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第122号

2014年3月12日

「『個人と人間の時代』における人類の責務」 深瀬 久敬

 

今日の科学的知見によれば、わたしたちの住むこの宇宙は、百億年以上も前に、ビッグバンと呼ばれる現象によって、多数作られた宇宙のひとつである。そして、この宇宙は、物質と反物質とのCP対称性に破れがあり、物質界としてでき、そうした物質が、電磁気力、重力、ダークマターの力などによって、多数の銀河を作り出した。そのなかの天の川銀河の中の太陽という恒星をまわるハビタブルゾーン(水が液体として存在できる領域)と呼ばれる軌道上に、地球という惑星が誕生した。さらに、それに月という衛星が付属することによって、地球の自転の動きが安定し、一日の時間や四季の区別が定まった。たえまなく隕石が衝突する灼熱の溶岩の塊であった地球は、隕石の衝突が止むとともに次第に温度が下がり、岩石中の水分が蒸発し雨を降らし、海を作った。

 そして、こうした環境が数億年も続くなかで、原始生命が誕生した。生命とは、外界の状況を認識する感覚器官をもち、その情報を脳のような情報処理器官によって判断し、新陳代謝をし、動的平衡の状態にたえず自らを変えていく能力をもつものである。さらに、生存本能をもち、子孫を残すための、実に様々な創意工夫を編み出している。なぜ、こうした生命が、この地球という惑星の上に誕生したのか、実に、不思議である。物質のなかに、わたしたちの理解を越えた生命のメカニズムが秘められているのであろうか。

 こうした地球上の生命のなかに、五百万年ほど前、わたしたち人間が誕生した。人間の特徴は、直立二足歩行を行うようになったため、情報処理器官である脳が巨大化し、そして、声を出せるようになった結果、人間同志の複雑なコミュニケーションが可能になったことである。こうした変化が、外界や自分自身を客観する意識をもたらしたようである。この意識は、知識によって道具を使ったり、家畜を飼育したりして、人間独自の衣食住を発達させる契機となった。さらに、個としての意識の深まりは、他者への優しさや憎しみ、自分自身への孤独感や羞恥心や罪悪感や美意識といった人間らしい精神性をもたらすものとなった。

 

 こうして、人間は、「自然と人間の時代」を生きることになったが、個としての自意識や複雑な精神性をもった人間にとって、生きるということは、決して、たのしいだけのものではなかった。病気や災害や飢えや他の動物から襲われたりして死ぬことは恐怖であったし、人間同志の戦争によって身内が死ぬことも仕方がないとはしながらもつらい体験であった。死のみではなく、苦しみや悩みの種はいくらでもあった。こうしたものを克服し、平和で安心した生活を人々は望んだのであり、その結果として宗教が生まれた。キリスト教について言えば、人間は原罪を背負った存在であり、イエス・キリストを信ずることによって、その罪を、イエス・キリストが万物の創造主である神との仲介を通して贖ってくださるというメッセージを信仰の柱としたのだと思う。また、仏教は、人間を襲う苦しみや悩みは、人間が、よく世界を理解するならば存在しないものを、あたかも存在するかのように錯覚し、それにこだわる結果として生ずるものだと説いた(色即是空、空即是色。)。こうした宗教の発端は、一人ひとりをその苦悩から救うという性格をもっているが、それが、みんなで一緒に救われなくてはいけないという社会的な広がりをもつことによって普遍的世界宗教へ転ずることになったのだと思う。こうした宗教は、世俗の政治権力とも密接な関係をもつようになったことは歴史が示す通りである。キリスト教会の教皇権は神聖ローマ帝国の皇帝権を凌ぐこともあったし、仏教は日本においては、聖徳太子(実在性は疑わしいが)の時代から護国鎮守の基盤とされたようだ。

 

 しかし、こうした宗教に強く依存した「自然と人間の時代」は、西欧社会における科学の誕生によって「社会と人間の時代」に転じた。すなわち、宗教的な権威に盲従する態度や形而上学的な意味を問う態度から離れ、自然現象を客観的に観察し、その法則性を人間の安楽のために利用する技術が生みだされた。また、自然は人間が利用すべきものであり、人間こそが世界のなかの中心的存在であり、そして、人間はすべて理性を同じように持つという観点から平等な存在である、といった近代社会の基本的理念が生みだされるに至った。

 こうした新たに西欧社会に誕生した世界観は、科学革命、産業革命、フランス革命、等をもたらし、大航海時代、植民地支配、帝国主義の時代、共産主義革命などを経て、さらに二度にわたる世界大戦を経験し、米ソ冷戦構造の崩壊まで続く思想になったのではないかと思う。この過程では、大量生産・大量消費の文化がはびこることになるが、人間精神の基本には、神仏や自然への畏敬、他者へのいたわりの気持ち、といったものは日常的に受容されており、こうした宗教的権威も、まだその水脈を保っていたように思う。

 

