1.「科学的なものの見方・考え方」とはなにか
「科学的なものの見方・考え方」とは、どのようなものかについては、今日、幅広く理解されていると言えるだろう。ちなみに、わたしの理解では、次のようなものだと思う。
「科学的なものの見方・考え方」では、まず、自然界であれ、人間界であれ、特定の現象に着目し、その現象が起きる因果関係を、再現性を担保しながら、定性的定量的に数学的な法則として明らかにしようとする。この作業の過程を仔細に見れば、次のような特徴がある。
第一に、その現象を見る視点は、人間中心主義というか、人間主体の見方をする。西洋絵画に遠近法が取り入れられ、その絵では見ている人の視点がはっきりと意識されているが、まさに、科学的な見方ではそうした見方がなされる。
第二に、その現象の観察や因果関係の解明においては、社会的権威や心情の影響が排除され、あくまでも客観することが要請される。
第三に、着目する現象の特徴に応じて、それぞれが独立した学問分野として専門化される傾向がある。例えば、理学系は、生物学や物理学などに分割され、生物学は、さらに、分子生物学や細胞生物学などに分割される。社会学系は、法律学や経済学などに分割され、経済学は、さらに、金融理論、産業組織論、財政学などに分割される。こうした細分化は、科学的な見方が深まるのに伴い、止まるところをしらない。
第四に、着目する現象の因果関係の解明においては、実験を伴う実証性が要請される。単なる推論ではいけない。その場合は、仮説として提示される。従って、因果関係を説明する法則は、その説明が当てはまらない例外的な現象が見いだされたら取り下げられるか、適用する範囲を限定するなどの措置が要請される。すなわち、「科学的なものの見方・考え方」では、その理解が正しいか否かの判定が、常に俎上に置かれたままの状態に置かれるということである。
2.現代社会における「科学的なものの見方・考え方」の意義
では、このような「科学的なものの見方・考え方」は、今日の人間社会にどのような影響を与えているのであろうか。
自然界や人間界を問わず、それらを現象として把握し、その因果関係を法則として明らかにすることが可能だという考え方は、ひるがえって、人間は、人間が理想と考える状況を、科学の力によって人為的に作り出すことが可能であるという思想をもたらしている。例えば、病気は長いこと人間を苦しめてきたが、その病気の因果関係の解明を通して、その治療の可能性は飛躍的に高まりつつある。例えば、遺伝子の異常に起因することが明らかになった病気に対しては、その遺伝子の該当箇所を組み換える技術を適用することで治療可能になる。また、社会の在り方については、国家が公共事業を実施したり、社会保障制度を構築したり、金融制度に介入したり、といったことを通して、産業経済社会の堅実な発展を可能にすることができ、人々の安定した生活を実現することができると考えられている。従って、科学が究極にまで進展した暁においては、全ての課題が解決され、人間は理想的な環境の中で生活することができると考えられることになる。こうした思想は、人権を尊重し、自由・平等を標榜する民主主義思想にも強く影響しており、理性主義とも言える。さらに、今日では、革新主義やいわゆる左翼系の思想の中核を占めているようにも思う。
「科学的なものの見方・考え方」の影響は、もちろん、こうした思想的なレベルに止まるものではない。今日の産業経済社会のあらゆる側面は、新たな科学的なイノベーションに基づいて競争、拡大している。コンピュータ、ネットワーク、電気自動車、薄型TVといったもの作りの分野は言うにおよばず、マーケティング技術、金融工学、電子出版といった側面から、目標管理や成果主義といった働き方まで、「科学的なものの見方・考え方」に影響されていないものを探す方が困難なほどである。さらに、ものごとの推進にあたっては、その目標達成をより確実にするために、状況の適切な把握を踏まえたPDCA(計画、実行、確認、対応)のフィードバックサイクルや意志決定における多数決論理の適用といった「科学的なものの見方・考え方」ならではのさまざまな施策が取り入れられている。
