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第123号

2014年6月24日

「負けること勝つこと(79)」 浅田 和幸

 

 「黒子のバスケ」という漫画の作者を始め、出版社などを脅迫したという罪で逮捕され、起訴された渡邊博史被告。初公判の際に渡邊被告が行った被告人冒頭陳述書。その内容が、わたしはとても気になっています。

 この「黒子のバスケ」という漫画の存在は、脅迫事件が報道されるまで、わたしは知りませんでしたし、その後も手に取ることがなかったので、漫画の内容については全く理解しておりません。

 しかし、渡邊被告が裁判で陳述した内容については、非常に興味を持っています。その理由は、彼が述べた陳述書の内容が、ある意味、現代日本の病巣というか、この社会に生きている日本人の心の闇を、極めて生々しく描写しているからです。

 この事件ですが、「黒子のバスケ」という漫画を描いている作者と出版社、アニメを放映していたテレビ局、この漫画を店頭に置いている書店、さらには学園祭を行う大学に、渡邊被告が脅迫を行い、一部の書店では、店頭から漫画本を撤去するといった騒ぎにまで発展しました。

 ただ、実際に、誰かを傷つけるとか、なにかを破壊するとか言った事件ではなく、そのため、事件が解決する前には、かつての森永グリコ事件との類似がマスコミでも指摘されていました。

 しかし、犯人が逮捕されると、そういう繋がりは無かったことも明らかになると共に、ネット上では、渡邊被告への様々な流言飛語が飛び交うなどしていましたが、一般の人たちにとっては、それほど心に残る衝撃的な事件ではありませんでした。

 かく言うわたしも、この被告人冒頭陳述書の内容を知るまでは、そんな事件があったという程度の関心しか持っておりませんでした。

多分、これを読んでいらっしゃる方たちも同様の認識ではないかと思っております。

 さて、それでは、これからその被告人冒頭陳述書にはなにが書かれていたかを明らかにしていきたいと思います。まず、わたしが一番衝撃を受けた個所について陳述書より抜粋いたします。

 『そして死にたいのです。命も惜しくはないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものがなにもないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵な人」にどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵な人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。』

 少し長かったかも知れませんが、ここに抜粋した文書の中に繰り返し出てくる「無敵の人」というフレーズがとても気になったのでした。「無敵の人」。そうです。わたしが子供時代に使った言葉の意味では、「無敵の人」とはヒーローでした。

 例えば、プロレスの力道山、ドラマのスーパーマンといったヒーローが「無敵の人」と呼ばれ、その時代の子どもたちの心を熱くさせたのでした。

 だから、渡邊被告が陳述書で述べている『人間関係も社会的地位もなく、失うものがなにもないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。』という表現を知った時は、非常な違和感を覚えたのでした。

 まるで、百八十度異なった人間を同じ言葉で表すということの違和感は、これを書いている現在も消えません。多分、わたしと同じ世代の方たちは、このわたしの覚えた違和感を理解いただけると思います。

 渡邊被告は、この言葉を全く異なった意味に使用しているのです。つまり、罪を犯す時に、心理的な抵抗が無い人間、自分の悪い行為に歯止めを掛けることが出来ない人間という、極めてネガティーブな人間を指す言葉として使用しているのです。

 これは、罪を犯すことを何一つ恐れない、罪を犯すことの抑止力が何一つ無いということで、「無敵」という意味なのです。犯罪者として無敵であるということです。

 でも、一般的な言葉の使い方からすると、この使用には違和感を覚えるのです。まず、一般的には、「敵」とは、自分たちを害する存在、あるいは対立する存在を意味しています。

 だから、「無敵」ということは、その害する存在、対立する存在に負けない、力を持つことであり、それを持った人間がいれば、敵から身を護ることが出来ることになります。

 もし、反対に、その「無敵の人」が、敵側に存在すれば、それに勝つことが出来ないわたしたちは、抵抗する力もないままに、敵に敗北することになってしまうのです。

 だから、「無敵の人」は、共同体のメンバーにとっては、ヒーローであり、誇るべき偉大な人間として、尊敬と憧れの的になるのです。そして、それがわたしの世代では、力道山でありスーパーマンだったということです。

 さて、渡邊被告の「無敵の人」は、尊敬も憧れの対象でもありません。彼が意味する「無敵」とは、犯罪の抑止力に対して無敵であるだけで、それ以外のなんの力も持っていません。

