今日の地球社会は、そのほぼ全てが近代化という波によっておおわれているように思う。そういう前提に立って、近代化とは、どのような経緯をたどって実現され、そして、それはどのようなことを特徴とするものなのか、さらに、今、わたしたちは、近代化によってどのような状況に置かれ、どのような課題に直面しているのか、を検討してみたい。
近代化された社会を近代社会と呼ぶとして、それは、ヨーロッパにおける近世の始まりが端緒になったということは、否定できないと思う。例えば、日本の社会は、明治維新以降、近代社会への道をひた走ったが、それ以前の江戸時代などにおいては、主食である米を生産する農業が社会の基盤であり、それを天皇家とか武家政権が統治する身分制度の定着した社会であった。今日の衣食住をはじめ、すべての面で、日本社会の伝統的なあり方はかなり後退し、近代社会の生活様式に身の回りが満たされていることは、歴然とした事実であろう。こうした傾向は、今日の地球社会全体に言えることでもある。
近代社会の地球規模への広がりを、その代表的イベントでなぞるならば、思いつきのレベルであるが、次のようなものを挙げられるように思う。ルネサンス、宗教改革、産業革命、フランス革命、大航海時代、コロンブスのアメリカ航路の発見、アフリカ・インド・アジア・南米などの植民地化、大英帝国の興隆、帝国主義時代、科学革命、第一次世界大戦、社会主義革命、第二次世界大戦、アメリカ合衆国の台頭、自動車の大量生産方式の確立と大量消費社会の出現、米ソ冷戦構造、等々。人の名前でいうならば、オッカム、デカルト、ロック、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインなど、これも全くの思いつきであるが挙げられるように思う。こうして一大潮流となった近代化の波紋は、今日、上記のような変遷を経て、今日では、中国、インド、南米、ロシアなどを含む、地球社会のほぼ全域を覆うまでになった。
では、この近代社会は、どのような世界観、人間観を根底とする社会なのであろうか。わたしは、世界観としては、科学と技術であり、人間観としては、個人の顕在化ではないか、と思う。以下、この二つについて述べる。
科学は、キリスト教における絶対的神は世界をどのように創っているのかという問いから出発し、さまざまな側面の現象世界を因果法則の観点から解きあかすという作業から誕生した。そうした知識は、人間社会の利便と快適を実現する技術として活用され、工業を中心とする産業社会を成立させた。産業社会を維持・発展させるために、資源の確保や市場の確保の面から植民地化が押し進められ、世界規模の大量殺戮兵器を使った戦争、資本家と労働者の対立関係を解消しようとした社会主義革命、物質文明を謳歌するアメリカ合衆国の台頭、といった出来事をもたらし、科学と技術の高度な進展が近代社会の必須要件ともなっている。今日の社会においては、遺伝子レベルの医療技術やスマホを使ったIT技術など、科学技術の進展が、いかに私たちの社会のあり方を急速に変化させているか、自明であると思う。
近代社会のもうひとつの特徴は、個人の顕在化であり、それは、人間社会のあり方を根底から覆すような変化をもたらした。近代化される以前の社会においては、自己主張、自己実現、自己責任などという概念はなかったと思う。社会秩序の安定のために、身分制度やさまざまな禁忌によって覆われた社会では、自己主張は抑圧されていた。個人の自由とか、平等とか、基本的人権などといった概念もなかった。こうした一人ひとりの個人の存在を尊重する人間観は、人間を客観し、全ての人間は生まれながらにして理性を平等に付与されているという理解を前提にしているのだと思う。
近代社会の特徴は、科学技術の進展と個人の顕在化という二つであり、こうした近代化という潮流が地球社会をほぼ覆っていると言えると思う。ではつぎに、その近代化の潮流は、今日の地球社会に、どのような光と影をもたらしているのであろうか、吟味してみたい。
科学と技術の進展によって、医療、情報通信、衣食住、交通輸送、水道・電気などの生活インフラ、都市化、等々が実現され、私たちの生活は便利で快適なものになった。人々の寿命も延びた。一方、こうした科学技術の進展によって、産業経済社会は、グローバルな激しい競争にさらされるようになり、それは、さまざまな経済格差ももたらした。それに起因する紛争も広範化し激化する傾向にある。大量消費に伴う資源の枯渇や環境破壊も問題になっている。産業組織のなかで働く人のなかには、精神的な過度なストレスによって、うつになったり、自殺したりする人さえいる。仕事のやり方も、効率を追求するために、派遣社員の多用やパソコン画面と向き合う機能主義的な側面が強くなっている。