3.「科学的なものの見方・考え方」の以前のものの見方--「総体的なものの見方・考え方」
今日のわたしたちの社会は、上述したように、「科学的なものの見方・考え方」を中核として運営されていることは否定できないと思われる。それでは、こうした「科学的なものの見方・考え方」が登場する以前は、わたしたちは、一体、どのようなものの見方・考え方に基づいて生きていたのであろうか。
わたしは、それは、人間の生命や生存を全体的に確実にすることを第一とするものの見方・考え方のもとでなされたのだと思う。そのためには、ひとつの大きな権威をたてることが望ましかったし、身分制度のような社会的分業体制や緩衝剤的仕組みをもつことが意味あることとみなされた。そこでは、一部の犠牲を払ってでも、集団としての生存が最優先であり、権威や身分といったものの論理的・客観的根拠や理由は不問とされた。こうした見方・考え方を、わたしは、「科学的なものの見方・考え方」に対して、「総体的なものの見方・考え方」と呼びたいと思う。このような「総体的なものの見方・考え方」のもとでは、一部の秩序を乱し、全体に損害を与えるような行為は、厳しく指弾される。例えば、水田に水を引き入れる方法や里山における資源の採集など、伝統的なしきたりを犯すことは、ご法度であった。すなわち、個を尊重した自由・平等、自己責任といった人間観とは対極的なものであったと言えるだろう。
例えば、儒教は、まさに、こうした「総体的なものの見方・考え方」に基づく、社会運営理念を国家的規模で掘り下げたものである。こうした理念を掘り下げていた江戸末期の儒教思想家にとっては、西洋流の「科学的なものの見方・考え方」は、即時的な効果においては眼を見張る面もあったが、それは決してスマートで敬意を払って受け入れられるものではなかった。佐久間象山(「東洋道徳・西洋芸術[技術]のふたつを学び人民に恩恵を与え国恩にむくいる」省諐録)、橋本左内(「器械芸術は彼[西洋]にとれ、仁義礼智は我[東洋]に存す」)、横井小楠(「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」)といった幕末の思想家が、このような視点に立ったことも、ある意味では理解できるように思われる。(清水正之著「日本の思想」、放送大学テキスト参照。)
4.「総体的なものの見方・考え方」から「科学的なものの見方・考え方」への転換の吟味
上記の理解が正しいとすれば、人間は、その歴史を振り返るとき、近代に入って、「総体的なものの見方・考え方」から「科学的なものの見方・考え方」に、大きく舵を切ったことになる。それは、わたしたちの与えられた環境の中での生存を維持することを第一とする価値観から、わたしたち人間自身が望ましいとする状態を、自然界や人間界の諸現象の科学的理解に基づいて人為的に作り出そうとする価値観への転換である。これは、わたしのことばで言えば、与えられた環境の中で人間としての在り方のよさを追求する「在ること」指向の価値観から、環境に働きかけて人間としてよいと考える価値を積極的に創造していく「持つこと」指向の価値観への遷移である。
こうしたものの見方・考え方、あるいは、価値観の転換は、確かに、上述したように、そうした転換以前に存在した、人間に苦難を強いたたくさんの問題を解決した。病気の治療もそうだし、激しい肉体的苦痛を強いた労働も機械にとって代わられたし、衣食住の環境も清潔で便利で快適なものに変貌した。