 それどころか、その人は、罪を犯す前も、犯した後も、実は、社会的な弱者なのです。経済的にも恵まれず、社会的に孤立し、生きづらさを抱えながら過ごしています。

 ある意味、現代社会に不適応な人間として、自分自身を漠然と感じ、その不適応感に、心を悩まし、なんとか人並みに、自分も評価してもらいたいと願っているのです。

 だが、残念なことに、その人の必死の努力を誰も認めてくれず、逆に、その人の孤立感が強まっていくという、負のラスパイレル状態に陥っているのです。

 そして、それがどんどん強まり、もう、二進も三進も行かなくなった瞬間に、その人の心に訪れたものが、この「無敵の人」という言葉だったということでしょうか。

 渡邊被告は、それをきっかけに、一連の事件を開始し、どんどんエスカレートし、もし、警察に逮捕されなければ、実際に、書店に放火するといった過激な行動にまで至ったというのです。

 この渡邊被告の暗い怨念については、実は、わたしも十分に理解はできます。理不尽な要求を受ける、屈辱的な仕打ちを受けるといった時に、相手に対して、強い憎悪の念を抱いたことは、多分、誰の人生の中にもあることと思います。

 思わず、心の中で「いつか殺してやる」なんていう物騒な言葉を呟いたことがある人も多いと思います。でも、そう思ったからと言って、それを直ぐに実行に移すとなると、そう簡単には行かないことも、分かっているのです。

 その時に、わたしたちは、自分が罪を犯したことで生ずる様々な社会的な反応を脳裏に思い浮かべるはずです。殺人者の家族となる父や母や兄弟姉妹のこと。あるいは、知人や友人や恋人のこと。いや、結婚して子供がいれば、妻や子供たちのことを、まず思い浮かべることになるかも知れません。

 いずれにしろ、そんなに想像力を働かせなくても、自分の軽率な判断と行動が、自分だけでなく、どれだけ多くの人たちにダメージを与えるかを理解できるのです。

 そして、その瞬間に、先ほどまで燃え滾っていた憎悪の炎が、その勢いを弱め、やがて、小さくなり、消えていくという場面を何度も経験しているはずです。

 多分、人間の歴史を考えると、感情が引き起こす暴力行為といったものを、どうやって抑え、それの暴発を防ぐかということを考えていく中で、家族といった社会的集団が生まれたのではないかと思います。

 何故なら、こういう感情が引き起こす突発的な暴力行為は、安定した社会を脅かすとともに、その負の連鎖により、集団が弱体化し、それにより、集団に属する人間の生命までもが脅かされることを、経験として理解していたからだと思います。

 そのための安全装置として、家族というものが生まれ、さらに、文化が進むにつれ、様々な人間関係を中心とした安全装置が社会に生み出されていったということに思えます。

 ところが、渡邊被告は、その安全装置をなに一つ持っていない人間であることを宣言すると共に、だから、自分は「無敵の人」として、罪を犯すことが出来たと言うのです。

 これは、ある意味、これまで人間が築き上げてきた社会というものを否定することではないでしょうか?

 かつて、エドガー・アラン・ポオが「群衆の人」という短編で、近代人が抱えている孤独と疎外感を描き出しましたが、しかし、その小説に登場する「群衆の人」は、いま述べて来た「無敵の人」ではありませんでした。

 彼は、孤独であり、社会から疎外された存在ではありましたが、その社会からドロップ・アウトするのではなく、人々の温もりを求めて、多くの人たちが行き交う街を、宛もなく移動しながら、辛うじて、社会に繋がっていたのでした。

 しかし、それから百数十年が経過したこの日本の社会に、群衆の人ではなく無敵の人が登場したのでした。それは、人々の温もりを拒絶し、電脳空間の中だけに自己の存在証明を求め、突然、犯罪へと踏み切るという新しい・・というか異様な人間の登場です。

 渡邊被告は、多分、最初は、いろいろなものと繋がりたいと思っていたに違いありません。しかし、その繋がりを求める思いを拒絶される内に、繋がりそのものを否定するに至ったようです。

 だから、陳述書の中で、こういうことを述べています。『若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。』

 つまり、彼の中に、罪を犯すことを押しとどめるようなきっかけがあれば、自分は罪を犯していなかったと告白しているのです。後悔先に立たずとは、まさにこのことを言うのでしょうか。

 ただ、こういった彼の言葉を前にすると、彼が主張している「無敵の人」という言葉が、とてもみすぼらしく感ずるのは、わたしだけでしょうか?

