人間が他の生き物と大きく異なるところは、世界を客観的に見る意識をもっていることではないかと思う。そして、この客観する意識が、人間の長い歴史のなかで、その深まりや広がりの面で多様に進化してきたと言えるのではないだろうか。
この人間のもっている世界を客観する能力の変遷について考えるとき、この数10年という今現在の時間において、わたしたちの意識は相転移的変貌の淵に立たされているようにわたしには思える。
このことを人間の意識の長い歴史を振り返って説明してみたい。
まず人間のはじめの意識は、個の自覚から始まった。ここでいう個とは近代的な個人の意味ではなく、一人の人間が他の人間や周囲の自然とは切り離されているという漠然とした自覚のことである。このことを端的に述べているのが、旧約聖書の創世記第二章の次の記述だと思う。以前、引用したことがあるかもしれないが、もう一度、引用する。「〜 是において彼等の目倶に開て彼等其裸體なるを知り乃ち無花果樹の葉を綴て裳を作れり 彼等園の中に日の清涼き時分歩みたまふヱホバ神の聲を聞きしかばアダムと其妻即ちヱホバ神の面を避けて園の樹の間に身を匿せり」。すなわち、ここでは、羞恥心というものをもって、他者と切り離された個の意識が芽生えたことを説明している。この個として切り離されているという意識は、人間の複雑な感情の源泉になっていると思う。喜怒哀楽、畏怖や畏敬の念、死者を手向ける気持ち、笑い、諦念、等々である。こうした人間の感情が、身分制度をはじめとする社会制度、さまざまな祭礼や教義やタブーなどを伴った宗教、芸術・美術・文化、等の基盤になってきたのだと思う。
こうした自分と他者とが切り離された存在であるという客観の意識が、自然という人間を取り巻く環境のなかで十把一絡げ的に存在していた時代が長く続いた。しかし、ヨーロッパのルネサンスを過ぎたころから、この自然と人間との間に少しずつ乖離が始まった。それは、自然界の現象を数式的な因果法則として理解する科学の誕生によってもたらされた。この科学という自然を客観する視点の獲得は、さらに、自然の中に埋め込まれていた個々人の意識をも白日のもとにさらけだし、近代的自我の自覚をもたらした。
このような自然を人間から切り離された外界として客観視する態度は、今日の科学技術文明の基盤となっていることは言うまでもない。運動力学、熱力学から量子力学、相対性理論へと発展し、DNA解析、遺伝子解読、宇宙理論、高度な情報通信理論など、人間社会のありようを根底から変革させつつある。
そして、わたしが思うのは、こうした自然現象の客観の先鋭化は、ついには、人間の存在そのものを客観せざるをえないところまで、人間を追い込んだのではないかということである。分子生物学、細胞生物学、再生医療技術などの近年の進展は、生命そのものの神秘に目を向けざるをえない状況をもたらしている。また、素粒子論や重力理論の統合などの宇宙論の進展は、わたしたちの存在する宇宙そのものの根源に目を向けさせ、答えが分かるとは思えないが、その存在の意味を問いかけずにはいられない状況に立たされているように思う。
人間の客観という意識の能力が、人間の存在そのものまでをも客観するレベルにまで到達してしまったということは、自然界を客観する科学の発展の行き着く果てという受け止め方もあるかもしれない。しかし、他方、もし、人間が人間の存在そのものを客観することをしらないまま、人間がいまのままのあり方を地球上で続けるならば、人間は滅亡せざるをえないのではないか、という気持ちの高まりも背景にあるように思われてならない。このことを、具体的な側面を三つほど取り上げて説明してみたい。
第一に、ウクライナ、イラク、シリア、日中間での尖閣諸島の領有問題、などの国際紛争の複雑な状況を見ていると、当事者同志が、その立場での利害に基づいた主張をぶつけ合うばかりで、日々、たくさんの人々が苦難の生活を余儀なくされている。
第二に、地球環境も、大量のエネルギー消費をはじめとする大量消費経済の拡大のもと、温暖化、大気汚染、資源枯渇など、深刻な環境問題が顕在化しつつある。
第三に、グローバル化の傾向も科学技術の進展により急速に進んでおり、経済活動のゆがみに起因する格差問題、マネーの氾濫、治安や知的財産権などの摩擦など、科学技術を駆使した行き過ぎた産業経済活動は、さまざまな摩擦を生み出している。