個人の顕在化は、個人の自由や平等、民主主義による社会運営をもたらした。因習的な禁忌は社会からほとんど姿を消したし、家父長制度のもとで、結婚する相手を親から強制されるといったこともなくなった。自分のことは自分で決めるという価値観が定着し、個人の欲求を追求する姿勢が容認され、自己実現を図るという高いレベルが指向されるようになった。一方、個人の顕在化は、さまざまな社会的しがらみから個人を解放したが、人間同志の絆のような連帯感は希薄化させたと言えるだろう。人間疎外とか、自己責任とか、成果主義とか、資格取得、孤独死、社会制度による高齢者介護、結婚回避など、社会一般や働く場所などにおいても、なにか社会とのつながりが希薄化していくような不安感がつきまとっている。
上記のような近代社会というものについての理解を踏まえて、これからの地球社会のあり方を考えていくときに、留意した方がよいのではないかと思う点を、以下、6つほど挙げてみたい。
1.教育について
近代社会は、一人ひとりの人間のあり方を尊重するという点からも教育は、非常に大切である。その人の人間性の形成にも深い影響を与える。そこでまず、近代社会とはどのような特徴をもつ社会なのか、ということを理解しておいてもらうことが、若い人たちが生きていく上で非常に大切なことだと思う。そうした社会の特徴を理解した上で、信頼関係をもって、いかに人々が快適に生活していける社会を作っていくかについて、人それぞれが深く考えておくことが不可欠ではないか、と思う。こうした教育は、全ての人に対して、無料でなされるべきではないかと思う。一方、さまざまな産業組織や行政組織などが必要としている知識の体系をオープンにし、人それぞれが多様な選択肢のなかから、自分にあったものを選び、学習していけるような場がいろいろ用意されることも必要不可欠なことだと思う。
さらに付言するならば、人間はなにかある絶対者によって作られたものなのか、それとも自然発生的に生じたものなのかという議論があってもよいと思う。また、美意識や芸術について、そして、伝統的価値観との整合性のとり方について、といった点についても理解を深めるような教育も大切ではないかと思う。
2.国家の役割について
近代国家は憲法を掲げることが不可欠とされていて、そこでは、個人の自由とか基本的人権が当然のものとして記される傾向にある。しかし、これからは、それは前提的なものとみなし、社会全体として、そうした個々人がどのように協力し、また、グローバル社会にどのように対応していくかといったことに関する基本理念を掲げることも大切になってくるように思う。個人と地球社会全体への視点が、対等くらいの位置づけにおかれてよいように思う。
やや横道に入るが、生物としての人間には、保守主義と革新主義のふたつがあるようである。保守主義は、自分たちの今あるあり方に危機を及ぼすようなものは、徹底して排斥する指向がある。一方、革新主義は、危機を及ぼしてくる相手に歩み寄り、自らを変更して、うまく対応しようとする。保守主義からみれば、それは相手に妥協するものであり、信念がないと批判される。革新主義は、保守主義を頑迷で、相手を正視しない逃避型のようにみなす。こうした点について、わたしは、保守主義は恐竜的な脳幹部の意識を重視する傾向があり、革新主義は哺乳類的な前頭葉の働きを重視する傾向があるのでは、などと感じたりしている。どちらが正しいというものではないだろう。
一例として適切かどうかは分からないが、明治維新のころ、尊皇攘夷派は、保守主義であり、当時の日本社会はすばらしいのであり、それに脅威を与えるような外国は打ち払えという発想であっただろう。おそらく社会の大多数はそういう意識であったのではないだろうか。それに対し、薩摩、長州といったところの藩主は、外国の脅威を肌身で感じ、保守主義では限界があることを理解していた。たまたま、そうした藩に、財力と人材もあったので、明治維新は達成され、日本は植民地にならずにすんだのだろう。しかし、太平洋戦争を前にしたときは、鬼畜英米の攘夷思想の保守主義が大勢であり、米国の実力を理解している連合艦隊司令長官山本五十六ですら、そういう保守主義を抑えられなかった。薩摩藩や長州藩のような見識、財力、人材を備えた権力が存在しなかったことが、太平洋戦争の悲惨を招いたのではないだろうか。現実を直視しない保守主義は、多数決的にはたいていの場合多数派である。民主主義も少数意見を尊重するということにはなっているが、悩ましい問題だと感ずる。太平洋戦争を、現実を直視し、もし回避していたら、日本はいまでも天皇制を維持した社会体制をとっていたのであろうか。歴史にifはありえないが、これからの社会のあり方を考えるときには、無視できないようにも感ずる。
