の期待が少なかった種目で、メダル獲得があると、これは過剰なまでに持ち上げ、過去のエピソードや家族・近親者とのエピソードまで持ち出し、絶賛するといったスタイルの番組を、どの放送局も例外なく行っていました。
勿論、メダルを獲得することの大変さとその価値については、十分に認めるものですが、ここまであざとく差をつけてしまうと、見ていて選手の方たちが気の毒に思えてくるのです。
わたしの周囲で、高校時代にインターハイに出場した経験がある人もほんの少数ですし、また、子どもが、そういう華々しい場で活躍しているといった人もほんの一握りです。
さらに、その中からオリンピックに出場したといった人は皆無であり、いかに、オリンピックに出場することが、稀であり、大変なことかということをいつも思っています。
つまり、オリンピックで日本の代表となり、あの会場に立てるということだけでも、並みの人間には想像できない才能と努力が必要だということに他なりません。
そういう意味で、一握りの勝者にのみスポットを当て、賞賛し、過剰にまでタレント扱いをすることについて、正直なところ、わたしは違和感を覚えてなりませんでした。
三つ目に気になったことはオリンピックの競技の多さでした。かつて東京オリンピックが開催された千九百六十四年、当時、小学校六年生だったわたしは、学校の授業時間に、オリンピック中継を観賞した世代の一人ですが、当時の種目は陸上競技、水泳競技など二十一種目でした。
それが、今年のロンドン・オリンピックでは陸上競技、水泳競技など三十六種目にまで膨れあがっています。実は、前回までオリンピック競技としてあって、今回なくなった「野球」「女子ソフトボール」など除外してもこれだけ多くの競技が実施されています。
さらに、サッカーやレスリング、ウエートリフティングといった東京大会でもあった競技の中でも、女子の部が増えているといったように、現在のオリンピックは、東京大会のほぼ倍の規模を有した巨大な大会に変貌していると言っても過言ではありません。
これだけ多くの種目がオリンピック競技として採用されたことは、世界的な規模でさまざまなスポーツでの競技人口が広がっていることでもあり、そのことは喜ぶべきことでしょうが、反面、「50メートル・ピストル」といった射撃競技など、これがオリンピックの競技として妥当なのかなと思われるものもありました。
他の国は分かりませんが、日本国内において、この競技に参加できる人は、警察官か自衛隊員といった特殊な職業の人に限られており、いくら興味があるからと言って、これ以外の職業の人が、参加することは不可能なわけです。
こういう特殊な技能を競い合う競技を、オリンピックの種目として認める一方、女子ソフトボールはアメリカばかりが優勝するから除外するとか、野球は高価な用具が必要であり、競技人口も少ないから除外するといった理屈がまかり通るというのも正直解せない思いがあります。
いずれにしろ、現代のオリンピックは、東京オリンピックの頃に比べて、恐ろしく巨大化すると共に、当時は競技に参加者を送り出すことが出来なかった、国や地域からも参加してきているという意味では、世界的なスポーツの祭典となっていることは間違いありません。
さらに、経済的に豊かになり、余暇時間が増える中で、スポーツに対する関心も高まり、趣味としてスポーツを楽しむ人たちが増えてきたことで、経済的な面でも大きな影響力をもたらしているように思えます。
競技ウエアー、競技シューズ、競技用品といったものの巨大なマーケットが世界的規模に張り巡らされ、オリンピックで華々しい活躍をした選手に、スポンサーがつき、そのCM料として大きなお金が動くようになっています。
それ故、有望な選手は、自らの才能を、オリンピックという世界的な場で発揮することが、その後の人生にも大きな影響を及ぼすことを、否応なく認めざるを得なくなりました。
かつてのオリンピックは、国の代表として、国の威信を担って勝利を求めた部分が大きかったと思いますが、現代では、勿論、そういう部分を否定しませんが、それ以上に、自らの人生を切り開く部分の方が増大しているように感じられます。
百年前であれば、ただ足が速い人ということで、賞賛はされましたが、それ以上の経済的な恩恵を蒙ることはなかった競技者が、今では、その才能により巨万の富を獲得できる可能性を持つようになったということです。
このことの是非をわたしは問うつもりはありません。その人の持っている才能を正しく評価し、それに見合った報酬を受け取ることは問題ないと考えています。
実際、二千八年には、「オリンピック憲章」から「アマチュア(リズム)」という言葉が削除され、現在では、それがオリンピック選手の必要条件とはなっていません。
また、競技の中でも、サッカーやバスケットボールやバレーボールのように、プロに所属している選手でも出場できるものもあれば、ボクシングのように、プロは参加資格がないものもあるというように、オリンピック競技の中でも規定がバラバラというのが現況です。
ただ、ここまで大会が巨大化し、経済的な波及効果も大きくなり、メダルの有無が、直接、選手のその後の人生に大きな影響(物心共に)を与えるようになってきたことで、もう一度、アマチュアとプロとの線引きを考える必要があるように個人的には思っています。
そして、最後に気になったことは「ナショナリズム」でした。自国の選手を自国民が応援するとことは当然のことですが、それが、過剰になり過ぎて、殺気だった緊張感を会場内にもたらすようなシーンを何度か目にしました。
日本に限って言うと、隣国の韓国との団体戦は、そういうマイナスの緊張感に包まれていました。今回は、男子サッカーと女子バレーボールが、三位決定戦で日韓が激突するという状況となり、メダルを巡っての争いと言うことで、緊張の度合いはエスカレートしました。
結果は、男子は敗北、女子は勝利と言うことで、痛み分けと言うことになりましたが、韓国男子サッカーの選手が、勝利した後、日本の領土竹島を、「ドクト(韓国名)は韓国の領土」というプラカードを、フィールド内にかざしたことが大きな問題となりました。
オリンピック憲章では、そういう政治的な発言は控えることが明記されており、それに抵触するのではないかと、現在、IOCやFIFAで討議されているようです。
この韓国の選手の行動には伏線がありました。その前日に、韓国の李大統領が、竹島に現職韓国大統領として初めて上陸し、この島が韓国領であることを、改めて宣言したのでした。
これを受けての韓国選手の行動は、日韓両国に大きな波紋を広げました。平和とスポーツの祭典(過去において世界大戦中のオリンピックは中止)であるオリンピックを冒涜したという意見がある一方、当たり前の事実を宣言しただけで、なんの問題もないという意見もあります。
いずれにせよ、日韓両国民の立場が違う以上、こういう意見の対立は当然あるものと思いますが、なにか「愛国」ということが、全ての免罪符になっている風潮が、日本にも、韓国にも、さらに世界全体の風潮としてあるように感じています。
自国を愛するということは、とても大切に思いますが、それを梃子にして他の国を攻撃することは、なにか違和感を覚えます。自分自身が自国を愛するように、他の国の人たちも自分の国を愛しているという共通意識に立った上で、スポーツ競技の優劣を競い合うという枠組みが、なによりも必要に思われます。
こういう相手への配慮や思いやりを欠いた過激な意見が支配的になっていくと、ルールに則ったスポーツ競技が、やがてルールのない戦争へとなし崩しに進んでいくのではないかと、少々不安を覚えてしまうのは考えすぎでしょうか?わたしのこういった思いが杞憂であることを祈り、この稿を終わりたいと思います。(了)
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