まとめれば、羞恥心や欲望レベルの漠然とした個の意識から、人間を含む自然界の現象を因果法則として客観する科学的意識を経て、科学技術と産業経済活動の行き着く果てとして人間の存在そのものをも客観する超自然的意識の段階に入りつつあるのではないか、ということである。
人間の存在そのものを客観するということについて、さらに検討することに先立って、「もつこと」と「あること」の価値観の対比について述べておきたい。わたしは、これまで、「もつこと」の価値観は、西洋近代社会において追求され、東洋社会においては、伝統的に「あること」のよさの価値観が全面的に追求されてきた、といった理解を示してきた。しかし、どうもこれは、間違いであったように思う。「もつこと」は生き物の欲望として普遍的なものであり、西洋においては、科学技術の発展によって、自ずから欲望の実現の手段や対象が広がったため、そちらの比重が高まった、と理解すべきなのだと思う。科学技術の進展の少なかった東洋においては、自然に取り囲まれ、境界のはっきりしない個々の意識のみがぶつかりあうなかで、仏教や儒教などの宗教的な面が中心となって「あること」のよさが追求された、と言うべきだろうと思う。「あること」と「もつこと」を、同次元で対比して論ずることは、適切ではなかったと反省している。
さて、では人間が人間の存在そのものを客観する時代においては、どのような点が留意されるべきなのか、四つほど挙げてみたい。
第一に、学問の捉え方についてである。従来、学問というと、自然界や人間社会の諸現象を分類し、それぞれについて専門の学問分野が構築されてきた。理工系なら機械工学、電気工学、応用化学、医学、生物学、等々があり、文系なら法律学、経済学、経営学、社会学、等々である。これらは学問の対象として特定の現象界を明確に意識するものであった。しかし、学問のはじまりは、客観することであるという理解に立てば、こうした学問の捉え方は、一面的であり、狭いと言えるだろう。人間の存在を客観するならば、人間とはどのような存在であり、それが存続していくためには、なにが大切なのか、といった切り口も学問体系に取り込まれるべきではないだろうか。近年、理工系の学科名から、機械とか電気という名称が消えており、代わりに、情報、機能、生命、環境といった言葉が使用されているようである。こうした傾向も人間そのものを客観視する一つの現れかもしれないなどと感ずる。ついでに付け加えると、福沢諭吉の「学問のススメ」は、明治維新以来、日本の社会のあり方に計り知れない影響を与えたと思うが、そこで言われた学問というものも、現象界を取り扱う学問(実学)に焦点を当てているようであり、今後、新たな「学問のススメ」が期待されるように思う。
第二に、近年のコンピュータ処理能力、情報記憶能力、ネットワーク能力など、情報通信分野の能力の進展にはめざましいものがある。ゲームの世界、情報発信公開、経営管理、情報検索など、人間の思考、記憶、判断などの能力を凌駕する分野が次々に登場してきている。人間が人間を客観する時代においては、こうした情報通信技術をどのように活用していくかについては、深く洞察されなくてはならないだろう。
第三に、人間社会の運営については、改めて、人間地球社会憲章のような新たな基本理念が掲げられるべきではないかと思う。近代国家の憲法が、自由や平等を標榜したり、産業経済社会が、自由競争や自己責任に過度に依拠するのとは一線を画し、相互の信頼関係を通して、人間社会全体の存続を確実にするような理念に転換していってはどうかと思う。それを実際のものとするための教育や人材の育成の仕組みも検討されなくてはならないだろう。
第四に、日本の役割についてである。日本は、こうした人間の歴史について東西のはざまにたちながら、正面から向き合ってきたし、その対応には、かなりの柔軟性をもってあたってきたように思う。行き過ぎて、大東亜共栄圏などといった妄想に突き動かされ、周辺国の人々を始め、自国民に対してまで、多大な苦難を強いたことがあった。こうした反省を踏まえ、人間の存在そのものを客観する新たな地球社会に対して、積極的なリーダーシップを発揮することは、日本にとって有意義なことではないか、と信ずる。
|