前号で衆議院議員の総選挙の公示が始まったと書きましたが、その後の結果は、皆さんもご承知の通り、自民党の圧勝ということになり、安倍総理大臣が誕生しました。
5年前に、総理大臣の身でありながら、体調不良を訴え、総辞職した安倍氏が、再び、総理大臣の座に復活するということは、民主党もさることながら、自民党にも人材がいないことを、改めて国民に知らせることとなりました。
しかし、復活する前は、散々マスコミなどでも揶揄されていた安倍総理大臣ですが、就任後は、前評判を覆すように評価され、国民の支持率も高く、安定した政権になっています。
これは、彼の施策が良かったというよりも、「アベノミクス」という言葉により、行き過ぎた円高を是正し、デフレを脱却するためにインフレ・ターゲットを設定し、それにより株価が急騰し、これまでの重苦しかった雰囲気を払拭した面が大きかったように思います。
実際、現時点では円安が進み、株価が上昇している以外、特に、経済的な面での変化はありません。それどころか、本来、株価は業績と連動するように、上下運動を繰り返すというのが、教科書的な株価理論であるなら、現時点では、必ずしも、教科書的な株価理論に基づいていない現象が見られます。
営業利益、純利益などが赤字でありながら、安倍政権が発足以降、大幅に株価が上昇している銘柄がいくつも見受けられます。勿論、株価自身は、現在よりも、将来にむけての期待値という面で、株価上昇が起こるわけですので、この上昇も、将来に向けての期待値と考えることはできますが、現状の国際経済環境を冷静に眺めている限り、必ずしもその期待に沿うことがないように思えてきます。
そういう意味で、今回の株価上昇に関しては、一種のバブルの匂いがしますが、逆に言えば、リーマンショック、3・11の東日本大震災といった出来事により、投資のマインドが冷え切り、それに加えてユーロ圏での経済危機といったように、ネガティブな国際経済環境に抑圧されてきたものが、一度にはじけ出したと言っても良いのかも知れません。
丁度、一年ぐらい前になりますが、日本の某週刊誌が、「日経平均五千円の恐怖」などというタイトルで、世界大恐慌が今にも始まるといった特集を組んでいたことを思い出します。
その同じ週刊誌が、つい先日「日経平均株価は一万八千円超えを」などと「アベノミクス」によって、急激な株価回復が行われる記事を掲載していました。
いずれにしても、少々過激で極端な予測ですが、景気の「キ」が気分の「キ」というように、実態経済よりも、人々の気持ちの方が社会経済に及ぼす影響が大きいことを改めて感じています。
そういう意味で、前回圧勝しながら、三年余りの政権運営で、何一つプラス・ポイントをアピール出来ず、まさに自滅する形で、惨敗を喫した民主党から自民党に変わったことが、大きな気分転換になったことは否めません。
日本の伝統的行事に節分があります。現在は、「鬼は外、福は内」といったように、豆をまいて厄を払うといった行事ですが、元は追雛(ついな)と言って、鬼に禊を勧めて神殿に帰ってもらう。つまり、神である鬼に、一年間人間が犯す罪穢を皆引き受けてもらう行事だったようです。
わたしは、先日行われ、民主党が惨敗を喫した衆議院議員総選挙が、この追雛の行事であったように思えるのです。別に、民主党の政策が根本的に誤っていたわけではありませんでした。また、確かにいろいろ問題はありましたが、総理大臣を含め内閣も、先の自民党時代の総理大臣と内閣に比べて、格段レベルが低かったわけでもありませんでした。
しかし、「政権交代」という、なにかワクワクするような交代劇を目の当たりにした国民の目からすると、政権交代後の政治は、以前の自民党政権時代と大して変わりはありませんでした。
つまり、期待した分、逆に、以前より低い評価しか与えられないことになっていたのです。そこに、未曾有の災害と原発事故が重なりました。
元はと言えば、原発を積極的に推進し、「原子力ムラ」といった利益集団を形成してきたのは、自民党の政治家でした。ところが、事故が起きてしまえば、現実に政権を担当している民主党が事後処理を担当しなくてはならなくなりました。
正直なところ、なにをどうしたとしても不満や不平は鬱勃として起こってくることは否めませんでした。問題が大きければ大きいほど、ましてや、これまでに経験したことがない事態であればあるほど、対応は後手に回り、外部から眺めていると、何一つうまくいっていない面ばかりが目に付くのでした。
結局、民主党政権は、国民の期待値を裏切ると同時に、存在そのものがうまくいかない原因の一つと思われるようになっていきました。つまり、穢れがどんどん積み重なっていったわけです。
「穢れ」は、「気枯れ」に通じます。国民の元気が失われ、うまくいかない原因、元気になれない原因は、全て民主党のせいにされたといっても過言ではない状態で、野田元総理大臣は解散を宣言し、総選挙に突入したのでした。
これはもう最悪のタイミングといっても良かったかも知れません。疫病神となった民主党を権力の座から放逐するためなら、別に政党は関係ありませんでした。そして、お馴染みの自民党へと雪崩を打って票が動いたのでした。
