今年も、8月の声を聞くと、年中行事のように、先の戦争に関しての特集記事や特集番組が、新聞やテレビで見受けられました。
太平洋戦争に敗北し、全面降伏をして来年で七十年の節目を前に、戦争を知らない世代が大半を占めるようになった現状で、改めて戦争について考えるという企画は大切なものに思えます。
ただ、最近、その特集の中で語られる内容が、「戦争被害者としてのわたし」について語るといったことがとても目につくのです。
勿論、先の戦争により、日本人は多くの犠牲者を出しました。しかし、それと同時に、日本が戦闘行為を行ったアジアやオセアニアの地域で、多くの現地の方たちも犠牲になっているのです。
つまり、日本が無謀な戦争に踏み切ったことで、全く無関係の人たちも戦争に巻き込まれ、尊い命を失ったという事実を前にすると、単に自分たちが被害者であり、戦争でひどい目にあったということだけを主張することで済むのだろうかとわたしには思えるのです。
例えば、満州開拓団に参加し、そこで農業を営んでいた家に生まれ育った方が、敗戦後の混乱で親兄弟を失い、命からがら日本に逃げ帰ってきた、その逃避行を涙ながらに語り、戦争の悲惨さを訴えるといったテレビ番組がありました。
そこで語られる内容は、戦争を知らない世代にとっても衝撃的であり、その事実を知って、涙する若い人たちも多かったことと思います。そして、日ソ不可侵条約を勝手に破棄し、突然攻め入ってきたソ連への憤りを覚えた人たちも多かったことと思います。
しかし、ここでわたしは違和感を覚えました。本当に、批判しなくてはならないのは、この悲惨な状態を作り出した日本政府であり、民間人を見捨てて逃げていった日本軍ではなかったのかと。
勿論、親に連れられて満州に渡り、そこで悲惨な目に遭遇した方に責任があるというのではありません。その方は、日本政府の政策に振り回された被害者であることは間違いないのです。
でも、元々所有者がいた土地を、強制的に接収し、日本の農民に開拓地として配った日本政府の政策が、この悲惨な状態を生み出した原因であったことを、きちんと伝えずに、敗戦によって生じた混乱を、他の原因にすり替えるということは、あってはならないことに思えるのです。
それを伝えないと、まるで大きな災害に遭い、理不尽に命を奪われた方たちとなにも変わらないことになります。満州で起きた悲惨な事件は災害とは違うものです。
そこには、明確に加害者としての日本人が存在していました。個人として強制的に手を下し、土地を収奪した、しないということに関係なく、収奪した土地を占有したという事実により、加害者としての責任を逃れることは出来ないのです。
確かに、敗戦後の混乱により多くの民間人の犠牲があったということは語り継ぐべき事実だと思います。しかし、それと同時に、当時の国際連盟が「侵略戦争」であると判断した満州事変を、当時の軍部及び日本政府が強行したことも語り継がないといけない事実と思います。
さらには、その軍事的行動に対して、国際連盟で批判され、連盟脱退という無謀な判断を行った松岡全権大使を、日本人が歓呼の声で出迎えたという事実も同様です。
つまり、当時の日本人の大多数は、満州事変を支持すると共に、満州国の成立により、経済的な恩恵を享受できるとして、大いに期待していたという歴史的事実があったのです。
その期待を受けて、政府は、小作人で自前の耕作地が無い農民たちを集め、訓練をして、「満蒙開拓団」という名称で、満州国に送り込んだのでした。
日本国内では自分の土地のない小作人たちは、満州国の開拓団に所属することで、土地を得て、自営農民として暮らすことが可能になりました。
しかし、前にも書きましたように、そこは無人の地ではなく、元々、その地を耕作する農民がいたのでした。その人たちを武力で抑え、彼らを小作人として雇い入れることで、日本国内では実現できなかった大規模農場経営も可能になったのでした。
こういう歴史的経緯をきちんと伝え、その上で、戦争とは、勝利している間は天国であるが、それが敗北するとどれほどの地獄が待ち受けているかを、現代の人たちに伝える必要があるとわたしは思っています。
考えてみますと、戦後の日本人は、こういう作業を意図的に避けて来たように思います。敗戦を終戦と言い換えたように、何故、こういった無謀な戦争を始めてしまったのかという一番重要な問いを、故意に避けてきたようにわたしには思えます。
以前にも書きましたが、わたしの両親は大正四年と五年生まれで、戦前の満州事変から日支事変(日中戦争)、さらには太平洋戦争と続く、戦争の時代を成人として生きてきました。
