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第121号

2013年11月12日

「知性と知識のバランス」 深瀬 久敬

 

1.今の日本の社会の風景

今日の日本の社会風景として強く印象にあるものは、若い人を中心にした働き方の変化である。単純化しすぎるかもしれないが、正規社員と非正規社員とに分類され、前者の正規社員は、目標管理、成果主義のもとで、数値的評価にさらされ、資格の取得などで日々、強いプレッシャーをかけられている。一方、後者の非正規社員は、派遣社員、契約社員などとして、決められた仕事を間違いなく効率的に遂行することが求められ、低賃金で、いつ仕事を失うかという不安感のもとにある。

つい30年ほどまえまでは、終身雇用、年功序列、企業内組合の三つに代表された日本型雇用形態も色濃く残っていたし、連帯意識に基づいた、みんなでがんばろうといった気概も実感としてあったと思う。しかし、格差や雇用不安定をもたらす今のあり方には、批判もいろいろあるが、逆戻りすることはありえないようだ。

経営者も研究職も含めて、こうした傾向は蔓延しており、機能主義、自己責任、資本主義、自由競争主義といった風潮は、あらゆる側面を覆いつくそうとしている。

 個人的には、一人の人間として、全人格的な主体的参加者意識を持ちにくい、こうした社会のあり方の傾向を強めることには、強い抵抗感を覚える。

 

2.機能主義、自己責任の由来

 では、なぜ、こうした機能主義や自己責任といった傾向が不可逆的なものとして社会を覆うようになってしまったのであろうか。人類の長い歴史を振りかえるならば、近代以前までは、「自然と人間」という構図のなかで、自然の恵みや災害に、感謝したり畏怖したりし、神権政治的な権威をたて、個人の犠牲はやむを得ないものとして、共同体としての存続を最優先する生き方をしてきた。

しかし、近代に入り、ヨーロッパの人達を中心に、自然界の現象を、その意味を問うことなしに、客観的に定量的に観察し理解するという姿勢を獲得するにおよび、科学技術の隆盛を招いた。そして、この視点の獲得と同時に、デカルトの「我思う、故に我あり」とか、パスカルの「人間は考える葦である」といった言葉に代表されるような、考える能力をもつ一人ひとりの個人の発見ももたらされた。それが、「自然と人間」という構図から「社会と個人」という構図への転換をもたらし、個人の欲望の自由な表現とか、自己責任と自由競争、人権思想と社会保障といった、社会全体の仕組みを総入れ換えするような事態を招いたのだと思う。

日本の社会は、こういう見方をするとき、こうした転換は、ついこの30年ほどまえに本格的になったということができるのであろう。それと同時に、科学技術の日進月歩の急速な変化やグローバル化の巨大な波に翻弄されるという一大転換期に投げ込まれている、というように捉えられそうである。

 

3.機能主義、自己責任のもたらすもの

こうした傾向の深まりは、わたしたちの社会に一体なにをもたらすことになるのであろうか。

 

まず、日本の社会については、次のようなことがいえるように思う。

第一に、若者が、結婚しようとしなかったり、結婚しても子供を生み育てるゆとりがなかったり、都会の便利で快適な生活を指向したりし、その結果、地方の過疎や限界集落化とともに、少子高齢化の傾向に歯止めがかからない。

第二に、国家としての成果主義という側面から、バラマキ的国家予算の膨張を妥当とみなさざるをえず、国債残高は、国民の貯蓄と見合う額にまで膨れあがってしまった。消費増税、岩盤規制改革、インフレターゲット、異次元の量的緩和といった対策がどこまで実効的なものになるのか、予断を許さないものになっている。

第三に、グローバル化の波は、明治維新から日中・太平洋戦争までの戦争の爪痕を、亡霊のように登場させている。中国や朝鮮との安全保障問題は、米中関係も含めて、今後の日本の安全保障に複雑な影を投げかけてくることになるだろう。さらに、中国は、小平氏の「先に豊かになれる者から豊かになれ」という改革開放路線を、まさに、近代社会の機能主義、自己責任を正面に掲げて推進してきたともいえ、いくら、そのあとに、「落伍した者を助けよ」との言葉、あるいは、儒教やキリスト教の活用があったにしても、ナショナリズや情報統制による強権国家としての姿はそう簡単にはなくならないように感ずる。

