この原稿を書いている間に、衆議院議員の総選挙の公示が始まり、各候補者が選挙戦へと走り出していくことになります。
今回の選挙は、3年前に行われた総選挙で大勝した民主党による政権交代の是非を問う選挙だけでなく、東北大震災による津波で、福島の原発が爆発し、大量の放射能を帯びた物質を日本の国土にまき散らしたことで、今後の原子力発電の是非を問う選挙になる可能性もあります。
選挙前の情勢として、民主党は、大飯原発を再稼働させる一方で2030年までに「脱原発」を行う、自民党は時期を明確にせず、代替エネルギーの動向により、脱原発を進めるといったように、曖昧な態度に終始していました。
さらに、これまで「脱原発」を打ち出してきた橋下大阪市長率いる日本維新の会が、石原元東京都知事が党首の太陽の党と合併するにあたり、それまで掲げていた「脱原発」の公約を撤回することになりました。
そのため、一時は、「脱原発」を旗印にする党は、日本共産党と社民党といった既存の政党に限られてしまい、「脱原発」は総選挙の争点にはならなくなると思われていました。
そこに、明確に「脱原発」を掲げて嘉田滋賀県知事を党首とする日本未来の党が誕生し、さらに、小沢元民主党代行が率いる生活が第一を含め、「脱原発」で一致する小政党が、日本未来の党に合同することで、ここに「脱原発」を旗印の政党が出来たことで、俄然「原発」が争点となってきました。
この原発を巡っての問題は、昨年の東北大震災の津波により、原子炉の冷却機能を失った原子炉を制御できず、その結果、大量の放射能を含んだ物質が空気中にまき散らされ、現在も、汚染された地域では、住民の避難が続いています。
今後、その避難の年月がどれほど長期間にわたるのかも明らかではなく、さらに、放射能の人体への影響も含めて、まだまだ未知の問題も多く、これをこのまま放置しておくことが出来ないことは、誰の目から見ても明らかです。
さらに、今回の大震災を契機に、既設の原発を再度点検していく中で、原発の立っている地面の下に、活断層が発見されるなど、安全性に不安のあることも判明するなど、これまできちんと議論をされぬままに進めてきた国の原発政策に、大きな綻びが生じているのも明らかです。
こういう事態を直視しながら、これまでの政策から大きく舵を切ることもできず、どこか歯切れの悪い民主党政権に、期待できないと感じている国民も多いと思います。
実際、そういう気持ちや声をデモという示威行動で示すべく、首相官邸に向けての「反原発デモ」が、昨年から今年にかけて続いてきました。
だから、こういう国民の声を代弁してくれる政党として、嘉田滋賀県知事を党首とした日本未来の党に期待する向きも多いように思います。
わたしの個人的な気持ちとしては、出来れば、一日も早く原発は無くなった方が良いと思っています。それは、安全性の問題もさることながら、使用済み核燃料の処分の方法も無いままに、原発による発電を続けてきたことに、以前から大きな疑問を抱いていたからです。
最終処理が出来ない人間の健康に大きな被害をもたらす放射能物質をため込み、それを地中深く埋めることしか出来ない現在の人間の科学技術では、本来は、使用すべきエネルギーではないと考えています。
ただ、これはあくまでもわたし個人の気持ちです。現実を冷静に眺めて見たとき、こういう個人的な感情とは無縁に、いま現在、日本社会において、原発は必要なものとして位置づけられていることを否定できません。
と言うより、わたしたちは、この四十年以上の歳月、日本国内に原発を建設することを黙認してきたのでした。勿論、原発立地地域では、激しい反対闘争が行われ、それが原因で、立地を諦めた地域も何カ所かありました。
しかし、あくまでもそれは一部の小さな地域での反対闘争で、日本全国を巻き込んだ大きなうねりにはなりませんでした。それは、原発建設立地の地域に特有の問題があったからです。
その問題とは、過疎とそれに伴う地域の疲弊でした。現在、日本地図で原発が建設されている地域を図示すると、ほぼ100%の地域が、その県都から離れた箇所にあることが分かります。