父親は徴兵後、職業軍人になるために下士官養成の学校に進み職業軍人となり、日支事変の際には上海作戦に参加、その後徐州から南京への中国本土の作戦に参加し、台湾で敗戦を迎えました。
母親は、初婚の相手が、日中戦争で戦死し、その後「靖国の妻」ということで、職業婦人として働き、そこで出会った人と婚約に至ったが、昭和二十年にその人が徴兵され戦死したことで、独身のまま国内で敗戦を迎えました。
その二人に、わたしは何故日本が無謀な戦争に突き進んでいくことになったのかと尋ねたことがありました。しかし、答えは意外なものでした。
二人の答えは共通していました。「無謀な戦争」という認識が当時は無かったというのでした。それより、満州事変後に、日本の経済は活性化し、日中戦争を戦っている時は、経済的にも豊かになり、消費生活も活発化して、戦病死者は増えても、戦争による高景気に戦争を批判する人はほとんどいなかったというのです。
ただ、国内では、アメリカとの戦争が回避できなくなるに連れ、パーマの禁止や敵性語の禁止といった生活面での締め付けは厳しくなり、その締め付けを理不尽には感じたが、それでも、戦争遂行についての理不尽さは感じなかったというのです。
そして、太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃で大きな戦果を得た時は、全国民が提灯行列で祝い、それが印象的だったと母親は語っていました。
その後、各地で空襲があり、多くの犠牲者がありながら、大本営発表の戦果を信じ、最後には、「神風」が吹いて、日本がアメリカに勝利すると確信していたとのことです。
一方、父親は、日中戦争では中国大陸を転戦し、負傷して金鵄勲章をもらったようですが、太平洋戦争が始まった後も、中国大陸に止まり、大きな作戦に参加せず事務官として勤務し、昭和十九年に沖縄に転戦、ただ、アメリカ軍の沖縄攻撃の前に、台湾に転戦したため、ほとんど戦争をしないまま敗戦を迎えています。
その父親も、日本が戦争に負けるとは全く思っておらず、台湾にいたせいか、太平洋戦争についての知識はほとんどなく、日本軍がどういう戦いをして、敗北したかということも、全く知っていないことに、わたしは驚きを覚えました。
しかし、改めて考えれば、現在のように情報がフリーではない上に、報道自身が統制され、戦争遂行の上で邪魔になる情報は、一切国民には知らされなかった以上、自分の周囲に起きたことしか知りようがなかったとことも当然と言えば当然だったのでしょう。
これは、なにも父親と母親に限定されたことではありませんでした。つまり、当時の日本人は、戦争の全貌どころか、隣の県で起きていることを知ることすら難しかったということです。
それ故、その激動の時代を生きていたにも関わらず、戦争の情報については、ほとんど知らされていなかったということも十分に理解できます。
さらに、国内にいれば、遠い戦地の出来事よりも、目の前に起きている食糧難や空襲といった心配事に気を取られ、そこでなにが起きているのかという想像力も働くことはなかったことでしょう。
多分、これが、戦後において、被害者としての日本人が前面に出て、加害者としての日本人が後景に下がっていった一番の原因だったように思えます。
そして、もう一つ、人間は、自分にとって都合の悪い記憶、思い出したくない記憶は、無意識のうちに封じ込め、それに気づかないように生きていくことを選択する傾向が強いのです。
実際に戦地に赴き、九死に一生を得て帰ってきた元兵士たちは、そこで体験したことや経験したことを、ひたすら忘れようとしたのではなかったでしょうか。
戦地で残虐な行為を行ったことは、記憶の中に鮮明に残っていますが、敢えて、それを封印し、思い出さないように生きていくことで、精神のバランスを保つことが出来たのではなかったでしょうか。
そして、他人に対して語る時には、自分の犯した罪よりも、如何に自分が苦しく大変な目に遭ってきたかということを中心に据えて物語を紡ぎ出したのではないでしょうか。
それが可能だったのは、戦後すぐに唱えられた「一億総懺悔」という言葉でした。つまり、誰かに責任があるというのではなく、その時に生きていた日本人全員に責任があるというものでした。
それでは、一体なんの責任だったのか?それは天皇陛下に対して、戦いに敗北して申し訳なかったという責任だったのでした。
この言葉を発した瞬間、日本人は自らの天皇陛下に対する道義的責任を背負い込むと同時に、戦争に敗北した原因を考えることを放棄したのでした。
