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第120号

2013年7月25日

【編集あとがき】

 

 浅田さんの論文=アベノミクスとはなにかということについては、わたしもどうもよく分かりません。しかし、世界には、投資マネーとか、国債マネーとか、証券マネーとか、中央銀行発行マネーとか、どうも、いろいろな巨額な怪物マネーがまさに徘徊しているのではないか、という印象をもちます。したがって、とても個人的な知識の範囲で、この会社の株式を購入してみようか、という気持ちになれません。そして、怖いというか、不安に思うのは、今の人間社会は、こうしたマネーを人為的に扱うことによって、自分たちの都合のよい状況(例えば、好景気)を自分たちの手によって作り出すことができるという考え方に立脚していることです。近代経済学とか、そういう学問が確立しているということなのでしょうか。どうも日常感覚とは切り離された世界で、経済が動いているような不気味さがあります。

 憲法については、わたしも本号で言及しましたが、今現在の憲法というのは、人間観からして、非常に、楽観的というか、人間は、その知識を使うことで、どのような問題も解決できるといった安易さを感じます。そして、もし、中国や韓国の巡視船などと銃撃戦を演じ、死者がでたような場合、本当に、正面から会話する能力がいまの政府にあるのか、という点を恐れます。相手の立場もしっかり踏まえた会話能力を備えたうえでの戦争放棄宣言ならいいと思いますが、なにか安易な理想主義だけに基づく、戦争放棄宣言というものに、わたしは、無責任なものを感じます。

 多数決に立脚する民主主義というものが、浅田さんの言われる空気のようにただ漂うようなものであるとすれば、これは、もう少ししっかりした権威の装置をもたないことには、人類は、本当に存続していけるのか、疑問を感じてなりませんが、どのようなものでしょうか。

 

 薗部さんの論文=人間の長い歴史を振りかえるとき、宗教的な権威に覆われていた時代がいかに長かったかということは言うまでもないと思います。そして、個人というものの価値がクローズアップされだしたのは、ヨーロッパ近代に入ってからであり、まして、日本においては、真の意味(現在の日本の社会において、西欧的な(?)視点からみて、個が本当に尊重されているか、と問われるとかなり困りますが。)においては、戦後からではないか、と思います。そして、芸術や美術は、宗教的な権威への畏敬の念を表現し、それを共有しあうことに、伝統的に貢献してきたものだと理解しています。そうした土台に立った上で、個としてのオリジナリティーのものだけによって、美を表現し、それを共有することが、どのようにして、どこまで可能なのかは、よく吟味してみる必要があると感じます。自分自身、嘔吐感を催すようなものを、他者と共有しあうというのは、ありうるとすれば、どのようなものなのでしょうか。宗教的な権威に捧げる美と、個としての人間同志で共有することを目的とする美とは、かなり距離感があるように感じます。原音楽、原文学、原絵画というと、なにか宗教的権威に結びついたものをイメージしてしまいます。わたしは本号で、伝統的なそうした宗教的な権威と科学の猛烈な勢いで増大する権威を、どう両立させるか、という問題を提起したつもりですが、個としての美の表現と、原絵画の美の表現が、どのようにして両立するか、という問いに通ずるようにも感じました。



「負けること勝つこと(76)」 浅田 和幸

「問われている絵画(111)-絵画への接近31-」 薗部 雄作

「伝統的自然発生的権威と存在感を増す科学の権威の両立」 深瀬 久敬

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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