例えば、わたしの住んでいる石川県の県庁所在地=県都は、金沢市ですが、原発がある志賀町からは、100キロ近く離れた場所に位置しています。
志賀町に建設される以前に候補地となっていた珠洲市とは、200キロ余り離れており、いずれにしても、人口の少ない地域が優先的に選ばれてきました。
つまり、同じ県内にあっても、原発の建設予定地となる地域は、できるだけ人口の少ない、建都から離れた地域を意図的に選択してきたことがよく分かります。
もし、建都に近いところで、建設計画が持ち上がったとしたなら、多分、金沢市民の大多数は、建設に反対し、多分、その計画は一方的にとん挫したことと思います。
ところが、これだけの距離が離れると、同じ県内とは言え、随分と遠い地域といった印象になり、直接自分には関係がないといった思いから、建設反対を声高に叫ぶ人は少なかったのが現実でした。
その結果、珠洲市ではとん挫した原発建設が、新たに場所を変え、計画され、実施され、運転されることになりました。
多分、地元の志賀町の住民は、昨年の大震災が起こり、巨大な津波により、原発が事故を起こすまで、これほど大きな被害を、地元にもたらすものとは思っていなかったことと思います。
ところが、そういう安全神話を根本からうち砕く自然災害のエネルギーの凄さに、地元の人間だけでなく、県内の近隣の市や町の住民、県外でも、拡散ルートに指定された地域の住民までもが、将来に起きるかも知れぬ事故に戦慄を覚えたのでした。
しかし、地元の住民の気持ちは複雑です。将来の事故を予想すれば、一刻も早く原発の停止を望みながら、それがいつ生ずるか分からぬために、それまでの自分の生活をどう営んで行けば良いかという大きな問題の前に立ちすくんでいるというのが現状です。
それと言うのも、原発は、建設が計画され、それを地元が受け入れた時点で、そこに住む人々の生活は、原発を抜きにして営むことが出来ない状況に陥ってしまうのでした。
正直なところ、原発が建設される以前の志賀町は寂れていました。かつて、良港に恵まれ、水産物の水揚げなどにより活気を帯びていた町も、高度経済成長による都会への若い世代の大量流入により、過疎化が進み、さらには水産業自身が、産業として魅力のないものに変わってしまいました。
これは、なにも志賀町だけの問題ではなく、全国に共通の問題であったと思いますが、ひとたび疲弊し、人口が流失した町を活性化する有効な手段は簡単には見つかりませんでした。
そこに原発建設の話が舞い込んできたのでした。勿論、原発が危険なものであることは誰の目にも明らかでした。ひとたび、事故が起きれば、周囲一帯は汚染され、居住できない地域になることも、チェルノブイリの原発事故で明らかになっています。
しかし、事故が起きないという前提に立てば、原発が近くで稼働していることで、日々の生活に直接的な被害が生ずることはありません。それどころか、原発を稼働させるための労働力の提供、定期点検などで定期的に訪れる技術者・労働者等への宿泊施設の経営、電力会社から迷惑料として毎年拠出されるさまざまな補助金。
こういったものが、地域経済を活性化し、豊かな生活を保障していくということであれば、当初は建設反対を掲げていた住民達も、やがては矛を収め、建設に協力的になることを、部外者が批判することは難しいと思います。
そういう意味で、首相官邸周辺を反原発のプラカードを掲げてデモに参加する人たちの立ち位置は単純だと思います。あくまでも、イデオロギーとして、反原発を表現すれば済むからです。
そのことで、自分の生活の糧を失う、あるいは、住むところを失うこともありません。自分の思いをストレートにデモという形でぶつけているだけです。
勿論、そのことが悪いとかおかしいとか非難するつもりはありません。こういう自分自身の信じているイデオロギーを自由に表現できる日本社会は素晴らしいと思っています。
ただ、原発立地の地域に住んでいる人たちは、こんな簡単に割り切れないと言うことです。多分、「なくなるなら、なくなった方が良い」と心の中では願っていることでしょう。
しかし、そのことで、生活の糧を失い、その結果、ここでの生活が困難になり、どこか別の場所に移り住まなくてはならなくなるかも知れません。
