1.なぜ日本は戦争し大敗を喫したのか
日中・太平洋戦争では、約300万の日本人が死亡したと言われる。日本の歴史上、かつてなかったような数の死者をなぜ出すことになったのか。亡くなった人たちは、どのような思いで、その死を迎えたのか。こうした問いに正面から向き合うことは、今日の世界が、米欧中の三極化するなかで、日本が今後どのような道を歩むべきなのか、考える上でも欠かせない問いなのだと思う。
そこで、まず、昨年、NHKから放送された「シリーズ 日本人はなぜ戦争に向かったのか」という5回に渡った番組の内容を整理してみたい。
(1) 外交敗戦 孤立への道
謀略の満州事変、傀儡政権による満州国独立といった日本の対応は、脱帝国主義、民族自決主義への機運、および、米国の満州からの排除などにより、日本の国際社会からの孤立を深める結果となった。一方、国民は、満州国建設に熱狂しており、希望的楽観的観測に終始し、さらに、外務省と陸軍は、別個の外交交渉を展開し、国際的信用を失墜した。もはや、ほおかぶりで国際世論に対応することは不可能になった。防共協定、ナチス・ドイツへの接近、日中国交交渉など、すべて場当たり的であり、外務省と陸軍は情報を共有することもなく、孤立化への道をひた走った。
(2) 巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム
陸軍は、元老・山県有朋のもとにあったが、総力戦としての第一次世界大戦を目の当たりにした若手エリート軍人を中心に、重工業を核とした国家全体の改造を押し進めようとする勢力が台頭しだした。次第に、こうした若手が人事権を握り、軍の合理的改革を進めるようになった。石原莞爾は、なかでも過激であり、満州の武力による領有を主張した。軍部は、その後、統制派と皇道派の派閥抗争に陥るが、統制派の永田鉄山が斬殺され、百家争鳴の混乱に陥った。一方、政党政治は権力欲にまみれ、国民の信頼は得られず、ついには、明確なファイナルアンサーで訴える石原莞爾・板垣征四郎は、満州での成果によって、国民的歓迎を受けるようになった。中国大陸での出先の陸軍部隊は、中央の統制を無視し、慣例は前例となり処罰はなくなり、出先のセクションの長となった者は全体のことを考慮することがなくなり、犠牲者も伴った成果へのこだわりはいっそう強いものになった。こうした経緯を経て、陸軍という組織の暴走に歯止めがかからなくなった。
(3) 熱狂はこうして作られた
新聞は、満州事変をきっかけに、急速に売上を伸ばした。報道合戦、号外競争が繰り広げられ、新聞は、戦線の拡大を支持した。不買運動を恐れ、国益と戦争の現場のたいへんさに押され、メディアも同調しだし、熱狂が一人歩きを始めた。唐突的な国際連盟脱退も、新聞は支持し、帰国した松岡洋右は、大歓迎を受けることになった。自信のない政府や軍部も、新聞によって形成された世論に頼るようになった。新聞は、冷静に判断できるような材料を提供することなく、戦争への熱狂を逆に煽った。
(4) 開戦・リーダーたちの迷走
米国と戦争すべきではないことは、国力の相違を知る軍人たちの共通認識であった。しかし、陸軍の北進論と海軍の南進論の方針の相違や互いの面子のなすり合いなどにより、大本営連絡会議は、決定の先送り、総花的作文に終始した。こうした中で、拡大解釈と関東軍の大動員などが進められ、一方、備蓄資源も底をつき始めた。若い軍人は一刻も早い開戦を主張し、そして、リーダーたちはこれまでの犠牲に背を向け、満州から手ぶらで帰って来いと言う気概も持っていなかった。近衛首相の米国との裏工作も破綻し、東条陸軍大臣の啖呵切りとなり、米国との戦争に勢いとして突入せざるをえなくなった。
(5) 戦中編 果てしなき戦争拡大の悲劇
陸軍と海軍の戦略の相違は、修復されることはなく、一国のなかで二つの戦争をすることになった。大本営政府連絡会議でも、互いの主張は並行線を辿り、趣旨不明確で根本的調整なしの中堅官僚による作文が、トップの裁可を得るために作成され、官僚的儀式的決定が繰り返された。ミッドウェー海戦での致命的敗北も組織のバランスの観点から隠蔽された。次第に、兵士は、死んで早く日本に帰ろうといった気分に陥って行った。
2.明治維新における価値観の転換
確かに、外交の失敗、官僚組織の機能不全、マスメディアの煽動、リーダーの不在、などを要因としながらも、冷静に振り返ってみれば、ある種の勢いに流された集団自殺的な戦争であったことが理解できる。しかし、こうした戦争に向かった原因は、わたしは、日清戦争にまで遡るべきだと思う。例えば、司馬遼太郎氏は、日清・日露戦争のころまでの日本人は誠実で正直であったが、その後、ブリキの戦車を使ったり、敵の戦車に体当たりするような馬鹿げたことを日常化するような状況になった、という見方を提示している。しかし、これは、日清戦争のころからの一つの勢いの結末とみるべきであって、日露戦争を境に、日本人が傲慢、愚鈍になったというのには、無理があるように思う。現に、司馬遼太郎氏は、なぜ、日露戦争以後、日本人はおかしくなってしまったのか、また、どうすればよかったのか、という問いに正面から答えてはいないように思われる。