その後、今度は「陸軍悪玉説」といったように、この戦争を引き起こし、日本が敗北を喫したのは、全て陸軍の責任であり、国民は、それに引きずられ、否応なく戦争遂行に動員されたという説明がなされるようになりました。
ここで、本当は、国民の大多数が、陸軍の起こした戦争を支持していたにも関わらず、そういうことがなかったように振る舞うことで、自分たちは戦争の犠牲者だという立場に決定的に逃げ込むことに成功したのでした。
しかし、そういう無責任な態度に、六十年代後半に起きた学生たちを中心にした政治的闘争の中で、戦争の加害者責任ということが初めて問われることになりました。
六十九年に起きた立命館大学にある「わだつみの像」を引き倒した事件のように、それまでの被害者としての日本人ではなく、加害者としての日本人を鋭く告発する若い世代が出てきました。
ただ、この告発は、日本人にとって決して心地よいものではありませんでした。何故なら、自ら、封じ込めて来た戦争への加害性を白日の下に晒すことになるからでした。
しかし、この時点で、きちんとした総括がなされていたら、その後の日本人の戦争観も変わっていたことと思いますが、残念なことに、この告発は一時的なものとして、国民的な広がりを持つことがないままに学生運動と共に終焉してしまいした。
その背景には、七十年初頭の当時は、まだ世界が米ソによる冷戦構造が続いており、東アジアにおいては、韓国を始めとして、反共的な軍事政権が支配的で、その国の国民から、自由な発言が生まれてくる環境ではありませんでした。
そして、日本政府も、過去の戦争の責任は、相手国が望む経済的な援助等で解決しようという方針を進めており、それは、反共を標榜する国家の政府方針とも合致していたのでした。
実際、日韓条約を締結した際、韓国側は、日本が犯した様々な過去の戦争責任は追及せず、日本からの経済的援助を受け入れることで決着したのでした。
それは、中国と締結した日中友好条約の際も、現在問題になっている「尖閣諸島」の問題も含め、領土問題は将来に向けて先送りをするということで、合意に至ったのでした。
そういう報道を目の当たりにした当時の日本人には、もうこの問題は終わったというコンセンサスが生まれたとしても、やむを得なかったとわたしは思っています。
しかし、八十年代後半から九十年代にかけて、ソ連が崩壊したことで冷戦構造は消失してしまいました。その結果、それまで反共軍事政権が支配していた東アジアの国々に大きな変化が生じました。
韓国も、軍事政権から民主的な選挙によって選ばれた大統領が政権を担うことになりました。そして、軍事政権下では、厳しく禁止されていた言論の自由も許されるようになると、それまで水面下にあった様々な不満や問題が浮かび上がってきました。
その中には、戦争中にあった従軍慰安婦問題や強制連行され徴用されたといった問題も、当事者からの告発という形で明らかになってきました。
つまり、日本人にとって過去は清算されたと思っていたものが、相手の国の人たちにとっては、まだ清算されていない過去として、厳然と存在し、それを新たに清算するようにという要求が湧き上がってきたということです。
この認識のズレは決定的でした。そして、それが現在にまで尾を引いているのです。ただ、これを認識のズレとして放置しておくことは難しいとわたしは考えています。
被害を与えた方は忘れても、被害を受けた方は忘れないということは、よく「いじめの問題」の際にも言われることです。それが、他国の人間であったなら、その思いは一層募ることと思います。
現在、日本人が苛立っている韓国、中国からの日本に対する誹謗中傷の原因は、この認識のズレを日本人が認めずに、相手の言い分を「けしからん」と否定し、攻撃するところにあるとわたしは考えています。
そういう意味でも、もう一度、あの戦争の原因はなんであり、日本人がどのように加害者として関わり、それにより他の国の人たちが、どのような被害者意識を持っているのかを、きちんと検証し、それによる心からの反省がいま一度必要ではないかと思っています。
日本人にとっては、不愉快で、苦痛に満ちたものかも知れませんが、その作業を行わないことには、一時的に韓国、中国との間に良好な関係が生まれたとしても、再び、関係はこじれ、最終的には戦争という形でしか決着がつかないという最悪の結果も予想されます。
そういう過去の悲劇を再び繰り返さないためにも、今こそ、わたしたち日本人の歴史認識が問われているものとわたしは考えています。
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