つまり、それだけ深く、原発と彼らは結びつけられているのです。一度、それを認めた限り、そこからの自由はありません。原発を背負って生きていくという生き方以外に方法はないのです。
これは、沖縄の基地問題と似ています。沖縄の基地問題は、政治的には日米安全保障条約に縛られていますが、そこに住む人たちは、基地との経済的共存に縛られています。
先日も、アメリカ兵が沖縄の若い女性に暴行した事件をきっかけに、アメリカ兵の夜間外出禁止令が施行され、アメリカ兵が基地の外に出られなくなった際、基地周辺でライブ・バーを経営している男性が、「これで何軒かのバーが潰れるかも・・」という話をテレビで語っていました。
確かに、基地があることで、こういう不条理な犯罪に沖縄の人たちは晒されている現実が一方でありながら、それを必要悪として認め、生活の糧としている人たちも一方でいるという現実を、認めざるを得ないのが、現在の沖縄の状況です。
だから、ただ単に、感情の赴くまま「反対」を唱えれば、全てが解決するというのは夢物語に思えます。解決をするためには、反対を唱えるのではなく、複雑に絡み合った現状を、辛抱強く解き放していく忍耐と想像力が必要に思えます。
しかし、最近の日本人は、そういう堪え性を失いつつあるように思えてなりません。すぐに結果を求める余り、ものごとを単純化し、早く白黒をつけようとします。
確かに、単純化し、白黒をはっきりさせることは、気持ちもスカッとします。でも、そのことで、問題の背後に隠されているものを見落とすため、一時的な解決にはなっても、また、再び問題が生ずる場合も多いのです。
民主党政権になり、当時の鳩山首相が、沖縄の基地に関して、「国外あるいは少なくても県外移転」と宣言しました。これは、戦後アメリカに占領され、日本に返還後も、アメリカのくびきから逃れることが出来ずに苦しんできた沖縄県民には、まさに政権交代を象徴する画期的な出来事と受け止められました。
勿論、沖縄県民だけでなく、日本全体が、この鳩山首相の言葉に瞠目し、政権交代の成果とは、こういうことに現れるのだと大きな期待が高まりました。
しかし、実際のところ、この言葉を実現に移すための交渉もロードマップも何一つ決まっておらず、政権奪取した高揚感から発せられた戯言だったことが明らかになりました。
確かに、鳩山首相の言葉は、戦後の日本社会のくびきを断ち切る画期的な言葉だったことは間違えありません。日本人の誰しもが、この言葉に、新しい日本の進路をイメージしたのではなかったでしょうか?
ところが、それが全くの口から出任せの戯言だと判明したとき、期待が大きかっただけに、その反動としての失望も大きかったのでした。
そのことがきっかけで、鳩山首相は首相の座を降りることになりました。いや、それは彼だけの問題とはなりませんでした。政権交代を果たした民主党そのものへの不信となって噴き出したのでした。
多分、鳩山首相は、政権奪取した高揚感に酔いしれて、ついつい口走ってしまった言葉だったと思いますが、堪え性のなくなったいまの日本国民には、許すことの出来ない言動不一致に映ったようでした。
これと同じことが、今回の選挙でも生じています。原発に関しては稼働している原発は即時停止し、十年以内に原発を廃止するという日本未来の党の公約です。
正直なところ、民主党の二千三十年までに廃止するという公約も、危ういかなと思っていただけに、それが二十年近く短縮するという公約は無謀にすら感じています。
その理由はこれまでに書いてきた通りです。地域経済と深く関わり合った原発を無くすということは、最終的にはその地域そのものを崩壊させ、消滅させることになるかも知れぬことを、わたしたちが覚悟出来るかを問うことでもあります。
勿論、原発立地の地域が消滅することは、日本の社会全体にとっては大した影響はありません。多分、これから進む少子高齢化により、農村部を中心に、限界集落は増大し、最終的には無住地域になっていくことを止めることは出来ません。