 

 次に、地球社会全体については、次のようなことがいえるように思う。

第一に、地球環境問題の深刻化であり、生物多様性保持への危惧である。人類の存在は、いまや、太陽の惑星地球の環境に影響を及ぼすほどのものになったということをわたしたちは、真剣に、理解しなくてはならないと思う。

第二に、天然資源の枯渇とそれに伴う紛争の勃発への危惧である。GDP指向で大量生産指向が、新興国を中心にますます強化されていくと思われる。そのとき、エネルギー資源、水資源、食糧資源、稀少金属資源、など大丈夫なのであろうか。人間は、互いの存在が、互いの存在に影響を及ぼさない範囲では、うまく共存しあっていける。しかし、いったん、互いの存在が、互いの脅威と捉えられると、戦争を回避することは、かなり困難な問題になってくるのだと思う。

 第三に、科学技術の指数関数的な進展が、社会のあり方にどのような影響をおよぼすことになるのかの予測がむずかしいことである。重力理論と素粒子理論を統合する超弦理論、コンピュータやネットに象徴されるIT技術の高度化、分子生物学や細胞生物学などに基づく脳や細胞レベルの解明を踏まえた医療技術、などの影響が大きいように思える。

 

4.知識と知性について

 以上のことを踏まえて、わたしは、人間の知には二種類あるのではないかと思う。ひとつは、外面的な知、知識とよびたいと思う。それは、石器を作成するとか、来年蒔く種をどれにするかとか、太陽や月の動きから暦を作り農耕のさまざまな作業の時期を決めるとか、薬草になる植物はどれかとか、人間の精神的世界の外に作用するものである。これらは、近代になり、科学の知識にまで発展したものであることは論を俟たないだろう。いまひとつは、内面的な知、知性とよびたいと思う。それは、生きものとして、他の生きものにいたわりをもって共存していくためにはどうあるべきかとか、自分の中にある欲望をうまくコントロールするにはどうするかとか、集団としての秩序を維持し生存していくためにはそれをどのように受け入れるかとか、そういった人間の内面的精神的世界に作用するものである。この知性と呼ばれるものは、宗教、哲学、文学、芸術などと密接な関係をもつものである。そして、人類は、知性と知識のバランスのある共存のなかで、地球上でもっとも繁栄する生きものとなったのだと思う。しかし、今問題になっていることは、知識の方の爆発的な膨張に比して、知性の方の停滞である。教育現場の学級崩壊といったことを聞くと、知識偏重で、知性の面を軽視している社会を反映しているのではないか、とも感ずる。また、ギリシアは、哲学や文芸においても、わたしたちに大きな影響をおよぼしているが、その社会では、奴隷制度が施行され、その結果、経済的にも時間的にもゆとりをもつ人たちが多くいたことが、その文明の誕生の礎となっていることにも注目したいと思う。高いストレスが蔓延し、ゆとりのない社会においては、知性の深まりは期待できないのだと思う。

 

5.地球という惑星の歴史と奇跡

 最後に、太陽の一惑星である地球の美しさをどう表現してよいのかよくは分からないが、その美しさは、生きものが存在しなければ、ピンとこないものだろう。山や川があっても、植物が生い茂り、魚がおよぎ、鳥を空を舞い、哺乳類や爬虫類や昆虫や蝶などのさまざまな動物が動き回っていなければ、殺風景なものになると思う。多様な生きものが存在していることが、地球の美しさであり、そして、人間も含めて、その外観の形態的な美しさへの感動も禁じ得ない。数10億年という気の遠くなるような長い時間をかけて、光合成、シアノバクテリア、ミトコンドリア、多細胞生物などの誕生を経て培われてきたこの地球という惑星の状況を、わたしたちはよく噛みしめなくてはいけないと思う。知識とともに知性を大切にして、地球全体としての美しさや恵みのなかで、うまく生き抜いていくことを最大の課題として生きていくことが要請されているのだと思う。



「負けること勝つこと(77)」 浅田 和幸

「問われている絵画(112)-絵画への接近32-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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