ついに、穢れをまとった民主党は壊滅的打撃を受けたのでした。しかし、それが国民にとって「元気」になるためには必要な儀式だったのでした。
つまり、安倍総理大臣でなくても誰でも良かったのです。目の前から禍々しい穢れをまとったものが消えて無くなってくれれば、それで十分だったのでした。
さらに、人々は新しい元気を期待していました。それが、真に元気をもたらすものであるか無いかなどは、この場合関係はありませんでした。そんなことより、現状が変わればそれで良かったのです。
そこへ「アベノミクス」という言葉が現れました。別に、安倍総理大臣がなにか新しい政策を実行したというより、これから実行したいという宣言でしかありませんでしたが、その言葉に多くの人たちは反応したのです。
先ほど、株価の上昇は将来への期待値が反映されていると書きました。それと同じことが、「アベノミクス」という言葉により喚起されたのでした。
「アベノミクス」の実態は、「円高の是正」、「インフレ・ターゲット」、「生長戦略」などといった抽象的な言葉なのですが、それが抽象的であればあるほど、将来への期待値が高まるという不思議な関係が生まれたのでした。
そして、アメリカ経済の改善、ヨーロッパ経済の改善といった兆候がきっかけとなり、これまでの円高が円安へとトレンドを変えると同時に、株価も急速に上昇を始めました。その瞬間に、なにかフェーズが変わりました。
それは、疫病神だった民主党が壊滅的な打撃を受け、野党に転落し、その政治的力を失った時のように、それまでの風景から百八十度の転換が生じたといった感覚でした。
まさに、気分が変わったのでした。それまで低迷して元気の無かった株式市場が活況を呈するようになりました。低迷していた株価が上昇するに連れ、取引高も増え、儲ける投資家も増えてくると、突然、世の中の景気が良くなった感じを、国民全体が感ずるようになりました。
これは不思議なことですが、株式投資をしていない人にとって、全く恩恵のない事態でありながら、株価が上昇したことで、不景気感が払拭されたように感じたと言うことでしょうか・・
いずれにしても、穢れを抱えたまま、民主党は表舞台から消え去り、そのことで、穢れは払い清められ、新しい活力が生み出されたと多くの日本人が感じたことは間違えありません。
それにしても、こういう日本人の心の動きは、平安の世から変わっていないなと改めて感心しています。つまり、具体的に問題が解決されることより、誰かに、あるいはなにかに問題を預け、それを目の前から葬り去ることで、問題が解決したように感ずる心性のことです。
かつて、太平洋戦争で日本がアメリカに敗北した時にも、同様の心性が働きました。諸悪の根元を敗北した日本軍に背負わせて、それを目の前から葬り去ったのでした。そして、国民総懺悔という言葉により穢れを払ったのでした。
歴史を冷静な目で見れば、確かに、日本軍はさまざまな問題を抱えており、その独断専行が、壊滅的な敗北を招いたことは否めませんが、しかし、その日本軍を統括すべき天皇を頭にした官僚組織、国会議員に責任の一端が無かったとは言えません。
さらに、日本軍の独断専行を批判するどころか、それを支持し、さらなる戦争を引き起こしたマスコミや知識人の責任もあったはずです。そして、何よりも、一般国民の絶大なる支持がなかったなら、戦争継続それ自体が不可能でした。
そういう意味で、壊滅的な敗北の責任について、徹底的に追及されるのが当然のはずでしたが、日本国内にあいては、そういう責任追及は行われませんでした。
勿論、東京裁判により戦争責任と言うことで、軍人、閣僚といった人たちが罰せられましたが、それは一種の勝者による儀式でしかありませんでした。
大多数の国民は、そんな裁判よりも、一億総懺悔という言葉と同時に、二度と戦争をしないために、軍隊を持つことを放棄するといったことで、全ての穢れを日本軍に預け、新しい戦後世界を受け入れたのでした。
現在も、憲法論争の中で問題になっている「自衛隊」は、軍隊か否かといった議論、若い世代を含め、他国から見ても、奇妙なレトリックにしか思えません。
しかし、朝鮮戦争後、東西冷戦が強まる中で生まれた「自衛隊」が、戦後の日本社会で生き延びていくためには、「自衛隊」は、戦前のような軍隊ではないといったレトリックが必要だったのです。
もし、その時点で「自衛隊」を軍隊と認めてしまえば、折角、穢れを預けて、目の前から消し去った「日本軍」が、亡霊のように現れてくるという恐怖を大多数の国民が味わうことになりました。 だから、中身ではなく、名称として「日本軍」を持ち出すわけにはいかなかったということです。
ここへ来て、安倍総理大臣が、自衛隊を国防軍に名称を変更することを公約として打ち出したのも、戦後七十年近くの時間が経過し、かつて葬り去った「日本軍」に対する抵抗感が薄れてきたことの証かと思います。
勿論、まだそういった抵抗感を持っている国民は半数近くいることを考えると、この穢れの払拭には、まだ少し時間が必要であることを改めて感じています。
いずれにしても、穢れを目の前から消し去ることで、問題そのものが解決されたと錯覚する思考形態は、日本人の心性に深く根強く残っていることだけは確かなようです。