そういう意味では、どういった公約も、最終的にはどちらでも良いということになりそうです。しかし、政治というものが、人々の幸せを考え、その実現に向けての営みであるなら、消え去っていく弱い立場の人間への想像力は必要ではないかと思います。
戦後、日本社会は豊かな暮らしを求めて、ひたすら経済的効率を優先させてきました。その結果、戦前に在った農村と都市との格差も解消され、どこに暮らしていても、一定レベルの生活を享受できるような社会ができあがりました。
しかし、そのためには大きな犠牲が必要でした。まず、最初の犠牲は高度経済成長を推進していくための安価な労働力を、農村部から大量に都市へと移転したことでした。
もし、単純に農業から工業へという産業構造の変革が行われたのであったなら、なにも都市部に労働力を集中させることなく、各地で、工業化していけば良かったわけです。
でも、現実は経済的効率と大量生産による競争力を確保するための分散ではなく集中でした。そのために農村部から大量の若者達が都市部へと半ば強制的に移転されました。
その結果、日本は高度経済成長を実現し、その波及効果により、農村部も豊かな暮らしを実現することが出来たのでした。しかし、それが一巡した辺りから、労働力を失った農村部は、過疎化に悩まされることになりました。
それを解決する手段として選ばれたのが、土木工事による公共事業投資でした。それにより現金収入を確保できた農家でしたが、その公共投資も一巡すれば、新たな投資に期待できず、就労の場を確保できない若い世代は、地域に見切りをつけて、職を求めて都市部へと移動していきました。
そこで、考えられたのが新しいエネルギーである原子力発電所の建設でした。原子力というまだ人間が完全に制御できない技術であるため、人口の多い都市部での建設には大きなリスクがありました。
このリスクを最小限に出来る場所。それは人口が少なく、過疎地域であることは誰の目にも明らかでした。そして、就労の機会がない過疎地域にとって、リスクはありながらも、原発建設は、経済的な理由でも魅力あるものでした。
こうして、まず都市部に人間を吸い取られた農村部は、次に、原発建設を容認することで、エネルギーを吸い取られることになりました。自分たちが使うエネルギーを生産するのではなく、都市部が使うエネルギーの生産を担うことになりました。
昨年の東北大震災の津波で福島の原発が大きな被害を受けた時に、どこが一番大きな影響を蒙ったのかと言うと、東京を含めた都市圏でした。つまり、福島で作られていた原子力発電による電気は、地元ではなくそのほとんどが都市圏で使用されていたということになります。
そして、原子力発電の事故により、今度は、原発そのものが不要であるという議論が生まれ、いずれにせよ、将来のいずれかの時点で原発は廃炉となるようです。
考えてみれば、戦後の農村部は、こうして三度も都市部から収奪されることになりました。一度目は人間を、二度目はエネルギーを、そして、三度目は地域の存続それ自体を・・。
ここまで尽くして捨てられる農村部の悲しみを、わたしを含め都市に住む人たちは、もう想像することすら出来ないほどに、鈍感になっているのでしょう。
そんなわたしの頭の中に一つの節(メロディー)が鳴っています。明治の終わりから大正にかけて流行した「ストトン節」という節(メロディー)です。その唄はこんな歌詞です。
「ストトン ストトンで通わせて いまさらイヤとは強欲な
イヤならイヤと最初から 言えばストトンで通わせぬ
ストトン ストトン」
これが本歌です。遊郭通いの男が、遊女の言葉に騙されて、通い詰めたのに、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、愛想付かされたことを恨みっぽく歌った歌詞です。
これを、原発立地の過疎地に住む人たちの気持ちを代弁して、わたしはこんな替え歌を作り、この稿を終えたいと思います。
「ストトン ストトンで作らせて いまさらイヤとは強欲な
イヤならイヤと最初から 言えばストトンで作らさぬ
ストトン ストトン」 (了)
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