 実は、渡邊被告の陳述内容は、他人に全ての原因を押し付け、自分の責任を軽減しようとしているように思えるのです。しかし、人間の関係は、一方的なものではありません。

 兄弟がいないのは本人の力ではどうしょうもありませんが、友人を作るということに関しては、本人の力でどうにでもなることなのです。

 彼が述べるような素晴らしい友人と出会い、友情を深めるためには、まず、彼自身が、その友人に相応しい存在であることが求められていると思います。

 そうでなければ、いくら身近にそういう友人がいたとしても、関係を結び、友情を育むことなど出来ないのではないでしょうか。つまり、彼が、そういう魅力的な友人に相応しい相手であるという前提が必要なのです。

 多分、恋人の件も同じように思います。恋人が出来なかった原因は、素敵な女性が、彼の身近にいたとしても、その女性に対して心を開き、自分の愛情を伝えるための努力を試みずに、相手にだけ、その努力を求めていた結果だとわたしは思っています。

 これは、「無敵な人」というより、「依存の人」と呼んだ方が相応しいように思えます。自分では何もせず、相手の働きかけを待っている。そして、相手の働きかけが無いから、自分は何も出来ないと不満を漏らす。まるで、幼児のような駄々をこねているようにしか思えません。

 こう考えてみると、実は、渡邊被告「無敵の人」とは、生まれたての赤ちゃんに相応しい言葉に思えます。お腹が空いたと言っては泣き、眠いと言っては泣き、ありとあらゆる欲求を泣くことだけで表現し、それに大人たちは右往左往させられます。

 そして、不幸にして、赤ちゃんの欲求を上手く把握できない場合、泣き続ける赤ちゃんを前に、わたしたちはなすすべもなく呆然と立ち尽くすしかありません。ただ、赤ちゃんには体力が無いために、ある時間が過ぎれば、疲れてはて泣き止むことになります。

 赤ちゃんにとって、自らの欲求を満足させるために、泣き続けることは、なんの心理的な抵抗もありません。いや、そうしないと生命を維持していけない以上、赤ちゃんに他の選択肢は無いのです。

 だから、どんなに大人も、その赤ちゃんの泣き声の前では、ただただひれ伏すしかありません。日本の中世の格言にある「泣く子と地頭には勝てぬ」ということです。

 さて、こうやって渡邊被告が宣言した「無敵の人」について考察していく中で、実は、「無敵の人」は、大人でありながら、赤ちゃんのように、自分の欲求だけを剥き出しにして主張し、それが叶えられないのなら、犯罪に至っても仕方がない、いや、そういう自分を生み出した社会が悪いのだと居直っている人間であることが明らかになってきました。

 勿論、渡邊被告は、自分はそんな赤ちゃんや幼児ではなく、ちゃんとした大人であると主張することでしょう。しかし、やっていることは、赤ちゃんや幼児とほとんど変わりません。

 どれだけ、理屈を並べようが、彼の行動は、赤ちゃんや幼児の行動と変わらないのです。と言うことは、渡邊被告は、外見は立派な大人でありながら、内面においては幼児のままに止まっているアンバランスな人間であることになります。

 さて、渡邊被告の言葉によると、これから日本の社会には、こういうアンバランスな人間が増加し、それが犯罪を引き起こしていくというのです。それを放置することの警鐘を彼は、この裁判を通して訴えたいとのことですが、逆に、アンバランスさが相乗されているようで、奇妙な感じをわたしは覚えます。

 この違和感の正体は、これだけ、理性的に自己を分析し、社会との関係性について論理的に考察できる渡邊被告が、何故、突然、幼児に退行し、他人の目から見ると不可解な行動をとるようになるのか、その説明が、わたしにはどうしても理解できないのです。

 彼は事件の動機について下記のように述べています。

 『動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。(中略)自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回の見込みがない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを『社会的安楽死』と命名していました。ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」全てを持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりにも違いすぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。』

 少々、長い引用でしたが、この動機を読みながら、渡邊被告は、自分のことを「無敵の人」と呼んではいますが、実は、巨大な敵を前にして、「せめてもの一太刀」を試みようとしている弱者であることを痛いほど意識していることが分かります。

 さらに、これは、少々厳しい言い方かも知れませんが、「自殺」が出来なかったから、国家権力によって自分の存在を抹殺してもらおうという手前味噌的な考え方も見え隠れしています。

 正直なところ、「黒子のバスケ」の作者が、渡邊被告が述べているように、「巨大な相手」には、わたしにはどうしても思えません。単に、漫画家としての才能のある普通の人にしか思えません。

 それを「巨大」という言葉で、乗り越えようとしているのは、あくまでも渡邊被告の妄想であり、それをなにか普遍的な事象として、「人生格差犯罪」などと命名していることに、彼の抱えている根本的な問題があるように思えます。

 多分、彼が自分のことを「自分の人生は汚くて醜くて無惨である」と感じていることも、第三者から見たら妄想なのだと思います。何故なら、彼は、高校入学時、地元の有名進学校に進学し、そこの生徒として三年間、高校時代を過ごしていたことは事実です。