しかし、そうした輝かしい面がある一方で、新たな深刻な課題が出現しつつあることも周知の事実である。第一に、地球環境問題である。大量消費社会は、石炭や石油などのエネルギー資源、鉱物資源、森林資源、食料資源などの天然資源を大量に必要とし、その廃棄物は、海洋、大気、山河などを汚染する元凶になっている。第二に、こうした活動を効率よく推進するために、企業、行政、軍隊などの特定の機能手段としてのさまざまな組織が設けられたが、そうした組織は、「科学的」であれ「総体的」であれ、人間としての「ものの見方・考え方」とは、別次元の組織独自の見方・考え方によって勝手に動き回る傾向をもっている。そして、組織のなかの人間は、そうした組織の論理に対して弱い立場に置かれざるをえない。こうした状況は、かつての伝統的な共同体的生活を駆逐し、都市生活者や独居生活の高齢者といった人間疎外状況に陥る人たちを増大させている。第三に、それは歯止めのきかない競争社会を作り出し、人々は、常に競争から振るい落とされないために強いストレスにさらされることになる。また、結果として、自己責任という名の経済的や社会的立場の格差を拡大させることになる。
5.今後の地球社会の在り方の具体レベルの考察
以上の考察を踏まえて、現実の地球社会の状況を、以下、より具体的にいくつかの観点から考察してみたい。
a.意識の覚醒についての考察
人間は一人ひとりが、独自の意識をもつ生きものである。はじめの意識の覚醒については、旧約聖書の記述がよく描いていると思う。すなわち、アダムとヱバがりんごの実を食べた後のこととして、こう書かれている。
「是において彼等の目供に開て彼等其裸體なるを知り乃ち無花果樹の葉を綴て裳を作れり 彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞しかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避て園の樹の間に身を匿せり」(旧約聖書創世記第三章)
この初めに覚醒した意識は、人間が生き抜く知識の基盤になったのだと思う。道具や火を使い、狩猟採集や農耕牧畜への道も開いたし、喜怒哀楽の感情の表現やそれを共有したいという願望が、言葉や儀式を生み出したように思う。他の生きものが、DNAのみによって子々孫々に生きかたを伝承するのに対して、人間は、複線の伝承ルートをもったことになる。これが人間の第一の意識の覚醒であり、「総体的なものの見方・考え方」の基盤になったのだと思う。
やや余談的になるが、人間が直立二足歩行し、大脳新皮質が増大し、それが、意識の芽生えを可能とする基盤を整備したのだと思う。そして、この過程では、カンブリア期に多様な生きものが爆発的に登場したのと同じように、多様な意識が誕生したのではないかと推測する。そうした多様な意識は、カンブリアモンスターと同じように、奇怪で狂気染みたものも含まれていたのではないだろうか。そうした過程は、意識は化石のようなものを残さないので確かなこととはいえないが、ホモ・サピエンスと呼ばれるわたしたちの先祖が現れる前に、さまざまな猿人が現れては消滅していったようなことから、こうした試行錯誤が幅広く展開されたように思われてならない。
第二の意識の覚醒は、ヨーロッパで起こり、それが「科学的なものの見方・考え方」の基盤になったと思う。この意識覚醒は、キリスト教の神の存在をプラトンやアリストテレスの哲学に立脚しながら論理的に証明しようとした神学者たちの努力、人間中心主義を謳うルネサンスの風潮、カトリック教会の権威を否定する宗教改革といった一連の出来事の中で純化され、ニュートンやデカルトといった人々によって結実したのではないかと思う。
では、第三の意識覚醒は、これからあり得るのであろうか。わたしにはありうるように思う。というより、第三の意識覚醒がないと人間は地球上から消滅してしまうのではないだろうか。「科学的なものの見方・考え方」を中心とする在り方では、既に限界に差しかかっているように思う。地球環境問題、民主主義の限界、深刻化する格差問題、これらを踏まえた地球規模の文化摩擦、といったことを解決していくためには、現状のものの見方・考え方では、不可能なのではないだろうか。
b.「科学的なものの見方・考え方」の人間界への適用について