わたしが思うに、日中・太平洋戦争、そして、その敗戦後の経済大国化とバブル崩壊とは、明治維新から一貫したひとつの流れとして捉えられるべきものだと思う。
結論めいた言い方になるが、「ありかたのよさ」を指向していた江戸時代の社会から「より多くもつこと」を指向する近代社会に、明治維新をきっかけに、価値観の転換を余儀なくされたのだと思う。そして、その後の流れは、富国強兵や殖産興業を追求していく一貫したプロセスとみるのが適切なのではないだろうか。日清戦争は、朝鮮を巡る争いに端を発するが、これも文明開化の機運に押し流された気負い(福沢諭吉や内村鑑三も含まれる)、および、国学の伝統的な朝鮮蔑視と反徳川の尊皇攘夷思想が、底流にあるとみるべきだと思う。明治新政府から朝鮮に開国を勧める文書に、不適切な表現があったというのは、表面的な理由にすぎないだろう。
「より多くもつこと」を指向する土俵の上で、日本は、我が身の在り方を冷静に振りかえるゆとりもないままに、欧米列強と同じように振る舞えばよいと思い込んだ。そういう点では、日中・太平洋戦争で完膚なきまでに壊滅させられた後、軍事的脅威は、米軍が担当してくれるということであり、日本は経済活動に専念することが可能となった。このことは、願ってもない環境が整備されたことを意味し、そのおかげで経済大国となり、国民は、物質的な面では、世界に冠たる状況を作り出すことに成功した。しかし、物質的価値のみを追求する世界は初めての体験であり、それに有頂天となり自制心を失い、その途端に土地神話に踊らされたバブルは崩壊するという悲惨に陥った。そうこうしているうちに、米欧中の三極体制のなかで、日本はどのように振る舞うべきなのか、なんの指針もなく、政治、経済、教育などあらゆる面で混迷の度合いを深めているのが、今の日本の姿といえるのではないだろうか。
3.米中対決必至のなかでの日本の役割
「より多くもつこと」の価値観は、言うまでもなく、科学技術文明の成果として西欧で誕生したものである。物質的な側面に重点をおいた便利さや快適さを追求するこの価値観のもとでは、なにか新たな問題が発生すれば、その問題を解決するために、徹底した新たな対応が考案される。衣食住の高度化、医療・通信・輸送・エネルギーの研究開発など、枚挙に暇がない。確かに、そうした対応によって、問題は次から次に解決されてはいく。しかし、そうした部分的な問題をうまく解決していくことはできても、いつのまにか、全体におよぶとてつもなく大きな別次元の問題が顕在化してくることも否定できない。局所的な問題解決に専念して、うまく解決してやれやれと思っていたら、背後に巨大な問題が迫っていたということである。地球環境問題、個人情報問題、医療格差などが、これに該当すると思う。
さて、では、これからの日本のありかたは、どのような方向に求めるのが適切なのであろうか。地勢学的にも、米国と中国は、次第に激突するような関係になると思われる。軍事的衝突にはいたらないにしても、政治、経済、外交、文化など、さまざまな面で摩擦を引き起こすと予想される。例えば、最近の新聞紙上(12月12日・朝日朝刊)で、清華大学当代国際関係研究院院長の閻学通氏は、こうした状況の到来を断言し、「民主主義、自由、平等」といった概念に対する、中国の「公平、正義、文明」の優位性を示唆している。さらに、閻氏は、日本は米国の属州になるのか、中国の冊封的国家になるか、選択を迫られるような状況をも示唆しているようである。
わたしは、こうした地球社会のこれからの在り方に対して、日本の位置づけは大きいものになると思う。日本は、中国文明とも身近に接してきた。漢字の使用や儒教の研究もしてきた。上記の閻氏は、儒教的道徳が今の中国から消えかかっていることに危機意識を抱いているようである。同じアジア人として、歴史的経緯を踏まえてうまくやれば、胸襟を開いた会話も可能となる筈である。一方、西欧文明についても、明治維新以来、その導入に熱心に取り組んできたし、基礎的な研究もかなりのレベルまで到達しているように思われる。東洋的な「ありかたのよさ」を基調とする価値観と西洋的な「より多くもつこと」(もちろん欧米がこれ一辺倒という訳ではない)を指向する価値観の間の橋渡しの労をとれる国家として、日本の位置づけは大きいと感ずる。もちろん、そのためには、両方の文化に対する見識を深く掘り下げる努力が不可欠である。そこは、日本人の農耕民族として培われた勤勉さを助けとして、切磋琢磨すれば不可能ではないように思えるのだが・・・。
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