 ところが、まだ二十数年前のことであるが、米ソ冷戦構造が崩壊し、自由市場主義経済一辺倒の時代になり、わたしは、「社会と人間の時代」から、新たに「個人と人間の時代」(あるいは「機能主義の時代」と言ってもよいと思う)に転じたのではないかと思う。この社会においては、もはや、宗教的な価値観に基づく他者への配慮や自然への畏敬の念は、少なくとも日常生活のレベルからは消え去った。人々が望むものは、快適で便利な暮らしのよさであったり、自分の能力を高め、それを活用した自己実現であったり、立場が変われば、他者を派遣社員として活用したり、他者へアウトソースすることによって、効率化し競争力を高めるといったことではないかと思う。科学技術も、宇宙論から再生医療、移動型情報通信技術から人工知能など、その発展のスピードは、われわれの想像をはるかに越えている。その結果、組織や個人を含めて社会全体が、目標設定や進捗管理に覆われ、PDCA(計画・実行・検証・修正)や成果主義に追われる様相を呈しているように思われてならない。

 

 さて、このように地球上に住むわたしたち人間を取り巻く環境は、急速に変化しつつある。その変化の内容を整理すると、次のようになると思う。まず第一に、人間は、運動能力、五感の能力、記憶や計算などの情報処理能力、通信能力、衣食住の能力などを、科学技術の成果として、他の生き物を圧倒するほどにまで強化することになった。その結果、人間は地球上の食物連鎖の頂点に位置づけられ、人間自身の存続、そして、他の生き物の生存、の両方に重大な責任を負う立場に立つことになった。他の生き物については、食糧資源として捕獲したり、森林伐採により生存するための環境を奪ったりして、多数の絶滅危惧種を生みだしている。また、人間自身については、エネルギー資源、鉱物資源、魚資源などの大量消費により、地球環境の不安定要因を招来し、さらに、領土、経済的利権、民族自決、宗教、民主化などを要因とする対立紛争が、ますます複雑深刻化しつつある。こうしたなかで、人間も含めて、地球上の生き物の存続に関して、人間自身の自己責任意識が強く求められる状況に到った。すなわち、地球の未来は、人間が今後、これらの問題に対して、どのような知恵をしぼり、どのように対応していくかに、かかっているということである。

 このような理解に基づいて、わたしは、まず、人間一人ひとりが持っているアイデンティティーの問題を指摘したいと思う。一人ひとりの人間は生きていく上で、意識するしないにかかわらず、自分とはなにものかという認識を踏まえて生きている。具体的に言えば、家族や血縁関係のなかの一員であったり、生活している地域の一員であったり、生活の糧を得るための仕事をする組織の一員であったり、国家や民族の一員であったり,地球人の一員であったり、地球上のすべての生き物のなかの一員であったりする。こうしたさまざまな立場から、一人ひとりの日々の具体的な生活が組み立てられているのであり、そうしたあり方が、前述した「人間自身の存続、そして、他の生き物の生存の両方」に関わっているということを忘れてはならないと思う。

 

 そして、人間は、一人ひとりが多様な重層的アイデンティティーに基づいて日々、生きている訳であるが、これからの「人間自身の存続、そして、他の生き物の生存の両方」に責任を負う立場として考慮しなければならないのではないかと思うことを三点ほど、挙げてみたい。

 

 第一は、教育のあり方に関することである。教育は、一人ひとりの人間形成に強い影響を及ぼすものであることは言うまでもない。「個人と人間の時代」の教育は、一人の地球人、地球上のすべての生命の一員としての立場を適切に理解し、そして、他の人間や生き物に配慮する姿勢を身につけることを可能にするものでなくてはならないと思う。そのためには、歴史教育のような場において、他者への極端な憎悪や自分たちの優位性をかきたてるような教育は、排除されるべきだと思う。全体を視野に入れた人間としての尊厳を、宗教的な理解も参考にしながら伝えていくべきではないだろうか。具体的には、こうした教材を人類の資産として作成し(もちろん、いろいろあってよいと思う)、インターネットを介したウェブ教育のような仕組みも活用し、受講者には還付金を提供するなどの多様なプロモーションがあってもよいように感ずる。

 

 第二は、人間性の尊重に関することである。人間は、本来的に、抑圧され自由を奪われてはならないと思う。自主的で、主体的で全人格的な参加者意識をもって生きることができる環境が、社会の健全性を維持するための前提である。どのような問題意識をもつか、そして、それをどのようなかたちで社会に表現するか、といったことも、他者の自由を阻害しない限り、自由であるべきである。誰に対しても開かれた社会であるべきであり、特定の権限を付託された人々が約束に反するような行為を裏で行うといったことは排除されるべきである。どのような見解についても、公開された自由な討議の場が担保される社会であってこそ、適切なバランスが維持されるために必要不可欠なのだと思う。

 

 第三は、科学の進展については、人類の最高の叡智をもって冷静沈着に取り組む必要があるという点である。科学の進展をいたずらに阻害してはならないし、他方、科学の成果を安易にばらまいても危険だと思う。原子力発電の技術そのものを否定するつもりはないが、まだその技術には、未完成の部分もあるので、一般商用発電に幅広く利用することについて、わたしは疑問に思う。今後、生命科学や脳科学などの成果、情報通信技術の進化に伴うコミュニケーションやマネージメントや人工知能などの進展、量子論や重力理論の深化に伴う宇宙についてのより深い知見などは、人間や地球上の生命についてのより深い理解を要請してくるものと思われる。さうした状況に、社会全体、人類全体が、適切に対応していけるような環境をもっていることが厳しく問われることになる。



「負けること勝つこと(78)」 浅田 和幸

「問われている絵画(113)-絵画への接近33-」 薗部 雄作

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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