「科学的なものの見方・考え方」を人間界の現象にどこまで適用可能なのか、という問題がある。自然界への適用については、素粒子論や宇宙論といったはなばなしい成果を上げているが、人間界に対しては、どうなのであろうか。この課題については、カント、ヘーゲル、ルソー、マルクスといった多くの哲学思想家が取り組んできたのだと思う。人間の認識能力の限界とか、理性の適用にあたっての限界とか、人間社会の歴史的な変遷を踏まえた法則性の探求とか、さまざまである。
こうした思索は、人間理解を深めたことは間違いないが、唯一正しいのはこれであるといったことにはなっていないように感ずる。
それは、人間の在り方の多様性のレベルを決めることができないのと同じではないかと思う。そして、生きものとはなにか、生きものはなぜ生まれてきたのか、といった形而上的な問いが根底に据えられているせいではないかと思う。人間社会全体の在り方の指針となるには、「科学的なものの見方・考え方」は、既に、限界を露呈しているように思われてならない。
c.地球社会の現状の課題と展望
今日の地球社会は、地球規模の大きな変化に見舞われているといっても過言ではないと思う。
科学技術的な側面で言えば、情報通信技術は、インターネット技術、クラウド技術、検索技術などによって日進月歩である。また、流通輸送技術は、自動車、道路、宅配システムなどの技術革新によって高度化している。生産技術は、五感を備えたロボット化、人工養殖、農薬などの活用が浸透してきている。このようなインフラ的なものから身近な仕事の在り方までの急速な変化は、伝統的な生活様式とさまざまな摩擦を生み出している。
人間界に対する人為的な介入のもたらすさまざまな軋轢も深刻化している。金融・マネーの世界では、ギリシャ国債などを始めとする通貨危機やマネーゲームの行き過ぎが、人間の制御範囲を越えてしまっているのではないかとさえ危惧される。国家の統治方法についても摩擦が生じている。リビア、シリア、中国などは、独裁政治国家のようにみられるし、宗教や民族の相違を踏まえた摩擦も頻発している感じである。アメリカ合衆国の価値観を中心とした文化統治に対して、伝統的価値観を守ろうとする側の抵抗も根強いものがありそうである。
このような上述した課題は、どのようにして、どのような解決に向かうのが適切なのであろうか。「総体的なものの見方・考え方」と「科学的なものの見方・考え方」のみでは、不可能なように思えてならない。
日本は、明治維新をきっかけに、「総体的なものの見方・考え方」を踏まえながら「科学的なものの見方・考え方」を移植すべくそれなりの努力を重ねてきた。しかし、日中・太平洋戦争に、その思い上がりによって、完膚なきまでに叩きのめされてから、思想的価値観を喪失してしまったかのようである。数百万人とも言われる同胞の命をほとんど無為に死に至らしめたことも忘却の淵に追いやってしまった。そして、目先の利害のみに走る理念なき国家と堕し、世界からパッシングされるような状況に到ってしまった。日本は、「総体的なものの見方・考え方」と「科学的なものの見方・考え方」の二つを相剋し、第三の意識覚醒を先導するような立場を確立することが求められているように感ずる。
6.まとめ
この宇宙は、なにがトリガーになったのかは分からないが、137億年まえにビッグヴァンという現象によって誕生し、重力が生まれ、銀河団が生じ、そして、超新星爆発によって重金属などの元素が作られ、46億年まえに地球が出来上がったようである。そして、38億年前に生命が生まれ、さらに、光合成生物、真核生物、多細胞生物などが生まれたと言われる。さらに、2万年ほど前に誕生したホモ・サピエンス(新人)が人類の先祖になったと言われる。わたしがここで思うことは、まず、生命は、有機化合物を熱や放電などでかき混ぜることによって偶然に出来上がったものだとはとても思えないという点である。4塩基のコードとアミノ酸の対応などの仕組みは、設計以外のなにものでもない。ホーキング博士の言うように、宇宙は、なにかの意志によって創られたと受け止めるのが自然だと思う。こうした認識のなかで、わたしたちはどのような在り方をしていくのが適切なのか、思索と実践を深めていく必要があると思われてならない。 |