もう一つ、こういう日本人の心性を如実に示したものは、先日、安倍総理が参加を表明したTPPに関しての選挙公約です。確か、衆議院選挙の際、多くの自民党候補者は、「TPP参加反対」を公約に掲げていました。
しかし、同じ自民党の候補者の中で、「TPP参加賛成」の候補者もおり、必ずしも党として共通の公約ではありませんでしたが、自民党としては「TPP参加反対」の主張が大勢を占めている印象を有権者の一人として持っておりました。(当選者二百九十五名中二百五名が反対。割合にして七割が反対。)
一方、民主党においても、党内が一致しておりませんでしたが、執行部が「TPP参加賛成」といったメッセージを強く出していたため、民主党は「TPP参加賛成」といった印象がありました。
ところが、自民党が圧勝し、その後、「TPP参加」を安倍総理が表明した後の世論調査は、七十%近くの国民が、安倍政権を評価するという結果になりました。
この結果は、安倍政権が判断した「TPP参加」については、七割近くの国民が支持を表明しているということです。わたしは、正直この調査結果には驚かされました。
選挙の争点の一つとして国民的にも関心のあった「TPP参加問題」については、七割近い有権者は、「TPP参加反対」を表明していた候補者に投票したにも関わらず、選挙が終わった三ヶ月後は、同じ有権者の七割近い人が、それとは真逆な態度を明らかにしているということです。
ところが、そのことについて特にマスコミはなにも報じませんでした。そのことがわたしには不思議でした。例えば、マスコミが言う「民意」というものがあるのなら、三ヶ月前に示された「民意」が三ヶ月後には百八十度覆されたということは、衝撃的な事件といっても良いのではないかと思います。
しかし、そんな反応はマスコミも含めてどこからも起きてきませんでした。いや、それどころか、いつまでそんな過去のことにこだわっているのかといった反応を示す人が多いのではとも思われます。
そう考えてみると、衆議院総選挙前の「民意」というものが仮にあったのなら、それは「民主党政権」を目の前から消すと言うことだけであり、それ以外は多分どうでも良かったということだったのではないでしょうか。
つまり、穢れた「民主党政権」というものが消滅し、いま新しく元気な安倍政権が生まれたということだけで、以前に宣言した細々とした公約や約束なども一緒に消え去ったということでしょうか。
でも、三年ほど前、民主党政権で鳩山総理が、沖縄の基地に関して「最低でも県外」と宣言しながら、それが出来なかった時に、マスコミは徹底的に「公約違反」として、鳩山総理を責め続けました。
ところが、今回も同じように「公約違反」を犯しているにも関わらず、そのような批判は影を潜めています。いや、そういったことを話題にすらしていません。(二百五人もの代議士が公約違反をしているにも関わらず)
この違いは一体どこにあるのでしょうか?論理的に考える限り、前にも書きましたように、穢れを消し去った時に、一緒に全てを消し去ったということしか思いつきません。
勿論、民主党政権が良かったなどと言う積もりはありません。正直なところ、「政権交代」というワクワクするような変革がありながら、それを活かして新しいものを生み出すことが出来なかったことは事実です。
そして、それを厳しく国民から糾弾され、政権の座から追い落とされることも当然の報いとわたしも思っています。しかし、いろいろな問題はありましたが、彼らのやってきたこと全てを否定するということには違和感を覚えてなりません。
当然、そこには選別があってしかるべきだと思います。良いものはきちんと評価し、悪いものは糺していくといった作業が必要です。そうでなければ、政治の継続性ということ自体が否定されてしまいます。
でも、現実はそうではないようです。ゼロか百かといった白黒をつけることで微妙な判断を無視してしまおうと考えているようです。確かに、こういう一刀両断的な判断は魅力的です。多分、橋下大阪市長の言説に多くの人たちが魅了される理由も、きっとここにあると思われます。
ところが、現実はもっと複雑怪奇です。白と見えたものも黒と見えたものも、よく見ると濃淡がある灰色という場合がほとんどです。それ故、全てを肯定することも全てを否定することも、両方ともに大きな誤りがあるということです。
ただ、多くの国民は一瞬の快適さを求めています。白黒をはっきりつける勧善懲悪を心の底では強く望んでいるということです。今回の総選挙では、民主党は悪の穢れを身にまとい表舞台から追い払われました。
多分、これからもこういうことが繰り返されるであろうことは予測できます。しかし、国内にそういう対象がある限り、国内問題と言うことで終わりますが、国内にそういう対象が存在しなくなった時、それを外に求める時が生まれてくるかも知れません。
国内の不満を対外的に解消するといった手法は、これまでの歴史の中に数多く見られます。そして、それは大きな悲劇を生みだしてきました。近隣諸国の間にある領土を巡る問題がクローズアップされている現在、過去の亡霊が再び姿を現さないよう心したいものです。(了)
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