 それを彼がどう評価するかは別にして、周囲の人から見れば、有名進学校に入学できた秀才として、評価されたことは間違えなかったと思います。

 そういう意味では、小学生時代から、勉強が出来ず、ずっと劣等生のまま学生時代を過ごした人が「自分の人生は汚くて醜くて無惨である」というのなら理解できます。

 でも、一時的にでも、有名進学校というスポットライトが当たる場所に在籍しながら、それを生かすことが出来ず、その後は光の当たらぬ暗い所で過ごし、それにより大きな格差を味わったことが犯罪のきっかけだというのは、わたしには詭弁にしか思えません。

 渡邊被告に対して失礼な言い方かも知れませんが、彼は折角のチャンスを生かしきれず、彼の言う「汚くて醜くて無惨な」世界へと墜ちていった事実を認めたくないために、いろいろな屁理屈を述べ立てているように思えるのです。

 実は、彼が抱いた挫折感とは違いますが、わたし自身も、大学を卒業し、就職した時に、似たような挫折感を抱いた経験がありました。

 それは、大学卒が社会において最早かつてのようなエリートではないという事実を前にしての挫折感でした。これは、多分、子供の頃より、母親に、学歴が無いことで損をしたという体験を聞かされたからだったと思います。

 両親には、自分たちのようにならないためには、まず、大学を出ることが重要で、そのための勉強をしろと言われ続けて来ました。それに反発はしながらも、わたしは両親の望む道を歩んできました。

 しかし、それはまさに世代間のギャップでした。母親の時代の大学卒の社会的価値と大衆化し「駅弁大学」と揶揄されたわたしが大学へ入学した時代の社会的価値との間には、大きなギャップがあったのです。でも、就職ということで、そのギャップに直面するまでは、わたしも母親もその存在には気づいていませんでした。

 ただ、そういう挫折は味わいましたが、渡邊被告のように考えなかったのは、まだ、大学卒という学歴が、現在よりも価値があったからだとったと思います。

 そういう意味で、現代の若い世代は、ある意味、非常に厳しい現実に直面しているのでしょう。大学卒が同じ年齢の半数を占めるようになり、高学歴でありながら、ほんのちょっとした差異とか偶然により、希望する職業に就職出来たり、出来なかったりという事態も決して珍しいことではありません。

 そして、一番の問題は、就職に失敗したことにより、渡邊被告のように、「負け組」として固定化され、どんどんと社会的な弱者として墜ちていくということです。

 つまり、このコースに足を踏み入れた若い人たちは、渡邊被告のような「無敵の人」になっていく可能性があるということなのでしょうか。彼の警鐘は、決して自分が特殊な事例ではない、ごく一般的に誰の身にでも起きることなのだと訴えています。

 正直なところ、わたしは彼が述べているような事態が、これから頻発していくのか、それとも、彼のケースが特殊であり、そういうことが起こらないのかを判断することは出来ません。

 ただ、最近感ずるのは、若い世代の間に、わたしから見たら「妄想」としか思えない理屈や論理により、自身の行動を正当化し、他人を徹底的に批判する人が増えていることが気がかりに思えます。

 歴史や事実に謙虚に向き合うのではなく、自分に都合の良い理屈や論理で編集し、それを真実として絶対視し、客観的な分析や冷静な判断により批判する人たちを敵視するといった傾向が目につくのです。

 そのくせ、自らを弱者と規定し、社会から抑圧されていることを理不尽だと感じ、敵対する者を激しく憎悪することは、弱者である自分にとっての当然の権利であるかのように振る舞うのです。

 そういう現実を前にすると、渡邊被告の「無敵の人」の予備軍が増えているという観測もある意味正しいのかも知れません。

 社会が寛容さを失い、剥き出しのエゴと欲望がぶつかり合う時に、そこからはじき出される弱者を、ふんわりと包む安全ネットの構築が必要だと言われてきました。

 ただ、この安全ネットは、衣食住という人間の生活にとって基礎的なものだけでなく、精神的な面でのフォローも必要に思えます。

 多分、そういうものがあれば、渡邊被告のように、ここまで追い詰められ、窮鼠猫を噛むといった事態も回避できたのではと推測します。

 そういう意味で、この渡邊被告の陳述書の内容を他人ごととは思わず、誰もが墜ちていく可能性のある心の闇として、その痛みを想像し、頭から否定するのではなく共感できる、心の柔らかさと寛容さがわたしたちにも必要に思われます。



「問われている絵画(114)-絵画への接近34-」 薗部 雄作

「人間の存在そのものを客観する時代へ」 深瀬 久敬

【編集あとがき】

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編集発行:人間地球社会倶楽部

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