3.国際紛争について
今日の地球社会において、多数の紛争地域がある。ウクライナ、シリア、イスラエル、朝鮮半島、中国周辺、等々である。こうした紛争は、基本的に近代化の波のもたらした歪みが起因しているのではないかと思ったりする。こうした紛争に関しては、近代社会の基本理念に立ち返って、どのような対応が適切なのか、模索するしかないように感ずる。特に、宗教問題や民族問題が絡んでくるとその相剋はきびしい面があると思う。近代社会の世界観・人間観と、それぞれの地域の伝統的世界観・人間観との両立をいかに図るかは、人類の叡知が厳しく試される課題だと思う。
4.企業組織について
企業組織だけに限らないようにも思うが、組織のなかで一人ひとりの人間がいかに人間らしい生き方をするかという問題は、今日のわたしたちにとって身近で切実な問題だと思う。株主、経営者(株主から委託された人たち)、従業員は、どのような関係を築けばよいのであろうか。経営者は、利益を追求するため、成果主義とか、派遣社員の活用といった様々な対応をとるし、それが経営者としての株主に対する責務だと考えている。従業員としては、指示待ち人間のような主体性の発揮できないような仕事ではつまらないし、よい仕事ができるとも思わないだろう。企業組織であれ、行政組織であれ、組織が組織の論理で独り歩きすることには、社会的に注意警戒する必要がある。人間は、組織という集団のなかに埋没すると、人間としての普通の感覚まで麻痺してしまうものらしい。ナチスのユダヤ人虐殺とか、戦争時における軍隊の残虐性のようなものは、そうした一面でもあるだろう。これからの地球社会のなかで、こうした企業組織の存在をどのように位置づけていくのか、かなり難しい問題のように思う。わたし自身、30数年、企業組織のなかで過ごしたが、いまだに、釈然としないものが心の底に残っている。
5.機械学習の活用
人間の意識というものは、かなり危ういものだと思う。多数の人間で委員会のようなものを作り、チェックすれば間違いがないというのも、確かな保証がある訳ではない。今日、情報処理技術はクラウド技術や検索技術をはじめ、ハード的にもソフト的にも飛躍的に進歩しつつある。チェス、将棋、囲碁、クイズなど、様々な分野で、コンピュータソフトが、人間を凌駕するようになっている。こうしたソフトは、機械学習とかディープラーニングといった手法で作られていて、従来の硬い断片的な論理的知識をベースとするものとは、基本的に異なるようである。医療分野、自動運転、危機管理など、幅広い分野に今後は活用されてしかるべきではないかと思う。人間は、そうして作られた人工知能のテスト、評価、改良などに取り組むのがよいと思う。突発的な原発事故のような場合、人間のオペレータが冷静に様々な非常用機器を適切に操作できるとは思えない。補助的な位置づけでもよいから、行政をはじめ、多様な分野での活用が推進されるべきではないかと感ずる。人間の意識の探求が、潜在意識や生命としての脳にどのような働きが蓄積されてきたのか、といった点について明らかにしていくことも大切なことのように感ずる。
6.日本の役割
日本の社会は、西欧以外の地域としては、比較的順当に近代化の波を受け止めたように思う。その一つの理由として、極東の島国にあって、仏教、儒教、蘭学、等の外国文化を移入することに慣れていたせいかもしれない。国学をはじめ、日本独自の伝統文化も一応、大切にしてきた。近代化の波を、今後、地球社会において、どのように受け入れ、どのような改良を施していくのが適当なのか、地球社会全体のなかでの議論を引っ張る役割を担いうる立場にあるようにも感ずる。これは、日本の安全保障にもつながるようにも思う。
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